遥か

 

 

 

 天気がよすぎると、かえって何か悪いことが起こりそうな気がする。捻くれた考え方だが、禍福は糾える縄の如し、警戒しておくに越したことはない。と。
「ふへあ……」
 わたくし稗田阿求は、布団の中で欠伸混じりに考える。
 お手伝いさんによって開け放たれた障子の向こうに、憎たらしいくらいの晴天が広がっている。眩しい。暑い。残暑とはよくいったものだが、これは度を越しているのではないか。私たちは断固として抵抗すべき。
「起きてください阿求様」
「むにゅあ……」
 そうこうしているうちに、布団を引っぺがされて畳に転がされる私。哀れである。だが起床の時刻を過ぎても惰眠を貪り続けている輩に掛ける慈悲などありはしない。華奢な腕に力を込め、私は一日を開始した。

 

 とはいえ、特にすることもない。
 幻想郷縁起の編纂も一区切りが付き、後は小刻みな改訂を繰り返すのみである。机に向かって唸りを上げたり頬杖を突いたりする段階は過ぎ去り、日がな一日ごろごろしていてもお手伝いさんにしか文句を言われない。
 そのような経緯から暇を持て余すことが多くなった私は、日課として散歩を選んだ。今日もまたいつものように外へ出、門の前で伸びをして、塀の上で丸まっている猫を撫でようと手を伸ばしても背が足りずに届かない、という微笑ましげな演出を行い手前勝手に照れていると、通りの向こうから見覚えのある顔と見たことのない顔が悲喜交々の表情を浮かべたまま近付いてきた。
「あぁ、慧音さん」
 一瞬、犬の散歩かと思ったのは彼女が紐を持っていたからで、連れられた二匹がその紐に繋がっていたからでもある。ただし、猫耳や鴉の翼こそ生えてはいるが、そのどちらも人間の造形をしているため、これが単なる散歩でないことはすぐに理解できた。
「おはよう阿求」
「おはようございます。私は、慧音さんがそういう趣味をお持ちでも別段気に致しませんよ」
「誤解ありがとう」
 早々に嘆息。上白沢慧音を語る上で、苦労人という評価は欠かせない。彼女が私を訪ねてきた以上、私も無関係でいることもできまいが。私は、朝一から眉間に皺を寄せた教師の傍ら、頬に擦り傷をこしらえた二匹を見た。
 共に傷だらけでありながら、赤い髪の猫は肩を落とし、黒い髪の鴉はあっけらかんと笑っている。紐が引っ張られると、二匹とも息苦しそうに呻く。
「申し訳ないが。阿求にひとつ、頼みたいことがある」
「はあ。猫なら間に合ってますが」
「いや、鴉の方だ」
 慧音は、鴉の首輪に繋がっていた紐を私に託した。試しにそれを引いてみると、近場から苦しげに呻く声が聞こえる。可哀想な気もするが、とりあえず握っておく。
「最近の墓荒らしの件でな。墓地を張っていたら、案の定だ。猫が主犯、鴉が幇助」
「そうですお燐が全部やりました」
「ていうかおくうも好き勝手爆発させてただろぉー!」
「五月蠅い」
 ぐょえ、と一際大きく猫が鳴く。私も紐を引きかけて、その瞬間に鴉がびくっと身を震わせたので、やめた。
「この猫には、此処での生き方を教えてやる必要がある。鴉も連れて行ければいいのだが、猫の教育には手が折れそうなのでな。鴉の方は、阿求に頼みたい」
「はあ。別に構いませんが」
 面倒と知りながら素直に頷いてしまったのは、このような厄介事が転がり込むに違いないと薄々勘付いていたからかもしれない。異変を解決しろとか恋人の代役を務めてくれとか言われない分、気が楽であることには違いないが。
「すまない。恩に着る」
「どういたしまして。慧音さんもお大事に」
「うん、正直頭痛は治まらないけども……」
「うにゃあー! 離せぇー!」
 こめかみを解しながら、嫌がる猫を引きずり彼女は今来た道を引き返す。一方の鴉はといえば、別段悲嘆に暮れる様子もなく、遠ざかっていく猫に
「じゃあねー」と手を振っていた。呑気である。
 そうして、彼女たちの姿が見えなくなった頃、黒髪の鴉はようやく私の存在を視界に捉えた。
「あ。ちっちゃくてよく見えなかったよ」
「大きければいいと思っているのですか」
 火花散る、と見せかけて、鴉は私の敵意など意に介していない。挑発なのか、無頓着なのかは知らないが。
