緑の黒髪、お断り

 

 

 

 パルスィは嫉妬していた。
 のっけからなんだこいつと思われるかもしれないが、彼女の性格を鑑みれば至極当然の成り行きであるといえるだろう。
 橋姫であるところの水橋パルスィが何に嫉妬しているのか、その対象は地下の深層に棲む地獄鴉である。
 地上から人間が降りてきて適当に騒ぎを起こして以降、地下に棲む妖怪も時折地上に行くようになった。地上と地下の行き来も前よりは目立つようになり、その狭間に立ち検問を行うパルスィの負担も目に見えて増えた。
 無論、昇るのも降りるのもそれ相応の力を持った生き物なので、別にバルスィが常に監視をする必要もない。だが、やたらと行き来を繰り返す地獄鴉などを見ていると、何故か知らないが無性に腹が立つのである。
 おまえはなんでそんなに楽しそうなのかと。幸せな顔をしすぎじゃないかと。それとも何も考えてないのかと。最後の可能性も大いに考えられるので何とも言えないが、ともあれパルスィが地獄鴉の幸福加減を妬ましく思っていたことは間違いない。
 そしてまた、地獄鴉のおくうがパルスィの横を通り過ぎる。
「ただいまー!」
 無駄に元気がよい。パルスィは適当に頷き、鼻先を掠める鴉の黒髪の一本を引き抜く。鮮やかな手際だった。
「あいたっ」
 脳に刺さるかすかな痛みに、おくうが周囲を確認する。後頭部を抑えながらきょろきょろと見渡し、パルスィに「何かした?」と聞いて「何もしてないわよ」と簡単な返事が戻ってくると、釈然としないながらも、痛みは失せたからさほど気にも留めずにあっさりと飛び去っていった。
 パルスィの指先には、霊烏路空の髪の毛がある。
「……脳天気ね、本当」
 少しくらい頭のネジが外れていた方が、幸せには生きられるのかもしれない。ため息は一体誰に向けて吐かれたのか、その行く先を定めぬまま、パルスィは硬く冷たい岩場に降り、見慣れた小さな橋のたもとに立つ。
 そのうちの一本、支柱になっている赤い柱に手を添えて、たったひとつの呪いの言葉を。
「妬ましい」
 藁人形は要らない。殺すための手段でなく、ただ浅い呪いが降りかかれば構わないのだ。だからパルスィは己の金の髪を一本抜いて、先程おくうから引き抜いた黒い髪の毛と併せて握り締め、呪詛を込めた支柱に向けて、その手のひらを思いッきり叩きつける。
 ぱきィ、と、手の中の骨が軋みをあげた。

 

 

 ねー、と甘ったるい声をおくうが出すので、お燐は負けじと丸っこい声でなーにーと答えた。
 ふたりが屯しているのは、灼熱地獄跡地。おくうが八咫烏の力を得たことで、最盛期に近い熱を取り戻しつつある。しかしそれも当人のやる気次第であり、あまり熱すぎるのも困りものだから最近は適度な温度を保っている。
 春の麗らかさには程遠い熱気の中にあり、ふたりはのんびりとゴロ寝を決めこんでいる。一応は仕事を与えられているものの、それが終われば後は自由なのだ。もとより獣出身であるから、仕事はおまけで後は何にも束縛されずにのほほんと生きるのが性に合っているのである。お燐が大好きな死体もあまり転がってはいないし、それならあとは寝るしかすることがない。
「私、生まれつき髪が黒いんだよー。まあ鴉だから当たり前なんだけどー」
「あー、あたいも結構黒いなぁ。なんでか人の姿になると髪は赤いんだけど。なんでだ」
「でもさー」
 うつ伏せになっていたおくうが、ゴロゴロと転がりながらお燐のところに近寄ってくる。噛み合っているようで、噛み合っていない会話はいつものことだ。転がるうちに、岩に頭をぶつけて悶絶するおくうにも慣れた。学習能力がないのかおまえは、といつも思う。
「いたぁ……えーと、なんだっけ」
「髪の毛がどうとか」
「うん、そうなの。最近さ、金髪いいよねって思うようになって」
「いきなりだな」
「金髪いいよねー」
 あんまりひとの話を聞いていないが、いつものことである。お燐は諦めて、寝惚け眼を擦りながら起き上がり、片膝をついて座りこむ。
「でも、おくうの髪も綺麗だと思うよ。お世辞じゃなくてさぁ」
「ありがとー。私もお燐の髪は素敵だと思ってるよー」
 何となく褒め合い、それでいて照れも何もないのが如何にも彼女たちらしい。
「鬼、いるじゃない。旧都に」
「あぁ、いるね。いつも酒呑んでる」
「鬼だからね、しょうがないね」
 名を星熊勇儀、金の髪に一本角を持つ大柄な体躯の鬼である。その他にも金の髪をしている者は数多くいるが、行動力と知名度からするとまず挙げられるのが勇儀だった。最近は、おくうが並々ならぬ力を得たことにより、力比べを望んで灼熱地獄跡地に降りてくることもしばしばあった。
 だから、彼女と親交を深めているうちに、隣の芝生が青く見えた――と、単純に考えることもできる。
「綺麗だよねー、あのひと。特に髪が。なんていうの、透け透け? 透きとおるーそうめんー」
「それ褒めてんの?」
「流しそうめんいいよねー」
 話題がスイッチした。
 流しそうめんは、地上の神社で巫女と魔法使いと一緒に食べたものである。麗らかな日差しにきらきらと輝き、水の中を踊り行き過ぎるそうめんに魅せられて箸を伸ばすことも忘れていたおくうを思い出すたび、こいつはほんと純粋だなとお燐は微笑むのだった。
 うつ伏せて、足をばたばたと動かすおくう。やがてそれが止まると、地面に顎をつけて、窮屈そうな状態でぼそぼそと呟き始める。
「むぅ……それにしても、悔しいな……」
「え、そうめん?」
「違うよ、金髪だよ」
「あ、そっちか……いや、もうそれはどうしようもないじゃん。諦めなよ。たぶん似合わないし、おくうに金髪は」
「……やってみる価値は」
「やめた方がいいと思うけど」
 拳を握り締める、おくうの只ならぬ決意に横槍を入れる。
 てっきり、舌を出すなり頬を膨らませるなりして抗議の意を示すかと思ったのだが、おくうはそうしなかった。不審に思い、お燐は緑色に光るおくうの眼を覗き込む。
「……不公平だ」
 瞳に灯る静かな焔を見、お燐の背筋に冷たいものが走る。
 それは悪寒だった。
「あんなに綺麗なのに、私には手が届かないなんて……なんて、妬ましい」
「ちょっと……おくう、落ち着きなよ。あんたらしくもない」
 おくうに冷静さを求めるのも無理な話だとは思ったが、この悪寒はお燐に警鐘を鳴らしていた。かつて、おくうが地上に侵攻すると嘯いていた時と同じような音色で。
 だが、お燐の忠告を振りほどくように、おくうは岩に手をつきその身を地面から引き剥がす。
「そう……だよね。手に入らないものを望んだって、仕方ないんだ」
「うん、そうそう。おくうもやっとわかってくれたか――」
「――なら、金髪なんてものがなければいい」
 わかってなかった。
「わかってねー!」
 頭を抱える。にゃーと鳴き出したい気持ちだった。おおむねいつも通りである。
「安心して。私は冷静よ」
「そういう台詞はちゃんとこっちの目を見て言え! そっちは炎しかないわ!」
 立ち上がり、不埒な決意を固めるおくうに対し、お燐は必死に説得を試みる。
 口で態度を改める相手じゃないことは昔からの付き合いでわかっていたが、それでもいきなり押さえつけるのはどうかと思った。いざとなれば叩き伏せることもやぶさかではないが、その『いざ』がどのタイミングで訪れるのやら。見誤れば、それは緩やかに熟成されやがては破滅に結びつく。嫌な予感とはそういうものだ。
「もう、おりんりんも心配性だなぁ」
「おりんりん言うな。そら心配もするわ、あんた、前科あるからね」
「だから大丈夫だってば。別に叩き潰して角折ってラッパにするってんじゃないんだから」
 流石に、そんなことをすれば七日間で世界は破滅するであろう。他ならぬ、同属たる鬼の手によって。
 うんざりしながら、お燐は一応おくうに念押ししておいた。
「……ほんとに?」
「うん」
 返事だけは威勢がよい。
「せいぜい、あの綺麗なのを丸刈りにするくらいだよ」
「それは三日で滅ぶね」

