ブラッディ・メリーに口付けを

 

 

 

 よくある話、酒に溺れて全てを駄目にする、なんてのは決して珍しいものではない。
 それは人生そのものといった教訓じみた話に留まらず、友達をなくすとか、親兄弟に恥をかかすとか、借金するとか女を作るとか、それぞれのパーソナルによって多種多様な破滅をもたらすのだ。
 たとえば。
 親友の背中に乗っかって、そのままぐっすりと寝込んでしまう愚か者だとか。
「……むにゃむにゃ……。〇時、三十八分……ジャストぉっ!」
「きゃあぁっ!」
 叫ぶと同時に後ろからリバーブローをかますのは勘弁してもらいたい。
 ついでに言えばあんまりジャストでもないし。ていうか星見えてんじゃん。起きてんじゃん。
 親友から友人に格下げしてしまおうかと真剣に考えながら、私――マエリベリー・ハーンは、今のところは親友である宇佐見蓮子を背負いつつ、放っておく訳にもいかないもんだから、仕方なく彼女のアパートに向かっている。
 むにゃむにゃという分かりやすい寝言と、ほのかに漂ってくる独特の匂いから察する通り、宇佐見蓮子は壮大に酔い潰れている。それだけなら何とか微笑ましいなと思えるのだけど、眠りにつく間際、友人の腕を掴んだきり頑として離さないというのは、乳幼児でもないのだから勘弁してもらいたい。
 しかも。
「……ぐぅ、う、ぅ……め、メリー!」
「何よびっくりした!」
「……ぐぅ」
「本当に何でもないじゃない!」
 驚き損である。
 と、このようにハッキリとした寝言まで吐くものだから、それにいちいち反応していると近所の方々に迷惑が掛かるわ犬に咆えられるわ野良猫に威嚇されるわ、しまいには部屋までの道筋を間違えるわで、散々な目に合わされるのだった。
 まあ、律儀に反応してしまう私にも問題はあるのだろうけど、今回は被害者ということで目をつぶってほしい。
「……つ、着いた……」
「五時五十五分! 五時五十五分!」
「まだ早いからね」
 びっくりするくらい深夜である。具体的には肌が荒れるくらい。
 いっそのこと、蓮子の洗顔液にアロンアルファを混入させたろかとさえ思う。
 改めて、蓮子が住んでいるらしいマンション――とアパートの中間レベルに位置している建物を見上げる。
 正面玄関の内側に集合ポストがあり、その数からすると部屋数はさほど多くないようだ。蓮子の部屋は三階にあり、思わずエレベーターがないものかと廊下と外壁を確認してみるものの、ちっちゃい蛍光灯と細い月明かりだけでは限界がある。お酒のせいで目も痛い。せめて業務用のエレベーターでもあれば、蓮子だけ三階に送り届けることもできるのだけど、それはちょっと薄情かもしれない。
「……ったく、仕方ないわね……」
「……う、うしろ」
 蓮子の戯れ言は無視して――決して怖かったからではない――、力なく垂れ下がった蓮子の腕を引っ掴み、心に活を入れて階段を上り始めた。

 

 