「お名前は」
「霊烏路空。おくうでいいよ」
「そうですか。私は稗田阿求といいます」
「変な名前ー」
「貴方には言われたくないです」
「まあ、それはそうだよね」
 そう言って、彼女は笑う。おかしな子だ。妖怪相手に普通の感性を期待するのも、滑稽な話だとは思うけれど。
「さて。これからどうしましょうか」
「あ、猫がたくさんいるー」
「こらこら」
 紐に繋がれているとも知らず、中庭に屯している猫たちに突撃を試みる。一瞬、慧音のように手綱を引くことも考えたが、あのとき見せた鴉の怯え方が目に焼き付いてしまい、反射的に紐を手離してしまった。
「うりゃうりゃー」
 首輪付きの鴉が人懐っこい猫に囲まれて、好き放題に頭や喉を撫で回している。なかなか妙ちくりんな光景だが、最近はお手伝いさんも妖怪の来訪に慣れてきたらしく、仕事の手を止めて警戒することも少なくなった。屋敷から離れることも考えたが、この分だとしばらく留まっても問題はないか。
 巨大な翼の上から羽織っている白い外套がまた大きく、加えて図体もでかいから突っ立っているだけでよく目立つ。また、胸部に備わっている赤い眼球のような物体が、得もいわれぬ存在感を放っている。そこに目を合わせれば、押し潰されそうな圧迫感を覚えて、不意に目を逸らしてしまう。
 だから私も、その部分に触れようとはしなかった。
「猫、好きなんですか」
「好きだよ。さっきのでかい黒猫は、ちょっとお喋りで小憎たらしいけどね」
「あの猫も、貴方にだけは言われたくないでしょうが」
「あはは、そうかも」
 抵抗しないのをいいことに、トラ猫の前脚を握り左右に振って遊ぶおくう。三毛猫はお腹を空かせているのか彼女の背中に身体を擦り寄せている。白猫と黒猫はあまり興味が無いようで、池の平石に陣取って丸まっている。
「もふっもふっ」
「楽しんでいるところ恐縮ですが」
「うぇお」
 おくうの首根っこを引っ掴み、強引に縁側まで引っ張ってくる。正直、私の腕力程度ではびくともしなかったので、彼女が半ば自主的に縁側までやってきたというのが正しいのだけど。
 ともあれ、話し合いの体裁だけは整った。
「慧音さんから頼まれた以上、私も手を抜くわけにはいかないからね。貴方には、少し退屈な時間になるかもしれないけれど」
「ふわあ……」
「もうちょっと我慢して。話す気が失せるから」
「そんなことより核融合しようよ」
「しません」
 ……核融合ってなんだろう。
「そういえば、貴方はどこから来たのですか」
「下の方」
「下の方……地下ですか」
「地底、かな。地獄って言うこともあるわね」
「地獄、ですか。それはまた」
「おなかすいた」
「思い付きで喋らないでください」
「えー」
 実に不満げである。唇を尖らせ、足をぶんぶん揺らしていることからも解る。ただ翼を羽ばたかせるのは羽根が飛び散るのでやめさせた。頬を抓って。
「ううぅ、びりびりする……」
「今、聞き捨てならない事実を聞いた気がしますが……問い直しても無駄な気もしますね」
「え、今バカにした?」
「しました」
「ビンタ!」
「ビンタ返し!」
 腕力は無いが反射は速いのでカウンター向きである。
 相討ち率は高い。
「うぅ……びりびりする……」
「もうやめませんかこういうの。痛いですし」
「そうだね。痛いもんね」
 得るもののないやり取りであった。おくうも本気で殴ったわけではないだろうが、頬が熱くなる程度には力が入っていたようだ。私は全力だったが。
「ふふ、なかなかやるじゃない。ただの人間のくせに」
「何ですか、殴られて更に頭が悪くなりましたか」
「更にって何よ。私はバカにされるのが嫌いなの。ただちょっと忘れっぽいだけ。それだけなんだから」
「では、私の名前は」
「だから忘れっぽいって言ったじゃない」
 こいつ開き直った。
 まあ、わかりやすい性格ではあるらしい。
「掌に阿求とでも書いておけばいいんじゃないですか」
「えー、それなら額に阿求って書いておいた方がわかりやすいよ」
「誰の額に」
「あなたの」
「お断りだ」
「けちー!」
 叫ぶ彼女の額に、私は全力でデコピンをお見舞いした。
 ……爪が弾け飛ぶかと思った。

