タンザナイト
ずっと、気にはなっていたのだ。
普段からあまり飾り気のない服装をしている蓮子が、一週間ほど前から、右手の薬指に綺麗な指輪を付けている。
大学の付属図書館、今週末に迫ったレポートを片付けるべく、蓮子に付き合わされる形となった私は、思い切って蓮子に尋ねてみた。
「男?」
「メリーが?」
日本語は難しい。
とりあえず「やっぱり」みたいな顔をしている蓮子のお腹を抓っておいて、若干涙目の彼女に詳しく話を聞く。調べ物など後でも出来るし、何より、私がレポート出すわけじゃないし。
「他人事みたいにー……」
「他人事だもの」
「私とメリーは運命共同体じゃなかったの?」
「何それ初耳」
「私もー」
「じゃあ初耳だわそれ」
蓮子は相変わらず飛ばしている。
レポートやら試験やら課題やらがたんまりと溜まる時節柄、図書館は満員御礼である。誰もがみな、目の前の現実と真剣に向き合っている……こともないのは、私と蓮子を見るだけでもよくわかる。
テーブルと長椅子を二人きりで占領しても誰にも迷惑が掛からないのは、やはり、ここの日当たりが最悪だからだろうか。
夏、万歳。
蝉、うるさい。
「私が聞きたいのは、その指輪のことよ」
「ああ、これ?」
手の甲を私に向けて、青く輝く指輪を示す。
深く、濃く、暗く沈み込む夜のような色合いを秘めた、鮮やかな宝石が嵌め込まれている。ブルーサファイアのようにも見えるが、それにしては青紫が濃い。
「タンザナイト。キリマンジャロの黄昏。白熱灯や蛍光灯の下に置くと、色が違って見える鉱石ね。アレキサンドライトほどじゃないけど」
「へえ……もしかして、自腹切った?」
「うんにゃ、貰い物」
「……男?」
「私、メリーが男でも付き合い方を変えたりしないわよ。だから余裕綽々で一緒にお風呂入ったりなどする」
「それで何かされても文句言わない?」
「訴えるけど」
「まあね」
「うん」
何の話だろう。
「でも、正直な話」
「ええ」
「その容姿と体型で男だったら逆に凄い」
「離れろ」
不服そうに唇を尖らせる蓮子の頭をチョップして、強引に話を戻す。
「で、そのタンザナイトは誰に貰ったのよ」
「大学の裏の骨董品屋。何でも、傷が多いもんだから売り物になんないらしくて。たまたま目を付けた常連の私に、白羽の矢が立ったというわけよ」
えっへん、と言わんばかりに胸を張る蓮子。
あんまり自慢するようなことでもないと思うのは気のせいだろうか。
「……怪しくない?」
「ま、ホープダイヤだのあるからね。魅惑の輝き、人はその肌に光を纏う生き物よ。灯りを灯すだけでは飽き足らず、みずからが輝ける炎になる。いちばんよく光ってるのは、宝石を眺めるときのギラギラした瞳なんでしょうけど」
やれやれ、と肩を竦める。
少なくとも、蓮子にその手の欲望はないようだし、宝石が似合うほど妖艶な雰囲気を醸し出してもいない。心は常に海原を求めるやんちゃ坊主一歩手前、みずからが握り締めた手綱を手に、見果てぬ夢を見続ける夢追い人である。
ひとまず、私は気になっていたことを聞く。
「……値段は?」
「貰い物だからタダじゃないかしら」
「じゃなくて、元々の値段。売りに出そうとしてた頃の」
「うーん……そこそこ大きい石だし、傷付いてる分はともかく、カットもそう悪くないと思うから……」
蓮子は空中にゼロを何個か描き、その数を見て私の顔色が変わったのと同時に、その指輪を外し、手のひらに乗せて私に差し出した。
「ほら」
「……くれるの?」
「あげないわよ。貸すだけ」
ちゃんと返しなさいよ、と念を押す蓮子に、私は頷きを返す。
リングと台座はシルバーで統一され、その分だけタンザナイトの青紫が映える。試しに、それを右手の薬指に嵌めてみて、さほど抵抗もなく関節を潜り抜けたことで、蓮子と指のサイズが同じだということに気付く。
ふと、蓮子の方を見てしまった私のことを、蓮子もまた、テーブルに頬杖を突いたまま、じっと眺めていた。
暑い。
何故、こんな日に好き好んで外を出歩かねばならないのか。
それは私の家と図書館が隣接していないからである。当たり前だ。
紫外線お断りのプラカードでも掲げながら通りを闊歩しても一向に構わない心意気ではあるのだけど、流石にそれを実行に移す勇気より、日傘を持ち歩く勇気の方が遥かに易い。
