犬将棋 〜 Dog Fight!! 〜
「できた」
河城にとりが呟いたその小さな言葉を、暇な番犬こと犬走椛は聞き逃さなかった。
何ができたのだろう、子どもだろうか、と将棋の駒を磨く手をとめ、誇らしげに微笑んでいるにとりを見る。
彼女の手には箱型の何かがある。薄っぺらい板を釘で打ちつけただけの小さな箱だが、それが何なのか、椛にはよくわからなかった。
とりあえず聞いてみる。
「何なのです、それ」
「ふ、聞いて驚け」
不敵に笑いながら、にとりは小箱のふたを開ける。ふたも安っぽい。
箱の中を覗き込むと、そこには丸っこいボタンのようなものがあった。親指の爪くらいの大きさで、原色の赤が無駄にまぶしい。ボタンは銀色の台に固定されており、見るからに怪しげな雰囲気を醸し出していた。
嫌な予感がしながらも、椛はあえて説明を求める。
「詳しく」
「聞けば、もう引き返すことはできないよ。それでも?」
首を縦に振るか横に振るかというだけの問題なのに、椛は悩んでいた。
いっそのこと尻尾でも振ろうかと考えたが、今はもうついていないので諦めた。
とりあえず、こくんと頷いておく。
「あなたの覚悟、しかと受け取ったわ」
仰々しく前口上を述べるにとりは、先ほど大将棋でキュウリかじりながらうんうん唸っていた河童と思えないくらい、不思議なオーラを漂わせていた。
やっぱやめておいた方がよかったなあ、と思いながら、まんまるボタンが気になるのも確かである。河童の発明する機械は外の世界を参考にしているものが多いから、見るだけ、聞くだけでも十分に暇を潰せる。暇な番犬を長らく続けている椛としては、たまにある本格的な仕事以外の時間をどう潰すか、それもまた大切なライフワークなのである。
そしておそらく、にとりもまた同じ考えなのだろうと。
「これはね」
「うん」
身を乗り出して、耳を澄ます。樹に立てかけた盾が突然倒れた。
からんころん、倒れた盾が岩の上を転げ回り、やがて地に伏した。
にとりは言う。
「自爆スイッチさ」
彼女は微笑み、椛は納得した。
その繊細な赤はきっと、火薬の色覚なのだと。
「ていうかなんでそんなもの作ったの」
「必要になると思って」
「何のために」
「そんなの、決まってるじゃないさ」
さも当然のようににとりは告げて、横に退けた将棋盤を指差す。
嫌な予感はした。
「負けそうになったら、こう、ぽちっと」
「いやボタンに触れないでいいから」
実践しようとするにとりを押し留める。えー、と不満げに唇を尖らせる仕草に、以前のような凛々しさを見ることは難しい。けれども、あっちこっち口調やら思考やらが飛躍する傾向にある彼女だから、椛もあまり気にしていない。にとりはにとりである。そう、たまに気紛れで自爆スイッチとか作ってしまうくらいには、河城にとりなのである。
でもできればひとりで自爆してもらいたい。
「だからたぶん、次に勝負したら負けないと思う」
「それは、もしかしなくても脅迫ってことかな」
うん、と頷きでもしたら刀の柄本でほっぺたをつついてやろうと心に決めていた椛は、うん、と悪びれもせずに頷くにとりのほっぺたに、太刀の柄本をぐゅいいと押しつけた。
無駄にやわらかかった。
「うわあ……すごくぶさいく……」
「ふぁめれ」
やめた。
「まったく……傍若無人にも程があるよ……」
「どっちが」
「そっちが」
「えぇ……」
それは、気だるい午後の出来事であった。
ぱちん。
「王手」
「げげっ」
大将棋は既に詰みの段階に至り、後にも先にも上にも下にも退けない状況に突入している。
爆弾を人質に取ったにとりが対戦を申し出て、椛もそれを快諾した。爆弾は爆弾、にとりはにとり、大将棋は大将棋である。勝負は勝負として遊びといえども真剣に取り組み、その背後に爆弾の恐怖があるとはいえ、手を抜くことは椛の矜持が許さない。
駒に添えた指が、ゆっくりと離れてゆく。
にとりの指が、自爆スイッチに近付いてゆく。
「にとり」
「はい」
怒られた。
「素直に負けを認めるのです。爆弾なんかで、勝負ごとそのものを無かったことにしようとせず」
「ぽちっとな」
押しやがった。
「ちょっ、ひとが折角いいこと言おうとしてるときに!」
「ばかめ、窮鼠に隙を与えるからこういうことになる!」
「河童がー!」
「メス犬がー!」
ふたりの興奮が最高潮に達した頃、ふたりが将棋の舞台に選んだ岩がゴゴゴゴゴと鳴動を始める。
耳を澄まし、瞳を凝らせば、ふたりが座っている岩のみならず、大地、滝、御山の全域から震動を感じ取ることができる。こいつはいよいよもってまずいことになったとばかりに、椛は戦慄し、にとりはリュックを背負って逃げた。
