もし、純粋な心の持ち主でなければ本当に美しいものが見えないというのなら、私は今まで真に美しいものを見たことがないのだろう。
けれども私は、この世界に美しいものがあることを知っているから。
ピーターパン・シンドローム
紅く赤い桜の花びらに身を任せて、このまま何もかも赤く染まってしまえと、不謹慎な妄想を抱く。それもこれも、黄金の斜陽を浴びた桜がこんなにも輝いているせいだ、と己の邪心を桜に転嫁する。
夜桜は遠く、晴天はとうに過ぎた。
賽の河原を思わせる不整理な河川敷に、私は陣を構えている。待ち人来たらず、風水は当てにならない。というより、何があろうとも彼女は『待ち合わせ』というワードをインプットすれば必ず遅刻という解を導き出す方程式に等しいので、風水や占星術でその式を覆すことが出来たのならそれは科学の敗北を意味する。まあ、この状況ではとっとと敗北してくれと思わないでもないが。
「のんびり、ゆっくり……。たまにはこんなのもいいけど、蓮子は時間に甘すぎるのよ……」
彼女は時刻というものに過保護すぎる。溺愛といってもいい。なにせ、暇さえあれば正確な時刻を口にしているくらいなのだ。彼女の部屋を家宅捜索すれば、収納の奥から目覚ましの形をした縫いぐるみが出て来るかもしれない。
咲きに咲いた桜、その幹に背中を預け、夕暮れ時の一瞬だけ金色に輝く花びらを見上げる。首を後ろに傾けすぎて、帽子越しにごつごつした老木の肌触りが伝わって来る。
――花見に行こう、との議題が提出されたのは数日前の喫茶店。無論、蓮子が先だ。
私も行きたいという思いが無かった訳ではないが、自分から言い出すのは気が引けた。その理由については後述するが、あまり褒められたことでないのは確実である。
しかし、渋る私を説得する蓮子の気概はタダモノではなかった。今年に入ってからはかなりのハードスケジュールを組んでいたから、季節の節目である今の時期くらいはゆっくり身体を休めようというのが蓮子の言い分。
結局のところ、蓮子の勢いに押されて桜が満開になっているであろう日和に花見をすることになったのだが。
「……来ねぇ……」
……おっと、つい険悪な口調になってしまった。
しかしあれから何十分経ったのだろう、携帯電話に着信はなし、連絡しても電波が通じない。もしかして宇宙から妙な電波を受信しているのかしらとも考えたが、冗談じゃない可能性もあったので深く考察するのはやめておいた。
大体、蓮子は星を見て時間を計り、月を見て己の位置を確認できるのだ。それもある意味、宇宙からの情報をキャッチしていることになる。近未来GPS人間と言い換えてもいい。ソーラーシステムと違い、夜間限定で。問題点は、なんだかんだとよく喋ること、あとは時間にルーズなこと。……って、商品にならないじゃん。
「……まず、眠くなってきたぁ……」
下らないことを考えることで意識の覚醒を促していたつもりだが、それが裏目に出たらしい。昨夜は論文の題目作りに必死になっていたし、何より花見が楽しみでなかなか眠れなかったのである。緊張から来る不眠、遠足が楽しみすぎて当日風邪をひく小学生か、と心の中でつっこみを入れながらも、そんな自分が微笑ましくて笑ってみたりもした。
……桜には、思い出がある。
あまりに鮮明すぎて、遠目に見ただけでもその記憶が頭に浮かぶ。離れない、離れてくれない。忘れたいのか忘れたくないのか、自分でも判別がつかない残酷な物語の一欠けら。
ごめんなさい、と言ったことだけは覚えている。その時に見た泣き笑いの表情と、無理やりに寄せられた唇の厚さも。その肌触りは、今も背中に感じている強張った感触とは程遠く、息を吹きかけただけで霞んでしまうような蜃気楼にも似て、酷く儚かった。
