Good Day!

 

 

 

 生来、細かいことは考えないようにしていた。同じように、難しいことも。
 だが、長々と生きていれば、その信念も次第に揺れ動いて来る訳で。
「はー」
 外に目を向ければ、色とりどりの葉っぱと樹木が飛び込んで来る。秋の名物と言えば聞こえは良いが、こう何年も何十年も、百年と千年と延々ぐるぐる見続けていれば、秀麗だろうと奇妙だろうといずれは飽きる。停滞、辟易、退屈、暇。それはすなわち死を意味する。
 不老不死などという凡人が羨む属性を抱えてからに、凡人の欲する暇によって殺されようとしているのだから、何とも不出来な冗談だ。苦笑混じりに笑ってみる。
「永琳ー」
「はい」
 屏風の後ろから、従者の声が返る。そこに居るのは分かっていたが、あえて声に出さなければ喉のリハビリにならない。思い返せば、喉を震わせたのも何日振りか。従者も兎も、何か言わなければ何もしてくれない。永遠亭の主は確かに蓬莱山輝夜であるが、実際に屋敷を運営しているのは永琳以下数名の兎たちである。
 傀儡、という単語を思い浮かべて、意味のない戯言だと笑い飛ばす。乾いた唇から漏れた吐息が妙に高い音を立て、屏風の裏にかしずく永琳を困惑させた。
「どう、なさいました」
「特に何も。私って本当に何してないんだなあ、とか思って」
 少し、静寂が流れた。
 開け放たれた障子と、細く長い廊下の境目に座する輝夜は、風が程好く冷たくなっていることに気付いた。秋が過ぎれば冬が訪れる、その次はもう正月だ。門松用の竹はそこらにうじゃうじゃ生えているから、調達するのは容易いだろう。むしろ、それをひとつの商売にすることさえ可能だ。
 その辺りは、適当な兎に委ねるとして。
 それ以前に、私は誰かに委ねてばかりだな、などと軽く自嘲したりして。
「永琳」
「はい」
「ちょっと外に出るから、ご飯でも握ってくれない?」
 長ったらしい着物の裾を踏まないように注意しながら、昇り切らない太陽に目を細める。
 今が何月何日だとか、秋とか冬とか元旦だとかは関係ない。行きたいと思ったから行くだけだ。
 どこへ、などという瑣末なことも考えない。行くのだから、行くのだ。ここではないどこか、多少は代わり映えのする所まで。

 

 

 付いて行きますと永琳は言ったが、永琳にもやるべきことはあるだろう。そう思い、私は私のやるべきことをやるだけだから、と丁重に断った。この季節には寒いだろうが、薄い着物一枚で玄関口に立つ。何やら神妙に俯いている鈴仙から、それなりに良い香りのする籠を受け取っておいて、不意打ち気味に鈴仙に問う。
「ねえ」
「は、はい!」
 緊張しているらしい。主への畏れによるものか、邪な思いを抱いているが故の動揺か。
 突き詰めたところで、鈴仙に何をするでもないのだけど。
「いやさ、何をそんなに暗い顔する必要があるのかなぁ、と」
 ここでも、若干の静寂が伴う。
 死相が出ているのかもしれない、と輝夜は己のうわっつらを撫で回してみるが、目立った皺も欠けた器官も埋まった穴もなかった。あぁ、そういえば髪が少し伸びたかもしれない。前髪だけが暖簾みたいに垂れ下がっていては、誰が見ても不気味だと思う。
 だが、鈴仙が言いたいのはそこではないのだろう。
「あの、姫」
「はいはい」
 片膝を突き、かしずく鈴仙を促す。永琳から以下の面々に言い渡しているので、あまり堅苦しい挨拶は抜きにしているのだが、生来真面目な性格の鈴仙は、気を抜くとすぐに畏まる癖がある。輝夜も輝夜で、今の様式に飽きればまた低頭を義務付けたりするのだろうから、両方に慣れておく必要はあるのかもしれないが。
 ともあれ、鈴仙は生真面目だ。今はそれが分かればいい。
 過去も未来も、腐るほどあるのだから。
「どうか、お気を付けて」
 丁寧に両の膝を突き、鈴仙はおもむろに頭を下げた。
 そういうこと――と、都合良く答えらしきものは思い浮かばなかったが、まぁ、そういうものだろうと納得しておいた。難しく考えるのは、歴史を編纂したり織って結んだり作り上げたりする者だけでいい。
 蓬莱山輝夜は、ただ永遠亭に居れば良い。
 そういうものだろう、と適当に当たりを付けて、輝夜は鈴仙の見送りを受けながら外の世界に進んで行った。

 

 

 目的もなく、指向性に欠けた歩行を続けているうち、豪奢なイチョウ並木に遭遇する。ただし、今現在は樹木黄葉の真っ只中、つまるところ、イチョウの実が葉っぱに混じりコロコロと地面に転がりゆく時節である。
「……匂うわねえ」
 鼻栓でも持って来るべきだったかしら、と思った矢先、でもチリ紙を丸めて鼻に突っ込むみたいな感じだったら嫌だし、と自己完結した。紅魔の従者ほどではないが、輝夜もそれなりに瀟洒であるべきだと考えている。従者と一国一城の主とでは、構え方の違いというものがあろうが、それにしても、だ。
 並木道は、無造作な原っぱより一段高く作られており、左脇に流れる清澄な小川に沿って広く長く伸びていた。もう、人里に近い場所まで来たらしい。輝夜の外見は人間と同等であるから、見られて困るほどではないが。
 清流のささやかなさざめきが聞こえるほど、耳が良い訳ではない。幸い、小さな鼻はイチョウの主張を全面的に受け入れているが、いくら自然栽培とはいえ、敬遠したくなるものはある。当たり前のことだが、何でもかんでも天然が良い訳ではない。生命にとって、自然は常に畏怖すべきものだ。
 のたりくたり、履き物の底を均された土に擦り合わせながら、さして急ぐこともなく並木の中をひた歩く。
 たまに上を見、ときに横を見、常に前を見る。
 と、どことなく見覚えのあるような姿が目に映る。特に瞳に映した覚えはないが、あちら側から勝手に現れたのでやむを得ない。
「あら、奇遇ね」
「奇遇ですかね」
 呆気なく否定された。
 お互いに空を飛ぶことは出来るのだが、今日という日に限ってみな地面を踏み締めて歩いている。確か、そういう健康法が流行ったこともあった。十数年周期で、そのブームが再来したのかもしれない。
 吸血鬼の従者たる十六夜咲夜は、相変わらずのメイド様式を象ったまま佇んでいる。この場に留まっているのは輝夜が声を掛けたから、それ以外に理由はないというように。決して、咲き誇り舞い落ちる木の葉に見惚れたせいではない、と――自身に言い聞かせてでもいるかのように。
 流石に、それは輝夜の思い込みだとしても。
 存外、あれこれ考えるのも詰まらなくはない。
「そこらを出歩けば、この広い幻想郷、顔見知りに出会うことぐらいあるでしょう」
「あまり出歩かない私だから、奇遇と言っているのよ」
「その、自覚はあるのね」
 意外だ、とでも言いたげに顎を撫でる。輝夜の思い違いでなければ、あの永夜異変で出会った時といささか赴きが異なっているように思う。はっきりしたことは言えないが、立ち振る舞いが前にも増して女性らしくなった。
 他人――異性の目を意識するようになった、ということだろうか。それはそれで、人間の在り方として十分に正しい。あの紅魔館を取り仕切る従者だから、それに釣り合う男が存在するかどうかは厳しいところだが、咲夜にすれば、手を繋ぐ相手が自身と等価である必要はないのだろう。
 少なくとも、輝夜とは違って。
「あなた、少し変わった?」
 試しに、聞いてみる。けれども、返って来た台詞から彼女の変化を検知出来るほど、輝夜の洞察力は優れていない。だから、これはただの暇潰し。
 咲夜は、腕を組みながら空や地や川に視線を移す。答えたくないのか、答えられないのか。何にせよ、早くして欲しいと輝夜が急かす一歩手前に、それらしい言葉を口にした。
「変わりますよ、そりゃ。私は人間ですし――それに、女ですから」
 下顎に掛けた指先のひとつを、緩やかな頬の曲線に移す。
 誠に女性らしい、妖艶な微笑を目の当たりにして、彼女がいまだ何も知らない無垢な少女であると誰が言えようか。
 ただ、輝夜は言った。
「あら、奇遇ね。私も女だけど、変わろうとしなければ、それなり変わらずにいられるものよ」
 負けじと、柔らかな頬に掌を重ねてみた。己の肌の滑らかさに少しばかり浸った後、こんな銀杏臭い場所で何を色気付いているのかしらと正気に帰る。
「でも、少しぐらいは変わっているかもしれませんよ。血圧とか、体重とか」
「年齢とか、皺の数とか、しゃがんだ時に関節が鳴る回数とか」
 痛いところを突かれたのか、咲夜の顔が若干引きつった。
 時の流れを意識しなければならない存在は、それを考慮しない存在からするとかなり面倒な生き物のように思える。覚えているのが憐れみか愛しさか、思索の余地はあるにせよ。
 彼女は、胸に手を添えながら、難しい顔でぽつりと呟く。
「……変わらずには、いられないのですよ。何物も」
「万物は流転する、ねえ。まぁでも、単位が億とか兆とか京くらいになれば、流れるるにも相応の時間が掛かるでしょう。さしずめ、私はそんなものかしらね」
 彼方の宙を思いながら、安らかに呟く。
 咲夜は胸から手を下ろし、輝夜に負けず静謐な響きをもって応答する。
「体重が、ですか」
「ふふ」
 殴ったろか、と思ったことだけは注釈しておく。
 実際は、瀟洒さを心掛けて淡く美しく笑んだつもりである。
 が、瀟洒ってこういう意味だっけ――と、言葉の在り方を見失いそうになったりもした。