即座に確保。
「待てこら」
「何か用かね」
不遜な態度が腹立たしい。
「これって確か自爆スイッチとか言ってたような気がするんだけど」
「ふむ……記憶に御座いませんな」
ほっぺたをぐりぐりしておいた。
とりあえず半泣きになるくらいねちっこく折檻していると、滝の裏側から盛大な爆発音が轟き始めた。揺れは次第に大きくなり、すわ幻想郷の最後かと疑いたくなる前兆に、椛はにとりの襟首を掴みながら器用に頭を抱えた。
「おかしい……全体的に何かがおかしいわ……」
「芸術はエクスプロージョン!」
うるさいので襟首を締めた。
その間もどんどこどんどこ爆発は続き、滝壺から、森の中から、山の斜面から凄まじい土煙が上がる。いつの間に仕掛けたんだと思うくらい、爆破装置は広域にわたって展開されているようだった。
いっそ幻想郷を破滅に導くためというのなら、理解や納得のしがいもあるというものだが、大将棋の負けから逃れるためにあっちこっちに爆弾を埋めこんだとあっては、山に生きる妖怪たちも理解に苦しむというものである。
それとも、河童ならやりかねない、河城にとりならマイナス面の期待も裏切らない、と思われているのだろうか。
今はちょっと顔面蒼白になっているにとりの表情から、このくだらない事件の顛末を汲み取ることは難しい。というかこれどう考えても収拾つかないからさっさと逃げちゃおうかなあと椛が考え始めた頃、ようやく、地震のような揺れが収まった。
だが、油断はできない。
これが、何かの前兆でないという保証はどこにもない。
そう、たとえば、更に大きな爆弾が起動する前触れとか――。
「――あ」
はっとする。
その拍子に、にとりを絞めていた手が離れ、一匹の河童が解き放たれる。
ふ、と不敵に笑う彼女の相貌から、椛はこの事件の結末を唐突に感じ取った。
「これは、自爆スイッチと言ったはずだよ」
にとりの宣告を聞くが早いか、椛は盾を拾い上げて後方に跳躍した。
上空は危ない、爆発の規模が想定できない以上、なるたけ遠くに飛ぶことが必要とされる。
一秒、二秒。
だが遅い。
「いざ、さらば」
合掌。
弾幕が爆発物に値するか否か、それはおそらく各人の判断に委ねられる問題なのだろう。
遠く、凄まじい爆発音とともに、空高く打ちあがる将棋盤を仰ぎ見ながら、犬走椛は人生について考える。
きもちいいくらいのジェット噴射だった。
「あー……」
やりやがった。
「射命丸様に貰った貴重品なのに……」
がっくりと肩を落とす。
――爆弾は、将棋盤に仕掛けられていた。
将棋の負けをなかったことにしたいのなら、その勝負の爪痕ごとなかったことにする必要がある。そのためには、何らかの手段で将棋盤を引っ繰り返さなければならない。ちゃぶ台のように引っ繰り返しても、一陣の風に吹かれたり、水に流されたり、爆弾に吹き飛ばされたり、などなど。
かくて将棋盤は天高く空に舞い上がり、今は遥か雲の隙間に隠れようとしている。
こつん、と椛の頭に将棋の駒が落ちた。
泣けてくる。
「で、にとりは……あ、いた」
はた迷惑な喧騒をばらまいた張本人はといえば、千里を見通す能力を持つ椛でなければ見つけられないくらい、遥か遠くに逃げていた。
リュックの下部から噴出される、ジェット噴射が忌々しい。
ため息は重く、今は失った尻尾も垂れているような気がした。
「とりあえず……射命丸様におねだりしないと」
悲観している暇はない。
新しい将棋盤を手に入れるための戦いは、既に始まっているといっても過言ではないのだ。
地面に降り立ち、禍々しい焼け跡の残る爆破地点を見下ろす。
にとりはまたここに現れるだろうか。
愚問だ。
椛は首を横に振り、にとりが消えた方角を見る。
その空には二本の白雲がどこまでも長く伸び、やがては薄れて消えてゆく儚い風景であるにしろ、見るものの心にその足跡を深く刻みつけた。
「今度会ったら、絶対に負けを認めさせてあげる」
太刀の切っ先を地面に向け、焦げた岩の中心に鋭く刃を突き立てる。
それはあたかも死にゆく者たちの墓標のように、あの白く長い雲を線香の煙に見立て、いつか訪れる河城にとりの敗北を予言しているかに見えた。
それは、とても気だるい午後の、小さな小さな事件。
いちばん爆発したのは、事件とあまり関係のない射命丸文であることは、もはや語るまでもないことである。
SS
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