秘封式等位接続
壁に空いた拳大の穴を見てメリーが思うことは、ああ、敷金とか礼金とか面倒だなあという雑念程度のものに過ぎなかった。
結界の境目であると断定するには少し早いが、穴の向こう側が全くの闇である事実、メリーの能力、異変遭遇頻度を鑑みれば、なるほど私はずいぶんと異常事態に慣れっこになってしまったのだなあと思うことしばしであり、要は結界の境目が穴という形でもって自分の前に現出したと考えるのが最も自然なのであった。
今は朝である。
しかるに、わりと眠い。
たかだか壁にボカンと穴が空いただけで、貴重な睡眠時間を削るほどメリーも愚かではない。そりゃ穴から腕や脚が出てきたら少しは対策を講じるけれど、でもなければわざわざ自分から手を突っ込むなんてことはしない。絶対。
蓮子なら好んで突き入れそうだが、まあ、それはそれである。
「後で電話してあげようかしら……」
布団をかぶりなおし、枕もとの白い携帯を手のひらで転がしながら、メリーは目をつぶった。
ベージュの壁紙をくりぬいた円は、息を潜めるように、ただそこにあった。
メリーがぱちくりとまぶたを開けると、目の前に黒帽子をかぶった蓮子がいたから、とりあえず「変態!」と叫んでおいた。
殴られた。
「私、そんなに変態的な要求をした覚えはないけど」
「ああ、私ももし蓮子がそんな要求したら遠慮なく殴らせて頂くわ」
女の子相手にボディ数発(横隔膜)はプロの手並みなんじゃないかとメリーは考えたが、疑問を呈すると負けになるから諦めた。パジャマ着替えるからあっち向いてて、と言ったところで聞いてくれる蓮子ではないと承知していたから、あまり気にしていない振りをして着替えを断行した。
「で、これが例の境目ね」
連絡も何もしていないのに例も件もあったもんじゃなかったが、メリーはブラのホックを留めるのに精一杯だった。そろそろサイズをごまかすのも限界らしい。出費が増えるなあ、と陰鬱なため息を吐いていると、何故か蓮子が真面目な顔でブラのホックを外していた。
殴った。
「まさか宣告から一分も経たずに友人が変態行為に及ぶとは、さすがの私も思ってもみませんでした」
「手伝ってあげようと思っただけなのに……」
頭頂部を擦りながら、弁解とも本音とも取れる発言をする。帽子ははらりと床に落ち、グレーの色彩に黒い帽子が小さな島を作り上げていた。
その後、蓮子はぶちぶち愚痴をもらしながら境目の観測に没頭していた。メリーは淡々と着替えをこなし、洗顔、髪の手入れをこなし、化粧は面倒だからすっぴんのまま、後は適当にあんぱんなどを持ってリビングに帰ってきた。
気付けば、蓮子はベッドで寝ていた。
「あ、おかえり」
「ただいま。なんだか良いご身分ねって言いたいくらい自由ね」
「幸せは分け合うものよ」
「私は幸福に貪欲でいたいの」
掛け布団をひっぺがし、眠りに就こうとする蓮子を引きずりおろす。うああと言いながらカーペットに投げ出され、打ち所が悪かったのか鼻の頭を押さえてうずくまっている。
「痛い……」
「ところで、どうして私の部屋に変な穴があるってわかったの」
蓮子の懇願を無視してメリーは話を進めた。お互いに同情が通用するほど初々しい仲ではないと知っていたから、蓮子も鼻をさすりながら例の穴に接近する。
「それはね……。勘よ」
「自慢することじゃないじゃない」
「第六感とかテレパシーとか電波でもいいわよ?」
「同じことよ」
呟き、メリーも穴に近付く。蓮子は何故か当たり前のように穴の前に屈みこんでいて、メリーはつと不安に駆られた。
結界の境目は、メリーにしか見えない。この広い世の中、境目を見れる人間は探せば何人かいるかもしれないが、メリーが把握する限りこの界隈では自分しかいないと考えている。
だから、メリーの指摘する前から、蓮子が穴の位置を正確に把握していたことが、不思議でならなかった。
あるいは、蓮子もまた。――
「蓮子、どうして穴のある場所がわかったの」
やや厳しく追及すると、蓮子はきょとんとした顔で答えた。
「こんなの、誰が見ても壁に穴が空いてるってわかるわよ。……あ、そうか。貴女は、普通とそうでないものがうまく区別できないのね」
そこに同情の色はない。が。蓮子も喋った後に誤解を招く言い草だと気付き、取り繕うように手を合わせた。
「ごめん、そういう意味じゃないんだけど」
「ん、気にしてないから別にいいわよ。蓮子にしろ、電波とかサイコキネシスとか言ってるわけだし」
「ありがと」
あっさりと告げ、二人は穴に向き直る。
女性の握り拳程度の穴は、突き詰めれば簡単に手が差しこめる大きさである。穴の向こうは名状しがたい暗黒で、闇とも、既存の絵の具を全て混ぜ合わせた末の混沌とも言える未知だった。
「蓮子は、穴の先に何があるのかわかる?」
「んー……、どうだろ。私には、ぼんやりとした白があることしかわからないなあ。ちょっとだけ、輝いては見えるけど」
「そんなもんかしら」
「そんなもんじゃないの」
蓮子が嘘をついている様子はない。だから、彼女がメリーと同等あるいはそれに順ずる能力を持つようになったとは考えにくい。だとすれば、答えは別のところにある。
例えば、こちら側だけがあちらを一方的に覗けるのではなく、あちら側からも、こちら側が覗けるというような……。
メリーがあれこれ思い悩んでいる隙に、蓮子はおそるおそるその穴に向けて手を伸ばしていた。
その頭を、メリーは叩く。パーで。
「いたっ」
「不用意な真似をしない」
