地平

 

 

 

 博麗神社。社務所の縁側にて。
 交互にお茶を啜る、のどかな音が響いている。ひとりは博麗霊夢、もうひとりは古明地さとりである。さとりがぼんやりと見上げる空は雲に覆われ、これがあまりにも晴れた青空であったならば、彼女が地上の神社の縁側でお茶を嗜むこともなかったであろう。
 さとりは、隣に腰掛ける巫女を見る。その泰然自若とした態度は、心が読める妖怪と憩いの場を共にしている時でも全く変わらない。多少、気持ち悪がったり、面倒くさがったりすることはあるものの、嫌悪の情を振りかざして即座に排斥するほど激しい拒絶を見せはしない。
 それを、真の博麗の巫女の在り方だと語る者もいるけれど。
 それこそ、さとりにとってはどうでもいいことだ。
「……この度は、うちの鴉がご迷惑をお掛けしました」
「本当よ。どうせなら、壊れた蔵も直してほしいくらいだわ」
 妖怪に任せたらろくなことにならないけど、と霊夢は肩を竦める。その脳裏に、自由奔放な河童の姿が浮かぶのをさとりは見た。
 地上には、地底にない様々なもので溢れている。天の光を浴びれば全てが明るく見える。光によって影は際立ち、喧騒によって静寂がもてはやされる。雲が動き、その隙間から零れる太陽の光がさとりの瞳を刺し、彼女は手のひらをかざす。
「……眩しいわね」
 全てが。
 今更、その輝きを羨んだりはしないけれど。
 ――さとりが地上に赴いた理由は、地上が恋しかったからではない。
 地霊殿に棲む一羽の鴉が、地上に遊びに行ったきり、地底に戻って来なかった。その名は霊烏路空、通称おくうと呼ばれる地獄鴉である。
 普段なら一日二日、長くとも三日経てば帰ってきていたのだが、今度は一週間。当初は静観していたさとりであったが、何か妙な事件に巻き込まれたのではないかと考え、彼女は重い腰を上げた。
 おくうと仲の良い火焔猫を送り込み、連れ戻させるという案もあったが、猫の手に負えない事態に陥っている可能性もある。猫には地霊殿の番を頼み、さとりは逸る気持ちを抑えて地上に向かった。
 久しぶりに訪れた地上を懐かしんでいる余裕もなく、さとりは真っ先に博麗神社を訪れた。おくうの土産話には、この神社の話題が頻繁に出てきていた。弾幕ごっこで遊んだり、楽しくお喋りをしたり、馬鹿にされたり、温泉卵を食べたり。屈託のない笑顔から紡ぎ出される四方山話を、さとりは目を細めながら聞いていた。
 だから、間違いなく手掛かりはそこにあると思った。
 事実、さとりの予想は当たっていた。唯一、事情を知っているであろう霊夢に引き連れられて、縁側で他愛のない話に付き合わされてしまったのは、全くの予想外であったが。
「大体さー」
 ふたりの間には、お茶請けの煎餅が置かれている。食べているのは霊夢だけだ、さとりはずっと湯呑み茶碗を掴んだまま、離そうとしない。
「火力が違いすぎるのよ、火力が。そんなのと、どっかの『弾幕はパワーだぜ』とかのたまってる魔法使いが正面衝突すれば、どうなるか予想付くでしょ」
 躾ができてないのよ躾が、と煎餅のカスをぽろぽろ零しながら、霊夢はさとりに説教する。さとりは申し訳なさそうに苦笑いを返す。
 発端は、いつもの弾幕ごっこの延長にあった。
 温泉卵をどれだけ多く食べられるか選手権に端を発した口論は弾幕ごっこに転じ、霧雨魔理沙対霊烏路空という傍迷惑な火力戦に拡大した。挙げ句、双方とも満腹状態で動き回ったが故に、狙いは逸れ、動きは鈍り、ブレイジングスターの直撃を喰らったおくうが、魔理沙ともども境内端の蔵に突っ込んでいったのである。
 その衝撃により蔵は半壊、魔理沙はかすり傷程度で済んだが、おくうは羽と足を痛めた。飛ぶのも歩くのも辛そうであったことから、霊夢はおくうに「しばらく神社で養生しろ」と命じた。提案ではなく命令である。博麗神社に滞在している限り、妖獣その他は霊夢のペットであるという一方的な取り決めがなされているためだ。おくうは渋々ながらもそれに従い、度重なるホームシックに苦しみながらも、今現在に至る――というわけである。
 医者によれば、間もなく飛べるようになるだろう、との話だが。
「……それで、おくうはどこへ。……あぁ、そうですか。竹林の医者のところに」
「診察費も立て替えておいたんだから、後できちんと払いなさいよね」