ちなみに蓮子は、夏でも冬でも変わらず、黒いハットを被る他に紫外線等々の予防をしている様子はない。無論、見えない努力というものもあるのだろうが、彼女の場合、若いからだいじょうぶ、という大義名分を掲げているだけのような気もするのだ。
そんな蓮子の隣で、堂々と日傘を差す私は如何に滑稽なのか、と鑑みることもしばしばある。
だが、私に蓮子のような思い切りの良さがない以上、私は私のやり方で、お天道様に立ち向かわねばならないのだ。
「でも、綺麗よね」
「え、私のこと?」
蓮子は嬉しそうに言う。
その自信は一体どこから来るのだろう。少し尊敬する。
「蓮子は……そういう系統じゃないでしょう」
「そういう系統って何」
「なんていうか……通常の女性的魅力がキログラム単位とすると、蓮子の魅力はメガヘルツ単位というか……ヘクトパスカルというか……」
「電波とか暴風雨とかいう単語しか思い浮かばないんですけど」
「そう、それ!」
喜色満面で指差したら、ものすごく怒られた。
傘破れたんじゃないだろうか。
「いったたた……全く、そういうところがヘクトパスカルだって言ってんの……」
「ミリバール蓮子です」
「はいはい……」
面倒くさいので流した。
「タンザナイト、本当に太陽の下だと色が変わるのね。そんなに劇的じゃないんだけど、やっぱり綺麗だわ」
「そうねー。図書館で見たときと、ちょっと違う趣があるわ。ま、私は深い色の方が好きかな。夜に似てるから」
「流石、真夜中の徘徊者は言うことが違うわね」
「誰がボケ老人だ」
「せめて、ウォーキング老人にしときなさいな」
「あれ、たまに自転車で轢きそうになるのよね。なんとかなんないのかしらね。発光するとか」
「まあ……頭とかね」
「メリーの方がひどいこと言ってる!」
鬼の首取ったように言いやがってこいつは。
ぷるぷると震える人差し指を押し下げて、再度、私はタンザナイトを天に掲げる。太陽は未だ炎天の高みに在り、地を這いずるものを燦々と照らし続ける。眩しい。確か直射日光を瞳に焼き付けてはいけないと習った覚えがある。けれども、この宝石を更に輝かせるには、その禁忌を犯さねばならないという煩悶を抱えなければならないのだ。
土の中に埋もれ、光を浴びることを忘れた石が、今は光の中に埋もれている。
眩いばかりの陽光に照らされて、タンザニアの夜は、群青色の輝きを私たちに見せつけた。
「……あれ?」
乱反射する瞬きの中、蓮子がふと、不思議そうな声をあげる。
彼女の瞳は、ただタンザナイトを見つめていた。
「うーん……」
蓮子は何やら頭の上に疑問符を浮かべていて、目を細めながら私の薬指に手を伸ばし、ゆっくりと宝石の表面をなぞってみせた。
どういう反応をすべきか迷い、しばらくそのままの状態を維持していた私だったが、蓮子が私の腕を下ろし、指輪を外し、私の薬指をはむはむし始めてようやく、私はグーで蓮子の額を殴った。
「みょお」
のけぞる蓮子。
ちゅるぽん、と妙な音を立てて、蓮子の口から薬指が離れる。
何だこの展開。
「ふおぉ……あたまが、あたまが割れるように痛い……」
「割ってあげましょうか? 生卵のごとく」
「ごめんなさいでした……」
ちゃんと謝っているようには見えないが、蓮子にしては上出来である。思いッきり両の頬を抓ることで勘弁してあげた。蓮子は泣いた。
その後、とりあえずそこいらの公園で指を洗うことにした。
夏休みということもあり、鉄棒やら滑り台やらに子どもたちが群がっているものの、その片隅に私たちが紛れていたところでどうということはなかった。蓮子のやんちゃ坊主度が半端じゃないことも、少なからずあるだろうが。
ちなみに蓮子はまだ涙目である。
「すんすん……」
「反省した?」
蓮子はこくこく頷いている。
私たちは白いベンチに腰掛け、日傘を畳む。木陰に入っていても紫外線は容赦なく私たちを苛むのだが、そこまで気にしていたら窮屈すぎて生きていけない。必ず、どこか見ない振りをしなければいけない、などと、大袈裟に言うつもりはないけれど。
「では、蓮子の釈明を聞きましょうか」
「メリーの指が美味しそうだったから」
「いくら華奢な私でも、人の指を折る手段などいくらでもあるということを肝に銘じておくべきね」
「すんませんでした」
「よろしい」
「お詫びといってはなんですが、メリーは私の指を咥えてもいいよ」
「折るわね」
「やめてほしいかな」
「じゃあ阿呆なこと言うな」