 

 

 これから薬草を採りに行くという咲夜と別れ、輝夜はしばらくイチョウ並木の下を歩いてみることにした。イチョウの花言葉が意味するものは長寿。花言葉など、書物によってその意味と意図が異なる曖昧な定義に過ぎないが、それはそれ、楽しみ方が増えるというものだ。
「あの子、香水付け過ぎかしらね。銀杏の匂いだけじゃなくなってる気がするわ」
 臙脂色の袖に鼻を近付け、妙な匂いが移っていないかどうか確認する。自然の香りも香水の匂いも、永琳経由で相当嗅ぎ回っている覚えはあるが、だからといって慣れる訳でもない。上手くはいかないものだ。
 物思いに耽って平らな地面を眺めているうち、黄色の並木道はひとつの架橋によって終わりを告げようとしていた。先程から輝夜と併走していた小川が、それぞれの支流を受けてやや大きな流れへと変貌し、足を広げる程度では跨げなくなっている。川の周りも、草ではなく石が目立つようになった。まだ、魚が棲めるほど深くも広くもないが。
 木造の橋の上から、名もない川の水面に顔を映す。凹凸の激しい水面では、輝夜の容姿を完全に模写することはままならない。
 黒く長く艶かしい髪だけが、ささやかな本流に満たされて流されているようだった。
「本当、か細いこと……。あの子が燃え出したら、あっという間に消えてなくなってしまうわね」
 自然に抗うとは、そういうものかもしれない。
 輪廻の輪から外れるという意味だけではなく、自然に対抗し得る力を持つ、という意味も含めて。
 無論、その弊害は否応なく自身に降り掛かるものだが、今更やめられるはずもない。
 生きることを、やめられるはずもない。
 ふう、と唇の隙間から予期せぬ溜息が漏れる。無駄なことを考えすぎたらしい。ただ散歩するというのも、意外に疲れるものだ。
「まあ、それはそうと。そこのイナバ」
「げ!」
 横合いから、不躾な悲鳴が聞こえる。
 下手に逃げれば即座に仕置きが待っていると理解しているのか、緩やかなウェーブの掛かった黒髪の兎は、直立不動で橋の袂に構えていた。
「……げ?」
「げ……げ……ゲルセミウム、エレガンスは要らんかね〜……」
 誤魔化すにも程がある。
「飲むの?」
「……嫌だなあもう、ンな毒薬なんざ飲む訳ないじゃないですかー」
 瞬時に取り入ろうとする要領の良さは幻想郷で一、二を争うだろうが、彼女が吐いている嘘は文字通り毒にも薬にもならない。
 嘘のための嘘など、大した力を持たないのだ。
 へへへと手を揉むてゐに対し、手擦りに体重を掛けてのんびりと構えている輝夜。仕事をサボっているからと言って、偉そうに説教するつもりはさらさらない。輝夜からして、これといった仕事に就いていないのだから当たり前だが。
 けれども、無駄に鈴仙の心労を増やすこともあるまい。分配し合うことにこそ、集団の意義がある。
「えー、と……。イナバ、てゐ? だったかしら。間違ってたらごめんなさいね」
「合ってるよー。ていうか、一体全体どういう風の吹き回し? 私らの名前を覚えてるなんて、またなんかの陰謀かね」
「失礼な兎ね。調理するわよ」
「ひでぇー」
 後頭部に手を組み合わせ、道端の小石を蹴って愚痴をこぼす黒兎。
 媚びへつらっていたのも束の間、てゐは瞬きする間に元来の性悪兎に翻っていた。これが永遠亭以来の因幡てゐの姿であることを、輝夜は心得ている。そのわりに、出会ってこのかた名前を覚えようとすらしなかったが。
「ところで何なのさ、姫さん」
 てゐが先を促す。
 いつの間にか、秋の空気に慣れてのんびりと過ごしていたことに気付く。小川のせせらぎやらイチョウの激しい自己主張やらに包まれ、会話することすら億劫になっていたようだ。てゐのような妖怪兎は波長が短いそうだから、会話のテンポもそれに応じて短く設定されているのだろう。
「ああ、そうね。あの、耳の長い、月から来た……永琳の弟子の。ほら、いるじゃない」
「いるねー。ていうか、あんた本格的にボケ老人かよ」
「うるさいわね。私だって好きで忘れてる訳じゃないわよ」
「覚えてないだけでねー」
「そうそう」
「……そこは認めるんだねえ」
 呆れたてゐの声が右の耳から左の耳へ抜けて行った後に、何か閃くものが脳裏を掠めた。
「あの、鈴仙? とか何とかが心配するから、余計なことしてないで帰りなさい」
 やっと帰って来た名前を一蹴するように、てゐは組んでいた手を胸に添える。
「私は、その鈴仙の命で銀杏を集めているのですよ、姫」
 しれっと、明らかに嘘と分かる言い訳を述べる。
「……臭い」
「ンな早く風呂入れみたいな言い方すんなよ」
「あら、銀杏臭いというのは良いことよ。秋っぽくて」
「でも、そういう姫さんもなかなか銀杏臭いよ。それも良いこと?」
「そうそう」
 適当に頷いておいた。やれやれ、とてゐも肩を竦めて、どこに隠していたのか結構な大きさの籠を取り出し、小走りに橋を駆け抜ける。
「あ、ちょっと――」
 振り向き様、イチョウの下で籠を担ぐてゐが見えた。
 意地悪く微笑んで、それでいて憎めないところが、てゐのてゐたる所以なのだろう。
 輝夜も、そう出来れば良いと前から思ってはいたが。兎は兎、姫は姫。所詮、腰を落ち付ける場所が違うのだ。兎の処世術を踏襲したところで、永遠亭の泰平が成り立つとは限らない。
 てゐは、自身に備わっている巧みな生き方を自覚しているのかいないのか、屈託のない笑みを浮かべている。
「銀杏の食い過ぎも、実は体に良くないんだけどね。まあいいさ、秋っぽいし。適当に拾って帰るよ。それに姫さんなら、いくら食べても中毒にはならないでしょう?」
 薬師もいるからねえ――と捨て台詞を吐いた後には、てゐの姿などイチョウの落ち葉にまみれて影も形もなくなっていた。小橋に続く並木道は大きな弧を描いており、途中林道と森を挟むために死角は数多い。てゐが逃げたか人道に徹したか、輝夜の立ち位置から窺い知ることは出来ない。
 だが、まあ。
 彼女は、そう在るべきだとも思う。
 その分、鈴仙や永琳に負担が掛かろうとも、そう在るのが最も正しいのだろう。
「茶碗蒸し、楽しみにしてるわね」
 細い呟きを川に溶かして、輝夜はまた新しい道の先を見据え、銀杏の匂いを叩き落としながらゆっくり歩いて行く。

