ドランクドラゴン・フェスティバル

 

 

 

 昔、どこかの国の小さな村の上流に、竜が棲んでいるような湖があった。
 実際、そこにはそれなりの竜が棲んでいた。竜は村ができる前からずっと棲んでいて、たまに川を氾濫させては肥沃な耕土を作ったりしていた。暇だったから。
 そんな暇潰しも、人間が増えてからはそうそうできなくなった。立派な堤防も作られ、湖には竜を崇め奉る納堂もできた。たまに美味しい酒が供えられることもあったので、これは村人に迷惑を掛けられないな、と思ってからはしばらくぼーっと湖の中で暮らした。
 しかし、ずっと表に出てこなかったものだから、村人たちは竜のことを忘れてしまった。
 正確には、何回も何回も代変わりが起こったせいで、竜の存在や納堂の意義などをきれいさっぱり忘れてしまったのだ。そのわりに、理由も分からず納堂に美味しい酒が供えられることもあったので、竜はなかなかそのこと気付かなかった。
 やがて、村人に忘れられてるなあ、ということに気付いた竜は、この傾向が行き過ぎて酒が飲めなくなるのも忍びないので、たまに川を氾濫させてみた。しかし、頑丈に造られた堤防は存外に強く、なかなかその防壁を破れなかった。
 とはいえ。
 人に気付いてもらうために氾濫を起こすというのも、何だか本末転倒だ。
 それに、人がいれば勝手に土地を耕すのだから、竜がいちいち川を溢れさせて大地を混ぜ繰り返す必要もない。竜は、本格的にやることがなくなってしまった。
 それにつけても暇だったので、竜はいろいろ考えた。
 考えて考えて、たまにお供え物の酒を飲んでからまた考えて、考えて、またお酒に口を付けて閃いた。
 そうだ。
 村に下りてみよう。

 

 

 竜は年頃の女に化けて、村の収穫祭に忍び込んだ。
 その席で、声を掛けてくる男たちにこう言って回った。
「私は竜だ。だが、結局のところそんなことはどうでもよくてだな、つまりは飲もう。それでまあ、飲み比べに勝ったら私を好きにしてもいいぞ」
 ぽかんと口を開けたまま突っ立っている男に向かって、更に言う。
「それでだ。お前が負けたら、私が竜であることを信じろ。うん、別にまあ信じなくてもいいが、たまに思い出せ。幸いにして私は良い女だろうからな、忘れたくても忘れられんだろ」
 ははは、と気前よく笑って、男の用意した酒を飲み始める。
 しばし惚けていた男も、確かに美麗な女であることには変わりないため、酔って手篭めにすれば本性が現れるだろうという獲らぬ狸の何とやら、ともかく飲んで潰してやろうと意気込んだ。
 だが、それはそれとして竜は竜であり、伝承の通りさてもあれほど飲むものだ。
 潰れて果てた男を横に、竜はがぶがぶと枡に注がれた酒をあおる。
「情けないなあ。私を竜と知って勝負を挑んだ男は数知れずいたが、それでも朝まではもったものだ」
 全く全く、と枡を空にして、次は誰かと集まった客に投げかける。
 我こそは、と群がる男どもを押し留め、一人ずつを相手にしながらゆっくりと酒を嗜んでいった。
 宴は続き、祭りも更けて、踊りに酔った村人たちも方々に散ろうとする頃にあっても、竜と男集は櫓の一角にたむろしていた。それもそのはず、竜に勝ち得る男はいない。竜のはらわたは宙に連なり、天を流れる光の川になみなみと酒を注いでいる。
 勝てぬ、勝てぬ。
 初めの頃は、いくら酒に強い女と言えども、積み重なれば幾千の山、後になればなるほど落ちやすくもなるだろう、そう考える男が多かった。ところがまさか本物の竜と言わずとも、酒豪と言わしめる男どもに対して一滴も譲らぬ五臓六腑の持ち主と知るや、浅知恵にほくそ笑んでいた輩も他人事ではないと考えるようになった。
 しかし、まあ。
 如何ほどに気を張ったところで、竜は竜であり、人は人。
 天地を繋ぐ紅い髪を携えた竜に、男どもはただ地に伏せるのみ。自らの髪にも似て、赤らんだ顔をそっと撫でてみる。気持ちがいいものである、こういう愉快な宴というのは。
「帰るか。ちょっと、そこの坊主」
 篝火を焚いていた若者に、ずっと使っていた枡を掲げながら言伝を残す。
「これ、貰っていくぞ。まあ気にするな、記念だ記念」
 ははははは、と鷹揚に笑いながら、竜は村を後にした。
 空は明るみを取り戻し、祭りの後には死屍累々と酒臭い男たちで埋め尽くされていた。
 ――その後、気になった若者が竜の棲んでいる湖に赴いた。
 納堂の祭壇に、女の愛用していた枡と、抜けた紅い髪の毛がちょこんと置いてあった、という話。