 

 時間制限まで私の部屋に隔離する手もあったが、この地獄鴉ときたら目に入るもの全てが新鮮に映るようで、手当たり次第触って転がして眺めてみないと気が済まないときた。
 私の部屋には数多くの珍品と貴重品があり、粗暴に扱っていいものなどひとつも存在しない。その品々を次から次へと素手で掴んで振り回して放り投げる粗忽者を部屋に常駐させるなど、選択肢に追加していいはずがなかった。
「おいこら」
「これすごいキラキラしてる! ちょうだい!」
「やらんわ」
 光りモノに反応するのは鴉の本能でもあろうが、その光り輝く円盤をおいそれと差し出すわけにはいかない。レコードと呼ばれるそれを掴んで離さない彼女の頭をばんばんと叩き続けて、彼女が渋々それを手放した頃には私の手のひらの方が痛くなっていた。
 中身が空っぽなわりに外殻だけは頑丈である。
「けち!」
「カラスは砂場の石英でもつついてりゃいいんですよ」
「欲に目が眩んだ人間は地獄に落ちればいいと思う!」
「貴方に言われりゃ世話ないですね」
 憎まれ口を叩き合いながら、私たちは狭い裏路地を歩いていた。いきなり人通りのある目抜き通りを歩けば、地上の世界に興味津々である地獄鴉のこと、私の部屋で起こったような惨劇が繰り返されないとも限らない。免疫を付けるならばまず軽いところから、である。
 かといって、鴉の好奇心そのものが失せることはなく。
「何これ! とげとげしてる!」
「栗です」
「食べられるの!?」
「剥いてからね」
「剥くの!? いやらしい!」
「いやらしいのは貴方の頭です」
 やたら豊満な胸部を強調するように腕を組み、やんやんと身悶えるおくうのテンションは一種異様である。
 とりあえず栗を投げつけてその場は収まった。
「すごい刺さった」
「髪の毛、ちゃんと梳いた方がいいですよ」
「やっぱりそうかな」
 その自覚はあるようだ。リボンで纏めているわりに、髪の量が多すぎるせいで持て余している印象が強い。そもそも洗っているかどうかさえ怪しい。
「……家に帰ったらお風呂ですね」
 びくん! と身を震わせることから察するに、あまり良い思い出がないと見た。弱点発見である。
 頭に突き刺さった栗を抜き、器用にお手玉をし始める。 いまいち行動が読めない。興味深くはあるが、いきなり逃げ出さないとも限らない。
 と、いうより。
「ね。これからどこ行くの?」
「ん……特に決めてはいませんが」
「私、いろんなとこ見てみたいな。連れて行ってよ」
「……貴方がその気になれば、好き勝手に飛んで行けるんじゃないんですか」
 そうなのだ。彼女がわざわざ私の歩みに付き合う義理はない。首輪はあるが紐は外してあるし、彼女は始めから自由の身の上だったのだ。
 ならばどうして、彼女は私の隣を歩いているのだろう。
「んー、まあそうなんだけどね。なんていうか、私の目じゃ見えづらいものがあるのよ。きっと」
「よくわかりません」
「私だってよくわからないわよ。でも、私の目と阿求の目は違う。そうでしょ?」
 彼女は私の正面に立ち、手のひらを自身の胸に当てる。そこには彼女の第三の眼球があり、彼女の異常性を強く表している部位でもある。
 対する私の眼は、見るもの全てを記憶する異端の瞳である。思うところはあるが、わかりやすい共通項を挙げ連ねて安易な仲間意識を覚えるほど、簡素な人生でもなかったはずだ。私も、彼女も。
 だから、考えねば。
「ふむ」
「ほら、私より頭がいいんでしょ? だから、見せてよ。私じゃ見付けられないものを」
「言ってくれますね」
 腕組みをしても特に強調されるような膨らみはないが、まだ若いのだから嘆き悲しむ理由もない。立ち止まって考えて、簡単に出るような答えならどんなに楽だったか。
 彼女の望む答えが判然としない以上、手当たり次第に探し回るしか術はない。俯いていた顔を上げると、おくうは眉間に皺を寄せながら栗のいがを剥いていた。
 素手で。
「痛くないんですか」
「……いたい」
 半泣きだった。常に何か仕出かしてないと気が済まないのかこの鴉は。
 でもまあ、家に帰ったら、栗ご飯でも出してみようか。
 彼女の残念そうな顔を見ていると、何故か慰めてあげたい気持ちに駆られる。手のかかる妹だと思えば、合点の行く話かもしれないが、その割には肉付きがよすぎて腹立たしい。
 けれど、魅力的な提案ではある。
「おくう」
「ん、どうしたの」
「これからは、私のことを阿求お姉様と」
「気持ちわるっ!」
 正直でよろしい。