 

 

 ちらほらと、人の姿を見掛けるようになった。
 幻想郷に住むのは妖怪だけではない。人間も動物も植物も、ましてや月人やら蓬莱人やら、魔法使いやら吸血鬼やら鬼やら亡霊やらも確固として存在しているのだから、命の闇鍋と言っても差し支えない。誰が毒見するのかは知れないが。
 以前は、自身の身分が露見することを恐れ、永遠亭から外れない生活を送っていた。
 それが、崩れ始めたのはいつからか。月から来た兎だとか、蓬莱の薬を飲んだ人間だとか、謀略を暴きに来た人間だとか。
 長い、時を経て来た。今となっては、全てが過去になって記憶の押入れに収納されているが。
 畑に向かう道中の老人が、軽く会釈をする。無視するのも何なので、右手を小さく挙げた。偉そうだなと思いながら、頭を下げるのも違う気がした。
 田んぼが多くなり、分岐も増えて来た。永遠亭とは比較にならないほど質素な家々が立ち並び、路肩で空騒ぎする女性やら、井戸の周りを走り回る子どもの喧騒やらが耳に刺さる。
 騒がしさで言えば、永遠亭の兎たちも相当なものだが、ここに渦巻いている活気はその種類が違う。限りある命を、そうと思わずに我武者羅に動かし続けている無垢さ。言い方を変えればそれは愚かさにも繋がるが、だからこそ、人としての輝きに満ちていると言えはしないか。
 儚いものほど、美しく見える。それは一体、誰が言い出した言葉だったか。
「珍しいな」
 後ろから、凛とした女の声を聞く。振り向けば、淡く柔らかく仄かな笑みを携えた歴史の編纂者が、片手を腰に添え、悠然と佇んでいる。
 上白沢慧音は、人間を酷く好む。彼女が人と白澤の境に在るという歴史もあるだろうが、純粋に、人に寄せる思いが強いと考えた方が自然だろう。
「良い天気だから、ついつい遠くまで出て来てしまったわ。これでも私、一応お姫様なんだけどね」
 てゐのように、冗談ぽく肩を竦める。慧音の後ろには、物陰に隠れて何人かの子どもが控えていた。おおかた、見も知らぬ人間を警戒しているのだろう。
 気紛れに、男女比が入り混じった子どもらに微笑み掛けてみても、辺りに散って行ったところを見ると結果は芳しくなかったようだ。
「小鳥じゃないんだから、天候云々で軽々しく放浪するのもどうかと思うがな。まあ、いいだろう。暇潰しにうろちょろするのも、銀杏を踏んで後悔するのもお前さんの自由だ」
「どういたしまして。あぁでも、銀杏は踏んでいないわよ。ちゃんと避けて歩いたから」
 ほら、と履物の裏を示してみせる。
 その瞬間。
「おい、お前っ!」
「あらあら」
 いきなり着物を捲りあげた輝夜に、慌てふためきつつも身体を使って隠そうとする慧音。
 うぶね、と小声で囁いたけれど、慧音の返事が返って来る合間に着物の裾は元の地面にひれ伏した。
「はぁ……。は、恥じらいというものを知らんのか、お前は!」
「そんなに怒ることないじゃないの。私の身体なんだから」
「ここは公共の場だ! お前が普段安穏と暮らしている屋敷とは違うんだからな、そこのところを弁えろ。……全く、長く生きればそれなり分別というものを理解するものだが」
 もう一方の手まで腰に当てて、深々と嘆息する。後ろの方で、何人かの子どもが彼女を真似て息を吐いていた。微笑ましい。が、少し腹も立つ。大人気ないとは思いながら、終着点のない自分は永遠に子どものようなものなのだろうと帰結する。
「それにしても……」
「? なんだ、改まって」
 ぐるり、と周囲を見渡す。
 永遠を生きる。
 その業を計るためには、文字通り永遠を生きて永遠を観測する必要がある。まあ、現実的かどうかを別にして、輝夜や永琳、それともう一人を除いて、彼女らの傍に在り続けることはままならない。
 百年前に見たことがあるような里の景色も、百年後の今は、雰囲気こそ同質であってもそこに生きる人間は完全に移り変わっている。死んで、生まれて、生きて、生きて――それから、死んで。その繰り返し。そのサイクルだけは、いつまでも変わらない。
 見慣れない人の姿があっても、村人は怯むことなく輝夜の横を通り過ぎ、たまに会釈もする。簡単に変わってしまう情景の中に永遠が混在していたとしても、躊躇うことなく、日常の輪に内包する。
 永遠になってしまった輝夜には、そういうところが酷く儚く、やけに羨ましく思えるのだった。
「変わらないわね、この辺りは」
 なるべく、感傷を含めずに零してみる。
 対して。
「……いんや、変わったよ。見て取れるものは、大体な」
 慧音は、幾許かの想いを込めて呟いた。
 そこが、長い時を生きる者と、永遠を生きる者の違い。
 ふうん、と輝夜は吐き出して、地面に落ちていた小石を蹴飛ばした。細長い屋根は、雪が降ったらすぐにでも押し潰されてしまいそう。それを防ぐための木材が物置小屋に平積みしてあるのを見て、何とはなしに、輝夜は笑ってしまった。

 

 

 気が付いたら、お腹が空いているようだった。
 どことなく、というかそのものずばり痴呆老人並みの感覚であるが、物事に集中しているときは誰もみな空腹など無視するだろう。そういうもんだと、輝夜は無理やり納得させた。
 子どもらがいつまで経っても輝夜のところに寄って来ないので、輝夜は自分から去ろうとしたが、折角だから昼飯を一緒にどうかと慧音に誘われた。
「別にいいけど……。なんでまた」
 自分の籠の中身を覗き込んでみると、可愛いおむすびが三つほど転がっていた。それと比較して、慧音の弁当の豪勢なこと。
「なに、お前と話をする機会も滅多にないのでな。永遠亭のルールに従うなら、暇潰しにと言ったところだ」
 それはルールでも何でもないと忠告するのも面倒なので、好きに言わせておくことにした。輝夜自身が暇を持て余しているのは確かなことなのだし。
 慧音が動けば、子どもも動く。親に連れられて名残惜しげに去りゆく背もあったが、慧音に任せれば問題ないと踏んでいるのか、おおよその子どもは、慧音のやや後ろからカルガモのように付かず離れず歩みを重ねる。その数はゆうに十を数え、輝夜は永遠亭で暮らしている名もなき兎を思い出す。
 当の慧音は、いちいち振り向かない。輝夜が振り向くと、意表を突かれた子どもらが足を止める。適当なところで笑ってみせると、何となく輝夜と子どもの距離が縮まったような気がする。気のせいでもいい、いずれ離れる身だ。そう在ってほしいと願うから、そう思うのだ。
「――さて、この辺りでいいかな」
「ああ、分かってたけどやっぱり外なのね」
「流石に、この数を居間には入れられないからなぁ」
 見上げれば、楓の群れが今にも落ちんと待ち構えている。笹や桜があるくらいだから、楓の葉っぱでご飯を握るのも面白い。食べるのは遠慮したいので、燃え盛る楓のような瞳をした鈴仙にでもご馳走しよう。あんまりにも鮮やかだから、化学薬品の研究を進めている永琳にも似合うかもしれない。彼女のことだから、楓色の着色料など作ってくれるかもしれないし。赤いごはん、は流石にちょっとという感じだが。
 不意に、腕組みしてまで考えてしまう。
「……難しいわねぇ」
 何がだ、と言われて当然の突っ込みを受ける。木の幹を境にして、子どもがくすくす笑っていた。
 空気は、むやみやたらに澄んでいるように思えた。こんな在りきたりなものが美しく感じられるのは、心が自然からかなり遠い場所にまで来てしまったからだろうか。それは、永遠ならずとも人間ならば誰もが抱いてしまう感情なのかも知れなかったが。
 先程のイチョウ並木を髣髴とさせる、紅葉と黄葉の乱舞を窺う。
 ……ああ、やはり綺麗なものだ。これは、どうしたって認めないといけない。
「さて、食べるか」
「そうね。あなたのお弁当、足りないかもしれないけど」
「案ずるな。こういう時のために、みなそれぞれの食べ物は用意している。私の分は、つまりおかずだな」
「……いいの?」
「生来、腹にはあまり物を溜めん性分なんだ。食べ物にしろ、恨み辛みにしろ」
 草の絨毯に腰掛け、膝の上に重箱を置く。丈の低い草とはいえ、虫やら何やらが中に飛び込んで来ないとも限らない。それなのに、子どもらは気にすることなく重箱に――というより、慧音に群がっている。好い気なものだ、と輝夜はおむすびを頬張りながら、子どもらに埋め尽くされる慧音の困った笑顔を眺めていた。

