ハイブリッド・エンカウンター
たった独りじゃ、自警団も何もあったもんじゃない。
夜。迷いの竹林。人が迷うからそういう名前なのか、迷いの竹林だから人が迷うのか、まあいずれにせよ絶えず人が迷っていることに変わりはない。迷える者には導きが必要である。稀に期せずして己が開眼することもあるし、また多くの者がそうであるように、誰かに手を差し伸べられることもある。
藤原妹紅は、己が手を差し伸べる立場であっても、救う側の驕りという不遜な感情は持ち合わせていないつもりだった。ただ他人から見れば、救うという行為自体が大きな自惚れなのかもしれない。
だが、まあ、そんなことはどうでもよいのだ。
「本当に、有難う御座いました」
ん、と軽く手を上げて、お礼に応える。
深々と頭を下げていた女性は、何度か妹紅の方を振り返りながら、ぽつぽつと灯りの灯る里に帰って行った。此処からなら、凶暴な妖怪に襲われる心配もない。念のため、周囲に気を配り、女性が加護を受けている領域に入ったと確認してようやく、妹紅は警戒を解いた。自然と、ため息のようなものが漏れる。
ポケットに突っ込んでいた手を抜き、汗ばんで癖が付き始めた髪を梳く。
「そんじゃ、帰りますか」
独り言のように呟き、里の灯りに背を向ける。
竹林の隙間にはびこる混沌とした闇は、白髪、紅眼の人間を、いとも容易く飲み込んで行った。
迷いの竹林の奥深くに、永遠亭と呼ばれるそれはそれは大きな屋敷がある。
数多くの兎と、それを統括する兎、そして事実上の主とその参謀が住んでいるお屋敷は、参謀に当たる八意永琳が薬師であることから、急病時の駆け込み寺としても有名である。ちょっと前までだと、迷いの竹林を通らざるを得ないことから、永遠亭に駆け込むのを避ける人々が多かったのだが、妹紅が永遠亭までの護衛と道案内を引き受けるようになって以来、里の人々における永遠亭への依存度は右肩上がりである。が、当の薬師たる永琳の素性が多少なりとも胡散臭いところもあり、このところの上昇率は頭打ちとなっているとかいないとか。
妹紅は迷いの竹林にある納屋に住んでいるけれど、もし急病等で竹林に踏み込む人がいれば、その気配を察して迎えに行くことが出来る。妖怪に襲われている場合も同様だ。
「とか、なんとか思ってるうちに……」
鬱蒼たる竹林の中に立ち止まり、突如、膨張する妖気に耳を澄ます。
距離はさほど遠くない。人間の気配もなく、妖怪がたった独りで暴走している状態だ。他の妖怪を呼び寄せ、故意に戦いを演じようとしている可能性もある。妹紅は、歩き通しで疲れた身体を何とか奮い立たせ、妖怪の力を慎重に推し量る。
集中すべく、目を閉じた、瞬間。
――ぉおおおおおぉぉぉぉぉ。
遠吠えが聞こえた。
ひどく近い。
そして、ひどくやかましい。
「……ッ、さいなあ……」
毒づき、咆哮の基点を探る。
咆哮の出所は、妹紅が察知した妖怪の気配と合致する。びりびりと震える竹の隙間に立ち、咆哮によって生まれた風が妹紅の髪を薙ぐ。未知なる大敵に立ち向かう勇者の心持ちで、妹紅は眼前の暗闇を見据える。だが、この身を苛む永遠の呪い以上に恐ろしいものなど、そうそうあるはずもない。
ひらひらと揺れる紙にも似たリボンはれっきとした御札である。そのひとつに指を掛け、慣れた手付きで御札をポケットに突っ込む。
「用心、用心」
軽口を叩きながら、咆哮の残滓が木霊する竹林の向こう側に望む。消滅しない身体を持っていても、命を軽んじることはない。みずから傷付き、死に急ぐこともない。死ぬことに慣れれば、人の生き方を忘れる。人であるのか妖であるのか、その線を引くことに何らかの意味があるのだとしても、妹紅はほとんどどうでもよいと思っていた。