 

 それから、私たちは何かを求め歩き続けた。
 別に人生や青春のどうたらこうたらは関係なく、面白そうなものや目に留まったもの、美しく、綺麗だと思ったものを、私の目線から無作為に選んでおくうに紹介していった。
 これを見せれば彼女は絶対に喜ぶ、なんて確証はなかったから、時には外れを引いて彼女を不機嫌にさせることもあった。特に案山子はかなり嫌がっていた。涙目のまま何か得体の知れない力を解き放とうとした時は、背筋に冷たいものが走って反射的に栗を投げつけてしまったほどだ。まだ刺さっている。
 対して好印象だったのは、季節の花や風景の類だ。私には見慣れた景色でも、地底で生きてきた彼女にとっては新鮮に映ったようだ。
 中でも、彼女が気に入ったのは。
「羽、痛みませんか」
「ちょっとは」
「空は逃げませんよ」
「でも、これが最後かもしれないから」
 空。
 穏やかな清流が見下ろせる土手に寝転がり、おくうはずっと空を眺めている。大の字に身体を広げ、そよぐ風に髪が乱されても、彼女は遥か高みから目を逸らさない。手を伸ばしてみたり、雲を掴もうと手のひらを握ったり、太陽の眩さに目を閉ざしたり、それこそ人生や青春のどうたらこうたらを思わせる甘酸っぱい感傷に浸っているようでもあった。
 見てるこっちが恥ずかしくなる。
「私の名前、『うつほ』って言うんだけど」
「私はそんなに忘れっぽくないですよ」
「そういうことじゃなくてー」
 空に伸ばした手を地面に下ろして、おくうは首を横に傾けて私を見る。私は彼女のように堂々と寝転がれるほど空に恋焦がれているわけでもないから、ただ着物が汚れない程度に腰を下ろしているだけである。
 確かに、透き通るような晴天だとは思うけれど。
「うつほは『空』って書くの。今、私たちの目の前に広がってる空」
「空、ですか」
「うん。地底には無い空が、私の名前。さとりさまがどうしてそんな名前を付けたのか、まだよくわかんないんだけどね」
 名付け親の意図は、それこそ当人に聞かなければわかるまい。聞いたところで、理解できるとも限らない。けれど、おくうが悲嘆に暮れているようには見えなかった。己の名に如何なる意味が込められていようと、彼女はその名前を自分のものとして受け入れている節がある。
 だから、馴染みのない空でもずっと眺めていられる。
「話の腰を折って申し訳ありませんが。さとり様というのは、貴方の」
「ん。簡単に言うと、私のご主人さまかな。ちょっと目が細いけど、すごく優しいひと」
 それは、彼女の基準に過ぎないのだとは思うけど。今まで見せたことのない微笑みを浮かべる彼女は、決して偽りを口にしているのではないのだと、すぐに理解した。
「さとりさまは、地上の空を見たことがあるんじゃないかって。そんな気がするの」
「それまたどうして」
「だって」
 あたかも、恋人を誘うような仕草で、彼女は両腕を広げて空を迎え入れる。あの空が、おくうの気持ちに応えてゆっくりと降りてくることはなかったけれど。
「こんなに、きれいなんだもの」
 何のことはない。
 果てなく続くあの空でさえ、地下を生き、地上を歩く私たちと繋がっている。
 その証拠に、『空』の名を持った彼女がここにいる。
「それだけで、もう十分だよ」
 振り切るようにそう呟いて、おくうは勢いよく身を起こした。ずっと空に預けていた瞳を、今度は間近な私の目に合わせて、純真無垢な眼差しでそっと問い掛ける。
 私ならば、すぐに答えを出してくれると信じて。
「阿求の名前には、どんな意味があるの?」