「いいでしょー、私のからだなんだからあ……」
「それに、この部屋に穴がある以上、これは私の所有物です。最低限、私の許可を得るようにしなさい」
フフンと胸を張る誇らしげなメリーの態度が癪に障ったのか、それとも単に言動の齟齬が気になって仕方なかったのか、ともあれ蓮子は淡々と告げた。
「だったら、部屋を借りてるメリーだって勝手なことできないじゃない。はじめに大家さんの許可を得ないと……、ていうか、壁に穴空いてたら敷金礼金が」
不意に、沈黙が流れる。
メリーはぼそりと言った。
「……要は、危ないことするなってことよ」
「虎穴にいらずんば」
「虎の穴には虎がいるのよ」
「でももしかしたら虎柄の服来たおばちゃんかも」
「……それはそれで危ないわよ」
会話に志向性が感じられなくなってきたあたりで、蓮子は再度壁の穴を眺める。きれいな円だ。コンパスで描いても、このような美しい円を描くことはできない。それは黒板や紙をこする際に摩擦が発生し、線は軽微ながらでこぼこになるためである。裏を返せば、摩擦があるからこそ線を刻むことができるのだが、ならばこのサークルは何なのだろう。
ブラックホール、という単語を思い出す。
だとしたら、この先にホワイトホールはあるのだろうか。
「メリー、やっぱり手は入れなきゃならないと思うのよ。ネタとして」
「ネタかよ」
「私はこの向こう側にある未来を掴み取るわ! とか」
「ネタよね」
蓮子は頷いた。
はあ、と溜め息を吐き、メリーは混沌と渦巻く穴を見つめた。
災いの目は摘むべきか、それともあえて無視すべきか。払いのける術が無い以上、後者を選ぶしかない自分に無力感がこみあげてくる。
蓮子なら「私がなんとかしよう」と夢の世界を現実に変えるくらいの意気込みで事を成してしまうのだろうけど、メリーは、夢と現の境などなくてもいいし、ほぼないと考えている。穴の先にあるものはやはり同じ世界なのだから、過度に意識する必要もないのだと。
同じ世界にある景色の色がこのように混沌としているのだと、安易に認めてしまうことはあまり面白いことではないけれど。
「やめなさい。蓮子の手首がブチ切れたりなんかしたら、わたし泣いちゃう」
めそめそと涙を拭う仕草を見せると、蓮子はたまりかねて「プッ」と笑った。
蹴る。
「泣きどころ! 泣きどころだから!」
「泣いちゃえばいいのよ」
「ひどいなあ、メリーは」
腕まくりをしながら、蓮子は唇を尖らせる。やはり、彼女の決意は変わらないと見える。
メリーに、もう蓮子を制止するだけの気力は残されていなかった。
お腹も空いたし。
「もう、勝手になさい」
「手首が取れたら、合成のマジックハンドでも装着するね」
「わあ楽しい」
「秘封倶楽部の戦闘能力が格段に上がった! 懐に600万ドルのダメージ!」
「もういいから」
「うん」
納得したらしい。
蓮子は小さく二、三回深呼吸をし、その細くしなやかな手のひらを穴に伸ばす。
唾を飲み込んだのは蓮子かメリーか、いずれにしろ、穴の先に何があっても、その結果を受け止められるだけの覚悟を抱くしかなかった。それしかできなかった。
無力であると同時に、何があるか知れない暗闇に手を伸ばすことの、愚かしさと勇ましさを知る。
蓮子の表情には一片の恐れもない。あるとすれば、失敗を恐れず、何かを得るためにみずからの心を糧として己を奮い立たせる勇気だ。
……ああ、なるほど。
メリーは、その指先を穴に向ける蓮子を見て、得心した。
穴の向こうにあるものが何か、それはわからないけれど。
穴の先にあるものが、メリーには混沌とした暗闇に見え、蓮子には光の渦に見えた。
それは、得体の知れない穴――未知のものに対する、それぞれの向き合い方なのだ。
メリーは純粋な恐怖を、蓮子は無邪気な好奇心を。
結界の境目を見ることでメリーは危険を予測し、蓮子はそれを克服する。
「行くわよ……」
行動しているのは蓮子ひとりのようでいて、これは、秘封倶楽部の立派な活動なのだ。
そうとわかれば、メリーも、蓮子を応援せずにはいられなくなった。
蓮子の手のひらが、壁にくいこむ。
「気をつけて」
うん、と、蓮子が震えるような声で告げた。
女二人と男一人が厠にたむろしていると聞き、不謹慎と知りながら淫らな想像に耽ってしまうのはやはりやむをえないことである。
だが、当人たちにすればそのような猥談に興じていられる余裕など微塵もなかった。
「……なあ」
「……なによ」
「おまえがうちにトイレ借りに来た理由てのは、あれか?」
魔法使いらしき帽子をかぶった少女が、指を差す。
「……そうよ」
明らかに巫女らしき少女が、渋々頷いた。
「ふむ」
眼鏡の男が、軽く顎を撫でた。
「お、動いてるな」
「動かなくていい……」
巫女はしおしおと絶望する。
「シュールリアリズムだね」
ぼんやりと、男が言った。
手が生えていた。
便器からにょきっと生えた女物の手は、何かを確かめるようにくねくねと動き、たまにグーやらチョキやらパーやらを形作っている。
巫女は泣いた。
「まりさあ……」
「わ、私に助けを求めるなよ! 香霖に言え香霖に!」
「りんのすけさあん……」
「――聞いたことがある」
涙ながらに助けを求める巫女に心打たれたのか、彼は、訥々と語り始めた。
「外の世界には、『うぉっしゅれっと』という機能を兼ね備えた画期的な便器が……」
SS
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