一日一東方 暫定版

二〇〇八年 六月三日
(地霊殿・黒谷ヤマメ)

 


『ブラック・ブラック・イントロダクション』

 

 

 天に網を張り、さかしまに地面を仰ぐ。
 地上が晴れでも曇りでも、地下は相も変わらぬ暗黒に満ち満ちている。虚しいものだ、と嘆き、喚き散らすように声をあげる時代は過ぎ、今はこの暗闇にも目は慣れている。鬼が無くとも侵入者を迎え撃つことは出来、光が無くとも水の在り処に辿り着くことはできる。地下の生活は、この尋常ならざる視界を生み出した。押し込められた不遇はあれど、憎しみばかり抱いているのも身体に悪い。
 この身が病を生み出す器ならば、せめて心だけは晴れやかでありたい。
 善悪でなく、優劣でなく、ただそこにあり、生き物として向かい合えたなら、意味のある言葉を交わし合えるような。
 そういう生き方を、したいと思っている。
「誰も来ないー」
 愚痴る。
 声は空洞に弾かれて絶え間なく反響する。己の声が不確かに膨らみながら消えていく現象を思い、黒谷ヤマメは己の巣から手を離した。落下の感覚を悟ったのは一瞬で、次の刹那には身体を反転させて両の足を地面に落ち着けていた。別段、糸を足に括りつけてバンジャージャンプの真似事をせずともよい。地下はヤマメの棲家であるから、何処に何があるか、何をどうすればどうなるのか、そんなものはとうの昔からわかっている。
 わからないのは、この暇をどう潰せばよいのか、ということくらいだ。
 そればかりは、ヤマメひとりではどうしようもない。
「水でも飲もうかねー」
 折角だから、ふたつの足を踏み締めて歩く。靴の音が岩を蹴り、かつんかつんと、寂しげな音色が洞窟に沈む。
 洞窟には何がある。鍾乳洞か海底通路か、いずれにしても水はある。地の底か天の雫か、それだけの違いに過ぎない。此処こそは天と地の狭間、空にも昇れず地にも沈めず、けれども境にあるからこそその眼を輝かせる命がある。
「歩くのは大変だねえ。八本あっても疲れるんだから、二本なら尚更だ」
 独り言は必然、闇に消える。それを寂しいとも虚しいとも感じない。聞く者がいないのが苦ではない。話す者がいないのが苦なのでもない。ただ、それを苦と思うことが苦なのだ。だから、それを苦と思いさえしなければ、何も苦しいことはないのだ。
「誤魔化しかねえ。ま、別にそれでもいいさ」
 呟く。
 水辺は近く、水音と共に涼しげな風がヤマメの頬を撫でる。久しく浴びていない外界の空気を肌に感じ、懐かしむべきか、妬むべきかをしばし逡巡し、嫉妬は橋姫の領分だろうなあと鼻を鳴らす。
 橋姫はいなかった。
 が、別のものならいた。
「誰」
 何かがいる。
 何かがいたから、声をかけた。誰かのために声をかけるなど、久しく無かった。自分のための独り言、他人のためのふたりごと。いずれにしても、ちゃんと声が出たから、よかった。
 洞窟の天と地を貫く鍾乳洞の合間にある、無傷の岩に腰掛けて、白い彼女は素足を水に浸していた。冷たそうだな、となんとはなしに思う。それは、地下水の冷たさを思ってのことか、彼女の肌を思ってのことか。
 彼女は、ようやくヤマメに視線を送る。
「ユキメ」
 そんなことを、彼女は言った。
 ゆきおんなのことだろうかなあ、とヤマメは思う。多分、格好をつけた言い方をしたかったのだ。彼女は。そうに違いない。ヤマメはうんうんと頷く。
「雪女は、種族の名前だから。人間みたいな呼び名にするなら、ユキメ。ま、レティっていうちゃんとした名前はあるわけだけど」
「レティ」
 繰り返す。やっぱり雪女だった。ヤマメは満足げに頷く。
「貴女は?」
「ヤマメ」
「種族?」
「うんにゃ、種族でいうなら土蜘蛛かいね。姓は黒谷、名はヤマメ。ま、こんな洞窟じゃ名乗る名前も錆びつくってなもんさ」
