愛を込めて花束を
その日は昼頃から空が曇り始めて、ぽつぽつと雨粒が落ちてきたと思うと、程なく土砂降りの雨となった。
人々は、突然の夕立に慌てて軒下や木陰に隠れ、いつ止むのかと不安げに空を見上げていた。
そんな中、めいっぱい雨傘を差して意気揚々と通りを行くのは、お化けの多々良小傘である。
たまにくるくると回ってみたり、長靴のまま水溜りに飛び込んでみたりと、まさしくやりたい放題の横行闊歩である。けれど人々は、夕立の中を繰り出すための傘を持たず、たったひとりの妖怪行脚を止める術すら持っていなかった。さしたる害はないにせよ、思案に暮れる人々を嘲笑うかのように、満面の笑みを浮かべて飛び跳ねる少女を見れば、なんとはなしに歯がゆい思いを抱いてしまうのも無理からぬところだろう。
「ほっぷ、すてっぷ、……じゃぁーんぷっ!」
ずばしゃあ、とまたひとつ水溜りを踏み越えて、小傘の旅路はなおも続く。
やがて無念そうな人の目もなくなって、店がなくなり、家がなくなり、周りは田んぼか森だけになっていた。浮かれに浮かれてはしゃぎ回っているうちに、知らない場所に辿り着いてしまったようだ。空を飛んで上空から確認すれば大体の位置は把握できるのだが、今はそれさえも無粋な気がする。
なにせ、雨が降っているのだ。
雨が降っているのならば、雨傘を差さなければ。雨傘を差して、雨が傘に張られた紙を打つ音を聞きながら、ひとりで、あるいはふたりで、何かを思いながら、あるいは何も考えずに、傘と共に歩みを進める。
「んーっ、すばらしい!」
小傘は歓喜の声を上げた。
多少、小傘の握り締めている傘は通常のそれより色合いがけばけばしく、巨大な一つ目と不気味な舌が生えているのだが、彼女の本質が唐傘お化けであることを鑑みるに、致し方ないところではある。
そうして力強く傘を振り上げた時、不意に、人間の影が映り込んだ。
「……んー?」
不審に思い、その方向に目を凝らすと、叩き付けるような雨の中に、誰かが立っているのが見て取れる。
だが、その場所が不穏だった。
遠くからでもすぐに解る、理路整然と並べられた真っ黒な石の群れ。過去に存在し、これから消えていく者たちを弔うための侵されざる領域。
霊園だ。
「……おば、け?」
自分のことを棚に上げて、小傘はおそるおそるその影に近付いていく。接近するにつれて、不気味な影は確かな人の輪郭を取り、全く未知の存在ではないということが判ってきた。
人と判れば、小傘も己のやりたいことを実行するのみである。
彼女を驚かせるべく、斜め後ろから忍び足で近付き――そうせずとも、足音は雨に掻き消されていたが――、声を張り上げようと口を開いて、言葉を失う。
「――――、ぁ」
おもむろに振り向いた少女の顔が、あまりにも、無表情だったから。
「…………、何でしょう」
幸い、話はできるようだ。口を大きく開いているわけでもないのに、少女の声ははっきりと小傘の耳に届いた。
桃色の髪、薄手の導師服をずぶ濡れにして、右腕に包帯を巻きつけた少女は、その腕に色鮮やかな花束を抱えて、視線だけを小傘に向けている。心なしか、お墓を前にしているよりは、表情が変化しているようだった。
「あ……、雨、降ってるよ」
なるべく大きな声を出す。おそらく、小声であろうともちゃんと聞き届けられるような気はしていたけれど。
「そうですね」
いつ止むのかしら、と羨むように空を仰ぐ。目を細めて、しかし微笑んだようには見えない。
少女は、あまりにも淡々としていた。何もかもがどうでもいいように思え、実際どうでもいいと思っているのだろうが、さりとて絶望しているようには感じられない。心が死んでいるのでも、感情が麻痺しているのでもない。
ただ、立ち尽くしているだけ。
たったそれだけで、こんなにも物悲しい。