「『あの医者、こういう時だけ喜んでタダ働きするのよね……』ですか。確かに、それでは私にお金をせびりづらいでしょうね」
 実際にいくらかでも支払っていれば、さとりに少し多めにお金を請求しても気付かれにくい。いとも容易く企みを見透かされ、霊夢の眉間に皺が寄る。
「全く、これだから……」
 溜息を吐きながら、あまり残念がってもいない。
 心を読まれることを念頭において、それでもさとりを出し抜こうとする。駄目で元々、成功したら儲けもの、という塩梅で事に及んでいる節がある。大物、という評価もあながち間違いではないのかもしれない。
「でも」
「んー」
 さとりは霊夢に声を掛ける。煎茶の水面は深く濁っている。さとりの分のお茶は、それほど減っていない。二口ほどしか飲んでいないのだから、無理もない。
「不思議ですね。どうして、私をお茶に誘ったのか」
「そりゃあ、暇だったからねえ」
 掃除も終わったし、と霊夢は誇らしげに呟いたが、さとりにはそれが見栄だとわかる。掃除が必要なほど、雑然とした境内ではなかったけれど。
「私は、妖怪ですよ。それも、サトリの」
「知ってるわよ、そんなの」
「気味が悪いとは、思わない? 心が読まれるのが、不快だとは?」
「……え、何、気味悪がられたいの。あんた」
 卑屈とも、自虐とも言い難い陰鬱とした笑みを前にして、霊夢は怯む。さとりは湯呑み茶碗を傍らに置き、薄く瞳を空けた第三の目を撫でる。
 答えを求められた霊夢は、心が何か意味のある言葉を浮かび上がらせる前に、声を発する。
「気味悪いわよ。でも、それより私は饅頭が怖いわ」
 残り一枚の煎餅を、躊躇うことなく口に運んでいく。
 さとりが読んだ心と、霊夢の声は一致している。この神社に、今のところ饅頭はない。羊羹もない。
「満足した?」
「えぇ。申し分なく」
 霊夢の目には、ある種の期待が浮かんでいる。
 さとりはそれをいち早く察して、いくぶんか邪気の薄まった笑みを零す。
 『満足したなら、お饅頭を持ってきてもいいのよ?』なんて、直接心で語り掛けなくても、その期待に満ちた表情で十分なものを。
「そうですね。おくうを預かってくれたお礼に、今度お饅頭でも持たせておくわ」
「本場の温泉饅頭ね」
「本場ではないけれど」
 なーんだ、と霊夢はあからさまに残念がる。けれども、地底の甘味には心を躍らせているようだ。おくうに持たせると霊夢に渡すのを忘れてしまいそうだから、お燐に運ばせることにしよう。でも、火車だからかえって嫌がられるかもしれない。死体のおしくらまんじゅうだなんて言っても、逆効果になるのは明白だ。
 お茶請けが無くなり、霊夢のお茶も底を尽きた。さとりのお茶はまだ残っているが、長いこと口を付けていないせいか、その熱は既に失われている。
「飲みなさいよ、ちゃんと。勿体ないから」
 さとりは頷き、湯呑みを傾ける。霊夢はそれに満足して、新しいお茶請けを取りに行く。空になった皿には、煎餅の欠けらがいくつか散らばっている。そのひとつを削ろうとしても、溶けた醤油がぴったりと張り付いていて、取れそうにない。
 冷めたお茶は、喉にしこりを残した。
 吐こうとした呟きを、飲み込んだままにしていたくなる程度の、些細な障壁。
 ――美味しいわ。このお茶。
 言わずにおけば、人には決して伝わらない。だから飲み込んだ。妖怪サトリの心はひた隠しにして、人間の心は丸裸にする。それが真理。妖怪が妖怪であるために、人を嘲笑うためにある者として当然の役目。
 雲は空に張り付いている。眩いほどの輝きを帯びた太陽は、その心を雲の陰に隠している。
「おまちどおさま」
 煎餅の皿が退かされ、新たに沢庵が参入してきた。
 一仕事終えたと言わんばかりに、霊夢は肩を鳴らしながら縁側に座る。そうして、沢庵の色と匂いを確かめているさとりの横から、空になった湯呑みを拾い上げる。
 お茶を淹れるのだろうと、さとりは霊夢の心を呼んで察していた。沢庵を摘まんだまま、霊夢がお茶を淹れる様子を、静かに眺める。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 定型のやり取りを済ませて、さとりはまず沢庵を摘まみ、噛み砕いたそれを流し込むように、湯呑みを傾ける。霊夢は、さとりがお茶を飲み下すタイミングを見計らって、サトリ妖怪に告げる。