それでも、忘れていない。だから不思議でならなかったのだ。その決別に、特別な意味があったと知るまでは。
「どーしてるのかしらね……」
自分にも聞き取れないほどの囁きを、桜の海に流してやる。
あれから私は転校してしまったから――だからあの子もあんなことをしたのだろうし――、もう二度と会うことはないと思う。けれども、最後に笑っていたあの子だから、きっと上手いことやっているに違いない。
かすかに聞こえてくるのは小川のせせらぎと、風になびく葉と花のさざめき。
耳の奥をくすぐる心地よい音に魅せられて、一瞬、ほんの一刹那だけ気を緩めた。
それが、王手。
大陸間弾道ミサイルが敵機をピンポイントで撃ち落とすかのごとき精密さをもって、私の意識は夕暮れの凪にさらわれた。
――話したいことがあるの。
ここに至るまで、一体どれだけの苦慮と時間を要しただろう。幼心に、これを打ち明ければ自分はきっと嫌われるのだと頑なに信じていた。
「……あぁ、なに?」
突然すぎる告白にも、彼は笑顔で答えてくれた。優しい微笑、しかし夢の中ではその表情も霞んで見える。
主観的な世界では、これが夢か現かは判定しなくてもいい。それに、これはかつて起こっていた事象なのだから、夢でも現でも大差ない事実。綺麗な言い方をすれば、思い出だ。
――私ね、変なものが見えるんだ。
例えば、昇降口の扉を十字に切り裂く蒼色の線。
例えば、階段の手すりをなぞるように引かれた紅い切り取り線。
例えば、校庭に引いた石灰のラインをジグザグに縫っていた碧色の裂け目。
冗談のようにそれはあった。笑い話にしてくれと言わんばかりに私の前に現れ、挨拶もせずに消えていった。
「それは……」
彼は説明を求める。
私は、しどろもどろになりながらも懸命に言葉を紡いでいく。いつもはつらつらと出て来る日本語が、この時に限って全く正しい形をなしてくれなかった。
自分の中身を他人に公開する、というのはひとつの恥で、己の裸を見せるのにも等しい。外側ではなく内側の心という臓器を、その時の私は惜しみながらも曝け出したのだ。
――ごめん、ちゃんと言葉に出来なくて。
「いや、いい。でも……」
すぅ、という吸気ひとつに怯える。
「凄いじゃん、メリー……!」
そして、吐き出された息に安堵した。
打ち明けたのは家族だけ。その家族でも半信半疑と言った中で、同年代の彼だけが、私の特異を純粋に認めてくれた。
その言葉で、どれだけ救われただろう。
でも、なぜ彼にだけ自分の内側を曝け出すことが出来たのか。それを知るには、まだ若干の猶予が与えられていた。
――う、うん。ありがとう……。
彼は私をピーターパンと評した。
この線は夢の国へと続いている境界線だ。これを越えれば、ずっと子どものままでいられる世界に行ける。
きっと、大人になればこの線は見えなくなって、夢の世界に旅立つ術を失ってしまう。彼はそれを惜しんだ。だからせめて、一度だけでもそこへ行きたいと彼は目を輝かせて懇願した。
――ごめんね。行きたいけど、でも、やっぱり……。
告白は桜の下。
いつか訪れる別れの告白も同じ桜の下だったが、それはやはり、そういうものなのだろう。
初めの懇願を拒絶した理由は、彼を恐れたからではないし、未知の世界を恐れたからでもない。
ただ単純に、あの線が見えるのは私が純粋無垢な子どもだからではなくて、奇妙なものが見えてしまう醜い存在だからなのだと、疑いようもなく信じ込んでいたから。
私のせいで、近付いたものが穢れてしまうことを恐れた。
私のせいで、夢の世界が冒されてしまうことを恐れた。
何より、私は異端である私を受け入れることが出来なかったのだろう。世間に同化できず、特別であることに不安しか抱けなかった私にとって、あの線とそれを見てしまうこの眼は禍々しい存在でしかなかった。
――だから、ごめん。