 蓮子は私を部屋に入れたがらない。
 その理由は、近頃の若者に多いとか少ないとかいう、典型的な片付けられない女性の一室そのままだからだそうだ。
 とはいえ、流石に足の踏み場もないくらい酷い環境ではないだろう、と高を括っていたのがいけなかった。単刀直入に言うと、足の踏み場はあったが、むしろ足の踏み場しかない。
 なにこれ。
 テンポの悪い寝息を繰り返す蓮子を背に、私は言っても仕方のないことを呟いた。
「これは……どこの戦場かしら」
「いまじーん……」
 むにゃむにゃ、と口をもごもごさせる蓮子の気楽さが憎い。というか本当は起きてるんじゃないのか。試しに頬を引っ張ってみるものの、容貌が変になるだけでボロのひとつも出さない。根気があるのか、ただの天然か。
 どっちでも嫌だけど、とにかく現状を打破しないことには始まらない。
「これ、嫌がらせなのかしら……」
 築き上げてきた友情を疑いながら、ペットボトルやら空き缶やらペットボトルやらペットボトルやら空き缶やら空き缶やらを蹴飛ばすというか飲み物ばっかりだなこれ。
 やっぱり嫌がらせだろうか。
 結構な疑心暗鬼に囚われながらも、何とか蓮子をベッドに寝かせる。幸い、ベッドの上だけは真っ白な平穏が保たれていて、空き缶やペットボトルの撤収を義務付けられることはなかった。
 しかし。
「しっかし……なんというか、お酒ばっかね」
 こう、見渡す限りお酒とビールとお茶の抜け殻ばかりだと、蓮子が過度のアルコール依存に陥っているのではないかとさえ思う。確かに蓮子は飲む方だが、かわりに酔うのが早いからお酒に強いとはお世辞にも言えない。私はむしろその逆で、酔うのが遅いから量を飲んでしまうのだけど、その代償として激しい二日酔いに襲われる。聞いた話によると、蓮子は生まれてこのかた二日酔いなどしたことがないと言うのだから、不公平というかアンフェアというか。
 それはともかく。
 あちらこちらにアルコールの残骸が転がっているというのに、お酒の匂いがほとんどしないというのも妙な話である。テーブルの端に寄せられている缶の中身を覗いてみると、簡単に水洗いはしているようだ。加えて、これまた要所要所に配備されている匂い消しのスプレーの存在が、表層と実体の伴わない空間を構成する一因となっているのはもはや言い逃れのできない事実である。
 要するに。
「蓮子……」
「むぐぐょ」
「あんた、ちょっとは部屋片付けなさいよ……」
「ふぎぎぇ」
 むきだしになったお腹を掻いている、蓮子に真の幸福が訪れるのはいつの日か。
 まあ、この部屋のようなざっくばらんな日々を送るのも、ひとつの幸福と言えないこともないのだろうけど。
 私はただ、酔ってもいないのに額に手をやるしかなかった。

 

 