「美味しかったでしょ? そのお茶」
 ――ぎゅぅ、と、お茶が喉につかえた。
 霊夢は、動揺したさとりを、にやにやと見つめている。
 引っ掛かったお茶を何とか嚥下して、呼吸を整え、何度か咳払いをする。心を読んでも、腹を抱えて笑っているイメージだけで、肝心の言葉が出てきていない。してやったり、といった表現が適当なのだろうが、それはそれで面白くない。
「やーい」
「……あなた……」
 鋭く睨みつけたところで、立場が変わるわけもなし。
 何のことはない。
 見透かされていたのは、さとりの方であった。
「気付かれてないとでも思った? 残念、顔に出てんのよ。もうちょっと訓練することね。まあ、辛気くさいわりに随分とわかりやすい顔してるから、無駄だとは思うけど」
「……美味しいわ。このお茶」
「はいはい。ありがと」
 そのくせ、感謝の念だけは偽らない。
 少しだけ、博麗霊夢がわかった気がする。確かに、弾幕のみならず、平時においても妖怪を手玉に取れる彼女ならば、妖怪たちが面白がって彼女に寄って来るのも頷ける。
 鬱憤を晴らすようにお茶を啜り、沢庵を口に放り込む。時折、伸ばした指が霊夢の指にぶつかり、思ったより平静を失っていることに気恥ずかしさを覚える。霊夢は気にしていないと言いたげに笑う。だがそれも、さとりの変化を面白がっているからこそだ。逆上したら負けだ、そう言い聞かせても、ここしばらく他人に虚仮にされることなどなかった。
 だからといって、食べ物に八つ当たりをしていいわけではないのだが。
「急いで食べると、また喉に詰まらせるわよ」
「お気遣いありがとうございます」
 険のある調子で返答し、少し後悔する。サトリ妖怪の本分には程遠い。ゆっくり飲み込むのを心掛け、霊夢に邪魔されないように視線で牽制する。
 まるで駄目だ。
 完全に主導権を握られている。が、不思議と相手に対する怒りは湧いてこない。ただ、自身の不甲斐なさを痛感しているだけだ。それも、決して不快ではない。久しく味わっていなかった感情の波は、サトリ妖怪の心を活性化させる。鬱屈した心の深層に、地上から吹き下ろされる冷たい風が吹き込む。如何なる感情さえ無駄にはならない。全てを心の糧にして彼女たちは生きる。
 空は、相も変わらずくすんだ灰色をしていた。
「……ようやく」
 曇り空を見上げ、さとりは一息つく。
 霊夢も釣られるようにさとりの目線を確かめると、納得して溜息を吐いた。それぞれ意味合いの異なる、けれども一区切りが付いたことを示す吐息。
 真っ黒な翼を躍動させ、一羽の鴉がこちらに飛んでくる。
 真っ赤な眼球を胸に君臨させ、それを苦とも思わずに悠然と空を舞う。
 羽ばたいている様子からすると、怪我は完治しているようだ。さとりを見付け、喜色満面で手を振っている姿は、さとりと対照的に生気に満ち満ちている。
 霊烏路空の帰還である。
「やれやれ。これでようやく、子守りもおしまいねー」
「おつかれさまです」
「全くよ」
 腕を伸ばして、霊夢は大きく欠伸をする。
 束の間のお茶会は終わり、さとりはおくうを連れて地下に帰る。おくうはまた、猫と共に饅頭を抱えて地上に上がることもあるだろうが、さとりは必要に駆られなければ地上に行くことはない。茶飲み友達に会うため、というのも、サトリ妖怪らしくない言い訳だ。
 霊夢は、目を細めるさとりに言う。
「また来てもいいけど、その時は……ね」
 慣れないウィンクなどして、さとりに手土産を要求する。
「はい」
 肯定とも、否定とも取れる答えを返して、縁側から立ち上がる。
 太陽の熱は雲を貫き、さとりの身体を温めるけれど、汗を滲ませるまでには至らない。地獄鴉は地底に帰るための翼を得て、今、最愛の主人と再会を果たす。
 見守る巫女は苦笑を漏らし、空になったお茶請けの皿を重ねて、残りわずかになったお茶を一気に呷った。
「――ただいまー!」
「……おかえり。おくう」
 それは、地底の妖怪とは思えぬほど、慈愛に満ちた笑みで――。

 

 

 

 



SS
Index

2011年9月1日  藤村流
東方project二次創作小説





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