 

 日は、かなり高いところまで上ってきている。小腹が空いてきたが、食事処も見当たらない。人通りの少ない雑木林だから文句を言っても始まらないが。
 私たちは、次の目的地に向けて歩みを進めていた。
 おくうの好き嫌いはほぼ把握したから、後はその傾向に沿って案内すれば済む。楽な道程であった。本来なら。
 先程、おくうに受けた質問の答えがうまく纏まらないことを除けば。
「ね。これからどこ行くのー」
 彼女は、飽きもせず私の歩みに付き合っている。この短い時間で、だいぶ懐かれたらしい。馴れ馴れしく肩や手を掴んでくるのは構わないとしても、いきなり抱き付かれると対処に困る。重いし。
「とても、いいところですよ」
「やらしいね」
「貴方がね」
 頻りに私の髪を撫で、その触り心地に感嘆の息を漏らす。むずがゆく、何より恥ずかしいからやめてほしい。
「おぉ……すべすべだ……」
「貴方がぼさぼさすぎるんです」
「しかも、いい匂いがする……」
「せめて、いい香りと言ってください」
「くんくん」
「嗅ぐな」
 段々と野生に帰ってきているが大丈夫か。不安だ。
 緩やかな坂道になっている雑木林を越え、やや開けた場所に出る。ここに辿り着くまで、緩やかだけれど長い道程を歩いてきた。ずっと歩き通しだったせいか、疲労も溜まって足が重い。けれど、それに足る光景が私たちを待っている。その確証はあった。
 思い余って、おくうが切り立った崖の方に駆け出す。追う体力もない私は、ゆっくりと息をついて、代わり映えのしないきれいな空を仰ぐ。一羽、二羽、普通の鴉が森の中に消えていく。
 この場所に足を踏み入れると、いつの間にか、こんなに高いところに来ていたのかと驚く。そして、幾分か近くなった空を仰ぎ、見慣れていたはずの地上を見下ろす。
 彼女も、全く同じような所作を取った。
「わ」
 ただ一言、それだけを呟いて。霊烏路空は停止する。
 ずっと、大好きな空ばかり見ていたから。
 貴方は、俯くことを知らなかった。
 思い悩んだ時。悲しみに打ちひしがれた時。どうしようもなく俯いてしまう時、高いところに立っていれば、自然と眼下の光景に心を奪われる。
 その美しさに魂を惹かれて、飛べもしないのに足を踏み出してしまうことも、あり得ない話ではないけれど。
「……なんて」
 天空の青。大地の黄金。
 かつて異国の民が此処を黄金の国と称した証が、私たちの目の前に広がっている。
 刈り入れられる前の稲穂に覆われた、一面の世界。その中には、おくうが毛嫌いしていた案山子の姿も見える。けれど、彼女はまだ活動を停止したままだ。
 おくうの傍らに立ち、私も稲穂の宇宙を視界に収める。
 ……あぁ、やはり。
 私たちが目を背けない限り、世界はどこまでも美しい。
「すごいね」
「えぇ、全く」
 気の利いた台詞など、そう簡単に出るわけもない。この光景に相応しい言葉が、果たして存在するのかどうかさえ怪しいのだ。
 私たちは、ただじっと眺めていればいい。他のことは何もせずに、ただ景色の中に呑まれてしまえばいい。それだけで、感動を表すには事足りる。
 けれど。