 掃除してみて分かるのは、カクテル系のお酒がかなり多いということだった。
 赤、青、黄色、緑に紫、ピンクにオレンジ。ここまでくると目が眩む。
 目に次いで頭までキリキリと痛み始める前に、軍手をはめた手で空き缶やら菓子袋やらペットボトルやらを分別していく。匂いがきつくないだけまだマシだが、これでアルコール臭が充満していたら私は何でも屋に掃除を依頼していただろう。無論、代金は蓮子持ちで。
 こういうとき、自身の性格が疎ましくなる。こうなったのは蓮子の責任なのだから、このまま放っておいても害はない。蓮子だって何も言わないだろうし、片付けてほしいとも言っていない。あるいは、私のやっていることが余計なお世話だという可能性もある。
 でも、だとしてもだ。
「放っておけないのよ……。特にあんたみたいなのは、ね……っと」
 聞こえるように、聞こえないように。
 まるで母親みたいだなあ、と老け込む自身の心意気を呪いながら、ゴミ袋を引きずって次の廃棄場に赴く。
 まだ掃除機こそかけていないが――近隣の住民に大迷惑になりそうだから、そこまではやらないつもりだけれど――、外観だけはさっぱりしたように思う。そも、缶もボトルも潰さずに放置してあるものだから、それらが異様に場所を取っていたのだ。それをただゴミ袋に突っ込むだけの作業を繰り返していれば、そのうちきれいになるのは自明の理である。
「よくもまあ、これだけ汚せたものだわ……」
 リビングを抜け、満杯になった袋から新しいゴミ袋に変換する。背中からは、呑気としか言いようのない蓮子の寝言が聞こえる。相変わらず、何を伝えたいのかさっぱりだ。
 この姿を目の当たりにすれば、百年の恋は一瞬で冷めるし、家族の縁もちょっと切りたくなる。
 蓮子は私が家族じゃなかったことを感謝すべきである。
「……ぐ、んぐ、んごごご……」
「おっさんくさいわね……」
「ははは」
「……」
「すぴょー」
 起きてる。絶対に起きてる。
 得体の知れない蓮子に対する好奇心に、やや後ろ髪を引かれる思いがしながらも、私はバスルーム及び洗面所に足を向けた。
 私の勘は、ここが危ないと激しく訴えかけている。
 しかし、本能が警鐘を鳴らす場所にこそ、本当に消去しなければならないものが潜んでいる。
 大丈夫だ。いざという時のために、匂い消しスプレーもハンカチも軍手も完備している。恐れるものは何もない。あるとすれば、蓮子が今この瞬間に覚醒し、徐に近寄ってきて私の胸元めがけて以下略すること以外に考えられない。
 そう思えば、何が待っていようと苦にもならない。私は扉を開けた。
 一応、鼻は摘まんでおいた。
「……」
「くー」
 やたらと気持ちよさそうな寝息が腹立たしい。
 兎にも角にも、眼前に広がっている光景を受け入れなければ。一人暮らしにはありがちな情景ではあるにせよ、一応はうら若き女性ということになっている蓮子がこういう生き様をしているとあっては、家族のみならず友人の私としても決して看過できない。
 要約すると、バスタブ、酒まみれ。
 赤いやら青いやら黄色いやら、ここは前衛芸術家のアトリエかと。
 それも十数人規模で詰め込まれてないか芸術家。
 どうなんだ。
「……蓮子ぉー!」
「ぐぅ」
 心の中で咆えてはみたが、やっぱり外にも漏れてしまった。それにいちいち反応する蓮子の鼻に、洗濯バサミでも仕掛けてやろうかとさえ思う。本当に実践したら死に至りそうなので自粛。
 白い浴槽の中に、積み上がっている空き缶の山。これはいい。塵も積もれば山となる、当たり前だ。で、次。浴槽の外にまで積んである――と見せかけて、敷き詰められた空き缶によって床がせり上がっている。踏んだら死ぬほど痛そうだから、扉を開けたままの体勢で現状を維持します。
 それ以前に、何をどうすべきなのか見当も付きません。
 助けてください。
 誰かー。
「……ぐごご」
 元凶は大人しく寝ていなさい。
 さて、いつまでも扉の陰に隠れている訳にはいかない。いい加減にこの現実と向き合わねば、遠い昔に思い描いた、輝かしい未来になど辿り着けやしない。というかまあここでアルコール漬けの浴槽を目撃しているあたり、この延長線上に煌びやかな未来など存在しないんだろうなぁ、というのは朧気ながらに理解しているけれど、それはそれだと心の奥底に刻み込む。
 強くあれ、私。
「……メリー」
 うっさい蓮子。
 喋っているように聞こえていても、あれは寝言だと強く言い聞かせる。充満し、自然発酵の憂き目に遭いそうな酵母コンボの連鎖反応は、密封されていればこそ分かり辛いものの、こうして初の対面を果たしてみれば、一撃必殺、一刀両断、鎧袖一触の悪臭を放って放ってしょうがない。
 つらい。
 私も、蓮子ほどではないにせよアルコールを摂取しているから、この自己主張の激しすぎる匂いはかなりきつい。胃に、腸に、胸に、喉にくる。そして最後は、入れるはずの口から何かしらの流動体が――。
 うぷ、とひそかに湧き上がりつつある物質に恐れおののきながら、咄嗟に唇を塞ぐ。
 危ない。ここにいてはいけない。
 なんだかんだと世話を焼いてはみたが、ミイラ取りがミイラになってはミイラ取りが減る一方だ。
「し……しょうがないわよね……。生命の危機だし、尊厳の喪失だし、自我の崩壊だし……」
「メリー……」
「あぁもう静かにしてよ……。そっちは寝てるからいいでしょうけど、私はちゃんと理想と現実の境目を見極めないといけな」
「メリー……うぷ」
「って、蓮子起きてるー!?」
 起きてた。
 しかし何故このタイミングで。
 空気読もうよ。
 今度ばかりは、しっかりと二の足を立てて目を開けているから間違いない。しかも、私と同じく口に手を当てているから、おそらくは肉体的にあまり芳しくない状態にあることは想像に難くなく――。
「とか言ってる場合じゃないー! 蓮子、ちょっと蓮子ー! ここは、ここはちょっとまず」
「うぷぷぷ」
「うわー! うわー!」
 勢い余って背中とかチョップしてるけどごめん。
 でもこんなところにまで徘徊してくる蓮子も悪いと思うな。
 まあ、総合的にお互いが悪いってことで、きれいに丸く収めてほしいのよ。
 だから。
 だから吐くな。
「蓮子ー!」
「ぅ……な、なにメリーぅぷぷ」
「うわー! うわー! 口、口を開けたらもっとまず――!」
 うわー! うわー! うわー……。