 

 

 昼食も終わり、子どもらは天然のベッドで気ままに昼寝を決め込んでいる。気楽なもんね、と柔らかい頬を突っついたり、丸出しになった下っ腹を擦ってみたりする。その度に、慧音が何とも言えない複雑な表情を浮かべていることに気付きながら、深く追及することもない。
「……良い風ね」
「天狗が走ったのかも知れないな。全く、師走にはまだ早いと言うのに」
 涼しげに、長い髪を透かしながら雲の流れを読む慧音。
 心地良い昼下がり、しかしこの時期は夜が長い。早く自分の領域に帰らないと、力のない人間は妖怪から襲われる虞がある。大人も子どもも同様だが、大人は子どもを守ろうとする。そう在ろうとする。慧音がそう心掛けていることは、彼女とさほど面識がない輝夜にも漠然と理解できた。
 天空にたゆたう小さな雲の塊を眺め、視線の先にあの竹林が位置していた。だから、という訳でもないだろうが、慧音の視線が輝夜に落ちた。
 里で会った時も、輝夜は尋ねようと思ったのだ。昼餉に誘われ、有耶無耶になってしまった些細な疑問――瑣末な感傷、のようなもの。
「行くのか」
「行くわ」
 即答する。
 聞きたかったのは、何故慧音が輝夜を里から締め出そうとしなかったのか、その理由だ。
 輝夜が、里の人間を手に掛けない理由はない。無意味に攻撃する必要もないが、あの竹林に住んでいる人間への対応を見れば、その必然を満たす時が永遠に来ないとは言い切れない。
 まして、眼前に在るのはひとつの永遠なのだ。
 慧音は、輝夜から目を逸らさない。輝夜もまた、瞳の焦点を外しはない。
 お化けのような竹林は、青い身体で天を貫かんと雄々しく伸び盛っていた。
「こんな長閑な小春日和だから、昼寝をするのも一興なのだけど、ね」
「誰も咎める輩はいないさ。やりたいことを、やればいい」
「そうね。まあ、でも、もしかしたら」
 捲くっていた裾を戻しながら、畳んだ膝を元通りに伸ばしていく。関節が、乾いた音を立てることもなく。
「私は、咎められたいのかもしれないわね。することがないからといって、気ままに遊び呆けている境遇を」
 髪を梳く。銀杏の匂いが移っていないかどうか、少し心配だった。
「その役割を、あいつに求めているのか」
 一瞬、見上げる慧音の眼に厳しい光が点ったように見えた。膝に子どもの頭を乗せているから、彼女は不用意に立ち上がることが出来ない。ただ、輝夜をとめることそのものは決して難しくないはずだ。
「とめるの?」
「どうだろうな。お前の願望と、あいつの執着が合致しているのなら、私が間に割り込む意味はないのかもしれん」
 仄かに憂いを含んだ科白だった。それを、
「そんな、難しく考える必要はないでしょうに。ことは単純、つまり、あなたがどう行動したいかでしょう」
 輝夜は、無造作に切り捨てる。
 どこか驚いたように眼を見開き、すぐにまた柔らかく見えるように細める。
「……そうだな。忘れてくれ」
 いいえ、覚えているわと軽口を叩いて、今一度豪勢な竹林に眼を向ける。
 ――と。
「……あらあら」
「――なんだ、あれは」
 物の意味を知らない訳ではないだろう。ただ、驚いているだけだ。
 何故、あそこにあんなものがあるのか、という、極めて単純な。
 竹林から天上に向けて、もくもくと昇っていく煙の行方を見定める。竹の青と空の藍と、その隙間に嵌まり込んでいる無骨な灰色と不気味な黒色を傍観する。
 山火事というほど大規模な火災ではない。狼煙と表現するには色気のない筋ではあるが、それを狼煙と判断出来る要素を、輝夜は全て把握していた。自然と、唇の端が妖しく歪む。
「魚でも焼いているのかしら。燃え移ったりしたら、また騒がしい鴉が飛んで来るのに」
 可笑しそうに呟き、空になった籠を拾い上げる。逢魔ヶ刻にはまだ早いが、真の魔物は現れたい時に現れる。慧音は、自身に寄り掛かって眠る子どもらの身体をずらし、器用に立ち上がっていた。
 ここから竹林まで、歩いて一時間ほど。徐々に川幅が増していく川沿いを進めば、誰にも簡単に辿り着ける迷い家。子どもらには、里の大人たちから近寄らないように厳しく言い聞かせているそうだが、時折てゐが子どもを案内したという話を聞くと、彼らの願いは上手く伝わっていないようだ。
「あの馬鹿……」
「まあ、ただ昼ごはんに与っているだけかも知れないから、あんまり酷いこと言うと可哀想よ?」
「お前もお前だ。怠惰な人生を咎める役目は、何もあいつだけに負わすものではないだろう。……まして、そこに死が伴うのであれば。私は、お前をとめなければならない」
「あら、やっぱりとめるのね」
 慧音の正面に立ち、乾いた草の葉を踏み締める。薄い着物越しに感じる草の刺々しさと滑らかさを、唇を引き結んでいる歴史喰いに重ね合わせてみる。
 彼女の掌は固く、周りに寝転んでいる子どもらの無垢な寝顔とは対照的だ。意固地なものね、と思いながら、愚直なほどに他人を慮ることの出来るその性格が、少し妬ましかった。
「ここで戦えば、子どもたちが大変なことになるわよ」
「歴史は隠すさ。だが、今回ばかりは私の我がままだ。利己的な思いから、不要な歴史操作を行なったと、責められても仕方ない」
「私が、子どもたちを人質に取ったりするかもしれないし」
「それが出来る輩なら、私はお前を誘わなかったよ」
 買い被りすぎている、と思う。
 だが、慧音の言うことも一理ある、と思った。歴史を操るだけあって、相応の説得力も兼ね備えている。
「……わかったわ」
 わずかばかり、心に溜めていた覚悟を解く。
「何がだ」
 しつこく追及して来るから、やや乱暴な言い方になってしまったことを悔やむ。
「歴史喰いであるあなたと、無為に戦うつもりはない――ってこと」
 ぺたん、と尻餅を突く。やる気なげに掌を突いて、そのまま午睡タイムに移行しようかという、自堕落な誘惑に堕ちてしまいそうになる。
 その急転直下を阻止したのは、緊張感が霧散し切った慧音の言葉だった。
「待て。それは、なんだ。今日は、あそこに行かないと捉えていいのか」
「んー……」
 どうだろう。身体が少しずつ地面に近付いているから、腕の力も利かなくなって来た。
 答えなど、本当は適当でもいい。けれど、半端な回答ならば慧音は輝夜の眠りを遮るだろう。
 迷いながら、輝夜は薄れゆく意識の先にある、答えのようなものを呟いた。
「行かない……」
「……本当か?」
 半信半疑なのか、慧音が念を押して来る。
 眠たそうに口の中をもごもごさせながら、輝夜は続ける。
「かもしれないし……」
「ん?」
「行く……」
「……やはりか」
 覚悟を決めたのか、慧音の眉間に力が込もる。
 輝夜は、今にも落ちてしまいそうな目蓋を擦り。
「かもしれない……」
「どっちだぁー!」
 慧音が爆発した。
 その拍子に、後ろの方で子どもがもぞもぞと起き出し、輝夜を支えていた腕の力が綺麗に抜けて、受け身も取らず青々とした布団に寝転ぶ結果となった。
 ちょうどいい。時間もあるから、このまま少し眠ってしまおう。天高く浮遊する雲と太陽から瞳を閉ざし、とうに見慣れた闇の中へと忍び込む。
「あ、ちょっと待て! まだ眠るんじゃない――と、あぁ、別に何でもないんだ。起こして済まなかったな、じゃなくて! そっちは籠を枕に安眠しよってからに、あ、だからこれは怒っている訳じゃなくてな――」
 騒がしい、慧音の叱責さえも心地良い。
 思い込めば、何でも子守唄になる。想像する心は大切だ。それさえあれば、何とか生きていられる。長く長い旅路の果てに、誰も側に居なくなっても。幸せだった時を思い、幸せな今を作り上げようと思える。
 風の音が、地面から土の匂いと一緒に輝夜を包み込む。
 眠りに落ちる途中、早く来いよ、と誰かが催促する幻聴を聞いた。