 

 

 これはもうどうしようもねえと踏んだお燐は、必殺猫パンチでおくうを昏倒させた後に荒縄で縛っておいて、ひとまず我らがご主人様に助けを求めることにした。
 客間に用意されたテーブルに座り、お茶を出されても手はつけない。お燐は猫舌なのだ。
「さとり様ー、おくうが変なんですよぉー」
「いつものことじゃない」
「それはそうなんですけどぉ」
 ひどい言われようである。
 さとりはカップを鼻先に持ち上げて、穏やかにその香りを楽しむ。優雅である。
「バカやるのはいつものことなんですけど、雰囲気が尋常じゃないというか……やろうとしてることは同じでも、その根底にあるものが違うといいますか……」
「……妬ましい、ですか。おおよそ、あの子には似合わない言葉ね」
「でしょ? 仮に思っても、口には出さないヤツですよ。ましてや、手に入らないなら壊してしまえ、なんて」
 信じられん、とばかりにおりんは渋面をさらす。顎は清潔なテーブルクロスの上に乗せ、さとりの左隣に座っている。向き合って座った方が話しやすいのだが、お燐がさとりの隣に陣取っているのには理由がある。
 お燐は、何かを求めるように上目遣いでさとりを見る。その目を見れば、心を読まなくても、何を求めているのかはすぐに理解できた。持て余した左手を、お燐の頭に置く。ぽん、と音が立ちそうなくらい強めに置いた手のひらでも、お燐は文句を言う様子もなく、ただ満足げに目を細めている。
「ふにゃ……」
 人の姿を取っていても、獣の感性は色濃く残る。ご主人様に撫でられたいという欲求は、お燐の中に深く根ざしている感情だった。髪を梳かれ、頭蓋に触れられて形を確かめられているその無防備さが心地よかった。
 顎を差し出せば、さとりは察してお燐の顎の下を擦る。うにゃうにゃと猫撫で声を発するお燐を見、さとりもふっと表情を緩める。
「紅茶、冷めるわよ」
「ふぁ……はぁい」
 離れた手のひらを名残惜しげに見つめながら、お燐は紅茶に手を伸ばし、水面から伸びる湯気に息を吹きかける。お燐はおそるおそる舌先を出し、表面に触れるか否かの境目で舌を震わせる。
「にしても、ちょっとまずいことになりそうですね」
「あつぅ……と、そうなんですよ。よりにもよって、鬼に手を出すのは……。おくうも火力だけはあるから、また調子に乗って暴走したりしないか、不安で不安で……」
 苦悩を押し殺すようにカップを思いきり傾け、でもやっぱり熱くて舌をふるふる言わせながらカップをテーブルに置く。よく見ればうっすら瞳も滲んでいる。さとりは微笑む。
「大丈夫よ。あの子も、少しは学習しているわ」
「だといいんですけど……雰囲気があまりにも違うから」
 お燐の不安げな表情が気にかかり、さとりは少し突っ込んだ質問をする。
「難しいかもしれないけど、あの子、どう違っていたかしら」
「えー、と……」
 腕を組み、眉間に皺を寄せて必死に思い出そうとするお燐の、その思考をさとりは読む。
 心に思っていることは単語や文章といった言語に留まらず、映像としても残っている場合がある。言葉は心に映った像から他人に伝えられるようにとひとつひとつ切り取っているに過ぎない。ゆえに、うまく言葉にならないことは、絵にしてみると伝わりやすいときもある。
 そして、さとりはお燐が必死に引っ張り出してきた記憶の断片から、今現在のおくうの姿を垣間見る。さとりの目が見開かれ、どうすればいいのかわからないといった形相でお燐を睨む。
「……え、なんで縛られてるの?」
 そういうプレイなのかと思ったが、心を読むにお燐の思考にそういったものは存在しなかった。ほっとする。
「いや、あり火力馬鹿を押さえつけておくには、もう縛りつけるしかないと思いまして……えへへ」
 何故か照れる。
「……まあ、それはいいわ」
 誰かに教えを施されたとしか思えない亀甲縛りについては後ほど追及するとして、さとりは改めてお燐から釣り上げたおくうの残像を想起する。
「わかりました」
「おぉ、さとり様すごい」
 拍手を送られ、さとりはまんざらでもない表情を浮かべる。
「……おくうの目は、確か黒だったはずよ。若干、茶色がかってはいたけれど」
「あぁ、そういえば」
「でも、今のおくうは緑色だった」
「……でしたっけ」
 自信がない、というふうにお燐の小首を傾げる。だがさとりには確信があった。
「そう。何もなければ、目の色を取り違えるなんてことはありえない。緑と聞いて、想起するものは少なからずあるはずよ。地底に棲んでいるのなら尚のこと、もう答えは出たようなもの。あとは詰めを誤らなければ事は収まる。私はそう見たわ」
 言い切って、お燐を窺う。それがお燐の答えを待っている状況だと知り、お燐は慌てて緑色に関係するものを次々と考える。
「うーん……西瓜……胡瓜……南瓜……」
「撲殺くらいはできそうですけれど」
「毒殺?」
「残念」
 なるべく、さとりの顔に失望の色が浮かぶ前に答えを出さなければと焦るほど、思考はわけのわからない単語ばかり導いてしまう。キスメの髪の毛はあまり関係ないし、緑黄色野菜はあらかた出揃った。
 さとりは、てんやわんや真っ盛りのお燐に対して、失望のかわりにひとつのヒントを与える。
「妬ましい」
 それは、天啓にも似た響きでもって、お燐の脳裏に奇跡的な閃きをもたらした。
 渡る者の絶えた橋をいまだ守り続け、地上と地下の関所を任されているとされる人物。
 お燐は叫ぶ。
「水橋パルスィ!」
「はい、よくできました」
 今度はさとりが拍手を送る。が、お燐は照れる様子もなしに、長袖をまくってやる気満々に腕をぐるぐる振り回している。
「あんにゃろ、うちの単純馬鹿に何してくれたんだ全く……!」
「落ち着きなさい。あなたが出て行っても何にもならないわ」
「でも、早く行かないとおくうがいつ暴れ出すか……」
 砲丸投げよろしく腕を回しながら、お燐は冷静なさとりに言い返す。そんな猫のご主人様は、決して雅さを損なわないままカップを持ち上げ、ちゃんと香りを嗜んでから味を確かめる。
「冷静に。あなたの言いたいことも十分わかります。が、そうして先走った結果が何を生んだか、あなたも忘れたわけではないでしょう」
「うぐっ……」
 痛いところを突かれ、天井に腕を突き出した状態で硬直するお燐。
 先の異変は、おくうの変貌もさることながら、お燐の先走りによって起こされたといっても過言ではない。その件で、地上の者たちが地下に踏み込んできて、最終的におくうの暴走は鎮まり、地上と地下の交流がわずかながら増えてきたのは、正直にいって結果論である。何もかもが良い方向に進むなんてことは、そうそうありえないのだ。
 紅茶を飲み終え、カップを置き、さとりは何だか泣きそうになっているお燐を一瞥する。きっと、さとりに叱られたことを思い出して震えているに違いない。別にそんなにひどい折檻をした覚えはないけれども、と、さとりは手のひらを見ながら思う。
 そして、軽く手のひらを握り、空いた隙間を第三の目に当てる。
「私が行くわ」
 席から立ち、ようやく腕を下ろしたお燐に告げる。
 お燐は「え」と主人の発言に驚いた様子だったが、主人みずから事件の解決に乗り出すことがどれほど珍しいかを悟り、感激のあまり涙しそうになる。
「さ、さとり様……」
「いいのよ。最近、飼い主の責任がどうこう言われたことでもありますし。ならば、ペットに対する悪戯は、私に対する悪戯も同じこと」
「さとり様ー!」
 抱きついてくるお燐を優しく受け止め、頭を撫でながらぼそりと呟く。
「それに、あなたが出て行ってもおくうの二の舞になりそうだし」
「はは、そんなことないですよぉ」
 そんなバカなというふうに笑い飛ばすお燐の顔はふにゃあと緩んでいて、これはしばらく離れないかなとさとりは外出するタイミングを逸したことを自覚する。
「でも、鬼の方から動き出せば、少し厄介なことになる。急いだ方がいいかもしれないわね」
 べったりひっつくお燐を何とか引き剥がし、乱れかけた衣服を軽く整える。なおも名残惜しそうに指を咥えているお燐は、さとりの言葉がいまいちよく理解できていない様子だった。
「えー……、なんで鬼が動くんです。橋姫におちょくられたのは、おくうの方じゃないですか」
「可能性の問題よ。呪いの媒体が何なのかはっきりしていないけれど、髪の毛のような簡単に入手できるものなら、たとえ鬼でも比較的容易に呪いを掛けることができる。そのぶん、効果は浅いし、かの鬼がそう易々と呪いを掛けられるとも、呪いに屈するとも考えにくいですけれど」
「うにゃ、だって鬼ですよ鬼。妬まし姫に遅れを取るようなタマじゃないでしょ」
「だといいのですけど」
「そうですよぉ」
 しつこく擦り寄ろうとするお燐の額を制し、さとりは顎に親指を添えて思案する。考えても仕方がないとわかっていても、作戦とは常に最悪の事態を想定して作り上げる必要がある。いざという時の対処法を、いざという時に考えていては遅いのだ。
 ある程度の思索を巡らせると、さとりはお燐から手を離す。つんのめり、テーブルに激突して悶絶するお燐に苦笑いを浮かべて、そろそろ出ようとドアに向かう。
 その瞬間。

 

 ばごぉん。

 

 扉というものは、労せずとして部屋と部屋を行き来するための機能であるから、何の問題もなければ扉を開ければ目的の部屋には辿り着けるはずだ。泥棒なら窓から入るだろうし、解体業者なら入るまでもなく壁を木っ端微塵に粉砕するだろう。
 であれば、壁を蹴破って登場した彼女は解体業者なのか。
 答えは否である。何故なら、地底に解体業者など存在しないし、そもそも地霊殿を解体してくれと誰かに依頼した覚えはない。しようと考えたこともない。
 ならば、彼女は何故現れたのか。
 決まっている。答えなど初めから出ているのだ。
「たのもー!」
「順序が逆だから」
 無駄に威勢のよい鬼に向かって、さとりは冷淡な言葉を返す。
 額から突き出た一本角に特徴的な星の印、ざっくばらんに切り揃えられた金の髪は大江山から流れ落ちる雪崩のようで、足を使ったのは手が器で塞がっているからなんだなと推察できた。
 そんな彼女の名は、星熊勇儀という。
「うつほはいるかー! 霊烏路空ー!」
「静粛に」
「それは無理だ!」
 無理らしい。無理もない。
「あなた、この地霊殿に何の御用です」
 酒を得た鬼そのまんまの彼女を前にしても、なお毅然とした態度を保つさとりと対照的に、お燐はご主人様の陰に隠れて事の成り行きを見守っている。
 部屋に散らばった壁の残骸と土煙を振り払いながら、勇儀は鷹揚に返事をする。
「何だか急に、地獄烏の黒髪が綺麗で羨ましくなってねぇ」
「そうですか」
「妬ましいなぁ!」
 後ろ暗さが全く感じられないのが鬼らしい。
 ただ、本当に呪われているのかどうかは怪しい。
 瞳が緑色になっていなければ、酔っ払いが闖入していただけの話なのだが、勇儀もおくうと同じように立派な緑色に染め替えられているため、パルスィの毒牙に掛かったと見るべきだろう。
 時既に遅し。
「だから、ちょいと空を借りるよ」
「お断りします」
「いいじゃないか、髪くらいすぐに生える」
「やっぱり丸刈りにする気だー!?」
 お燐はびびる。何より、思考レベルがおくうと同列だったことに。
 確かにブッ殺すだの何だの言わないだけ平和かもしれないが、暴走状態に陥った者がふたりに増え、彼女たちがお互いに妬みをぶつけ合うとなれば、正面衝突の交通事故に等しい大惨事である。目も当てられない。他にもいろいろ。
「帰れ! おくうはやらん! あと角こわい! 先端恐怖症!」
 本音がちょいちょいまろび出るのも、やむを得ないところだろう。
「んぁ、うるさい猫だなぁ。食べるぞ」
「ぎゃー! 寄ってきたー!」
 お燐は必死に威嚇するも、あまり効果はなかった。
 勇儀の場合、混乱にプラスして生来の酔っ払い補正が掛かるから、余計に対処が難しい。じりじりとにじり寄る勇儀とお燐の間に、さとりは立ちはだかる。
「なるべく、事を荒立てたくはなかったのだけど」
「よし、そのためにも空を渡せ」
「壁を蹴破った張本人が何を言うのです」
「足が滑ったんだよ、よくあるだろ」
 無茶を言う。
「ねーよ!」
 火に油を注ぐお燐。腕をまくる勇儀。お燐は逃げる。
 さとりは、第三の目を手のひらで覆う。
「お引き取りを」
「やだね。力尽くなら、考えてもやってもいい」
「そうなりますか」
「ふふん。私を誰だと思ってるんだ」
 杯の中身は既に空っぽで、故に勇儀は赤い杯をテーブルに置く。臨戦態勢は整った。手加減をしてくれるかどうか、まさに酒乱真っ盛りの彼女に期待するのは愚かかもしれない。
 けれど、やるしかない。
 さとりは、悠然と構える勇儀に立ち向かい。
「――、――馬鹿!」
 咄嗟に、床から飛び退いた。

 

「――力尽く、なら?」

 

 絨毯が急速に膨張する。
 異様な熱量は留まるところを知らず、限界を覚えず、ついには床が耐え得る熱を軽々と突破し、ちょうど勇儀が立っている位置を木っ端微塵に爆砕してのけた。
「けほっ……!」
 耳をつんざく轟音が部屋に木霊し、さとりとお燐は土煙にまみれながら咳を繰り返す。
 直前に聞こえた声は、さとりの耳にだけ聞こえたものだ。第三の目が届く範囲を広げ、勇儀と、お燐と、部屋全体を賄う程度にまで拡張された能力は、部屋の真下にいた何者かの心の声を聞いたのだ。
 さとりは言った。可能性の問題である。
「やってくれたねぇ……」
 煙の中を掻き分けて、勇儀が嬉しそうに毒を吐く。全身にこびりついた屑を払いながら、ゆっくりと、ただし悠然と、地底の底から穴を抜けて登場した彼女に、勇儀は事実上の宣戦布告を叩き付ける。
 それは、この場にいる誰もが知る名前だった。
「霊烏路空!」
 腕組みをして、黒い翼を大きく広げ、おくうは勇儀の前に姿を現した。
「げぇっ、おくう!?」
「お燐、あなた、ちゃんと縛ったんじゃなかったの」
「やりましたよ! ちゃんと猿ぐつわまで噛ませたんですから!」
「それは余計」
 本格的に問い詰める必要があるなあとさとりは地上を見た。
 これに対し、おくうは相変わらず余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「うふふ、お燐は詰めが甘いんだよ。そんなの、鴉に戻っちゃえば何の意味もないもん」
「あ、その手があったか……! 畜生……!」
「ほら、二の舞」
「うぎゅ……」
 さとりに突っ込まれ、おくうに出し抜かれ、すっかり意気消沈するお燐。
 話の流れがいまいち読めない勇儀も、しまいには関係ねーやと言わんばかりにおくうに突撃していた。
「おおっと!」
 その突進を掻い潜り、天井を蹴って反転、再び床に降り立つ。翼を羽ばたかせることによって巻き起こされる風は、部屋を取り巻いていた土煙をいとも簡単に吹き飛ばす。
 視界が晴れ、戦場の空気が整えられる。
 緑眼の戦士が向かい合い、互いの牙を研いでほくそ笑んでいる最中、お燐はいるべき人物が既にいないことを察知する。
「あ、れ……さとり様は?」
 さとりがいない。
 いつの間に消えたのか、おそらく土煙が晴れる前に部屋を発ったのだろうが、それにしても気配が全く感じられなかった。心を読むということは、心の間隙を突くのと同じである。故に相手の心が隙を見せている状態にある時、つまりは油断している時に移動すれば、誰にも悟られることなく姿を消すことができる。
 察するに、一刻も早く元凶を討ちに向かったと考えるべきだろうが。
「……え、紙?」
 いつの間に書いたのか、計ったようにひらひらと落ちてくる一枚の紙切れ。
 お燐は、それを手に取って素早く目を通す。
 そして、それを思い切り放り投げた。
「さとり様のばかー!」
 手紙には一言、『がんばってください』と書かれていた。
 何の役にも立たない。お燐は頭を抱える。てっきり鬼の弱点やら対処法やらが書かれているのかと思ったが、よくよく考えればそんな余裕などどこにもなかった。
 こうなったら、もうがんばるしかないわけだ。
 げっそりする。
「安心して、お燐」
「無理です」
「あんな腕力馬鹿なんて、八咫烏様の力があればけちょんけちょんよ」
「出たよ、おくうの増長癖……」
 鼻息も荒く、おくうは勇儀と対峙する。
 こうなると、流石の勇儀も黙っちゃいない。
「ほう、火を噴くしか能のない火力馬鹿が、気炎を上げるのだけは一丁前だね」
「ふふん。褒めたって何も出ないんだから」
 見事に噛み合っていない。お燐は頭を抱えた。
「あぁもう……腕力馬鹿と火力馬鹿が揃っちゃったじゃん……」
「なんだい、死体馬鹿」
 ひどい言われようである。
 大体合っているので反論もできないのが非常に苦しい。
「じゃあ、やろうか」
 勇儀は肩を回し、手首につけた鎖を鳴らす。
「いつでもいいよ。あっという間に終わるから」
 右腕に装着した制御棒を振りかざし、おくうは仁王立ちのまま勇儀を迎え撃つ。
「あわわあわわ」
 お燐はあわあわしている。
 だが、急にぴたっと動きを止めると、自分の頬を両手で打ち、現状を打破するためにすべきことを見定める。やるしかない。こうなれば、もう後には退けないのだ。覚悟を決めろ、躊躇することは即ち破滅を意味する。
「……助太刀するよ。おくう」
「ありがと。でも、巻き添え食らわないように気をつけてね」
「それは自信ないかな」
 既に巻き添えを喰っているので、今更文句を言っても仕方あるまい。
 二対一となっても、勇儀はなお不遜に構える。その程度の増援など、ハンデにもならないというふうに胸を逸らして。
「なに、卑怯だとか言うつもりはないよ。丸刈りにするのがふたりに増えただけさ」
「うぅ、頭数に入ってるぅ……」
「刈るときに角が邪魔そうだよね」
 挑発も一通り完了し、勇儀は腕を、おくうは制御棒を、お燐は爪を、それぞれの武器を掲げる。
 始まりの合図は、爆風によって傾いていた赤い杯が、テーブルから床に落ちたその瞬間だった。
 ――からん。

 

 

 橋の上に佇む。
 支柱に背中を預けて、小さな流れの狭間にたゆたう水を覗き込む。見るからに冷たい地下水、影を落とし、闇に中に煌めく水面。美しく、鋭い。
 パルスィは、特に何の感慨も抱かず、ただ呆然と突っ立っている。
 そうすることに意味はなく、他に何か行動を起こしたところで、大した意味はないのだというふうに。
「……来たわね」
 来なくてもいいのに、と詰まらなさそうに舌を打つ。薄暗い天井を仰ぎ、その空洞の遥か先には、本当に明るい世界があるのだろうかと疑う。
 静かに、地面を踏む足音が近付いてくる。飛べば早いのに、わざともったいぶって歩いてくるあたり、闖入者の性格をよく表している。
「こんにちは」
 地霊殿の主、古明地さとりは丁重に挨拶する。
 パルスィは答えず、明後日の方向を睨みながら、ぼそりと呟く。
「何か御用?」
「ええ、あなたに」
 にこやかに、今のところは取り繕う様子もなしに、さとりは答える。
 さとりの能力は、パルスィも十分に理解している。今、こうして近くにいるだけでも、既に心を読まれている可能性が高い。ならば、今更白を切る必要もないわけだが、素直にあれこれと暴露するのは性に合わないのだ。
「うちのペットがお世話になったようで」
「度々、私の前を横切るのよね。もうちょっと落ち着くように言ってくれないかしら、暑苦しくてしょうがないわ。あのカラス」
「育ち盛りですから」
「どうだか」
 鼻で笑う。
 橋姫と、サトリがふたり。橋の上に佇んでいる限りは、騒々しくなりようがない面子である。橋姫が釘と藁人形と鉄鎚を持てば話は別だが、腕組みをした彼女がそれを取り出そうとする様子はない。
 ただ、静かに時が過ぎるのを待っている。
「時間稼ぎですか」
「……何の話?」
 とぼける。
 心が読まれている気持ち悪さはあれど、解呪の方法はパルスィにしか解らない。その方法が悟られたとしても、最後の一手にはパルスィが手を加えなければならないのだ。
「それにしても」
 パルスィから有益な回答が与えられなくても、さとりは気にも留めずに喋り続ける。心を読めるがゆえに、表層の言葉は役に立たない。ましてや、パルスィのような存在ならばなおのこと。
「うちの子はともかく、よくあの鬼から媒体を採取できましたね」
 感心したふうにさとりが言うので、パルスィは己の眉間を爪の先で引っ掻いた。
「……簡単なことよ。旧都で、よく呑んだくれて暴れてるっていう話を聞くから。ほとぼりが冷めたあと、現場に行って、それっぽい髪の毛を拾ってくればいいだけだもの」
「それもそうね」
 あっさり納得する。
 そんなこと、心を読んで解っているはずなのに。わざわざパルスィに喋らせるのは、沈黙を恐れているせいだろうか。親しくない者が側にいる時、人は知らずと沈黙を恐れて話題を求める。気まずいと感じる。
 だが、さとりの性格からして、この沈黙に過度の恐怖を抱いているとも考えにくい。橋姫ほどではないにしろ、サトリもまた心の闇に棲み、それを好んで喰らう魔物なのだ。
「失礼なことを」
「お互いさまよ。他人の領域を勝手に犯しておいて、罰が下らないだけありがたいと思いなさい」
「……ふふ。人の子が罰を下すなど、閻魔が聞いたら笑われるわね」
 心底可笑しそうに、さとりは人差し指を下唇に当てる。
 パルスィは、しばらく開けていて乾きかけていた瞳を閉じる。
 ふたりの間には温度差がある。一見、どちらも冷たく構えているように思えるが、冷え切っているのはパルスィの方だ。さとりが笑う時、彼女の体温はわずかに上がる。一方、笑みも怒りもないパルスィの温度は、地を這う蜘蛛のように際立って低い。
「私はもう、人であって人ではない。わかっているはずでしょう」
「それでもまだ、あなたは人のかたちをしているのでしょう?」
 どこか、パルスィを試すような口振りで、小気味よい節回しをする。
 心が泡立つ。それを知ってか、さとりは含みのある笑みを浮かべている。視線を合わすまいと思っていても、相手がどんな顔をしているのか気になって、ついにパルスィは真正面からさとりの姿を視界に収めた。
 かあん、と一際高い足音が、橋の上に響き渡る。
「……嫉妬は人より生まれ人に還るものよ。その化身が人のかたちを成さずして、何のための橋姫だというの」
「考えすぎではなくて? 別に、妬まなくても生きていけるでしょうに」
「水から生まれたものが水を欲するように、嫉妬から生まれたものは、嫉妬なくして生きてはいけない。……いい加減、無知を装うのはやめることね。虫唾が走るわ」
「あら。それは失礼しました」
 冗談めかして会釈をするさとり。パルスィは、音も隠さずに舌を打つ。
「それがイラつくって言ってんのよ。用がないなら帰れ。用があるなら、さっさとそれを済ませればいい。戦うなり、脅すなり、何なら私の腕でも切り落として解呪すればいいじゃない。やり方ならもうわかってるわよね? 心が読めるんだから、そんなのは造作もないことでしょう」
 半ば、自虐の意味を付け加えて、パルスィは自分の腕を掴む。
 声を張り上げたせいで、体がほのかに熱を帯びている。息が荒くなるほどではないにしろ、挑発にまんまと引っ掛かってしまった感は否めない。歯噛みする。平静を失えば失うほど、相手の思う壺だ。パルスィの思考が短絡的になれば、心を読めるさとりは優位に立つ。
 掴んだ己の手首は細く、軽く捻れば千切れてしまいそう。いっそ、引き千切ってしまえば楽になるかもしれないと、意味もなく自分を傷付けてみる。どうせ、こんな手のひらがあったところで、何の役にも立たないのだし。
「そんなことはないですよ」
 下らない慰めだ。が、相手の心情すら理解しようとしないで、私の痛みも知らないくせにと勝手に拗ねて塞ぎ込む心根こそ、真に下卑た考えだろうと心の片隅が叫ぶ。
「私は」
 さとりは言う。
 その表情から、彼女が何を考えているか読み取るのは難しい。
 不公平だとも、卑怯だとも思う。が、仕方のないことではあった。
「パルスィの髪の毛も、綺麗だと思うけれど」
 すぅ、と血の気が引くのがわかる。
 さとりの緩んだ表情と対照的に、硬直した石像のように凝り固まったパルスィの相貌は、パルスィに加わった衝撃が如何に多かったのかを示している。
 予想外だった。まさか、この期に及んで歯の浮くような世辞を言われるとも、恥ずかしげもなく名前を呼び捨てられるとも思っていなかった。
 呆然と立ち尽くすパルスィの側に、さとりは悠然と歩み寄る。
 かつん、こつん、と橋を鳴らす足音で我に帰ったパルスィは、そうすることが当然であるかのように、金の髪の毛に触れようとしているさとりの手を、容赦なく払いのけた。
 ぱしん、と、頬を打ったような高い音が鳴る。
 さとりは、驚きに目を見開いている。
「触るな」
 手の腹に、浅い痛みを覚える。おそらく、さとりも同じ箇所に痛みを感じているだろう。触れ合いを拒まれ、声を荒げることはないけれど、緑の瞳は明確に拒絶の色を浮かべている。怒り、嫉み、嘆き、痛み、混ぜこぜになった心の混沌は、汲み取ることは出来ても解読には至らない。
 悲しんでいることは理解できても、その悲しみの重量、温度、感触を知ることは叶わないのだ。どうあっても。
 それが、サトリの限界である。
「そうやって、何もかもわかったような顔をされるのが、いちばん嫌いなんだよ。勝手に心を覗いたから、そいつの全部を知ったような気になって、他人の領域に土足で踏み込んで。……何様のつもりなんだ、あんた」
 吐き捨てるような問いかけに、さとりは、手を伸ばせば届く距離に立ったまま、薄く瞳を閉ざして、言う。
「古明地さとり。妖怪です」
「馬鹿にしてんのか」
 パルスィは苛立ちを隠そうともしない。相手の思惑に嵌まっていると知りながら、己の根源を嬲られる感触を無視することは出来なかった。
 さとりは続ける。
 どんなにパルスィが激昂していようとお構いなしに、平静を保ったまま己の役割を遂行する。
「解呪の方法が解っても、あなたの協力を得られなければ意味はない。無論、手首を切り落とすなどといった強引なやり口は、私の好むところではありません。所詮、ちっぽけな悪戯ですものね」
「……どうだか。鬼と、神の力を得たとかいう鴉が激突すれば、只事じゃ済まないのは目に見えてるじゃない。ほら、私の手首は空いてるわよ?」
 力の抜けた手首を揺らし、自嘲気味に笑いながらさとりを煽る。さとりは小さく首を振り、第三の目に手のひらをかざす。
「もしあなたの手首を切り落とせば、あなたに地霊殿の改修を手伝ってもらえなくなりますから」
「それは、何とも現金なことで」
「皆が思うより、私は即物的なのですよ。だから、なるべく全壊しないうちに解決しておきたい。けれど、事を急ぎすぎるのも良くない」
「……面倒くさいわね。何が言いたいのよ」
 知らずと、頭に昇っていた血が、放っておいても問題のない基準にまで下がっていた。不思議なものだ、ついさっきまで、叶うなら縊り殺してやりたいと思っていたのに。相手が落ち着き払っているのに、自分だけ怒り狂っていることの滑稽さも少しはあったのだろうが。
 さとりは言う。
「なるべくなら、パルスィと仲よくなりたいと思っています」
 また、突拍子もないことを口にする。
 パルスィは、額を押さえて、深々と嘆息した。
「……それ、本気で言ってる?」
「ええ」
 何か可笑しいですか、とでも言いたげに、さとりは平然と構えている。
 パルスィにすれば、今までのやり取りで全く問題がないと思っている方がどうかしている。
「あんた、もう帰った方がいいわ。お話にならない」
「それは困ります」
「私も他人のこと言えた義理じゃないけど、あんたのやり方が友達を作ろうっていうのと正反対を行ってることくらいはわかるわよ。そんなんじゃ、猫は懐いても人を手懐けるのは絶対に無理ね。断言するわ。あんたに友達を作る才能はない」
 きっぱりと言い捨てられ、さとりの顔色もようやく変わる。
「……そこまで言われると、流石に心中穏やかならざるものが」
「ふん、さんざん他人の神経逆撫でしておいて、自分がちょっと傷付いたら鬼の首でも獲ったみたいに愚図るのね。いい性格してるわ」
 さとりの表情がうっすらと曇る。今まで、ずっと何事もなかったかのように佇んでいたものだから、ちょっとした変化で彼女の心境が大きく変わったように見える。
 それが爽快で、ふっ、と、初めて頬が緩む。
「――――、ぁ」
 これは、後ろ暗い意味から生まれた笑みで、純粋な喜びや嬉しさから発生したものではない。けれども、さとりと話していて、まさか笑う瞬間が訪れようとは。
 そういえば、こんなにたくさん喋ったのは久しぶりかもしれない。
 時折、土蜘蛛やら地獄鴉やら鬼やらと話をすることはあるけれど、こうして剥き出しの感情をぶつけ合うことはなかった。通りすがりのやり取りばかりで、うわべをなぞるような浅い付き合いを望んだ。相手もまた、パルスィの種族と性格を汲んで、深く踏み込んでくることはなかった。所詮は何事も暇潰しだと生まれる前から悟っているような連中だ、ならば、余計なことをして溝を深めるのもよろしくない。地底の連中なら、普通はそう考える。
 なのに。
「……あんた」
 気が付けば、さとりは普段通りの読みづらい笑みをたたえていた。
 他人の心は悟れるくせに、自分の心は悟らせない。立ち振る舞いは常に上から見下ろしているようで、それが気に入らなかった。
「なんでしょう」
 心をざわつかせるのが故意だとしたら、さとりに対して何らかの感情を揺り動かすこと自体避けなければならない。仲良くなりたいかどうだか知らないが、これ以上、相手の網に絡め取られるのも癪だ。そもそも、こちらは仲良くなりたいわけでもなし。
「こんなことして、楽しいの?」
「難しい質問ですね」
「難しくないでしょ、別に。あんたが嫌われ者だっていうのは初めからわかってるけど、嫌われるの前提で私と喋るのなんて割に合わないでしょう。それで得るものがあればいいけど、私は情にほだされて呪いを解いてあげますみたいなタイプじゃないし」
「違うの?」
「違うわよ。橋姫に何期待してんのよ」
「でも」
「それ以上、余計なことを言うな」
 心の底に沈んだ記憶は、闇雲に引きずり上げられるべきではない。パルスィに睨まれていることを知りながら、さとりは話を続ける。パルスィが舌を打っても鼻を鳴らしても嘆息しても、一向に聞き入れる気配はない。
 乱雑に頭を掻く。綺麗と言われた髪の毛を乱せば乱すほど、さとりの言葉が嘘になるような気がして、少しだけ心が晴れた。
「どうしても、というのですか」
「そうね。そういう意味じゃ、弾幕は平和的な解決方法よね。楽だし。でも、私とお友達になりたいっていうあなたなら、もっと別のやり方を見つけられるはずよね? これ以上、私の奥に眠っているものを引きずり出して形にしようってんなら――近いうちに、大切なものを失うことになる」
 声が途切れ、緑の瞳に暗い炎が灯る。
 ふたりともに声を失えば、耳に届くのは水が岩を滑る寂しい流れだけである。遠く、聞こうとすれば鬼と地獄鴉のはしゃぐ喧騒も感じられるかもしれないが、意識するだけ時間の無駄だ。今此処にいるのは、たったふたりのさもしい妖怪たちなのだから。
 戦う覚悟を整えているパルスィに、もはや掛ける言葉もないと悟ってか、さとりは小さく息を吐いた。溜息の類でなく、張り詰めていた緊張が抜けたゆえの換気の意味合いが強い吐息だった。
「……なるべくなら、使いたくはなかったのですけど」
「へえ、奥の手?」
「そんなところです」
 いえ、本当に使いたくはなかったのですが、と念押しして、さとりは第三の目を指で弾く。弦楽器でも爪弾くような気軽さで、適当な旋律を何秒か奏でておいて、それきり特別なことはしない。
 終わりましたというふうに、さとりは手を前で組んで待機する。その動きに不審なものを覚えながら、みずからの戦闘態勢は崩さない。心理戦に有効なのは、口を噤み、耳を塞ぎ、何も反応しないことである。驚きもせず、笑いもせず、泣きもしない。そうすれば、ずっと穏やかなままで過ごすことが出来る。ありのままの自分でいられる。
 ふざけた話だ。
 そんな生き方、面白いわけがない。
「ごめんなさいね」
 さとりから、唐突に謝罪の言葉が述べられる。
 何故、この状況で、さとりが謝る必要があるのか。謝るなら、もっと早くすべきであったし、謝る気があるのなら、下手にパルスィを刺激する必要もなかったはずだ。
 さとりは、おもむろに手のひらをかざし、初めてそれとわかる嗜虐の笑みを浮かべた。
「あなたに罪はないけれど。――すこしだけ、後悔してもらいます」
 わずかに、背が凍る。
 怯まず、平静を装って相手の出方を待つ。さとりの戦闘能力は、鬼や地獄鴉と比較しても決して高くはない。心を読み、弁が立つことから、心理戦においては一日の長があるが、それもパルスィのように落ち着いて構えれば何の問題もない。
 一秒、二秒、十秒、一分、時間はただ刻々と過ぎる。
 静寂が洞窟を支配している。水の音は、どれほど聞き慣れていてもやはり心地よく響く。一瞬のみ感じたさとりの恐怖は、時が経つにつれ、次第に引き伸ばされて薄れていった。自然と、毒を吐く余裕も生まれる。
「……ふん。何でもいいから、早くしてもらいたいわね。ただ待つのも疲れるのよ、それとも、消耗戦に持ち込む気かしら。消費エネルギーが少なそうだものね、どこぞのカラスと違って、生きてるかどうかもわからないくらい」
 さとりは何も語らない。
 既にやるべきことを成したというふうに、パルスィに手のひらをかざしたまま、微動だにしない。彫像にも似て、神秘的とも評し得る立ち姿に、若干の嫉妬を抱く。さとりは自分に自信を持っている、だから、ただ佇んでいるだけでもちゃんと絵になる。
 嫉妬は橋姫の養分だ。感じれば感じるほど、唇は次々と新しい毒を生む。
「もしかしたら、私の気が変わるのを待ってるのかもしれないけど。残念ながら、期待するだけ無駄よ。はじめから譲歩する気なんてないもの。……言ったわよね、心のうちが見えるからって、何もかもわかったような気でいられるのは迷惑なのよ。そう簡単に、うわべだけをなぞったからって、理解なんか、されてたまるか」
 腹の底から滲み出た声は、毒の重みで地面に落ちる。
 なおも、動く気配のないさとりに向けて、もう一度。
「……あんた、いいかげんに」

 

 

 ぺろん。

 

 

「し――ッ!?」
 ぞくぞくッ、と、背骨に過冷却水を流し込まれたような、不可思議な接触。肌を撫で、唾をつけられる感触。
 一瞬、一秒にも満たない一瞬のことだ。常に気を張り続けていた。さとりを正面に見据え、橋の全域、縦穴の上下を含めた広域にまで神経を張り巡らせていたのだ。
 なのに。
「しょっぱ」
 いる。
 パルスィの肩に手を置き、身を乗り出し、彼女の頬に舌を這わせた張本人が、冗談めかして舌先を泳がせている。
 半狂乱になって、その人物を振りほどこうと身をよじった時にはもう、その姿はどこにもなかった。一歩遅れて、頭に血が昇る。動悸が加速し、呼吸が荒くなる。平常心も何もあったもんじゃない。いきなり、あの状況から頬を舐められて、平然としていられる者がどこにいる。
「こんの……!」
 パルスィは、なりふり構わずさとりに弾を放つ。ろくに照準も定めないまま撃ったから、当然それは明後日の方向に飛んでいく。さとりは、他人事のように弾の行き過ぎる方角を眺め、動揺も甚だしいパルスィを一瞥する。
「どうかしましたか」
「ど……どうかしましたかじゃないわよ! あ、あんた、ひとを何だと思って……ああ、もう! 何なのよこれー!」
 湿り気の残る頬を拭い、次なる襲撃を警戒して周囲を見渡す。
 だが、きっと次の攻撃も避けられないだろうという思いはあった。
 いっそ、目の届く範囲全てに弾を配置すればと、緑色の弾丸をあらん限りの力をもって吐き出してみる。
 とはいえ。
「いいこ、いいこ」
 絡め取られる。
 放出したはずの弾は、一個たりとも彼女を捉えられない。
 背後を取られ、さとりにさえ許さなかった髪の毛を触られ、撫でられ、くしゃくしゃにされた。あたかも、親が子に施す仕草で、大人の力強さと子どもの無力さが垣間見えるような。
 だから、カッとなった。
「消えろ!」
 振り向きざま、剥き出しにした爪を相手の喉に突き立てようとする。
 既にその姿は掻き消え、今際の際の一撃が無残に散ろうとも、己の領域を侵す者を許す気にはなれなかった。強張った腕を下ろし、すっかり汗だくになった体を引きずり、さとりの方へ歩き始める。
 疲れ切った様子のパルスィを、さとりは手を前に組んだまま、平然と出迎える。
「……忘れてた。あなた、妹がいたのよね」
「今もいますよ」
 古明地こいし。
 無意識を操り、誰にも気付かれずに行動することができる。
 今にして思えば、第三の目を弾く行為は、彼女を呼ぶ儀式の一環だったのかもしれない。あるいは、パルスィが気付いていなかっただけで、初めからこいしはこの戦場にいたのかもしれない。
 いずれにせよ、後の祭りであることに違いはなかった。
 後悔してもその引き金は、とっくの昔に引かれてしまった。
「忘れてた。ほんとに忘れてた。……ちくしょう……何だってのよ、もしかして、これからずっとあんな拷問が続くわけ?」
「ええ、そうですよ」
 即答された。笑顔で。
「冗談――」
 ぺろん。
「ひゃあぁッ!?」
 今度は逆の頬を舐められた。
 ものすごく情けない悲鳴が漏れ、羞恥に顔が歪む。もう泣きたい。
「れろれろ」
「やあぁ! やだ、何なのよ! もう、くっつかないでよ、離れてってば! ちょっと、あんたこいつの保護者なんでしょ! ちゃんと躾しときないよ、犬じゃないん、ひゃう!」
「はむはむ」
 頬を舐めたり、耳を食んだり息を吹きかけたり、徹底的にパルスィを攻め立てる。
 それ自体は決して死に至らない散発的な攻撃だが、回復しかけたと同時に襲撃を受けるため、与える絶望が桁違いである。まして、触れられることに慣れていない身ともなれば。
「はぁ、はぁ……」
 おおよそ十回もすれば、足腰が立たなくなるのは目に見えていた。
 それでもなお、倒れずに堪えているのは、橋姫を冠する者の矜持であろうか。
 こいしを背中に背負った状態で、威厳も何もあったもんじゃないが。
「……あなた」
 パルスィは、鉛と化した足を引きずって、満足げなさとりに言う。
「ん、なに」
「……あんたじゃないし。それから、降りろ。重い」
「んー、でも、居心地いいんだよね。髪の毛もふわふわしてるし」
「触るな」
 言っても聞きゃしないことはわかっているが、言わなければ完全に負け犬に堕す。それは避けたい。今も大した変わらない身の上だということは考えないでおく。
 そして、疲れ切って何もかもに嫌気が差した表情で、パルスィは呟く。
「……ギブアップ」
 敗北宣言である。
 これに対し、さとりはこくりと頷く。
「もう一度、はっきりとお願いします」
 地獄だ。
 だが、その認識はおおむね正しい。腹を括る。
「……わかったわよ。わたしの負けよ。もう二度とこんなことしないわよ。だからいい加減こいつ離してよ。気が気じゃないのよ。気が狂いそうなの、誰かにずっと触られてるのが気になって気になってしょうがないの、だからもうくっつかないでって命令してよ!」
 半狂乱になって叫ぶパルスィに、さとりは穏やかな言葉を返す。
 何故そんなに落ち着いていられるのか、勝者の優雅さに妬ましさと腹立たしさを覚えながら、パルスィは何とか自力でこいしを振りほどこうとする。が、やはり無駄だった。
「何なのこいつ……」
「こいしです」
「わかってるわよ……」
 毒を吐く余裕が戻って来たところで、さとりが第三の目を弾く。
 それがひとつの合図となり、こいしがパルスィの頭に手を付いて身を乗り出す。何とか頭から手をどかそうとするパルスィだが、意外に腕力のあるこいしを無理やり退けることはついぞ出来なかった。
「離してあげなさい、こいし」
 相変わらずの静かな声に、こいしは本当に話を聞いていたのか怪しい返事を返す。
「お姉ちゃん、この子ペットにしていい?」
「……ん、どうかしらね」
「悩むな」
「その件は、ひとまず保留しましょう。とりあえず、お疲れさま」
「はーい」
 残念そうに返事をして、こいしは何の前動作もなしにパルスィの背中から掻き消える。
 一体、どういう仕組みなのか判然としないが、体が楽になったのは助かった。ずっと他人に触れられていたせいで、体が自分のものでない錯覚を抱く。あちこちにこいしの感触が残り、他所の体温が自分の温度と掛け合わさって不自然に暑い。
 汗を拭うために腕を上げる体力もなく、さとりに何か捨て台詞を吐きつける気力もない。ただ、疲れた。他人と関わることを拒み続けてきた弊害が、此処に来てパルスィ自身を深く切り裂いた。
 だが、その地獄もようやく終わる。
「……はぁ。やっと、終わった――」
 と、疲弊の極地にある体を歩かせようとして、ふと膝から崩れ落ちる。
 油断した。
 何もかもが終わったと思った瞬間、体が重力に負けて地面に引かれる。
 さとりに負けたのは確かだが、最後の最後に自分の肉体にも屈するとは。情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうになる。けれど、結局は口ばかりで、涙など出ようはずがない。
 畜生、と誰に言うでもない罵倒を零し、パルスィは受け身も取れずに倒れ込んだ。

 

「あなたも、お疲れさま」

 

 無機質な地面ではなく、待ち構えていたさとりの腕の中に。
 ふわり、と温かい腕の中に包み込まれ、一瞬、息ができなくなる。だが、さとりの腕から逃れるだけの体力はないから、苦しい苦しいと必死にもがくばかりである。
「あら、ごめんなさい」
 パルスィの体を転がして、背中から抱え込む形にする。これなら、息が詰まるということもない。視界も晴れやかで、時折、さとりが髪の毛を撫で、耳に息を吹きかけることさえ我慢すれば、体を休めるには十分な体勢だった。
 ……あたたかい。
 まず、呼吸を整え、落ち着きを取り戻す。
 今、パルスィの心を埋めているのは、抱きかかえられていることの違和感や羞恥心、弱い部分を曝け出してしまったことに対する恐怖、そんな自分を受け入れることのできるさとりへの、羨望と嫉妬。
 また、さとりがパルスィの髪を手櫛で梳く。やめろ、と身をよじっても、妹同様、全く聞き入れる様子がない。
 うんざりする。
「眠ってもいいのよ」
 誰が、と吐き捨てたかったけれど、状況が悪すぎる。疲れ切った体に、人肌の温もりは一撃必殺の凶器に等しい。眠気が雪崩となってパルスィの意識を押し流し、憂いも嘆きも好きも嫌いも何もかも、初めから何もなかったかのように消し去ってしまいそう。
 だから、流されるまま、眠りに就いてしまうのは嫌だった。
「……あなた」
 お腹に力を入れて、喉を震わせ、せめてもの呪詛を彼女に与える。
 さとりは、嬉しそうに子守唄など口ずさんでいる。妬ましい。
「本当、嫌な性格してるわ」
 掠れて、声にならないような台詞でも、さとりはちゃんと聞きとがめてくれる。
 そうして、まるで母親が娘にするような優しげな笑みで、パルスィの髪の毛と、頬を手のひらで覆った。
「ええ、よく言われます」
 それきり、パルスィも、さとりの声も聞こえなくなり、渡る者の絶えた橋には、橋の下を往く清流の音色だけが響いていた。
 耳を澄ませば、心地よい寝息さえも聞こえるような。
 それくらい、静謐な時間が続いていた。

 

 

 

 

 後日、地霊殿跡地。
 何故、地霊殿が跡地になっているのか。
 原因は諸々挙げられるが、物理的な要素を挙げるなら、せっせと材木を運んでいる妖怪たちがそうであるといえる。
「うぅ……あたいは巻き込まれただけなのに……」
「わはは、文句は終わってからにしな。酒でも奢ってやるから」
「そこー! 口じゃなくて手を動かせー!」
 おくうは叫び、お燐は嘆き、勇儀は笑っている。
 悲喜こもごもな妖怪たちを眺め、さとりは改修まであと何年かかるのかしらと概算してみた。
 跡地といっても、破壊されたのは勇儀が蹴飛ばした壁と、おくうが吹き飛ばした床くらいなものなのだが、他にもいろいろとガタが来ているところを、ふたりが暴れまわったせいでトドメを刺された形となり、都合がいいのでこれを期に地霊殿の改修工事をやってしまおうという腹なのである。
 今は、事件と関係のない面子も手伝って、安全第一の説得力に欠けるヘルメットをかぶりながら、いつ終わるとも知れない作業に勤しんでいる。
「……あんたって、ほんといい性格してるわよね」
「よく言われるわ」
 さとりの隣には、まだ若干の疲れが残るパルスィが立っている。こちらは、事件の主犯であるにもかかわらず、工事の手伝いをしている様子は見当たらない。
 何故か。
「ね、首輪なんかこれでいいかな」
「そうね。鎖がちょっと物々しいけど、そのうち慣れるでしょう」
「慣れるか」
 喜び勇んで、パルスィの首に鎖付き首輪を着けようとするこいしを、パルスィは己の全存在を賭けて拒絶した。
 敗者は、勝者の言い分を聞かなければならない。
 その拘束力こそ永遠ではないけれど、たとえば、妹の遊び相手になってほしいとか、ペットになってほしいとか、その程度のお願いならば容易に叶えられるだけの力はあった。
 地獄である。
 それでいて、皮肉にもならないのが最悪に拍車を掛けている。
「お、似合う似合う」
「外せ」
 結局、どんなに抵抗しても思うがままにはならないのだった。自業自得とはいえ、涙が出そうになる。泣かないが。
 木材を運び終え、ノコギリを手に腕まくりをする勇儀の瞳は、既に元の色に戻っている。おくうも同じく、元通りの鴉の濡れ羽色を取り戻し、物凄い勢いで角材を切り分ける鬼の手腕に感嘆の声をあげている。手伝いはしない。
 すげーすげーと感心するおくうの頭を、ひとりせっせと作業を続けるお燐が殴り、意外に固いヘルメットにみぎゃーと絶叫する。
 総じて、うるさいことこの上ない。
「……全く、騒がしいわね。ここは」
「落ち着かないかしら」
「そうね。あんまり、喧しいのは好きじゃないわ。ぐぇ」
 こいしが鎖を引っ張ったせいで、首輪がずれて喉が絞まった。
 息苦しいことこの上ない。
「こいし、楽しいなのはわかるけど、嫌がっているから」
「そう? なんとなく、苦しいのが好きそうに見えたから」
「そんなわけあるか。んぎょ」
「こら、やめなさい」
 もはや完全にペット扱いである。
 最終的に、ちぇーと唇を尖らせながらも、こいしはパルスィから首輪を外した。
 尊厳を揺さぶられてもなお、パルスィは強く在り続けることを心に誓い、まず首輪を叩き割ろうと思ったが、頑丈すぎて傷のひとつも付かなかった。素材が意味不明である。
 体を抱き、風が冷たいわけではないけれど、自分の居場所というものに言いようのない不安を抱く。賑やかで、騒々しくて、傍目からすればただ突っ立っているだけのパルスィでも地霊殿の一員であるかのように見えるかもしれない。
 だが、そうではないのだ。
 果たして、自分はここに居続けるべきかどうか。ペットうんぬんは別にして、地霊殿に居ればそのうち自分が自分ではなくなってしまうような、そんな気がしていた。
「もう、帰るわ」
 だから、耐え切れなくなって、そう口にした。
「そう。気を付けて」
 意外にも、さとりは引き止めなかった。
 こいしは突っ返された首輪を持ったまま、去っていくパルスィの背中を見守っている。
 工事中の面々とすれ違い、勇儀からは「お早いお帰りだね」と素とも皮肉とも取れない声が掛けられる。お燐とおくうは、いつものように仲良く喧嘩をしている。パルスィと目が合うと、「おまえも働けー!」と絶叫した。ごもっともである。
 何を言われようが、決して振り向かない。
 そして誰も、真剣に彼女を引き止めようとしない。
「……は」
 鼻で笑う。
 引き止められたかったわけではない。追いかけられ、縋りつかれたかったわけでもない。あなたが必要だと、ここにいてくれと、言われたかったのでもない。
 ――ただ。
 余分な感傷を振り払うように、地面から飛び立とうとして。
「パルスィ」
 いつの間にか、目の前にこいしが立っていた。
 その手に、鎖の付いた首輪が握られている。
 俯いて、地面を向いていた顔が、ようやく上向く。
 さよならと言って、さっと別れたらよかった。これ以上、眩しいものを見続けていたくなかった。手の届かないものを、叶わない願いを抱き続けるのは、もう疲れた。
 でも。
「はい。プレゼント」
 首輪が差し出される。
 受け取るべきか否か、真意を計っているうちに、首輪は手の中に押し付けられる。
 続けて、こいしは姉が浮かべるような満面の笑みで、告げる。
「またいつでもいらっしゃい、だって。お姉ちゃんと、それと、私もね」
 そう、残酷な言葉を告げて。
 それきり、こいしは姿を消した。
「……あ」
 振り返っても、その姿はない。探しても無駄と知っても、いつまでも、その姿を探す。未練がましくて、泣きたくなる。
 手の中に、まだ温もりの残る首輪がある。首はまだ、首輪をつけられた時の痛みが残っている。加減を知らない娘だ、首輪の締め方をきちんと教えなければ、いつか自分のペットを絞め殺すことになる。
 パルスィは、首輪を強く握り締める。
 振り返っても、もうその形すら窺えない地霊殿を、深く瞳に焼き付けるように。
「……さよなら」
 今は、この言葉だけでいい。
 他に言葉が必要になれば、そのときにまた語ればいい。
 図らずも、地霊殿との架け橋を担ってしまった首輪を片手に、パルスィは地面を蹴る。

 

 そして、彼女は渡る者の絶えた橋に帰る。
 待つ者のいない橋の上に。
 静かで、穏やかで、誰にも邪魔されない、ただひとりの空間へと。

 

 

 

 



SS
Index

2009年6月15日  藤村流
東方project二次創作小説





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