人であれ、妖であれ。
生きていることに、違いはないのだと。
「ふ」
妹紅は微笑み、空いた手のひらに炎を宿した。
――おぉぉぉおおおおおぉ。
人間の形を真似た獣と呼ぶべきか、然れどもそれは獣でしかなかった。
前屈みに腰を折り曲げ、両腕を力なくだらんと下げ、足はしっかと地面に根付かせている。大陸風のゆったりとした導師服に身を包んではいるものの、その背より這い出でる九つの尾っぽと、狐の耳、黄金の瞳、それらがみな彼の存在が獣であることを端的に示している。
彼女は咆哮していた。
意味の有る無し、理由の有る無しを尋ねても無駄なことだ。実際に咆えて叫んでいる事実は覆らず、妹紅の耳はきーんとして、周囲の竹は張り裂けんばかりにびりびり震えている。公害か人災か、それを計ることにはほんの少しだけ意味があるような気もするけれど。
これ見よがしに耳を塞ぎ、妹紅は彼女の視界に躍り出た。がさり、と草の葉が鳴る。人を象った九尾の獣が、安眠を妨害された猫のように、ぴくりと顔を上げた。
「よ」
妹紅が軽く手を上げると、彼女は、少しばかり目をぱちくりさせていた。どうも、状況を上手く把握出来ていないらしい。
よくある話だ。
獣であったものが、人でいることに慣れ、たまに獣に帰ったかと思えば、人に成ることを忘れる。
「……あ、あぁ。失礼」
ようやく現実に回帰すると、咳払いをしたりまぶたを擦ったりなどして佇まいを正す。その仕草が如何にも小慣れた様子だったから、妹紅は少し頬が緩んでしまった。妹紅の微苦笑を敏感に察し、金髪金眼の彼女も気恥ずかしそうに頬を染める。
「名前。そう、確か、藍と言ったかな」
「中正解だよ」
八雲紫が主、八雲藍は主の口調を真似る。八雲藍、という名前の他に、別の名前がいくつかあるのだろうと妹紅は踏んだ。長生きをすると、名前が増える。その中には、とうに忘れてしまったものもある。
「いつぞやは世話になったね。藤原妹紅」
「うん、まあ、尻尾がぺしぺし当たって痛かったよ」
人差し指でくるくると適当な円を描き、当時の藍の懸命さを褒め称える。藍は苦笑し、妹紅には聞こえないように何事かを呟いた。きっと、主への愚痴だろうと妹紅は見当を付けた。
改めて、二人は向き直る。
夜。迷いの竹林。草木が寝静まるには早く、妖の動きはこれから活発になる。その一環としての藍の咆哮だと思えば、今宵の異常もごくごく平凡なものと言えた。
妹紅は訊く。
「負けたの?」
「何故」
「いや、負け犬の遠吠え」
悪意のない物言いだったのだが、藍は少しむっとしたようだ。大人気ない。
「そう聞こえたのなら、そうなのかもしれないけれどね。実際は」
「暇だから咆えてたの」
「……それでいいよ、もう」
拗ねた。
ぷい、と子どものように視線を逸らし、その先にある黄金の月を見やる。半月の明かりは目に優しい。人か妖か、人か獣か、判然としない者たちが見上げるには最も適している。妹紅も藍につられて漆黒の空を仰ぎ、生ぬるい風と、咆哮がやんで怯えるのをやめた虫たちの鳴き声を、ただ聞いていた。
飽きもせず。
なんというか、暇だから。
「実は、意味なんてなかったのさ」
ん、と妹紅は横目で藍の呟きを聞く。妹紅に語りかけているように見えて、これはただの独り言に過ぎないのだと、妹紅は自身の経験から悟っていた。だから、下手な相槌は避ける。
「咆えたかったから、咆えた。それだけのことよ」
月の光で身を雪ぐ彼女の姿に、あるいは、神々しいものを見ることも出来るかもしれない。けれども妹紅は人間で、ただの人間と呼ぶには少しばかり逸脱した人間だったから、八雲藍がただ鬱憤晴らしで咆哮しに来た駄々っ子にしか見えなかった。