そういえば、小学校を卒業するまではよく頭を下げる子どもだった。純粋に罪悪感から謝っているのではなくて、他人に嫌われることを恐れて中身のない謝罪を繰り返していたように思う。
そんな仮初めの儀式に、彼が気付かないはずがない。
「……やめろよ。何も悪いことしてないだろ」
怒っていた。
彼がなぜ憤慨しているのかが理解できなくて、その時も頭を下げようとしたが――。
両腕で頭を捕まれ、彼の目線から下に首を傾けることは適わなかった。
――あ、あぁぅ……。
「これ以上、何もしてないのに頭を下げたりなんかしたら、女だからって関係ない。
殴るぞ」
――ふぁ……。
本当は、闇雲にロックされた頭も、指がこめかみを突いていてかなり痛かったのだが、彼の表情がそれ以上に真剣だったせいで、否定の言葉を告げることは出来なかった。
もっとも、否定する気などさらさら無かったのだが。
思えば、溜息こそ吐いても、本気で怒ってくれる相手など両親以外に誰もいなかったから。
たったそれだけのことが、本当に嬉しかったのだと思う。
ひた、と頬を染める冷気が覚醒を促す。
「ひゃぁッ!」
「あははははは! ずいぶんと可愛いらしく叫ぶのねぇ」
その場を変な体勢で飛び退いた私を見下ろすのは、ビニール袋をぶらさげた一人の女性。その手には自販機で買ってきたとしか思えない缶チューハイ。とてもよく冷えている。
「……」
無言で向こうずねを蹴りつける。
「痛ッ! まさかのローキック!?」
蓮子が大袈裟に叫ぶので、隣りの桜(とはいえ結構離れているのだが)に陣取っている家族の注目を浴びてしまう。私は牽制の意味も込めて声を潜める。
「いや、まさかも何も……。……はあ、驚かすのも大概にしなさいよね……。折角快適な夢見心地だったのに、目覚めた途端地獄に行っちゃったじゃない」
「だってー。夕闇に染まる桜の下で、年頃の美少女が涎を垂らして眠りこけてたら、私でなくてもちょっかい出したくなるってもんじゃない」
念のため、口元をハンカチで拭う。
……やっぱり垂れてないじゃないか。ばかもの。
「痛ッ! だから弁慶はやめてー!」
「全く……」
空は、夕闇に侵される一歩手前の鮮烈なる紅。
紅と薄桃を足して、より苛烈な輝きを放ちたる桜が、私たちの下へひとつ、ふたつと舞い落ちる。
夕暮れの手前、金色の斜陽に染められた神々しい花びらともまた違う、禍々しいくらいの紅桜。逢魔ヶ刻に相応しい紅色の桜は、死体の血を吸わなくても謁見する者を立派に戦慄させてくれる。
「いい夢は見れた?」
息を止めている間に、夜は瞬きする間もなく降りてくる。
蓮子はビニールシートに腰を下ろして、袋の中から出来合いの重箱を取り出す。これでなかなか蓮子は料理がうまい。少なくとも私よりは。
だが、その味を堪能するより先に、質問の答えを述べてしまうことにしよう。
「私の夢は、過去だったから。その思い出が美しければ、夢はいつでも輝いているものよ」
「そう。いい顔してたものねぇ、メリー」
ふふ、とお母さんのような笑みを浮かべる蓮子。
……一応鎖骨を殴っておこうと思ったが、蓮子が片膝をついたままの体勢で二メートルほど後ずさったので、ささやかな報復すら適わなかった。
「もしかして蓮子、私の寝顔が目的でわざと遅れてきたんじゃ――」
「さー早いとこ宴会でも始めましょーかー」
感情の無い声で言っても全然説得力がない。不自然すぎる。
……図星、か。これは、何が何でも追求せねばなるまい。
「いや、棒読みにも程があるし……」
「そういや、こないだ裏ルートでメリーの隠し撮り写真が一枚数千円で売買されてたわよ」
戻ってくるなり、事も無げに言ってのける。
いや、淡々と重箱を開けて缶チューハイを並べてあぁ唐揚げの良い匂いがってそれはこの際関係ない!