「傘、差さないの」
「持ってきていないのですよ」
朝からずっとここにいましたから、と紡いで、少女はまた墓を見下ろす。何も感じさせない、冷徹な――無機質な瞳。憎いのか、愛しいのか、それさえも解らない。他人には到底計り知れない。
「……花」
「えぇ。供えるつもりで、持ってきました」
「でも、供えてないよね」
「そうですね」
――供えたら、終わってしまいますから。
墓参りを終わらせないために、花束を抱え続けているのだと、少女は言った。
小傘はとりあえず「ふーん」とだけ返しておいて、この変わった少女をしばらく眺め続けていた。
おかしな人間もいるものだ、と思ったのは、小傘が最近になっておかしな人間たちと出会っていたから、少女からあまり妖怪の臭いが感じられなかったせいでもあった。もしかしたら、仙人や天人といった人外かもしれないが、小傘にそれを確かめる術はなかったし、そのあたりはわりとどうでもよかった。
いずれにせよ、人間くさいことには変わりないのだし。
「ねえ」
「はい」
声を抑えて呟くと、少女は胸に飾り付けられた花を撫でて、答える。
やはり、小さくとも声は届くのだ。
「それ、誰の墓?」
視線を投げた先には、件の墓石がある。墓石といっても角を切り揃えられた立派な御影石ではなく、河原に落ちていた岩を拾って平べったい石の上に置いただけの、簡素な墓であった。それでも、墓にはそこに眠る者の名が刻まれている。たったひとつ、その者以外に眠るものを持たない孤独な墓標。訪れる少女がいなければ、とうの昔に無縁仏と化していたに違いない。
ともすれば、口を噤みかねない質問にも、少女はあくまでも淡々と答える。
「……私を、慕ってくれた人」
彼女は遠い目をしていた。眼前にある墓石ではなく、その下に眠る誰かを見るように。
「とはいえ、彼はただの人間で、私は人から外れた者ですから。彼は先に亡くなり、私は彼を見送った。そうして――百年か、二百年か、もしかしたら、それ以上かもしれないけれど。他に身寄りもなかった彼のお墓を作って、彼を想うために、毎年ここに来ている……というわけです」
笑おうとして、唇の端を歪めてみても、ちっとも笑っているようには見えなかった。土砂降りの雨の中、周りはこんなにも湿っているのに、彼女の表情だけが乾いている。
「……変なの」
「そうでしょうか」
訝しむ小傘に対しても、憤る様子もなく、少女は素っ気なく返す。
「人間はさ、お墓の前に来たら、もうちょっと寂しい顔するよ。泣くのもいるし、笑うのもいるけど、でもやっぱり寂しそうだもん。わたし、そういうのわかるんだから」
「そうですか」
「そりゃ、あんたは人間じゃないかもしれないけどさ」
それでも、もう少しは人間らしくあるべきなのではないか、と小傘は思った。
己を好きでいてくれた人のために墓を作り、毎年お参りをするくらい人間的であるならば。
この場所に立つことで思い起こされる感情は、人間のそれと大差ないのではないか、と。
小傘は、そう思った。
「……寂しく、ないの?」
傘を握る手に力を込め、小傘は問う。
経緯は違えど、取り残された者、置いて行かれた者の立場は、小傘も痛いほど解る。ひとりだから、寂しいからと、孤独に打ち震えて泣き喚くことは、彼女にとってとても自然な振る舞いだった。
だから、この表情ひとつ動かさない少女が、とても不自然に思えたのだ。
「別に、寂しくないわけではないですよ」
「だったら」
身を乗り出しかけた小傘を遮るように、少女は答える。
「……どういう顔をしていいのか、わからなくなって」
その顔は、少し寂しげに見えた。
意味が解らず、小首を傾げる小傘の疑問に答えるように、少女は続ける。