 

 

 さて。
 結論から先に言うと、蓮子は責任を持って私がトイレに移送しました。
 吐いたけど。
 そりゃあもうすごい勢いで。
 土石流でした。
 さんざん吐くなと言ったのだけど、それでも結局吐いてしまう蓮子は友達泣かせだと思います。
 友人から知り合いに格下げしてやろうかしら。
「ごめんごめん、ついつい飲みすぎちゃってー」
「私、蓮子は二日酔いしないもんだとばかり思ってたわ……」
「はは、そんなことないわよー。でも、私の場合はあっと言う間に過ぎ去っていくから、気持ちよく寝てると気が付かないこともあるわねえ」
 ベッドに寝転びながら、他人事のように蓮子が言う。
 戻した直後は流石に顔色も優れなかったけれど、水を飲んで少し休んだら血色も良くなった。回復力が違うのは、やはり生まれ持った体質なのだろう。羨ましいような、そうでもないような。
「ん……今夜もいい天気だわぁ。二時六十八分八十七秒」
「酔っ払いは寝てなさいよ、もう……」
「失礼ねー、酔ってないわよお」
 十二進法を超越した概念と、明らかに間延びした口調が酩酊の証である。
 私がそれを突き付ける前から、蓮子は純白のベッドをごろごろと転がり続けていたけれど。
 全く、酔っ払いは気楽でいい。
「それと。蓮子、少しは部屋片付けなさい。これじゃいくらなんでも酷いわ。酷い、酷すぎる。凄惨。無残。絶望的」
「私は、メリーの方が酷いと思うわあ」
「因果応報。気分が悪くなったのも、バスタブがあんな状態に……て、そういやあそこが一番酷いのよね……もう、何とかしないと具合が悪くてしょうがないわ」
「いいよいいよ、あれは私が何とかしておくからー」
「リビングのゴミを何とかした結果があれなんでしょ。どうせ場所変えるだけなんだから意味ないわよ」
「ぐ……」
 ずぼらな人間の行動パターンなどお見通しである。伊達に精神学を専攻している訳ではない。
 尤も、今の推理は日頃から蓮子という人間を観察してきた成果とも言えるのだけど。
 ぐぅの音も出ないまま、蓮子はうつ伏せになって随分とさっぱりとした部屋を傍観する。空き缶がなくなっただけで、この部屋もやけに広々と感じられるようになった。
 二の句も告げられなかった蓮子が、もちろん良い意味で変わり果てた部屋の光景に感動している。
 たとえそういうふうに見えただけだとしても、私がそう思いたいのだから真偽を測る必要もない。
「へぇ……。凄いわね、メリー」
「私は、ここまで汚せるあなたの方が凄まじいと思うんだけど」
「客観的に見て、そこで初めて明確な真実が姿を現すのよ」
「……誰が見ても汚いに決まってるじゃない」
「メリーはいいお母さんになれるわねー」
 懲りずにベッドの上を転がり、顔を枕に押し付ける。やっぱりまだ気持ち悪いようだ。
 しかし、蓮子の理論で行くと彼女は立派な母親になれないらしい。
 ジェンダーの論争はさておき、蓮子がかなりずぼらな人間であることは十分に理解できた。夢を現実に変える、と豪語していたわりには、リビングから溢れたゴミをお風呂場に隠蔽するという現実逃避を行っているあたり、なかなか病根が深いと言えよう。
 まあ。