「な、何ですってぇぇぇ!?」
「え、安い?」
首を傾げる。ばかもの。
「そういう問題じゃない! というか発見した時点でなんで通報しないの!? じゃなくてもしかしてさっきの寝顔もフィルムに収まってたり」
「カメラ付き携帯って便利よねー」
ぴんぴろりん。
「送信済み!?」
……先生、やっぱり大人は汚れていると思います。
闇に包まれた河原にあって、光の存在は貴重だ。
満月の日に花見を選んだのも、蓮子ならでは粋な計らいだろう。それ以前の、寝顔拝見タイムは別項に置いておくとして。
街頭の灯りはそもそも当てにならず、この老いた桜が花見の席に使われないのもその要因が大きいのだろう。尤も、桜としては花見になんぞ使わないでくれと思っているのかもしれないが。
「まあ、別に読み書きする訳じゃなし、蝋燭一本で事足りるわよね」
「そうそう」
と、なぜか右の頬と首のあたりに痣がついている蓮子が火を灯す。言っておくが、張った訳じゃない。抓りとベアハッグだ。
天空から降り注ぐ月光があれば、物の位置は十分に把握できる。私は水筒のウーロン茶を傾け、一息つく。桜は、この夜でさえも紅く染まっていた。
「……あれ、お酒には手を付けないんだぁ」
さっきから缶チューハイを呷っている蓮子が、酔っ払いのごとく絡んでくる。……いや、声が多少上ずっている点からすれば、もう立派な酔っ払いだろうか。酒豪というレベルには達していないが、お酒の味を覚えて久しい段階には至っている。
あるいは、お酒に頼らなければ素直な自分を曝け出せないのかもしれない。蓮子に限らず、大人と呼ばれてしまう人々は。
まあ、蓮子はただ楽しいから飲んでいるという可能性も十分にあるのだが。
「私は、嗜む程度だって前から言ってるでしょ」
「だったら、嗜んでみてよ。別にさぁ、一升瓶をカラにするくらい呑めなんて言ってないんだしぃ」
やや舌っ足らずな物言いで、私の肩に手を回し、文字通りに絡んでくる。寄せられる頬がいやにくすぐったく、時折吹きかけられる息がかなり酒くさい。
「いや、そういう問題じゃなく……って、酔ってるでしょ。蓮子」
「それがどうした」
開き直った。
こういう手合いが一番厄介であることを、私は経験上熟知している。というか、蓮子がその筆頭である。次点は喫茶店のマスターと、うちの両親。
……つくづく恵まれてない……。
「さあさあ、遠慮なくぐぐっと行っちゃいなさいよー」
「いや、それ懐中電灯だし……」
金具を頬に押し付けられても、一体どうすれば。電池でも飲めばいいのか。
ひとまず、缶に似て非なる物は蓮子の周りから退けて、最も度数が低い(らしい)缶チューハイを手に取る。一口二口ぐらい啜っていれば蓮子も満足するだろう、本当はあまり気が乗らないが。
早速、アルコールを呷ろうかと下唇にアルミの感触を覚えた時、不意に蓮子が声を掛けて来る。
「……ね。さっき、どんな夢を見ていたの?」
呂律が回り切れていないのは相変わらずだが、彼女が真剣なのは声のひとつ取っても理解できる。
おそらくは、私が夢に落ちている様子を見て、何が感じるものがあったのだろう。
でなければ、こんなにも落ち窪んだ声を出すことはない。トーンが低いのはアルコールが入っているせいもあるのだろうけど、それにしても、いやに重い。
傾ける手を止めて、今は薄紅に散り乱れている桜を見上げた。
「昔の話よ。携帯電話が、折り畳み式じゃなくてアタッシュケースみたいな機械だった頃の話」
「ふぅん……。でも、興味あるな。メリーの幼年期」
「蒙古班はわりと早い時期になくなったらしいけど」
そういうことじゃなくてぇ、と蓮子は足を崩して苦笑する。そしてビニールシートに手を突き、薄闇に光る星々を観察していた。今日に限って、現在時刻を口にすることはなく。
「あんまり、メリーの子どもの頃の話って、聞いたことないし」
妙に興味津々である。缶専用のゴミ袋に注ぎ足される空の缶チューハイも、数分前から打ち止めになっているようだし。
蓮子は、しゃっくり混じりに私の返答を待っている。
出来れば、そのままの体勢を保持してもらいたいところだが、あまり無理をさせるのも心苦しい。
「お酒の勢いに任せて……。とはいっても、他人の昔話を聞こうだなんて趣味が悪いわよ?」
「じゃあ、今度わたしの少女時代のことを教えてあげる」
「押し付けがましいって言うのよ、そういうの」
「えー」
『えー』じゃない、と渋る蓮子を断じて、私は一口アルコールを摂取する。話が終わる頃には、もう二、三個の缶が無様に転がっていることだろう。
どうせ、既に通り過ぎてしまった話だ。誰かに公開したところで、今更何が変わる訳でもない。
ただ、瘡蓋が取れて完治したはずの傷跡を撫で回すような、あまり爽快でない程度のマゾヒズムを体験することになるが。
……まあ、いい。
この代償は、いつか蓮子の傷跡を閲覧することで帳消しにしよう。
「話してもいいけど、途中で寝ないでよ。ひとりで面白くもない思い出を語るのなんて、寂しすぎるのも程があるわ」
「ふぁ…………い」
「いま欠伸したでしょ」
「してないぃ」
眠そうに反論されても、全く説得力が感じられない。
内心肩を竦めながらも、より高く昇り続ける満月の光を目印に、自分の記憶を深く掘り下げることにした。
大人になりたくない、と彼は言った。
その感情は理解できる。アレは私たちのことを何も分かっていない。言ったことの半分も実行に移してくれない。
十歳をわずかに越えた時分では、広い視野で物を見ることが出来ず、周囲にいる人間の動きだけで全ての事象を把握していると思い込んでいた。壮大な自己中心主義、井の中の蛙は大海も海水の味も知ることはなく、やがて、必ず訪れる大人への十三階段を上り始める。
――なんで?