 

 

 それからというもの、村の収穫祭に竜を名乗る女が来る、というのが恒例になった。
 女の容貌は毎年変わるため、竜を見分けるのは非常に難しかった。それでも初めの数年は、竜だ竜だと吹聴するのが一人しかいなかったから、村人たちも特定するのは容易かった。
 だがそれからまた数年経って、今度は竜を自称する女が複数現れた。それは女が意中の男を射抜く術であったのだが、次の年からは男までもが竜だ竜だとうそぶくようになり、竜が初めて村に下りた十年後には、もう誰が竜だか区別が付かないようになってしまった。
 だけども、最後の最後まで残っている者が竜であることには間違いなく、それだけの酒はきれいさっぱり無くなっているのだ。
 十年が経ち、二十年に亘り、三十年四十年と過ぎていくと、竜が村に下りるのも当たり前になってしまった。
 それでもなかなか飽きはこないもので、今年も相変わらず収穫祭の季節に竜は里に下った。
 いつものように、竜は自分が竜であることを誇示するのだが、今年は何故か当たりが良くない。男たちの対応は、竜に扮した人間のそれとよく似て冷ややかだった。竜にしても、たまにこういうことがあることは知っているのだが、それでもやはり当たりは悪い。少し気になって、竜は人波を掻き分けて奥へ奥へ進む。そこには百年くらい前から村の治安を守り続けていた櫓があって、竜は大抵その真下で宴会を繰り広げていたのだが。
 櫓には、既に先客が居座っていた。
 金糸を織った黄金の艶やかな髪、見る者の心を射抜く瞳は神月のように紅く、楚々と構えていながらも、いけしゃあしゃあと杯をあおる。
「ははあ、なるほど」
 確かに、あれが竜と思う気持ちも分かる。明らかにあれは魔性の美貌を備えている。清楚であり、淫靡であり、邪悪で、清純で、あどけなさと無邪気さに溢れた生き物だ。
 だが、真の竜である者には分かる。あれは竜でない、竜であるはずがない。
 人の瞳には映らぬだろうが、竜の眼にはしっかと映る。
 彼の者の背より這い出でる、白面金毛、九尾の尾っぽが。
 やられた、と竜は思い、今年は以前のように妖たることを誇示することなく、九尾の狐を遠まきに見ながら、うまいのだかまずいのだか分からない酒に明け暮れた。
 結局は、最後の最後に両者が残り、狐が勝ち誇ったようにくくと笑うのを見て、竜は激昂してその手に持った枡を地面に叩き付けようとした。でもそれは竜が大事に大事に使ってきた枡だったから、いくらなんでも壊すのは忍びない、やっぱり大事に持ち帰ることにした。
 そして、次の年。
 竜は、いつもよりちょっと早く湖を出た。

 

 