そして推測に過ぎないのだけど、藍自身も、その自覚はあるように思えた。
「それだけ?」
「それだけ」
素っ気なく答える。
叫びたかったから素直に叫んだ、そういうことにすれば、余計な追究は受けずに済む。たとえ心の底にそれ以上の理由を抱えていても、他人に問いかけたところで、答えが返って来るはずのないものならば、好き好んで心を曝しはすまい。
だが、予測はつく。
「ふうん」
「……何だよ」
「いや別に」
含んだ言い方をする妹紅にいくらか釈然としないものを覚えながらも、藍は必要以上に突っかからない。含めた言い方をしているのは、藍も同じであることだし。
視界の端に金毛の獣を収めながら、妹紅は考える。
きっと、たまに、藍もわからなくなるのだ。
自分が、獣であるのか、人であるのか。あるいは、式であるのか。妖であるのか。
八雲藍は誰なのか。
八雲藍でない自分は誰なのか。
そういう、測りようもなくて、よくわからない、結局はどうでもよいことを。
「いいじゃないか」
月見は飽きた。
妹紅は目線を下げ、未だに月見を続けている藍に提案する。手のひらに宿していた火種を徐々に膨らませ、挑発や威嚇の類と知りながら、口の端を歪めて藍と相対する。
藍も妹紅の視線に気付き、終わりのない月見を中断し、火蓋が切られかけている戦いの手綱を握り締めた。瞳は細く、怜悧な表情から感じ取れるのは、情けや躊躇いが一切存在しない獣の本能のみである。
それでこそ、八雲藍だ。
余計なものは必要ない。此処にいるのは、ただの獣だ。
そういうことにしておけば、この先、あんまり悩まずに済む。
「咆えたいから咆えたんでしょう」
手のひらから生まれた火の鳥は、月明かりが頼りだった竹林の闇を、一気呵成に白く染め直す。燃え盛る不死鳥を目の当たりにしても、藍は涼やかな瞳で妹紅を見据える。妹紅の能力、妖術は藍に割れている。だがそれは藍の力も同じこと、互いの全てを曝け出したのでない以上、わかりやすいハンディキャップやアドバンテージは存在しない。
それでこそ、戦うことに意味がある。
「でも、これからも咆えるつもりなら、私にも考えがある」
「竹林の、自警団としての?」
首を横に振る。火の鳥が轟々と燃え、羽ばたく瞬間を待ち侘びている。
まあ、少し待て。
空を翔るにも、頃合というものがあるだろう。
「たった独りじゃ、自警団も何もあったもんじゃない」
己の境遇を皮肉り、手のひらに宿した不死鳥を、天高く放り投げる。
火の鳥はまるで月を喰らうように高く大きく、漆黒の空を覆い隠すように羽を広げてみせた。
「だからこれは、私の傲慢なのさ」
驕り高ぶり、人を救い妖を屠ることの優越感に浸る、独善的な勇者の傲岸不遜さで。
羽ばたき、火の粉を撒き散らす巨大な鳥が、妹紅の背中にゆっくりと舞い降りる。
「戦おう」
宣戦布告。
硬く握り締めた右の拳を差し出し、組んだ腕を袖に通している藍に問いかける。
灼熱の炎に包まれた空間は既に蒸し暑く、気だるく、涼しい顔で佇んでいられるのも限界がある。それでも藍は汗の一滴すら染み込ませることなく、気高く、誇らしく、気圧されることもなく妹紅と対している。
「は」
笑う。
藍は袖から手を抜き、徒手空拳のまま、妹紅の拳に拳を合わせる。
焼き切れかけた火蓋がようやく、拳と拳の火打石によりて、いとも簡単に切り落とされた。
――こおぉぉぉおおおおおぉぉ。
夜道を歩く。空は半月だった。