「それは、おまえがいなくなるから」
――私は、いなくならないよ。ただ、遠くに行っちゃうだけ。
「それが嫌なんだ。……なぁ、メリーだけでもここに残ることは出来ないのか? もっと他に、手段があるんじゃないのか……?」
――ないよ、そんなの……。
泣いていたのは、どちらだったろう。泣きそうな声だったのは、二人一緒だったけれど。
幼い頃の別れは、大人になってからの別れとは違い、永劫の決別のように思えてしまう。二度と会えない、会いたくても会えない、自分では窺い知ることの出来ない力に――あるいは運命のようなものに――引き裂かれるような気がした。
大人は卑怯だ、と彼は言った。
子どもの事情を理解してくれない。そんなものは瑣末だと、大人の社会には不必要だと簡単に切り捨てる。
その対象に、今回は私たちの絆が選ばれてしまっただけの話。
しかし、涙を呑めば丸く収まったかもしれないはずの別れも、避ける術があった。その涙を流さずに済む術が、図らずも存在してしまっていた。
……私は、彼にとってのピーターパンだったから。
夢の国へと繋ぐ扉と、その鍵を握り締めていたのが、私という人間だったから。
「なぁ……」
彼の言おうとした言葉が判ってしまったから、私は耳を塞いだ。
考えたくない。その先のことは考えられない。考えてはならない。
あれは異端だ。触れてはならないもの、見てはいけないものだ。私は禁じられたものを見ている、だから私も禁じられるべき。禁忌は禁忌と馴れ合ってはならないし、無論普通の存在と掛け合わさってもいけない……。
その禁を、まずひとつ破った。
その罰が永遠にも等しい決別だというなら、ふたつめの禁を破ったら、その時は――。
――だめ。
もう、拒絶するしかなかった。
「メリーは……嫌いなのか」
何について尋ねているか判らなかったけれど、とにかく首を振るしかなかった。
彼は好きだ。だから行けない。
両親は好きだ。だから行けない。
この世界も嫌いではない。
あの線も、禁忌ではあるけれど、それ自体を憎む気持ちはない。
でも、ただひとつ嫌いなものがあるとするなら、それは。
それは。
――私は、私がきらいだから……。
自分を否定することが、涙が出るくらい辛いなんて知らなかった。
あまりに辛くて、よく判らない痛みに滂沱する私を、彼は黙って見詰めていた。
悲しみに意識が飛んでしまいそうになる直前、傾いた身体を抱き留めた彼の温もりだけが、今もまだ胸には残っていると思う。
その時の私はまだ、自分を好きになることも、誰かの手を取って逃げ出すことも出来なかった。
彼にはその覚悟があったのかもしれない。本当に、私を好きだと言ってくれた気持ちのままで、新しい世界に旅立つ意志が備わっていたのかもしれない。
けれども、幻想行きの切符は私自身の手で引き千切られて。夢の世界は夢のままに、私たち子どもは大人へと還る。
別れの瞬間に見た桜が、出会いの頃に眺めた時よりも霞んで見えたのは、私の心がその頃より汚れてしまったからだと決めた。
予想に反して、空き缶は五個目に達していた。頭がふらふらする。
「……しかも、寝てるしね……」
いびきこそ聞こえてこないが、かすかに漏れ聞こえる寝息が全てを物語っている。話の途中で気付けなかった私も悪いのだが、あれだけ念押ししておいてそれでも眠ってしまうのは嫌がらせなんじゃないかと思う。
ビニールシートに身体を寄せ、闇に溶けそうな黒い帽子を枕代わりに。
薄い花びらは落ちるがままに任せておいて、蓮子は私の思い出を子守唄に、ひとりで眠ってしまった。
取り残された私は、空き缶をゴミ袋に放り投げて、焦点が合わない頭を桜の幹に沿わせる。
夜風が心地よいと言えども、身体の奥から湧き出てくる膨大な熱はどうしようもない。