 狐は、前の年と同じ格好で現れて、竜も前と同じ姿でやってきた。両者は姿形がなんであろうとも本質を知り得るのだが、人間たちに気付かせるには容姿容貌妖艶さしかない。
 竜は、ここが自分の根城だと思っている。ありていに言えば縄張り意識、情けを掛けるなら故郷だと思っている。だから、他の関係ない輩が竜だ竜だと持てはやされるのは気に食わない。
 早くも、村の男は竜だ竜だと狐の女をはやし立てる。けれども、その輪をこじ開けてまで、紅髪の竜は狐に宣戦布告する。指を差し、枡を抱えて正々堂々と。
「言っておくが、私は竜だ。本当はそんなことどうでもいいのだが、お前がいるとそういうわけにもいかん」
「そう?」
「だから、私が勝ったらもう来るな。邪魔だし」
 結局のところ、竜はちやほやされたいだけだ。でもそれは、村人も狐も、竜自身さえもとっくの昔から知っていたのだった。
「あなた、結構わがままなのね」
「そんなことはどうでもいい。飲めば分かるし、飲まなきゃ分からん」
 櫓の下にどかりと座して、相対するように狐も座る。おかしな話になったものだと、村人たちもやいのやいのと煽り立てる。
 何はなくとも宴の席は急転直下、一世一代の修羅場と化して、妖どもの火花が散って切り落とされる。

 

 

 夜の短さは人の命の比ではない。
 元より一晩で勝杯が決するような争いではない故、竜と狐はお互いの奇術を行使して夜を引き伸ばした。人間たちはそれに気付かず、騒ぎ立てては眠りに落ちる。それでもまあ、一度眠れば勝負が決まるまでは目覚めない決まりであるから、夜が続くぞ大変だ、などとおおわらわになる心配もない。
 初めはおっとり続いていた飲み比べも、時が経つにつれのんびりやっては追い付けなくなった。枡が樽になり、樽が幾重にも積み重なる。
 飲み、呷り、呑み、下す。
 そんなことを交互に繰り返し、ぼんやりと、赤らんだ顔をなお赤く、充血した瞳も更に色濃く、竜と狐は飲み続ける。
 終わりがあるのかないのか、そんなことなど竜に言わせればどうでもいい。
 終わりがあるなら、それは酒を飲むのに飽きたときだ。
「ふう」
「うん」
 一度や二度では済まされない。
「おう」
「あら」
 篝火の音は今もやまない。
「せい」
「えい」
 人のざわめきは聞こえなくなった。
「くふ」
「ふあ」
 傾ける器も、お猪口徳利杯に枡、色も形も様々に変わる。
 天上に留まる満月が、二つの妖を見下ろしている。付け加えるなら櫓の上にも一人だけ、篝火の番をしている若者が、竜と狐の行き着く先を見守っている。
 むう、と竜は紅潮した頬を上向ける。
「あやつめ、まだ番をしているのだな。欲がないのか、縁がないのか」
「縁は、あると思うわよ。あなたと、あれには」
 知った口を利く狐にも、不思議と苛立ちは覚えない。
 人の眼にも分かるくらい、黄金の稲穂を思わせるような、さざめきたった尻尾が見えているせいか。
 縁はあるのか、と問うてみる。竜にも分かる、あれはあのときの若者ではない。人の命は、巡り続ける夜の数ほど生まれては消える。
 狐は頷き、若者に向けて妖艶な笑みを浮かべてみる。見ていることに気付かれた若者は、飲んでもいないのに顔を赤くして篝火の陰に引っ込んだ。
「なら、まあ」
 縁は、あるかな。
 いつの世も、血が巡ってさえも、こうして宴を見守っていたのならば。
 あそこにぽつんと立っていれば、酔うこともなく、正しい瞳で竜の御身を窺えるとあらば。
 惚れるも酔うも同じこと。
 ならば、竜がここに在った意味は確かにあった訳だ。
 はは、と竜は笑う。狐は、変なものを見るような目で竜の横顔を一瞥して、またすぐに酒を注ぐ。
 もう、人が造った酒は影も形もない。あるのは、竜が貯えていた酒と、狐が隠し持っていた酒だ。望むなら、どちらかの、どちらの酒も尽きる一滴前に、何らかの決着が着けば面白い。
「生きが良いのだな」
「寝かせておりますから」
「飲む機会すらないのだな」
「渡り合える敵がおりませんから」
 ふふ、と狐は笑う。
 竜も狐も、良い顔をして笑っている。良い酒だ、とどちらともなく思い、杯を傾ける。竜は思い出の枡に持ち替え、見ているのやらいないやら、篝火の若者に向けて枡を掲げて、記念の一杯を高らかに飲む。
 宴は続き、杯は傾く。
 それに呼応して月も傾き、ゆっくりと、ゆっくりと、夜は朝と手を繋ごうとしていた。