 

 

 だん。
 胸の中心を強く打たれ、須臾を経て、彼女の五指が胸骨を削り取って行く。
 視界が一気に開ける。赤く茹だった面差しが窺える。その赤は、斜陽か若しくは血液だったのだろう。脳が酸素を求めている時も、世界は赤色に染まると言うし。
 輝夜は納得し、その激痛に陶然と身を委ねた。
 ぴしり。
 輝夜という命を形作っていた、根幹の部分が罅割れる。
 この感覚は知っている。何物にも等しく訪れる、死だ。
 波紋のように広がり、阿弥陀籤のように切り取られる。硝子が割れるその刹那を切り取った映像が、脳裏を掠めては慌しく逃げ惑う。
 目の前の女は笑っている。狂気などという仮面を被ったところで、結局は人間だ。限界はある。
 ただ、ここに在るのは永遠なのだ。
 ――嗚呼、死が肩を掴んでいる。
 心臓が掌握され、血噴が体内と外界を汚染する。この鉄臭い味は血だろうか。
 背景は闇、世界には二人しかいない。そこからも排斥され、一体この魂はどこに向かう。
 否、どこにも行かない。魂は恒久に留まり続ける。それが永遠だ。
 けれども、死は訪れるのだ。それを成したいと思う人間がいる限り、何度でも。
 その縁から、不死鳥のように蘇るというのは、いささか出来の悪い皮肉だろうが。
 ぶつり。
 決定的なものが、途切れてしまう。滅びる。崩れ落ちる。
 眠りは死と似ているけれど、それと知らずに落ちる眠りと違い、死は断絶に等しい。ならば、眠りの在り方こそ死に相応しい。今度死ぬのなら、そう逝きたいものだと強く願う。
 だが、此度もそれは叶わないようだ。息が苦しい。ぬめった血が喉に詰まっている。咳き込んでも、溢れ続ける血溜まりは完全に排出できない。
 ずぶり。
 当たり前だ。彼女が握り潰したのは心臓で、もうひとつの手が抉り込んでいるのは胃とか腸があるところで、たくさんの血が身体の底から競り上がっているのだから、無理もない。諦めた。酸欠で逝った方が早いと思った。
 自ずから口を閉ざせば、今度は喉が固く強く握り絞められる。安らげる暇もない。恐ろしい。怖ろしい。死が怖い。終わりが怖い。積み上げてきたものの一切合財が消えてなくなってしまう現実が、怖くて仕方ない。
 でも。
 喜ばしいことに、続きはある。殺される前に用意されている。
 とりあえずは、その幸福に感謝して、今は死を受け入れようか。
 ぐしゃ。
 肉と、骨と、糸が、潰れて――。


 最期の一瞬、狂い歪んだ女の牙が目に映った。

 

 

 かぁ、という鳴き声を最初に当てた人間は、よほど想像力に欠けていたのだろう。
 情緒も雅さも持ち合わせていない当て字だけれど、下らない考えに浸っているうち、ぼやけた意識は次第にはっきりしたものになった。弧を描いていた蒼穹は一面の橙に染め変えられ、やがては山向こうに沈んでいる藍色の闇に支配される。
 大の字になって寝転んでいるせいか、裾の隙間から夕暮れ時の冷たい風が舞い込んで来る。少しばかり身体を震わせると、輝夜の横から突如失笑が降って湧いた。
「あなた、まだいたのねぇ」
 背中に付いた草を払いながら、平たい石に腰掛けている慧音を見る。足を崩し、傾いた膝に手を添える仕草がいやに凛々しく、不意に永遠を共有する従者を思い出した。
 辺りに人影はなく、か細い虫の音と人間に良く似た鳴き声をする鴉が数羽飛んでいるだけだ。いつもの落陽、いつもの侘しさ。暮れてゆく陽を慈しみ、昇り始める月を懐かしむ。その繰り返しで、ここまで来た。思えば遠く――本当に、遠く遠い場所までやって来たものだ。呆れる。
 目元を擦りながら、いまだ淡い微笑みを絶やさない慧音に尋ねる。彼女を見ていると、自分が分別を知らない子どもであるような錯覚を抱いてしまう。
「子どもたちは?」
「ちゃんと帰らせたよ。逢魔ヶ刻の真っ只中だったから、私も側に付いていた。……あぁ、何度か起こそうとはしたんだが、お前があんまり気持ち良さそうに寝ているものだから、私もあの子らも起こすのを憚ってな」
「……そんなに?」
「あぁ」
 小首を傾げる。その自覚はないが、客観的に見てそうだと言うなら、それは真実という他ない。少なくとも、何も知らない慧音や子どもらにとっては。
 輝夜自身がどうであるかは、この際あまり関係のないことである。
「ふうん、勝手に人の寝顔見てにやにやしていたのね。全く趣味が悪いわー」
「……う」
「まあ、それはいいでしょう。気を遣ってもらったんだし」
「……別に、にやにやしていた訳ではないからな」
「はいはい」
 軽くあしらい、鈍く軋みを立てる身体を起こす。髪の毛がくしゃくしゃになっている確信はあるが、いちいち整えている余裕はあるまい。待ち人が居る。開演の狼煙は、大地と天空に架ける橋となっていつか現れる侵入者を待っている。
 輝夜の背に、慧音の視線が刺さる。振り返ったところで、眠りに落ちる前の鋭い眼光は影を潜めていたが。
 慧音は、先程と全く同じ問いを掛ける。先程と全く同じ回答が与えられることを知りながらも、なお問う。
「行くのか」
「行くわ」
 輝夜は、わずかの躊躇いもなく即答する。
 音もなく風が吹いて、頭上の楓が一斉に鳴き始めた。
「お前が、行く行かないを有耶無耶にしたのは……。そうすれば、私を釘付けに出来るからなのだな」
 行くと断じれば争いは避けられず、退くと告げれば本懐が遂げられない。だから、そのどちらでもない道を選んだまでだ。曖昧な態度が、最も人を困惑させる。
「あなたはよく理解していないかも知れないけど、私は我がままなのよ。自分の思い通りにならないと我慢がならない、典型的なお姫様なの」
 ふふん、と胸を張る。そうだな、と小さく同意する声は、とても柔らかいものだった。
「さぁて、そろそろ燃やす木の葉もなくなっていることでしょうし、ね」
「行くんだな」
「くどいわねえ。そんなに心配?」
「まあ、な。知り合いが死の縁に立たされるとあれば、誰も良い顔はすまい」
「うーん、でも――」
「あぁ、誤解のないように言っておくが」
 慧音が輝夜を遮る。
「その知り合いには、お前も含まれているんだよ。だから、私はそれを望まないと言ったんだ」
 風がやんだ。
 聞き返すのも阿呆らしい気がするから、慧音の言を素直に仕舞うことにする。
 ただ、何だかよく分からない言葉が漏れてしまうのは、仕様のないところかも知れなかった。
「――ねぇ?」
 慧音は、ただ笑っているだけだった。
 秋の風に振り落とされた紅い木の葉が、二人の間に音もなく降り積もる。世界はどうしようもないくらい紅く染め上げられ、限りなく近い未来に起こり得る、怠惰な血戦を祝福しているように思えて。
 輝夜は、肩を竦めた。
「なら、ひとつ誓いを立てましょう」
「……うん?」
 指先ひとつを綺麗に立たせ、含み笑いも零してみる。
「今宵、私は誰も殺さない」
 意外や意外、勿体振った物言いが実に嵌まっていて、輝夜は少し嬉しくなった。呆然と佇んでいる、真面目な半獣の反応も相まって。
 そして、続けざまに語る。
「私も、なるべく死なないことにするわ。お知り合いを心配させたくはないから、ね」
 冗談ぽく、底意地の悪い微笑を残し、輝夜は空に伸びゆく白煙を仰ぐ。
 月にかかるべき群雲も、今日ばかりはあの煙にその座を奪われるのではないか。
 そんな訳ないわ、と思いながら、もしかしたら、という懸念がどうしても拭い去れない。何故そう感じるのかを鑑みると、答えは簡単、何のことはない。
 不死の煙ならば、ああ成程――。
 あの月さえも、悠々と穢してしまえるに違いない。