「初めの頃は、それこそ人間のように、悲しんでみたり、泣いてみたり、叫んでみたりしたのだけど。そんなことを、何度も何度も繰り返しているうちに、何だかよく解らなくなってしまって」
まつ毛に雨粒が降りかかって、何度か瞬きをする。目元を擦っても、雨がやまなければ意味はなかった。たとえ少女が雨に紛れて泣いていようとも、判別のしようがないのだ。
「私は、仙人なのです」
「あぁ、そうなんだ」
「仙人の修行のひとつには、生まれてから今までのことを、全て余さず思い出すというものがあります。だから私は、彼と出会ってから別れるまでの全てを、余すところなく思い出すことができる。確かに、この手で触れることもできず、言葉も交わせず、思いを伝えることもできないけれど、それでも、私はずっと彼を思い出せる」
濡れそぼった花束を抱き寄せて、少女は瞳を閉じる。死しても尚、誰かの記憶の中に残っていれば、それは生きていると言えるのだろうか。身体を失い、魂が巡っても、彼は少女の胸の中で生き続けているのだと。
ならば、寂しがる必要も、涙を流す必要もまた、ない。
「それなら、お墓なんて要りませんよね。でも、私は彼のお墓を作った。彼を悼むために。私の気持ちに整理を付けるためではなくて、彼が生きていたという証を、この世に残すために。彼をしっかりと送り出すために」
少女は、寂しくないわけではない、と言った。
けれど、すぐに思い出せるのだから、寂しがる必要もない、と付け加えた。
どっちなんだろう、と小傘は思い悩む。少女は答えを出せなかった。答えが用意できていたのなら、妖怪に気味悪がられるほどの冷淡さで、墓の前に立ち尽くしてなどいなかった。
まぶたを開けた少女は、眉間に小さく皺を寄せている小傘に言う。
「変ですよね、やっぱり」
「うん、まあ」
正直に、小傘は答えた。
「でも、仙人なんてそんなのばっかりだし」
当の仙人を前に、小傘は悪びれる様子もなく言ってのける。その態度に、少女の姿をした仙人もたまらず苦笑する。
「でさ、わたし、思ったんだけどね」
一歩、小傘は足を踏み出して、少女のために傘を差し出す。
束の間に雨は遮られ、女の子には大きめの傘の中に、ふたりの少女が収められた。
あれほど激しかった雨でさえ、傘の紙を貫けない。
「やっぱり、寂しいんだと思うよ」
余った手のひらを、少女が抱えた花束に乗せる。
豪雨に打たれて、力無く頭を垂れた花々も、傘の屋根を得て、少しばかり活力を取り戻したようだった。
「どんなにはっきりと思い出せても、触れられないのは、寂しいよ。寂しがっちゃいけないなんてルールは、どこにもないんだよ。仙人だって、人間だって……、妖怪だってさ、寂しいときは、寂しいんだよ」
――そういうの、わかるんだから。
容姿だけなら年上に見える少女に対し、小傘はわざとお姉さんぶって、胸を張ってみせる。
その、明らかに背伸びした姿勢が面白くて、少女は不意に噴き出す。
「あぁっ、ひどい! 真面目なこと言ったのに!」
「ご、ごめんなさいね。あんまり可愛いから、つい」
「……可愛い?」
一瞬、意味が解らないと言いたげに、小傘は目を丸くする。褒められたのか、馬鹿にされたのか、どっちにしても茶化されたのは間違いないだろうが。
「……あー、ほら、何の話してたんだか忘れちゃったじゃん」
「いいのよ。確かに、あなたの言う通りだと思ったから」
「そう? ならいいけど」
少女の表情は、初めて会ったときよりも随分と柔らかいものになっていた。
一度、前髪から垂れる雫を拭い、視界を晴れやかにしてから、少女は花束を手に屈み込む。ずっと立ち尽くしたままで、成されることのなかった儀式がようやく始まるのだ。
墓石の前に花束を供えて、少女は目を閉じ、手を合わせる。
小傘も、少女に倣って手を合わせようかと思ったけれど、それよりは少女のために傘を差していようと思い直した。せめて、このささやかな祈りの間だけは、生温い雨に打たれることのないよう。