「飛ぼう」

 彼女は、まだ満ち足りていなかったらしい。力強く宣言した彼女の瞳は、私の目をじっと見つめていた。
 九月の風が吹き抜け、私たちの髪の毛をわずかに乱す。
「私も、ですか」
「うん。一緒に行こう」
「折角のお誘いですけど、私は翼もなければ飛行能力もない只の人間ですから」
「あ、そうなんだ」
「はい」
「そっか」
 少し寂しげに、彼女は俯いた。が、それも一瞬のこと。
「じゃ、私が連れていくよ。阿求を、空に」
 おくうは私に手を差し伸べ、私が握り返すのを待っている。その好意に応えるべきか否か、思索を巡らすのは愚かなことかもしれない。だが、俯かなければ稲穂の海に気付けなかった私には、逡巡もなしに空へ飛び立とうとする無邪気な鴉の手を取ることが、口惜しいほどに躊躇われた。
「阿求は、私に見せてくれた。だから、今度は私が見せてあげるわ。私が見ていたもの、あなたの目には見えなかったものを」
 彼女の瞳は、好奇心に彩られてきらきらと輝いている。羨ましいと思い、老け込んできたかなとも思う。私の目はいろんなものを見てきた。見過ぎてきたと言ってもいい。だが、この目が見るべきものはまだあるはずなのだ。
 たとえば、鴉が誘う空のように。
「行こう!」
 浮ついた彼女の声に背中を押されて、私は頷き、彼女の手を取った。私より一回り大きい手のひらに包まれて、不意に力が抜けそうになる。
「……で、このまま吊るされるんですか。私」
「怪鳥にさらわれた少女みたいな感じね」
「もうちょっとこう何かないですかね」
「んー、お姫さま抱っことかどう」
「恥ずかしいので」
「じゃ、お姉さま抱っこ」
「それは忘れて」
 恭しく頭を垂れるとかそういうのはいいから。
 そういう、忘れてほしいことは覚えてるんだからなぁ。困ったものだ。
 でも、悪くない。
「もー、贅沢言わないの!」
「きゃあぁっ!?」
 業を煮やしたおくうが、私の肩と膝に手を差し込んで一気に抱き上げる。その俊敏さと力強さは流石に妖怪といったところで、抵抗する意識さえ瞬時に刈り取られるほどの豪快さであった。
 同時に、剥き出しの土を強く蹴って、遥かな空へと足を踏み出す。黒い翼が一際大きく羽ばたき、古い羽根を散らばらせて空を翔けるための風を生む。
 その腕の中に囚われて、私は、何も出来ずにいた。
 ただ、彼女が見せてくれるであろう空に憧れた。
 それだけでよかった。

「――――、空」

 慣れない浮遊感に、閉じかけていた瞳を開く。地に足が付いていないのは不安だけれど、おくうの腕は見た目よりも頼り甲斐があった。だから私は、多少穏やかな心持ちで宙に浮いていられた。
 風が髪と耳を叩き、声を発することも聞き取ることも難しい。でも、しばらくは、私の目の前にある景色に心を奪われていたい。そう思った。
「……なんて」
 期せずして、おくうと同じ言葉が漏れる。それに続く言葉が見当たらないのも同様だった。
 幻想郷の稜線が見える。空と大地の境界が、確かな色彩をもって世界を区切っている。見上げれば青の天井、見下ろせば黄金の絨毯が、黒い翼を動かす鴉と、何も持たない冷めた人間を、影も形も残らないくらい、きれいにすっぽり包みこんでいる。
 稲穂の海に案山子が見える。田園を掻きわけて、走り回っている子どもたちがいる。稲に群がる雀が飛び立ち、只の鴉は決して動じない。鳥は地面から空に向かい、私たちの目の前を横切って更に高く遠く飛んでいく。
 その全てを、私は記憶する。
 数百年先に続く未来へ、この光景を繋ぐために。
「すごいねー!」
 おくうが叫ぶ。私は同意する言葉を持たない。
 彼女は見る間に加速していき、下手をすれば外の世界に続く境界に激突してしまいそうなほど速く飛んでいた。高度はどのくらいだろうか。下を見ると目眩がするけれど、不思議と落ちる気はしなかった。
「おくう」
「えっ! よく聞こえない!」
 この状況下で、先程の答えを口にするのは卑怯かもしれない。大声を出す気もないし、おくうが何か問い掛けても聞こえない振りをする覚悟である。
 でも、私から阿礼乙女の存在を引き出したのは、他ならぬおくうだったから。
 私は、語り始める。
「――稗田阿求は、九代目の阿礼乙女なのです」
 千数百年の長きに亘る、短い人生の物語を。