 

 

 人は闇を怖れるが故に火を熾し、獣は火を怖れるが故に闇を棲みかとする。
 その境に在るものは、何も恐れない。何故なら、彼女たちが既に畏れられる対象だからだ。
 月にも似た、近くて遠い陽炎の実像。永遠が在るなどという与太話は、永遠でなければ理解し切れない。
 悲しいわね、と思ってもいないことをぼやきながら、化け物揃いの竹林の中を齷齪と進みゆく。林に踏み込んでしまえば、この暗闇だ、狼煙の位置なぞ分かるはずもない。輝夜は、勘と本能とノリと勢いを掻き混ぜたものを頼りに、とりあえず真っすぐと思う方角に突き進んでいた。掌の汗が竹の幹にべたべたと引っ付いて、非常に鬱陶しい。汗と言えば、透き通るような黒髪もいまや汗と埃でべたべたになっているだろう。かつて望んでいた瀟洒な自分とは笑えるくらい掛け離れている。姫にあるまじき身なりである。
 が。まあ、しかし。
「うーん、何だかとっても禁忌な感じがしていいわね。やっぱりこうじゃないと、外に出てるって気がしないわ」
 当の本人は、至極ご満悦のようだ。身体に感じる些細な雑念はさておき、今日一日のメニューにおけるどれひとつとして、輝夜のツボを外したものはない。
 面白い、と思える全ての事象が、そのまま生きる糧になる。
 これだから、生きることは――。
 がさり。
「あら」
 突然、前が開けた。青い竹も無尽蔵に伸びる雑草の数々も、不躾な闇も不愉快な心臓の鼓動も、輝夜の行く手を阻んでいたありとあらゆる瑣末事が消失する。
 その先に、いつまで焚き火に勤しんでいたのか、眠たそうに船を扱いでいる知り合いの姿があった。煙は果てなき空に這い登り、竹に絡んで不自然な色を醸し出す。この場所から見上げる空に月がないのも、きっと不死の煙がここいらの空気を蝕んでいるからだと思った。
「…………ぐぅ」
 寝ている。完璧に。
 鼻ちょうちんを浮かべていればネタになったが、ただ胡坐で腕組みしたまま前後に揺れているだけでは面白くない。輝夜はもっと面白くない。折角ここまで来てやったと言うのに、ろくに出迎えもしてくれないとは。
「やれやれ、だわ」
 そこいらに落ちていた拳大の石を拾い上げ、何度かトスする。
 大雑把に狙いを付け、気前良く振りかぶって、第一球。
「えいっ」
 目標、蒼い銀の女――。
 ぼふっ。
 ――の、すぐ側にある煙の源泉に見事着弾する。
「……げふぁ! ごほっ、けふぁっ!」
 激しく咽る、蒼めいた銀髪の少女。
 灰かぶりになってもがき苦しむ様相はまさにシンデレラと言った風情だが、藤原妹紅という少女の反骨精神は、そんじょそこらの人間など全く比較ならない。
 けほけほと何度か咳を繰り返し、身体に降り掛かった灰と埃をあらかた叩き終えてからも、生来の銀髪が災いして髪の毛の具合がどうも納得いかないらしい。仕方ないから適当なところで見切りを付けて、自身を灰まみれに追いやった重要参考人に向き直る。
「輝夜!」
「はーい」
 妹紅の右腕が紅く光っていることを確認して、輝夜は瞬時に火鼠の皮の断片を引っ掴む。どこに隠し持っていたのかは乙女の秘密、というか一種の魔術だと永琳は言っていたが。
 飛来した炎の弾丸を、竹を掻き分けるように弾き飛ばす。眩い火花が散り、閃光と共に炎は消えた。ふん、と口惜しげに鼻を鳴らす妹紅が見える。一歩ずつ歩み寄り、役目を終えた狼煙の残骸と、ようやく辿り着いた一日の締め括りにわずかばかりの感慨を抱く。
「あんた、久々に会ったと思えばこんな下らないことを……!」
「頭に当てた方が良かった?」
「そういう意味じゃない!」
 どうやら、妹紅は怒っているようだった。相変わらずで、非常に微笑ましい。実際笑ったら酷い目に遭いそうではあるが、そうしたらやり返せばいいだけの話だ。難しいことはない。
 輝夜と妹紅の間に君臨していた諸々の障壁、因縁、執着、確執、軋轢――怨念、激情、慟哭。そういったものは、重ね続けられる幾星霜を経た後、でこぼこの少ない平坦な傾斜に均されてしまった。それでも歩くには困難で、手を握ろうにも轍は深い。が、月とスッポンは元々そう在るべきで、元来広がっていた距離以上に、近付いたり遠ざかったりするのはあまり好ましくない。
 怒りが冷めやらぬ妹紅は、今にも戦いを仕掛けんと身構えている。最低限、人を殺すには喉を切るか腹を貫くか四肢のいずれかを切り落とすか、あるいは高所から突き落とす、毒殺、就寝中の絞殺――は除外するにしても、これだけの手法が用意されているのだ。
「どうせまた、いつもの用事なんだろう? 馬鹿や阿呆の類じゃないんだから、たまにはもっと別のことしようとは思わないのかね。阿呆か」
「阿呆じゃないわよ。訂正しなさいよ」
「嫌だ。私は思ったことを素直に言っただけだからね。んで、やりたいこともやる。やってやる。これからも、ずっとな」
 明かりの失せた昏い地面を、小洒落た靴が乱暴に踏み敷いていく。
 目が慣れれば、殺意に満ちたいつもの妹紅を見ることが出来る。それでいい。過去も未来も、重さは同じ。どちらが大切ということもない。夢を馳せるのは、今も昔も明日も昨日も同じこと。
 ただ。
 輝夜は、誓いを思い出していた。
「さあ、今宵はあんたの臓腑をえ――!」
「あ、ちょっと待って」
「がぁー!」
 妹紅が爆発した。
 慧音に似ているなと思ったが、いつものことなので放置する。
「何よ! 何なのよあんたはー! もうちょっと人のノリとかタイミングとか考えて発言しなさいよ! これじゃ私が馬鹿みたいじゃない!」
「ばーかばーか」
「調子にのんなー!」
 引き続き誘爆する妹紅はさておき、本題に移る。
「まあ、馬鹿阿呆うんぬんはともかく、ちょっと落ち着いて人の話を聞きなさい。忙しないわねぇ、全く」
「はぁ、はぁ……。ッたく、誰のせいだと思ってんのよ……。分かったわよ、聞くわよ、聞きゃあいいんでしょう、輝夜」
 どうにか、話を聞く姿勢だけは整えたようだ。フライング気味、二の腕にミニチュアの鳳凰が乗っている件に限っては無視を決め込む。
「さっき、ワーハクタクに会ったんだけどね」
「へえ、珍しい」
「あなたに会うと言ったら、最後までとめようとしたわよ。あの子」
「ふうん。慧音らしいわね」
 妹紅はそれがどうしたと言いたげに佇んでいる。
「……それで? まさか、その報告がしたかっただけじゃないでしょうに」
「うん。その報告がしたかっただけ」
 着物の袖から、一枚の扇を振るう。亡霊の主君にお株を奪われてはいるが、これでも優雅さにおいては引けを取らない。指先で軽く開いた扇の紋様は、いまだ竹の葉に隠れている黄金の月。
「……はぁ?」
「意味が分からないのなら、それでも構わないわ。これは、私自身が掛けた誓いだから」
 ましてそれが同情になるのなら、不用意な制約など初めから必要ない。
 蓬莱山輝夜の名に掛けて、眼前に佇むひとつの永遠に全力で立ち向かおう。
 半月の扇が舞う。翳した空は、竹の海に覆われている。
「もしかしたら、あなたは忘れているかもしれないけれど」
 ならば我が身に刻まれた永遠をもって、この花を咲かせよう。
 六十年に一度、輪廻する竹の花びらを空に飾る。
 妹紅が横槍を入れる間もなく、永遠は末広がり、竹の時間を活性化させる。次に来たるべき開花を急かされ、彼女らを囲む竹が雄々しく唸りを上げる。
 喧しく、狂おしい絶叫と咆哮が静寂のままに奏でられ、やがては。