 ちゃんとした人と恋愛するなり結婚するなりすれば、蓮子が言う客観的な真実に基づいて、いやがうえにも整理整頓せずにはいられなくなるのだろうけど。
 友人に介抱されなければ家にも帰れない姿を見ていると、その未来は永劫に遠いようにも思える。吐き出そうと飲み込んだ空気が溜息に変わる寸前、きゅう、と仔犬の鳴き声みたいな腹の音が響く。
「ちょっと、お腹が空いたわね」
「じゃ、メリーだけで何か食べていいよ。私、ちょっとぐったりしてるから」
「まあ、それは見れば分かる」
 ぐだー、と弛緩した状態でベッドに広がる蓮子。なんとはなしに、アメーバを彷彿とさせた。
 やる気のないドミノ会場みたいだった部屋は、一転して引っ越し二日目の何もない部屋と化してしまった。そこに一抹の寂寥を覚えながら、私はリビングとそう大差ない状態だったキッチンに向かう。無論、空き缶のひとつも存在しない。私がいる限り、それらの存在は決して許されない。
 微熱のような火照りを覚えながら、冷蔵庫の前に屈み込む。ここまではいい。
 それから、不意に、どうしようもなく嫌な予感に囚われる。
 嫌だ、駄目だ。
 ここから先を覗いてはならないと、私の瞳が警鐘を鳴らしている。
「……あ。あれ?」
 灯りを点けて、辺りを見渡す。違和感は消え去らないまま、頑として留まり胸にしこりを残している。
 おかしい。
 この感じは、何かと似ている。
 でも、でも。
 だとしたらどうして、部屋に入ってすぐにそれと気付かなかったのだ。
 違えている。何か、決定的なものを。
 考えすぎて、くらり、と頭が酔う。酔い。酩酊。ほろ酔い、泥酔、千鳥足。
 ――そうか。
 私は、舌を打った。
「……メリー、お行儀がわるいー」
「蓮子が言うな!」
「あはは」
「笑い事じゃないってば! だって、なんで冷蔵庫に境目が見えるのよ! おかしいおかしい! 何か間違ってるわよ!」
「……んー?」
 全く、事態の重さを理解していない蓮子は、しばらく敷居の向こうで押し黙った後。
「あ、多分それ、一年くらい開けてないからじゃないかなー」
 なにそれ。
 結界か。結界なのか。
 だからなにそれ。
「蓮子、それは」
「でも、隣にちっちゃい冷蔵庫あるでしょ? 一人暮らしだと、そのくらいの大きさでも事足りるから困ったもんよねー」
 あははは、と呑気に笑ってくれる宇佐見蓮子。
 私は、彼女の恐ろしさの一片を垣間見ただけだった。更に深く掘り下げてしまったなら、そのとき私は、自我が崩壊するに足る禁忌を見ていたかもしれない。
 冷蔵庫の扉に沿って、丁寧に境目の線が引かれている。耳を澄ましても、雫の音も稼動音さえも聞こえてこない。聞こえたと思えば、それは隣に控えていたミニサイズの冷蔵庫が発していた音だと気付く。
「……もしかして」
 ふと、思うところがあって、今一度バスタブに足を向ける。
 今となっては、危ういけれども確かな平穏が訪れている浴室の扉に沿って、おあつらえ向きに、結界の境目らしき線が引かれていた。
 私は、蓮子に聞こえるように舌打ちをして、それが聞こえているはずの蓮子も、行儀がわるいわねえ、というお決まりの台詞をこぼした。