「さよなら、遠き日の思い出……。というところかしら」
在りし日の記憶に手を振る。
自分が嫌いだった頃の私はもうここにはいない。蓮子のように全身全霊を持って好きだとも言えないが、結界の境目を見る能力と、その力を持った自分をそれなりに愛している自覚はある。
子どもの頃に越えられなかった壁は、大人になってからようやく越えることが出来た。ずっと子どものままでいられる世界は、その実大人でなければ行けない世界だったのだ。
でも、もしあの時に越えていたなら、そこはやはり夢の世界だったのかもしれない。
子どもしか見えない線は、大人になった今も見ることができ、数々の幻想を知った。
でも、もし子どもの頃にその幻想を目にしていたなら、それらはより美しく瞳に映ったのかもしれない。
「……けど、まあ」
また、新しい缶を開ける。
大海を知ってしまった蛙は、二度と井の中には戻れない。その広さを知れば、あの小さな器に帰りたいと思わなくなる。おそらく、私もその手合いで、すぐ近くのものしか見えなかった頃の私に戻って、あの時をやり直したいとは思わない。
幻想の世界は、私が子どもだった頃と何も変わっていないのだろう。
ただ、私が少しだけ変わってしまったから、万華鏡のように違う色を見せているだけ。
果たせなかった夢は、いま果たせばいい。幸い、私はピーターパンということになっているから、いつでも夢の世界に行くことが出来るのだし。
「それに、子どもっぽい人も隣りにいるしねぇ……」
横目で、全く起きる気配も見せない蓮子の顔を覗き見る。
夢追い人と案内人。
その方向性はちょっと違うかもしれないけれど、目指す場所は常にひとつ。
「まあ、解釈の違いはあるけど……」
特に、倶楽部の活動費を友人のあられもない写真で補填しようとする点など。
苦笑混じりに呟いて、蓮子の胸ポケットからカメラ付きの携帯電話を抜き取り、彼女の穏やかな寝顔に焦点を合わせる。
ごめんね、とは言いながらも、罪悪感なんて全くなかった。
翌日。
次いで、その次の日も。
休日なのを良いことに、私は部屋の中に引き篭もっていた。正確には、そうせざるを得ない理由があったからだが……。なんともはや、頭が痛い。がんがんする。
簡潔に言えば、酷い二日酔い。
情けないを通り越して、死にたい。
頭蓋骨の内側をハンマーで叩き続けているかのような振動が、日がな一日続いているのだ。それも二日間。死ぬ。むしろ殺してくれと言いたい具合だが、声を出すのも億劫だ。万事休す。
「……ぁぁ〜……」
低い唸り声がシーツを小刻みに揺らす。三重にぶれた視界は、正しく物を映してはくれない。無論、ごはんなど喉を通る訳もないし、でもお腹は減るわ喉は渇くわで、もう勘弁してほしい。
だから嫌だったのだ、花見と聞くとお酒を勧める人間が必ずいるし、そうなれば飲まずにはいられないし、飲んでいる時は楽しいのに二日酔いは耐えきれないレベルの地獄だ。
「……ぁぁぁ〜」
呻く。
もし、この状態で蓮子が襲撃して来たらと考えると、恐ろしすぎて目も瞑れない。というか、頭の中ではお目出度くもないチャペルがステレオで鳴り響いているから、眠ろうにも眠れない訳だが……。
悪い予感、予想というものは得てして当たってしまうものだ。どうしようもない状況にこそ予知は成立するもの。火事場の馬鹿力と同じ論理だろう。危機感知能力の開眼、動物的本能の先祖返りと言ってもいい。
……あぁ、自分でも何を言っているのかよく判らないが。
「メリー。お邪魔するわねー」
何の因果か、その手にカメラ付き携帯を握り締めた宇佐見蓮子が現れたのは、どうやら誰の目から見ても明らかなようだった……。
−幕−
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