 ――白く、細やかな花弁が咲き誇る。
 闇に小慣れた瞳を凝らせば、満ち足りた竹が見えるだろう。
 呆けるなかれ、それは魂の叫びである。
 いつ訪れるとも知れない終わりが、開花を経た後に起こり得るこの現状にあって、なお力強く咲き誇るその雄姿を御覧じろ――。


 扇は平に、瞳は空に。
 永遠を捏ね繰り回して開花に導き、束の間の須臾を永遠の中に拉致監禁する。これが今宵の演劇場だ、思う存分踊るといい。誰も邪魔などしないから、何故ならここはひとつの永遠、舞台を踏むのもふたりの永遠。
 一体全体、誰が合間に入れようか。
「私はね。永遠と須臾を操ることが出来るのよ」
 片手の指で扇を閉じる。ぱちん、という乾いた音が、焚き火の炭から弾けて出たのか、扇から発せられたものなのか、そんな些細な疑問が浮上すると同時、炎を被った永遠が大地を蹴っていた。

 

 

 火柱が立つ。
 この中に入れば人柱か、と下らない想像を押し潰す。
 熱さを押し切り、妹紅の側面に回り込む。千年に及ぶ争いは、二人に戦いの勘を植え付けた。戦闘における相手の攻撃と防御、回避、呼吸、癖、ありとあらゆるものを読んで来る。
 なればこそ、妹紅は輝夜の動きに反応出来る。
「そこッ!」
 腕だけを振りかぶり、鳳凰が舞う。
「ふ――」
 火鼠の皮衣を顕現、衝撃により身体が押されるものの、すんでのところで全焼を免れる。
 だが、そこに隙が出来た。一箇所に留まるということは、完全に位置を読まれているということだ。立ち位置が固定されていれば、広範囲の技を仕掛けることも出来る。戦いにおける選択肢が増える。
 背に雄々しい竹を控え、両手を広げる焔の体現者を望む。
「しまっ――」
「燃えろ」
 不死鳥が啼く。
 地を裂き、空を割り、竹を縫って輝夜に迫る。二匹の古鳥が、円を描くように輝夜を追い込んでいく。徐々に狭くなる円の中心に佇み、円柱状に連なる炎の壁を見上げる。非現実的な光景が、輝夜と妹紅の間には日常的に広がっている。滑稽だった。
「ああ」
 半径の中心から空を見れば、不死の狼煙が消え失せたせいで、満面の月が綺麗な顔を覗かせていた。手を振ったなら、そこの兎は答えてくれるだろうか。分からない。が、考えるのは面白かった。
 熱さは考えない。痛みも疲労も燃え盛る灼熱の轟音さえも度外視する。
 頭上に妹紅の姿はない。ならば、これを打ち破った隙に次の攻撃があると考えるべきだろう。普通なら、燃え尽きた後にどうすべきか考えるのだが、今回ばかりはそうもいかない理由がある。仕方ない。一度決めた盟約を破るのも、瀟洒ではない。
 はぅ、と吹き出す溜息にも引火してしまいそうな火煙の中。
 輝夜は、力ある言葉を紡ぎ出した。


「蛇の道は龍、鯉の路は竜。
 行きなさい。――『ブリリアントドラゴンバレッタ』」


 五色の弾丸が、槍となり矛となり、御身を護る刃と盾を兼ね合わせ、次々と不死鳥の包囲網を突き破っていく。
 炎が空気の摩擦によるものならば、弾幕の龍でその波を泳ぎ切ってみせよう。
 輝夜は宙に浮かぶ虹色の玉に両手を翳す。全ては幻想、想像が創造を生み、イメージが現実を侵食する。なればこそ、冗談のような炎の海さえ越えて行ける。
「妹紅、聞こえてる!? 私はここにいるわ! だから、もっともっと強いのを頂戴!」
 紅い外壁の外側にいるであろう、蓬莱人に催促する。
 ここからでも、戸惑う彼女の表情が思い浮かんだ。だがすぐに顔を引き締め、ならやってやろうじゃないかと、更なる焔を展開し、地を駆け、月の恩恵を一心に纏いながら。
 ――見えた。


「永遠の源泉をもって永遠の魂魄に帰属せよ!
 『ライフスプリングインフィニティ』――!」


 炎に切り取られた頭上の闇から、ひとりの炎が飛び込んで来る。不死鳥を身体に纏い、撃墜されることなど意味もないと言うように。
 輝夜が空に放り投げた弾は、妹紅に届く寸前、眩い光を放ちながら自転する。
「く――!」
 無差別に照射される熱に肌を焼かれながら、地面に這い回っている輝夜に向けて、右腕を突き下ろす。


「灰燼に帰せ! 不死鳥、『フェニックス』――!」


 安全や保身など徹底無視、あるのは相手が絶命する一瞬のみ。
 永遠とかいう、枯れ果てるには十分すぎるほどの時間を経ても、こうして擦り切らずにいられるのは、確か、こんなことをしているからではないのだろうか。
 どちらともなく、そんなことを考えて。
 無限に螺旋する永遠の泉と、最期に蘇生する炎の始祖鳥が交差した。

 

 