 

 

 誰かが体を揺さぶっている。
 そんなことは初めてだったから、跳ね上がるように体を起こせば、勢いに負けてその誰かが吹っ飛んだ。すまんすまん、と謝りながら現状を確認する。
 酔い潰れた男ども、転げ回った酒樽、ぷんぷんと漂う酒の匂い、ちりちりと焦げる篝火の音。
 気分は実に晴れやかで、頭の中身を川の水ですすいだかのよう。あまりにさっぱりしたものだから、竜は自分が誰と一緒に飲んでいたのか、それから結局どうなったのか、相手はどこに消えたのか、それらの行く末をぱっとすぐには思い出せなかった。
「……む、む。むむ?」
 腕を組んでまで考える。
 狐は居ない。酒は飲んだ。飲み尽くすほど飲んで、飲んで、また飲んで、それでもやっぱり足りなくて、だけどもどこかから引っ張ってきて、しつこく飲んで、飲んで、それで。
 で。
「どうなったのだったか。忘れたぞ」
 くるりと振り返り、じっと佇んだままの若者を見やる。
 それがずっと篝火を焚き続けていた若者と気付き、竜はかぽんと柏手を打つ。
「覚えてるか。覚えてるな。で、どうだった。どうなった」
 畳みかけるように問いかける竜に、篝火の若者もひどく戸惑った。けれども、肩を掴んで何度も何度も聞き続けてくるものだから、ついに根が折れて、「貴女様が眠ってる隙に、狐様はこの場を後にしました」と言った。
 竜は驚いた。
 まさか、自身を負かす者が、たとえ妖においても現れようとは。
 しかし考えてみれば至極単純なことで、竜は記憶にある限りあの湖でしか生きておらず、この場所がどこなのかもよく分かっていない。あちこちの噂は人伝いに聞くものの、妖の力までは伝わらない。
 竜は、しばらく目をつぶってうんうんと唸っていた。負けの悔しさか狐への憤怒か、自分自身にも量りかねていた。ようやく自分の気持ちにも整理がついた頃、いつも手にしていた枡がないことに気付く。竜は、さっきから同じ場所を動こうとしない若者に尋ねる。


 あれは。

 狐様が。

 あれで通じる縁はさておき、今度こそ竜は愕然とした。
 そして何より、それでどうして驚愕しているか分からないことに驚いた。枡など、村を漁ればいくらでも出てくる。ぼろっちい、汚くて所々が欠けている枡よりか、新しく見繕った方がきれいだし長持ちするのではないか。
 だが、なんでか知らないがあれが無くなると困るのだ。
 村と自分とに縁ができた記念の品だから、単に愛着が湧いたから、篝火の若者との縁があるから、理由めいたものは次々に挙がる。そのどれかであるようにも、それら全てであるようにも思える。分からない。普段ならどうでもいいと投げ打てるものが、不思議と頭にこびりついて離れない。
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜたりなどして、どうにかこうにか胸の苛立ちを抑えようとする。
 そうすると、「やめてください。折角の髪が乱れてしまいます」と若者が必死に留める。
「なんだ。私は竜だぞ」
 そんなことはどうでもいいが、と言おうとして、「そんなことは関係ありません」と先んじられた。
 ほう、と息が漏れた。
 丁度いい、竜は狐を真似て妖艶に微笑んでみる。が、若者の反応を見るに、固まるだけで欲情した様子はない。なるほど、こうして人の反応を見るのも面白いものだ。
「坊主、私は今むしゃくしゃしている。別に断ってもいいのだが、胸を借りたい」
 意味は分かるな、とくいくい襟の中身をちらつかせる。慣れていないせいか、どうにもぎこちない。
 本来は、それを代償として飲み比べに付き合ったものだ。
 人が酔い潰れ、勝者を名乗る狐が去ったとあらば、惚れと言う名の酔いに打ち勝ち、世代を超えて竜の御身を見定め続けた、篝火の者に最後の杯を与えるのもよい。
 肝心要の若者は、ぽかんと惚けて立ち尽くしていたが、竜がその胸に手のひらを添えると、息を飲むように、唾を飲み込むように、力強く、緩慢に頷いてみせた。
 よし、と竜は笑い、暁の日と紅焼けた髪がきれいさっぱり重なって消えた。