「いえっさー」
敬礼する蓮子。
もはや真面目に反省しているかどうか考えるのも煩わしい。とりあえず畳んだ傘で頭を叩けば、帽子に当たってぼすんと跳ねる。
「結局のところ、指輪なのよ」
こう、急に真剣になるところが蓮子の蓮子たるゆえんで、蓮子の手のひらに乗ったタンザナイトの指輪は、相も変わらず青紫の輝きに満ちている。
そういえば、蓮子はどうして私の指から指輪を外したのだろう。
「瑕、付いてるって言ったじゃない」
「あるわね、瑕」
玉に瑕、とはこのことである。
表面から内部まで、あちらこちらに短い線が入っている。どの角度から見ても見逃しようもないくらい多くの瑕が入っている以上、売り物にならないと考えるのも仕方がない。
だが、売り物にならないと考えたのは、それだけの理由ではなかったのかもしれない。
「さっき、太陽に翳してみて、初めて気付いたんだけど」
蓮子は、指輪をベンチの上に置き、胸ポケットに挿していたボールペンを取り出す。特に何か書くということではなく、指示具として使用するようである。
ペン先を表面に当て、白く入った瑕を、丁寧になぞる。新しい瑕が付かないように、ゆっくりと、繊細な動きで。
「ここと、この線。で、内側に入ってるこの線ね、これが、ここに繋がる。こうすると、あとはもう、こう線を引くだけで、六芒星の出来上がり」
「あ」
私にも、それが見えた。
一見、無秩序に刻まれているように見える瑕だが、一定の角度――例えば、太陽に翳したとき、光の反射の加減など――によって、その瑕が六芒星になって表れる。
私は、光の輝きだけに見せられて、その魔方陣の存在に気付けなかった。だが、蓮子は乱反射する光に惑わされず、宝石に刻まれた何らかの術式を垣間見た。
だから、私の指から指輪を外したのか。
蓮子は。
「危なかったわね。もしかしたら、メリーは、見えたのかもしれない。この宝石に刻まれた六芒星の意味と、その使い方を。でも、これはきっと、見なくて正解。何の根拠もないし、私も、この深い色合いは好きだけど……でも、よくない」
至極真剣に、蓮子は語り続ける。
スイッチが切り替わった蓮子を、止める術など私は知らない。いずれにしても暴走癖がある彼女だから、私はそれに振り回されて付いていくしかない。時折、その独断に助けられることもあるのだが、大抵は、肩を竦めてしょうがないなあと微笑むくらいだ。
今も、きっとそう。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
私は、ほのかに微笑みを浮かべて、問いかける。
「ん、なに?」
蓮子は、タンザナイトをポケットに仕舞い、私と向き合う。
私の手は、蓮子の薬指をぎゅっと握り締めていた。
「それなら、私の指を咥えなくてもいいじゃない」
たじろぐ蓮子。
「そ、それはね? メリーの指に、何か悪いものが付いてやしないかと思いましてー」
「本音は」
「あそこで舐めたら面白いかなと思って」
「えいやッ」
「ぎゃーッ!」
蓮子は叫んだ。
人の指って、なかなか折れないものである。
後日、蓮子は責任を持ってあの指輪を骨董品屋に返却した。
それから数日が経ち、あの指輪のことを忘れかけていた頃、レポート疲れで机に突っ伏していた蓮子と、その背中を擦っていた私のところに、不安げな顔をした女の子がやってきた。
「あの、宇佐見さん……?」
「ごめん、この子、ちょっと消耗してるから……用事なら私が」
「あ、うん、でも、無事ならいいんだ」
彼女は、少しほっとしたようだった。
「……どうしたの?」
尋ねると、彼女は言い辛そうに俯いてから、おずおずと口を開いた。
「宇佐見さん、前に、綺麗な指輪してたよね……? あの、青紫の」
「あぁ、してたわね」
そんなこともあったなと懐かしむ私に、少し言い辛そうな顔を浮かべ、彼女は続ける。
「……あの指輪をした人が、失踪したみたいなの。それ聞いて、宇佐見さんじゃないかって」
「失踪……?」
彼女は静かに頷く。
疑問符を浮かべる私に、彼女は続けた。
「その人が住んでた部屋から、薬指が見つかったの。
指輪が嵌められたままの、薬指だけ」
彼女は、私と、蓮子の薬指を見て、安堵するように、ゆっくりと息を吐き出した。
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