少女の背中は震えることもなく、呟く声も、流す涙もない。
百年、二百年、それ以上の時を重ねる間に、言葉は尽き、涙は枯れたのだろうか。あるいは、そうする意味を見失ったのか。彼は、いつまでも少女の中にいるから。掛けるべき言葉を内に秘め、涙を隠した。
今、少女が祈りを捧げているのは、自分を慰めるためではなく、遥か昔に亡くなった彼のためだ。その道行きが確かなものでありますように。たとえ道から外れようとも、また帰って来れますように。
安らかに。
そしてまた目覚めるときには、まっさらな心でありますように。
少女は彼のことを忘れない。その意味で彼は確かに生きていて、生きた証もまた、ここに建っている。
こんなに、幸せなことはない。
そう思いたかった。
「――ありがとう」
感謝の言葉は、小傘に宛てられたものだった。一方の小傘は、少しぼんやりしていた様子で、少女に声を掛けられてもすぐには返事ができなかった。
「……あ、えっ? 何か言った?」
「ありがとう、って言ったのよ。いろいろとね」
「あ、うん……。別に何もしてないんだけど。まーいいや」
少しばかり焦げついた匂いが鼻について足元を見ると、墓石に隠れるように数本の線香が添えられていた。無論、小傘が持っていたわけではなし、少女の持ち物と考えるべきだろうが、あれだけ雨に打たれたにもかかわらず、湿気ることもなく火が点くとは思いにくい。
と、訝る小傘を諭すように、少女は唇に指を当てて、意地悪く微笑む。
「これでも、仙人ですから」
そう言って、弾いた指からは小さな鬼火が発せられた。
小傘は「わっ」と驚いて、少女はまたにやにやと笑う。羞恥に頬を赤く染めた小傘は、恥ずかしさを誤魔化すように強い口調で言う。
「あんた、名前はっ」
「茨華仙と申します」
「そう、覚えておくわ。次に会うときが楽しみだわ、せいぜい、覚悟しておくことね……!」
傘は差したまま、立ち去ることもなく捨て台詞を吐く。その度胸に敬意を表し、華仙もまた毅然とした態度で応える。
「わかりました。多々良小傘さん」
「ばれてるーっ!?」
小傘は頭を抱えた。
雨は次第に弱まってきており、傘を打つ雨音も先程と比較にならないくらい小さくなっていた。やたらにこにこしている華仙を横に置き、小傘は逃げ場もなく彼女の話を聞いていた。
主に、遠き日の思い出話のようなものを。
それに適当な相槌を打つだけの簡単な仕事とはいえ、他人の惚気話ほど毒にも薬にもならないものはない。でも、どうせ雨がやむまでの付き合いだと、小傘は傘の取っ手を何度も握り直し、そのたび汗ばむ手のひらに顔をしかめ、耐えた。
「――で、私は言ってやったんです」
「……あー」
「あ」
そして、雨は止み。
傘は、その役目を終える。
けれど、小傘は傘を畳まずに、ただ露だけを大きく払って、華仙に背を向ける。華仙は、話の途中であるにもかかわらず、名残惜しげに呟きもせず、別れの言葉さえ口にしない。ならばせめて、自分くらいは小粋な台詞のひとつでも投げつけてやろうかと、結構な大声で、小傘は告げる。
「次は、傘持ってきなさいよ!」
頷いたかどうかは、振り返らずとも解った。
小傘は、黒雲の蠢く晴れ間を行く。
長靴の中は、雨に濡れてぐしょぐしょになっていたけれど。気持ち悪くないわけではないけれど、小傘の歩みはあくまでも軽やかである。
あちらこちらに点在する水たまりを、親の仇のように踏み潰しながら、一歩ずつ、確かめるように。
「――とおぅっ!」
小傘は、大地を跳ねる。
SS
Index
2011年8月24日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |