ガーゴイル・シンドローム

 

 

 

 雨樋から石の上に落ちる雨音が嫌いで、雨の夜は決まって師の布団に入りこもうとした。結局、厳格な師が私の甘えを許すことはほとんど無く、私は泣く泣く自分の部屋に戻り、頭のてっぺんまで布団を被って無理やり眠りに就こうとしていた。
 ぽたり、ぽたりと音がした。
 等間隔に、かと思えば不意に乱れ、音の大小も不安定に、石を突く雨音は夜ごと私を苛んだ。
 が、ある日を境に、石を叩く雨の音が聞こえなくなった。
 疑問に思った私が師に尋ねても、師は何も答えなかった。特に、師が私のために何か策を施してくれたわけでもないらしい。
 折を見て、私は件の石を確かめてみた。
 じぃ、と雨樋の真下にある平たい石を見つめること、数秒。
 疑問の答えは、その時すぐに出たわけでもなかったのだが。

 

 竹刀を振る。上から下へ。下から上へ。単純な繰り返しだ。
 振り下ろすときに前へ。今度は、振り下ろすときに後ろへ。一進一退。足の裏が擦れて、少しばかり熱い。袴の下はうっすらと汗を掻き、手拭いを差し出されたらお礼もそこそこに体を拭いてしまいそうだ。
 でも、この熱と、足の裏のむず痒さにも慣れた。
「ふッ……、ふッ……」
 一定に吐き出される呼気。乱れることのない呼吸を聞いていると、自分のものでも心地がよい。昔から、生真面目と揶揄されて馬鹿にされるくらいには真面目で、何事もはっきりわかっていなければ気が済まない性分で、おそらく適度には神経質だった。
 朝から降り続いている雨は、建物の屋根を闇雲に叩き、雑然とした音を奏でている。大小さまざまの雨粒は、それこそ一定でないけれど、あまり数が多いから私の耳も気にならない。これが、たった一滴の大きな粒になると話が変わってくるのだけれど。
 ちょうど、あの日まで続いた一滴のような。
「……ふッ」
 百回。
 日課の素振りを終え、竹刀の切っ先を床に落とす。
 その音に重ねるようにして、道場の引き戸が開いた。
「おはよう。妖夢」
 聞き慣れた声のはずなのに、その澄んだ声は雨音の中でもよく通った。
「幽々子様」
 主の名を呟き、次いで「おはようございます」と頭を下げる。挨拶が遅れたせいか、幽々子様は含んだ笑みを浮かべていた。嫌な予感がする。
「なぁに、雨を斬る練習?」
「日課ですよ。これをやらないと、一日が始まった気がしないんです」
 竹刀の先端を覆っている白い革も、いい加減に黒ずんで剥げかけている。きっと、素振りが終わった際、多少乱暴に切っ先を床に落としているから、なのだろうと思う。些細な衝撃でも、何度も何度も繰り返すことで頑丈な革をも擦り減らせる。
「それに。雨を斬れるようになるには、三十年かかるといいます」
「それは、貴女にとって長いこと? それとも短い?」
「あまり、斬ろうと思ったことがありませんから……」
 答えになっていない答えに、幽々子様は「ふうん」と呟いて私に背を向けた。普段の服装が寝巻みたいな方だから、起きてすぐなのかしばらく経つのか判然としない。もっとも、幽々子様はいつも寝起きのような語り口をする方なのだけれど。
 道場から母屋に続く廊下から、幽々子様は雨の白玉楼を眺めていた。
「おなかがすいたわ」
「わかりました」
 手拭いは差し伸べられなかった。別段、期待をしていたわけではないが。
 額に掻いた薄い汗を手のひらで拭い、露を払うように竹刀を振るった。
 一日が始まる。

 

 とはいえ、雨が降っていれば庭師に出来ることは限られている。
 すなわち、白玉楼全般の家事であり、幽々子様の遊び相手であり、剣術指南である。ちなみにこれは、私が自信をもってこなせる仕事の順に並んでいる。もとより、剣を持って何かをする立場の方ではないし、そもそも剣が似合わないのだ。幽々子様は。
 廊下の水拭きも一通り終わり、白玉楼の外周に沿った廊下を歩く。春にはここら一帯が桜の海に溺れる。ここらに上れるものは酒に溺れる。私は最後に後片付けで桜の花弁と食器の海に溺れる運命にあるのだ。報われない。
 何とはなしに欝な面持ちで歩いていると、昔、幼い私に宛がわれていた部屋の前に差しかかった。今は確か物置になっているはずだが、何があるかはわからない。開けてみる暇はあるが、その勇気はない。
 雨は降り続いているが、石を叩く雨の音はもう聞こえない。
 答えは、今もなお軒の片隅に転がっている、名も無き石が知っている。
「……単純なこと」
 繰り返し、繰り返し。
 何度も、何度も、それこそ毎朝百回の素振りなど比較にならないほど雨粒を叩きつけ、その小さな衝撃は、平たい石に細く小さな穴を穿った。
 日々、月々、年々その穴は深く大きくなっていき、しまいには、石を貫いて土を掘るに至った。だから、雨音が石を叩く音は聞こえなくなった。今はきっと、必死に土を掘り続けているのだろう。
 馬鹿の一念、岩をも通す。
 成る程、理に適った話だ。
「お師匠様」
 師は黙して語らなかったが、師が安易に答えを言わなかったのも、この陥没した石から何かを汲み取ってほしいと願っていたからではないか。武骨で、口下手な師だからこそ、言葉に頼ることはせず、実践においてのみ真理を解こうとする。
 だが私は幼く、昔の私は今よりもっと幼かった。
 誰かから答えを告げられなければ、考えても考えても到達できない苦悩に悶え、途方に暮れていた幼い子どもだったのだ。
 昔の私なら、きっと雨を斬ろうとしていた。
 石でも、雨樋でもなく、全ての元凶である雨を斬って、雨音そのものを消してやろう、と。
「思っただろうなあ……」
 あまり、昔のことは覚えていないが。
 ぺたぺたと、可愛げのない足音を響かせながら、私は穴空き石の横を通り過ぎた。

 

 昼食を終え、することも無くなれば、幽々子様に呼び止められて話し相手になるのも立派な仕事である。縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせている幽々子様に対し、私はその若干斜め後ろに正座をして待機している。そんな私に「堅苦しい」と唇を尖らせるけれど、調子に乗って足を崩した途端に「なっちゃいない」と眉間に皺を寄せるから困ったものだ。
 それも、己が領分を貫けない私の責任だろうか。
 よくわからない。
「退屈ねぇ」
「そうですね」
「妖夢。何か面白い話をしなさい」
「そんな無茶苦茶な……」
 無茶振りにも程がある。逃げ出せるのなら逃げ出したいが、生憎と外は雨であり、家事も一通り終わってしまっていた。こんなときだけ真面目な自分に腹が立つ。
「えーと……」
「みかんの話なんかいいわね」
「みかんで面白い話なんかありませんよ……」
「……妖夢。私はがっかりだわ。そんな妖夢にがっかりよ、妖夢」
「二回言わなくてもいいじゃないですか」
 名前まで繰り返すし。
 斜め後ろにいる私にもわかるように、体を反らしてまで脹れっ面を見せようとする。愛嬌があり、教養もあり、尽くし甲斐のある主だという思いは昔から変わらないが、もう少し会話の空中浮遊具合を抑えてくれると嬉しい。
 みかんで面白い話をしろとか言われても、その。
「みかんが食べたくなってきたわね」
「機会があれば、貰ってきますよ」
「そういうところは気が利くのね」
「慣れですよ。長年仕えていますから」
 無論、師が幽々子様に仕えた年月には遠く及ばない。
 師のように仕えられるか、仕えているのかどうか、それもわからない。
 本当に、わからないのだ。
「妖忌は妖忌。妖夢は妖夢」
 妙な表情を浮かべていたのかもしれない。幽々子様が、珍しくわかりやすいことを言っている。貴重だ。天狗から写真機を借りていればよかった。気付くのはいつも後になってからだ。
 雨粒が石を貫いていると理解した時、師は白玉楼から姿を消していた。
「妖夢が妖忌みたいだったらつまらないわ。それは、妖忌でも妖夢でもないもの」
 冗談が苦手なのは両方同じだけど、と余計な補足をする。確かに、気の利いた冗談のひとつも言えない師弟ではあったけれど。
 ぺらぺらと歯の浮いた台詞を繰り返す師を思い浮かべると、頬が緩んだ。
 それからしばらく、雨のそぼ降る薄曇りの空をふたりで眺めていた。
 何も語らず、雨音と呼吸の音が不定期に鳴り響く屋根の下にあっても、私の心が煩わされることはなかった。
 雨樋から落ちる雨粒の、石を叩く音を聞いても、今の私は雨を斬ろうとは思わない。
 おそらくは、この心に棲む、雑念をこそ斬り捨てたいと願うだろう。
 実際、それが斬れるかどうかはわからないけれど。
 きっと、斬れはしないのだろうけど。

 

 一日が終わる。
 その前にも、私は道場にて百回の素振りを行う。数え間違いはせず、ぴったり百回。師に教えられたまま、愚直に繰り返してきた朝晩の素振り。それが何を生むのか、何のためになるのか、師が明確な答えをくれたことは一度としてなかった。
「ふッ……、ふッ……」
 雨は一日降り続いていた。薄い屋根を叩く雨音もとうに慣れた。
 肌寒い道場の中に、押し殺した吐息だけが響く。
 繰り返す。前に出て一撃、後ろに退いて一撃。架空の何者かを打つ。弱い自分を想像して叩く。打つ。斬る。殺す。いや、殺してはいけない。竹刀だから殺せない。だから私は、竹刀を振っているのか。よくわからない。
「……ふッ、……ふッ」
 汗が床に落ちる。落ちた汗が乾く前に踏み、足音が少しだけ鈍る。
 雑念がひどい。冷静に、慎重に、竹刀を振ることだけに集中せねば。
 心頭滅却すれば火もまた涼しという。何事も心の持ちようだ。
「ふッ」
 無心。
 そこに至れば、雨音も心のざわめきも聞こえなくなる。
 もしかすれば、それが雨を斬ることなのでは、と屁理屈を思いついてもみた。
「――ふッ!」
 ぱぁん、と一際大きい足音を上げて、ちょうど百回目。
 心なしか、空気が少し斬れたような気がした。もし斬れていても目には見えないから、確かめる術もないのだけれど。
 竹刀の切っ先を優しく床に落とし、格子模様の小窓に向けて乱雑に竹刀を振るう。雨はまだ斬れないけれど、いつか私は雨を斬る。今はまだ、斬りたいとは思えない。そんな日が本当に訪れるのだろうか、とも思う。心境的にも、技量的にも。
 今はただ、繰り返すことのみを本懐とする。
 そうすることで、私は己を貫く。
「妖夢」
 いつの間にか、幽々子様は道場の引き戸を開いて姿を現していた。自由奔放な我が主は、私の返事を待たずして、真っ白な手拭いを放り投げる。急にだ。
 慌ててそれを受け取り、お礼のひとつも言わないままに、額の汗を力強く拭った。期待していなかっただけに、気持ちよさもひとしおである。
 口に出したら、こっぴどく叱られそうだけれど。
「ああ、そういえば」
 幽々子様は、思い出したように外を指差して、言う。

「雨。やんだわね」

 斬ったの? という主の質問に、私は、苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 

 

 

 



SS
Index

2010年1月18日  藤村流
東方project二次創作小説





Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!