 

 

 その後、どうしても彼女のことが気になった若者は、竜が棲まうという湖を訪れた。
 人の気配すらない納堂には、冗談のような書き置きが残されてあった。

『腹が立つからやっぱり枡は取り返す。
 代わりに、坊主の納屋から枡を貰っておいた。
 すまん。
 良い酒飲めよ。』

 それはまさに蛇がのたくったような字で、ものすごく読み辛かったが何とか解読した。
 若者はそれを後生大事に仕舞い込んで、家に新しく神棚を作り、代々伝わっている紅い髪の毛と一緒にそれらを祀った。
 それから、村に竜が訪れることはなくなった。それでも宴は続いていって、篝火の灯は早くに消されて、次第に竜も忘れられていった。納堂にだって、美味しい酒は貢がれない。
 湖の宝も取り尽くされて、湖の側にも家が立ち並び、水路は増えて下流の村には港もできた。
 篝火の者の家系は、皆が栄え始めた港に移り住むようになってからも、篝火を灯す櫓から湖の方を眺めたりして、ぼんやりと時を過ごしていた。何故かというと、暇だったから。
 ――どこぞに伝わるどこぞの伝説には、竜と狐の酒盛りが綴られているが、その真相は定かではない。
 湖には、竜に似たそれらしい魚がうようよと泳いでいて、そのほとりには、何だか寂れてしまった納堂があるばかりである。

 

 

 