 

 そうして。
 懐かしさすら覚える大地に降り立った後、お腹を空かせた私たちは里の蕎麦屋で休憩を取った。昔は妖怪お断りの注意書きも多かったが、昨今は大人しくしていれば問題なく注文できるようになった。羽根が散らばらないよう小さく折り畳んで、おくうは次から次へと蕎麦を啜っていた。
 怖いもの知らずの子どもたちと遊んだり、里に出入りしている妖と遭遇して腕相撲する羽目になったり、栗を拾ったり、柿を拾ったり、柿の木の持ち主に怒られたり。色々なことをした。数え上げれば切りがない。
 それでも、たった一日では幻想郷の全てを見て回ることはできない。太陽は傾き、空は赤く滲み始めていた。
 人通りの絶えた帰り道を、ふたり並んで歩いていく。怒れる柿の木のオヤジさんは、拳骨一発でチャラにしてくれたついでに栗を入れるための籠をくれた。今は、その中に沢山の栗が放り込まれている。
「今晩は栗ごはんですね」
「食べたことないなー」
「おいしいですよ。私が作るわけではないですけど」
「阿求は料理できないの?」
「ゆで卵なら余裕ですよ」
「温泉卵おいしいよね!」
 微妙に話が噛み合っていないが、とりあえず上機嫌なので良しとしよう。この子の扱いにもだいぶ慣れてきた。
「おくうは、いつまで此処にいられるのですか」
「えーと、どうだろう。特に決めてなかったな」
「まあ、慧音さんに拉致されたものですからね」
「そういやそうだったね。お燐は元気かなー」
「まあ、少なくとも元気ではないでしょうが……」
 確証は無いが、そんな気はする。あの上白沢慧音相手に、一対一で教育を受けて五体満足でいられる生徒がどれくらい存在するか。主に頭蓋骨の強度的な意味で。
 そして、噂をすれば猛然と駆けてくる人に似た影。
「あ、お燐だ」
 脇目も振らず、一直線に駆けてくる。首輪も紐も繋がったままだが、その担い手の姿は見当たらない。いやに汗だくで、額がやたら腫れているところを見るに、耐え切れなくなって逃げ出してきたと解釈するのが自然か。無理もない。
「だあぁーっ! やってられるかぁーっ!」
 私たちの前で立ち止まったかと思えば、力任せに首輪を引き千切って勢いよく地面に叩き付ける。と同時に、首輪は小規模な爆発を伴って跡形もなく四散した。
 謎素材である。
「お燐、栗ごはんって食べたことある?」
「ないわ! そんなん食ってる余裕もないし!」
「えー」
 肩で息をしている猫と対照的に、おくうは未知なる食材に興味津々である。彼女が黒猫に栗を投げつけたら、あっさり受け止められて思い切り投げ返された。顔面に。
「すごい刺さった」
「その状態でよく喋る気になるねあんたは……。まあ、いいさ。早くしないと奴さんが追いかけてくるから、さっさと退散するよ」
「栗ごはん……」
「急がないとこっちの頭が剥かれるんだよ! 解れ!」
 必死である。無理もない。
 お燐と呼ばれた黒猫は、少しだけ申し訳なさそうに私を見た。その仕草が、意外といえば意外ではあった。
「悪いね、お嬢ちゃん。この子の相手してくれて、ありがとう」
「いえいえ、私も楽しかったですよ」
「そうかい。ならいいんだ」
 ふっと安堵の息をつき、お燐はまたくっと気を引き締める。おくうはまだ未練を断ち切れない様子で、籠の中に収められた栗の山から目を離せないでいる。ちなみに刺さった栗は籠に戻された。
 まあ、おくうに栗ごはんをご馳走できないのは、確かに惜しいとは思うけれど。
「阿求」
「はいはい」
「私、行くね」
「そうですか。わかりました。栗ごはんは、私が責任をもって平らげますよ」
「うぅ……阿求は意地悪だ」
「よく言われます」
 私が微笑むと、おくうもつられて顔を綻ばせる。
 彼女は慣れ親しんだ首輪に指を掛け、何らかの負荷を掛けて首輪の一部を溶かし、至極丁寧に首の拘束を解く。