 

 

 封印はそのままにして、プチ冷蔵庫から掠め取ったチーズに海苔を巻いて、それを肴にカクテルを頂くことにする。今日はお酒のせいで散々な目にあったのだけれど、お酒そのものに善悪はない。
 丸いテーブルの前に座って、全てが終わった後の溜息を吐く。
 蓮子は、仰向けになってぼんやりと中空を眺めている。起きているのか眠っているのか、腕をアイマスク代わりにしているから知りようがない。
 それでも、お酒の匂いには敏感に反応し、緩慢な動作でこちらに首を向ける。単に、気持ち悪さから反応せざるを得ないのかもしれないけど、だとしてもそれは自業自得だ。
「……飲むのー?」
「飲むわよ」
「メリー、二日酔い酷いんじゃなかったっけー」
「量を飲まなければいいのよ。蓮子と違って、私は自制が利くタイプだから」
「そんなこと言ってえ、いつもいっつもあたまいたいーってメール来るじゃない。少しは反省しなさいー」
「蓮子に言われるようじゃおしまいね」
 くそー、と残念がるでもなく、猫のように喉を震わせる。
 私はアルミ缶の蓋に爪を立てて、赤く赤く染まったカクテルをグラスに注いでいく。
 名前を、ブラッディ・マリーと言った。
「血まみれ血まみれー」
「うっさいわね……」
 これを飲もうとすると、聞き分けのない子どものように揶揄してくるのが恒例となっている。
 私はただ可愛げのある茶々を聞き流して、口当たりのいい、それでいて胸に染みる味わいに浸る。
 時計の針がかちこちと巡る音だけを聞きながら、一杯二杯と杯は巡る。
 でも、蓮子が私をからかう気持ちも、分からないではないのだ。
 私がこれを好んで飲むのも、他愛のない語呂合わせに近いものがあるから。
「そういう蓮子は、アラウンド・ザ・ワールドなんて珍しいお酒を飲んでるじゃない。ひとのこと言えないわよ」
「あれはね、私だけじゃなくて、秘封倶楽部に乾杯、という意味合いも込めてですね」
「はいはい」
 くそぅ、と残念そうに枕を叩き、ふらふらと幽鬼のように起き上がる。
 驚く間もあればこそ、蓮子はベッドから不時着し、頼りない足取りでキッチンに肉薄する。
 この様子だと、あんな状態であろうとも徹底的に飲み尽くす気でいるらしい。嘆息する代わりに、赤く彩られたグラスを傾ける。
 うん。
 なんのかんの言ったところで、私はこの酔う感覚が好きみたいだ。
 主観と客観、夢と現を見誤る一線が。
 現の中で夢を見て、まどろみの中に落ちていく。
 時にはこれが現実なのかと、目を疑いたくなる惨状に出会うこともあるのだけど。
「ふう……」
 程なくして、片手に二缶、両手で四缶の運搬に成功した蓮子が意気揚々と引き返して来る。
 大方の予想を裏切ることなく、彼女の手にあるのはアラウンド・ザ・ワールドとブラッディ・マリー。
 澄んだ空色と濃い赤色は、お互いの求めるものの違いが明確に現れているようにも思えた。
 あるいは、両者が望み得る未来と、行き着いてしまう旅路の果て。
 そんなあからさまな結末を、否応なしに想像させてくれる。
 この、たった一組の盃は。
「さあ! 今日はとことん飲むわよぉーぇぇ」
「吐きかけてる吐きかけてる」
 まだまだ飲み足りない、と豪語する蓮子の活力は、いつまで経っても失せる気配を見せない。アセトアルデヒドで留められるのは彼女の動作だけで、その底に潜んでいる吹き溜まりような意志は、押し寄せてくるありとあらゆる干渉にも屈することなく、いつか彼女に突き動かされる時を待ちわびている。
 私は諸々の暗澹たる未来を振り払って、色とりどりに彩られた杯を掲げる。
 きょとん、と目を丸くする蓮子に、こほんと咳払いをひとつ交わした後で。
「乾杯」
「何に?」
「未来に、よ」
「私たちの、ね」
「私と、あなたの未来に」
 掲げるだけで、縁が重なり合うこともないちっぽけな杯は、数秒の停滞を経て、すんなりとお互いの唇に吸い込まれていった。
 喉の奥深くに落ちていくふしだらな水の誘惑に、頭の中身が揺さぶられる。
 いつか。
 いつの日にか。
 秘封倶楽部という契約の楔が、何かの拍子に抜けてしまったなら。
 私は。
「……ん、んっ、はー! いい、いいねえ! やっぱりこういうのは!」
「そうね。ところで蓮子、あなたの瞳がぐるんぐるん回っているんだけど、そのあたりの心境について一言どうぞ」
「世界は丸い!」
「ご協力ありがとうございました」
「どういたしましてー」
 私たちは。
 二人がそれぞれ持ち合わせた新しい楔を、お互いの胸に突き刺し合うことができるだろうか。
 そうして、秘封倶楽部ではない、新たな絆を紡ぐことができるのだろうか。
 私たちは、重なり合った現在という一点を過ぎれば、ゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく直線に等しい。近付こうとしても、いつか、どちらかのグラフからは姿を消してしまう未来を固く縛り付けている。
 悲しいけれど、別れは来てしまう。生きている限り、何度も、何度も。
 でも。
 それでも。
「それじゃあ、次は血まみれメリーいっちゃおうかなー!」
「翻訳すると生々しいからね」
「メリーもさ、浪漫飛行とか飲んじゃっていいわよー。私は器が大きいから」
「ずぼらなだけでしょう、全く……。けど、アラウンド・ザ・ワールドを浪漫飛行って……」
「大胆に意訳してみました。感想求む」
「……うん。格好いいんじゃない?」
「でしょ」
 だとしても。
 私たちは新しい缶を握り締め、洗いもしないで自らの器に注ぎ込む。
 蓮子が血の赤を飲み下すように。
 私が世界を嚥下するように。
 分かち合い、重ね合い、委ね、預け、束ねていく。
 未来を。
 心を。
 それぞれが、それぞれに生きるための道しるべを。
 私と、あなたは。
「かんぱーい!」
「それ、さっきもやった」
 私と、あなたで。
 ずっと、ずっと、繰り返していくのでしょう。
 これからも。
 これからも。