 やんややんやと夜の宴は、終わりをちらつかせることもなく続く。
 準備や後始末をする者にとってはどうしようもなく厄介で、宴のみを慈しむ者にとってはこの上ない至福の時である。
「ふあ……」
 欠伸のような、げっぷのような吐息をついて、八雲藍は傍らに眠る式の体を撫でる。酒好きの猫と言うのも話に聞かないが、それにしてももう少し強くあるべきではないか、と酔い潰れた式を見て思う。
 藍の主はとうに宴を後にしており、今となっては死屍累々と打ち捨てられた、人と妖、諸々の霊がのたれ死ぬ様を見るばかりだ。悲惨である。無残である。物音がすれば苦しげな呻き、足音がすれば夢酔い病、誰も彼もが、浮かれ騒いでは並々ならぬ混沌をもたらす。
「幻想郷てな、こんな理解に苦しむものだったけな……」
 こめかみを指で突き、ぐりぐり回して脳をほぐす。
 藍においては、大陸を回る九尾の狐。酒好きが集う幻想の場でも、そのはらわたには自信がある。
 いささか自負に溢れすぎて、我を見失うほどに酔った経験こそ無いけれど、飲めば楽しく、酔えば心地よい。泳ぐ術さえ持っているなら酒に溺れることはない。
 寝息が落ち着いてきた式を置いて、藍は大部屋の中にひとつだけ座っている影に近寄っていく。夢酔い病でも死後硬直でもなく、かつての藍と同じように、たったひとつだけ取り残される酒仙の憂鬱を知った者だ。あまり見ない顔だが、藍はそう直感した。
 もし、と声を掛ける。振り返った顔の赤は、床まで垂らしてある紅髪とよく似ていた。
 傍らに置いた帽子の真ん中に、金縁の徽章が貼り付けてある。とても大きく、威風堂々とした龍の字。
「……どなたですかー?」
「九尾だ。分からなければ順を追って解説するけれども」
「分かります分かります。ですから、このさい改まった講釈は抜きってことで」
 片手に添えた枡を掲げて、へへえと意味もなく笑ってみせる。邪気こそないが、無邪気ではない。要は、力の抜きどころを知っているということか。そしてそれが酒の席ならば尚更。
 紅い妖の周囲には、人やら天狗やら鬼めいた者たちがうつ伏せたり仰向けられたりしゃがみ込んでいたりしている。彼女の左手に伊吹瓢箪があることから察するに、要は楽しい酒ということだ。藍の心中を察してか、彼女も楽しげに微笑む。
「飲みます?」
「ああ」
 藍は彼女の対面に座して、袖の下から年代物の枡を取り出す。
 ほう、と彼女が感嘆の息を漏らしたところで、藍は何ひとつ口にしない。改めて言う気もない。
「それ、素敵な器ですねえ」
「うん、かれこれ五百年くらい使い回しているからね」
「へえ。私のも、あれこれあって五百年くらい使い古しているのですよ。半分くらいは、あれが使っていたみたいですけど」
 物心が憑いた頃には、その枡が隣にあったと彼女は言う。それ以外のことは、何も言わない。言う気もないのだろう。紅美鈴と名乗りはしたが、元よりあれの名前も聞いていなかった。だが、今度は覚えよう。これすらもきっと何かの縁だ。
「成る程」
「ですねえ」
 夜の音は存外にやかましく、鳥や虫や獣の声が耳に残る。篝火の音は聞こえないけれど、囲炉裏がちりちり耳障りでもある。
 それでも今は、向かい合わせた妖の、底冷えするような愉しい笑いしか聞きたくない。
 縁は、あったな。
 どちらともなく呟いて、ささくれた枡を杯に捧げ、欠けた角目と割れた木目とを力任せにぶつけ合う。出会いと別れ、勝杯と強奪、竜は龍になり狐は式に、いずれ劣らぬ腐れ縁である。力ずくの乾杯を経て、かち合った枡は砕けることなく酒を受け、漏らすことなく滔々と満ちる。上出来だ。妖ともども示し合わせたように枡を傾け、飲んで、飲んで、また飲んで。
 やや乱暴に枡の底を床に叩き付けた後で、美鈴はからからと笑いながら言う。
「いやあ、今日は実に良い日です!」
「全くだね」
「んじゃまあ、良いお酒を飲みましょう!」
「承ろう」
 こくりと頷き、杯を交わす。
 良い酒、良い縁、良い女。
 どこぞの世界にもあったものだが、どこの世界にもあるものだ。
 美鈴とくれば、隙あらば藍の持つ枡を掠め取ろうと試みる。藍は快くそれを阻止しながら、返す刀で自分の枡ごと伊吹の酒を美鈴の口に流し込む。呼吸困難に陥って、もがもがもがく瀕死の姿を涙ながらに笑い飛ばし、次は馬鹿みたいに広がった藍の口腔にこれまた美鈴の枡が飛び込んでくる。
 愚直極まる地獄絵図だった、が。
 楽しい、楽しい。
「ふへえほほえほははばばっ!」
「ひっひぇらはははほほががっ!」
「……あんたたち、何してんの……?」
 冷め切った巫女の一声に、飲み込みかけた枡は吐き出され、景気よく風を切りつつ、巫女のどたまに命中する。あ、あ。と仲良く声が重なり合う。
 こめかみに立った巫女の青筋が、美鈴の髪と彼女らの顔と、ことに素晴らしい対照を描いた。

 いやはや全く、楽しい酒ではあるのだが。
 今日はお開き、また明日。
 縁があるなら、また今度。
 いや違うか。
 縁があるから、また今度。

 篝火の灯が消えてしまうまで、眠ることなど忘れるくらい。
 楽しいお酒を、飲みましょう。

 

 

 



OS
SS
Index

2006年4月15日 藤村流

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