「これ、無くさないでね!」
「あっ」
 緩やかな弧を描いて、乳白色の首輪が夕焼けの空を舞う。それが私の手に落ちるのを待たずに、二匹の獣は撤退を開始していた。
「またねー! 阿求お姉さまー!」
 こっぱずかしいことを叫びながら、鴉は空に飛び立ち、猫もそれに続く。逢魔ヶ刻の空に溶け、遠ざかっていくふたつの影は、寄り添い、時に離れながら、徐々にその姿を霞ませていく。
 どこからか、鴉の鳴き声が聞こえる。見上げれば、数匹の鴉が仲睦まじく、安らげる場所に帰ろうと翼を羽ばたかせていた。
「……やれやれ」
 一人になって、一日の疲れが一気に噴出してきた。肩を回し、首を鳴らして、預けられた首輪を見る。柔らかく、弾力があり、千切られた一端は黒く焦げついている。霊烏路空の深淵に宿る異端が、たった一瞬、彼女の表層に現れた。その気になれば、おくうは人里を蹂躙することも容易だったはずだ。でも、それが実行されることはなかった。単なる気紛れか、元々その意志がないのか、地上への好奇心が破壊衝動に勝ったのか、私にはよく解らないけれど。
「……嵐みたい」
 空に憧れ、空を仰ぎ、空を翔けている彼女は、ただの夢見る少女と変わりなかった。夢を叶え、満面の笑みを浮かべ、一喜一憂する一日限りの妹を、邪険にできるはずもなかったのだ。
「変なことばっかり覚えるし」
 確かに、阿礼乙女の話を理解しているようには見えなかったが。見た目よりはずっと賢く、他人を慮ることもできる。お調子者の地獄鴉。
 叶うのなら、また同じ季節にでも。
「……この首輪、気に入ったんですかね」
 これでいて、着け心地がいいのかもしれない。ふと、そんな思いに駆られて、試しにそれを首に宛がってみる。
 ……なるほど、形状から想像できる締め付けは左程でもなく、着け心地も決して悪くない。だからといって、おくうに倣ってこれを着用するのは社会的な自殺行為だ。私は、致命傷に至る前に首輪を外そうとして、カチリ、 と不穏な接続音を耳にした。
「……かちり?」
 妙だ。首輪は確かに千切られていて、再び締まることなどあるはずがない。その証拠に、引っ張れば簡単に取れて痛い痛い痛い。
 いやいやいや。
 取れません。嵌まってます。
「あれえぇっ!?」
 誠に不可解である。幻想郷七不思議に指定したい。
 いや、真の問題はそこではない。私の帰りが遅くなれば、当然お手伝いさんが探しに来る。なにせ子どもですから。とっとと成長しろ。
 ともすれば、噂好きのお手伝いさんに遭遇し、この年甲斐もなく首輪を嵌めてうっすらと顔を赤らめている姿がお目見えする可能性も否定できないのであって。
 人間万事塞翁が馬。
 禍福は糾える縄の如し。
 ……あぁ、そういえば。 天気が良すぎると、かえって何か悪いことが起こりそうだなんて、朝っぱらから予想していたっけ――。

「阿求様ー阿求様ー……、あ」

 運よく現れたお手伝いさんが、暮れなずむ空を仰いで佇む私を見付け、そして夕暮れとは別の色をした、確かな羞恥に頬を染めるのを、私はしっかと身定めた。
「あ、阿求様にそのようなご趣味が……あ、いえ、でもご安心ください! 絶対誰にも言いませんから! 絶対、いえもう絶対ですから!」
 無茶苦茶念を押してくるお手伝いさんの瞳は、何故か爛々と輝いていた。

 

 栗ごはん、楽しみだなー。

 

 

 

 



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初出:2010年10月11日  藤村流
東方project二次創作小説






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