点々と光る星の輝きは頼りなく、それならばいっそ、犬の散歩のような気軽さで空に火の鳥を走らせるのもよい。星座の中には、巡り巡る命を司る不死鳥の座もあるに違いない。妹紅は、満天に広がる果てしない世界に想像の翼を広げた。
残念ながら、今はもう火の鳥を生み出す力はない。頼りなく、雲が出れば隠れてしまう明かりの道標も、何もないよりは役に立つ程度のものだ。
「……お、やってる」
狐の遠吠えを背中に聞き、煤けた身体を軋ませながら、妹紅は暗闇にぽつんと灯る紅提灯の暖簾をくぐる。そこには、たった独り、客もいないのに上機嫌で熱唱を続けている夜雀の姿があった。
ミスティア・ローレライ、雀なのかどうなのか判然としないところはあるが、歌が大好きなのはよくわかる。今宵は狐の遠吠えも相まって、なんというか、非常に騒がしい。
まあ、よくあることではあるのだけど。
「えぶりばでぃーうぃるびーおーらいー♪」
「おーい」
「かむうぃずみーあんすたんばいみー♪」
「おーい」
「あいらーびゅーそー♪」
「せいや」
ぱんッと強く拍手を打ち、余剰分の火が火薬となって小爆発を来たす。
「うひゃあうぅ!」
ミスティアはもんどりうった。
「焼き鳥焼き鳥」
「うぅぅ……、だから、焼き鳥はやってないんだってば……。ヤツメウナギね」
「それしかないじゃん」
椅子から転げ落ちたミスティアも、客商売であることを自覚してか、せっせと準備を始める。明後日の方角に折れ曲がった羽が痛々しい。
ぼんやりとヤツメウナギが焼き上がる頃合を待ちながら、妹紅はカウンターに肘を突いてミスティアの鼻歌を聞く。
私は誰、あなたは何処。私は此処、あなたはあなた。意味がわからない歌詞だった。だが、意味はあまり重要じゃないのかもしれない。私は私じゃなくなったときは、あなたが私を探してください。あなたがあなたを見失ったときは、私があなたを見つけましょう。抽象的であるくせに、やたらと強制が多い。情けない、自分のことくらい、自分で探せ。妹紅は毒づき、ああ、やっぱり負けたもんだから結構気落ちしてるんだなあ、と思い知った。
「へい、お待ち!」
威勢のよい掛け声と共に、ヤツメウナギが差し出される。
見た感じ、ただのウナギに見えなくもない。
「これ、ただのウナギに見えるんだけど、気のせいかな」
「とんでもない! 正真正銘、鳥目が治るヤツメウナギだよ! ちなみにヤツメウナギって言っても目はふたつしかなくて、残りの模様は全部エラなんだってさ。知ってた?」
「へえー」
気のない返事を返し、まあただのウナギでも美味しいからいいかと串を掴む。
――ぉおおおぉぉぉぉぉおお……ん。
「お盛んだねー」
はむはむと、タレが染みているウナギを啄ばんでいる妹紅には、ミスティアの感想を訂正する余裕はなかった。だが、あながち間違いでもないのだから、そう思わせていてもよい気がする。癪だし。
勝者は咆哮の権利を得、敗者は敗走を余儀なくされる。彼女がいつまで咆えているのか、獣に戻るまで、あるいは獣であった頃の心を思い出すまで、それは妹紅にも彼女自身にも判るまい。何、判らなくても、咆えていればよい。そうすれば、獣である自分が嫌でも知れる。善悪でなく、損得でなく、そういう存在なのだと自覚出来る。それは、きっと大事なことだ。
「むぅ……」
「どうしたの、変な顔して」
噛み切れない安物のウナギの皮を唇で引っ張りながら、妹紅は余計な気遣いを見せるミスティアに問いかける。
「これ、やっぱりただのウナギでしょ」
ミスティアはもう面倒になったのか、悪びれることもなく、「うん」と頷いた。
妹紅はもう一度、ぱぁん、と拍手を打った。
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