 腰に手を当て、気だるげに嘆息する。レティは、物珍しさが勝っているのか、ヤマメの姿を頭から爪先まで眺めている。それに対抗して、ヤマメもまたレティの全身を舐めるように見つめる。
「珍しい?」
 問いかけたのは、レティが先だった。
 爪先が水面を蹴り、乱れた波紋が冷厳な流れを遮る。
「私のような、生き物がいるのは」
「ああ、珍しいね」
 素直に肯定し、ヤマメは一歩前に出る。気が付けば、言葉は岩の壁に弾かれるものの、さっきよりはうるさく響かない。それはきっと、向かい合う位置にレティがいるからだろう。そう思った。
「こんな奥深くに来るのは、欲に目が眩んだ奴か、死に場所を求めてる奴、あとは……暇な奴くらいだあね」
「そうね。そんなものかもしれないわね」
 素足を上げれば、爪先から伝う雫がふくらはぎを伝い、やがて重力に耐えかねて、岩肌に落ちる。
「あんたは、死にたい類のアヤカシ?」
 素直に聞くと、レティは少し驚いたような顔をした。
「そう見えるかしら」
「ま、安住の地を求めているようには見えるなあ」
 自慢げに鼻を鳴らすと、レティも腕組みをして唸っていた。そんなにわかりやすい顔をしているのかしら、と白い肌を擦ってみたりもする。が、ヤマメがじっと熱心な視線を送り続けているものだから、なんとなく恥ずかしくなって手のひらを太ももに置いた。
「暑いのは苦手なのよ。だからって、土の中に潜ってやり過ごすわけにもいかないから。だから、洞窟の中」
「ある意味、土の中だね」
 いらっしゃい、と芝居がかったお辞儀をする。
 レティもそれに乗じ、微笑みを交え、岩の上から降り立つと、スカートを摘まんで小さく会釈をする。
「本日は、お日柄もよく」
「雨も雪も槍も降らないけれど、季節外れの氷柱なら降るよ」
「少々、お邪魔してもよろしいかしら」
「病んだ寝床に文句が無けりゃあ、地獄の果てまで連れてったげるよ」
 ヤマメも自然と微笑みをこぼし、背後に広がる尊き深淵を、両手を広げてレティに見せびらかす。
 この笑みが邪悪に映ろうとも、それは純真無垢と同義だろう。闇に在る者は闇に染まる。笑みも涙も、姿も言葉も何もかも。だからせめて、心は晴れやかでいようと思う。
 善悪でなく、優劣でなく、ただそこにあり、生き物として向かい合えたなら、意味のある言葉を交わし合えるような。
 そういう生き方を、したいと思っていた。
 思い続けていた。
「ようこそ」
 そうとも。
 我は土蜘蛛、病をこの身に宿す器だ。
 だが、一体何を呪うことがあろうか。
「私はあんたを歓迎するよ」
 ヤマメは笑う。満面の笑みで。
 地上を生きる者にとっては、あまり気持ちのよい笑みではなかったかもしれないけれど。それでも。
 そして、レティはごく当たり前のように、何事かを口にした。
 こちらは、教科書通りの素敵な笑みだ。羨ましい、が、妬むのはよそう。無いものねだりはみっともないし、それに、それぞれがそれぞれに思う最高の笑みを交わしあえたのだから、これ以上のことはない。
「へへ」
 また、笑う。
 それにしても、あれはなんという言葉だったろう。
 意味はわかるし、理解もできる。
 でも、生まれて初めて言われたっけな。
 そうでもないか。そうでもないかな。
 まあ、ちっちゃなことかもしれないけどね。

 

 

「ありがとう。ヤマメ」

 

 

 

 



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2008年6月3日 藤村流

 



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