 

 


 天空の絨毯に、煌びやかな点描が敷き詰められている。
 それを目印にして帰ることができたなら、私は蓮子の代わりになれたと言えるのだろうか。答えは否だ。私は、どこまでいっても私にしかなれない。蓮子もきっと、彼女以外の何者にもなれはしない。
 火照った肌に夜気が冷たく、手のひらに収まった飲みかけのお酒をあくせくと冷やしている。
 余った手のひらで頬を撫で、人っ子一人いない午前六時の公道から、蓮子が眠っているであろう部屋の窓ガラスを仰いでみる。
 ぐぅぐぅ響く迷惑な音色も、流石にここまでは聞こえてこない。寝惚け眼のカラスが鳴いて、ごはんに忙しいスズメが急かす。気紛れに、私は自分の頬を抓り上げる。痛い。痛い。二秒で断念した。
 これが、夢と現のどちらなのかという、どうでもいい解答を捻り出すのは。
「……まあ」
 朝焼けが近く、前を窺えば紫の稜線が輝いている。
 深く重苦しい酔いの塊は、いまだ私の奥深くに留まり続け、何やら物騒極まりない結論を導き出そうとしている。私は泣き上戸でも笑い上戸でもなく、静かに酔って、静かに鬱屈する性質であるらしい。今日、それが判明した。
 けど。
 蓮子といるなら、どんな時だって楽しい宴だ。
 これだけは、私が保証する。
「さて、最後に一杯」
 残しておいた最後の雫を、喉元深くに流し込む。
 心の中に染み込んだのが、どちらのお酒かは関係ない。私はどちらも飲み尽くそう。どちらであっても、それは私を作る点になる。私を繋ぐ線になる。
 そう思えば、夜空だろうが血液だろうが、遠慮もなしに飲めるというものだ。
 最後の一滴まで吸い込んで、空っぽになった缶を片手に、意気揚々と歩き出す。
 近いうちに、蓮子の部屋を本格的に片付けなければならない。強固な封印が施された二重結界を、完膚なきまでに叩き潰さねばならない。
 私が蓮子と繋がっているなら、あの汚れこそは私の穢れだ。それだとするなら、取っ払わねば気がすまない。ふふふとほくそえむ唇の端に、まだお酒の雫が残っているような気がした。
 彼方まで続く曙の稜線を潜るように、私は足早に家路を辿る。
 そう遠くない未来に訪れるであろう、二日酔いの恐怖に怯えながら。
 この胸にまだ残っている、ほのかな熱を忘れることのないよう、自分の身体をきつく抱き締めながら。

 

 

 



OS
SS
Index

2006年4月15日 藤村流

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