 火鼠の皮衣が出来ることと言えば、四方八方から襲い来る炎弾――否、数匹の不死鳥を相殺することぐらいで、それによって生じた爆発のエネルギーまでは殺し切れなかった。
 真っ白な衝撃が、輝夜の全身を包む。
「――――」
 衝撃波に目と耳がやられたのか、音声と映像の世界は見事に断絶していた。ただ、無骨な痛みだけが身体を苛んでいる。飛ぶのと飛ばされるのとでは、その意味合いが大きく異なる。手探りで、背中が地面に付いていることを確認する。
 感覚の半数が本来の機能を果たしていないことを知った上で、輝夜は、あちこちで燻っている火種の中、裂傷と血と土にまみれた復讐者が迫っていることを感じ取った。
 鈍い痛みに呻きながら、どうにか立ち上がってみる。視覚と聴覚はあやふやだし、頭を打ったせいか真っすぐ立っている気がしない。嗅覚と触覚、関係ないけれど味覚は問題ないらしいが。
「――や」
 何やら、妹紅が喋っている。止めを刺すつもりはないことを察し、耳を澄ます。
「――解せん。貴――、それで本気――か?」
 言いたいことは、何となく分かる。同時に、彼女が酷く憤慨しているということも。その感情が呆れに至れば隙を見出すことも出来ようが、千年来の仇敵を前に、過小評価することは有り得ない。
 けれど、動揺があるのならば、それが鍵だ。
「分か――ない?」
「な――」
「そう見える――なら、あなたも、所詮――」
 薄らぼやけた世界から、紅く染まった腕が伸びる。それは簡単に輝夜の首を掴んで、彼女の底から何か答えになるようなものを搾り出すかのように、徐々に、その握力を増していった。
 夢、を思い出す。
 途中の展開は省かれているものの、おおよその結末は似たようなものだ。
 さて、あの時の自分は、何を言い、如何に思い、どんな結論に至ったのであろうか――。
 何度も何度もしつこく繰り返されていることだから、すぐには思い出せそうになかった。
 その間も、よく首は締まる。
「お前が何を隠して――のか、そんな――に興味はない」
 耳朶に突き刺さる声色も、次第にはっきりとしたものになる。
 白一面のスクリーンに、妹紅という血痕が浮かび上がる。彼女には狂笑も歓喜もなく、ただ睥睨と殺気があるだけだ。片腕一本のみで、輝夜の身体を釣り上げる。全身の重みが首の骨に集中し、一瞬何もかもを吐瀉してしまいそうになる。だが、主君としてそれは堪えた。
 この期に及んで拘るものなど、命の他にないような気もする。その命さえ使い捨てられるのならば、今更何に縋ろうという。
「死なない程度に抉って、底知れぬ痛みに悶える――に仕向ければ。どうか死なせてください、何でもしますと、下らない謀略を吐き出しもするのか――ね」
「……ぎ」
 親指が、頚骨の繋ぎ目に捻じ込まれる。
 視界は、白色から赤色に転移しかけていた。唇の端に、何か嫌なものが溜まっている。拭い去ろうとしても、なかなか腕が上がってくれない。
 なんてことだろう。折角、舞台のために竹の花まで咲かせたのに。
 自分では、その姿を眺めることも出来ないなんて。
「……は、く」
「苦しいかい? なら、すぐに楽にしてやるよ。終わりは早い方が良い、その方が、新しい世界を存分に楽しめるというものさ――!」
 ぎち。
 肉が裂ける、小刻みに耳障りな音ばかりが響いて来る。
 いよいよ、もう幾百幾千と繰り返された生も終わりを告げるようだ。そして、幾百幾千と繰り返される生が始まっていく。人間一人、生物一個が群れ全体として行なわれる再生が、永遠の身ならばその身体ひとつで実現出来る。
 もはや、輝夜は「輝夜」という種族であり、妹紅は「妹紅」という種族なのである。無理やりにそれらを一括りにすれば、蓬莱人と呼ぶことも出来ようが。
 ――もう、好い加減に苦しい。
 視界は赤色に落ち、意識も朦朧としている。絞首は一種の快楽を伴うというが、苦しいものは、苦しい。
「しぶといねぇ、さっと逝きな――」
「……ぃ」
 それでも、両手を妹紅の手首に引っ掛ける。意外に細い絞首台の感触が、脳に伝わっていることを確かめる。
 死は近く、生への道は限りなく遠い場所に行ってしまったように思える。
 しぶとく生きるか、あえなく死ぬか。
 それが難題だ。
「――往生際が――」
「骨が、折れても……」
 呟く声は、頭に入っていなかった。
 初めから決めていたことを、脳みその隙間にある引き出しから取り出して、そのまま唇から零したに過ぎない。
「一月も、すれば……、治るから……」
「お――」
 妹紅の腕を、片腕を巻き込んで強引に固定。手のひらは、妹紅の手首に合わせる。
 それからは簡単、持てる力の全てを使い、両手で彼女の親指だけを逆方向に捻じ曲げる。
 輝夜の狙いを察し、絞めた腕を放そうとした時には遅く、指は完全に明後日の方へ折れ曲がっていた。激痛が、妹紅の脳裏を駆け巡る。
「――――ぐぅッ!」
 叫び、手の力が緩まる。
 輝夜には、その須臾さえあれば良かった。一呼吸、二呼吸、それである程度の感覚は戻ってくれた。仇敵の顔も、雄々しい竹の幹と葉と花も、全てが在りのままの色に帰っている。妹紅は元から紅い身に染まっているが、その色もやはりどこか懐かしい。
 だが時間は限られている。生き抜くと決めたのだ、今更諦めることは出来やしない。
 生きることを、やめられるはずがないのだ。
「い、っ……!」
 痛みに身悶え、奥歯を軋ませたのも一瞬に過ぎない。妹紅は、すぐさま輝夜を仕留めんと自らを灼熱させ。
「――『ブディスト」
 屈んだままの体勢から、巨大な石鉢を振り上げんとする輝夜の勇姿を見た。
 距離は、手を伸ばせば届くか否かという超近距離。そこからまさか人の頭ほどもある石の御鉢を振りかぶる不条理は、不死人の想像をも絶していた。
「ばっ――!」
 ――それに。
 それは、そういう使い方じゃないだろ――。
「ダイアモンド』ーっ!」
 そして、全力投球。
 妹紅の過失は、輝夜の表情があまりにも鬼気迫っているから、不死鳥をもって撃墜するとか両手で受け止めるなどの、適切な処置を取れなかったことだ。
 万事休す。
 あっ、という間に無骨な巨石が眼前に迫って来て――。

 

 

 きっと、妹紅は倒れる間際も生や死に思いを馳せることはなかっただろう。
 というか、まだ完全に倒れてもいない。仏の御石の鉢を額の上に乗っけたまま、シュールな彫刻みたいに白目を晒して突っ立っている。
 あまりに阿呆らしい衝撃だったから、世界も上手い具合にこの光景を固めておきたかったに違いない。輝夜はそう思った。
「……あ」
 終わりを迎えた途端、急に気が抜けた。
 踏ん張る力が失われ、ぺたんと尻餅を突く。それと平行して、銅像と化した妹紅も地面に崩れ落ちた。白目を向いているから多少心配だったが、四つんばいのまま軽く喉に触れてみると、呼吸だけはしているようだった。目覚めた後、今晩の記憶が失われている可能性はあるものの、死んでいないのは僥倖だった。
 これで、一応の約束は果たしたことになる。
 肩の荷が全部下りた気がして、まあるい月をのんびり仰ぐ。煤けた匂いが辺り一面に充満していて、けほけほと咳を繰り返す。
 静かな中に身を寄せていれば、竹林の夜というのも悪くはない。
 六十年という月日を歪めて、灰のような花を咲かせる。整えられた舞台の緞帳は静かに下りる。その正体が自分の目蓋であると理解した瞬間、自らを支えていた腕の力も完全に損なわれる。
「あ……」
 後ろ向きにスクロールする視界の中、はらはらと舞い散り落ちる竹の花弁が映った。
 季節は冬に突き進んでいる最中、竹だけが安穏と花を付けている訳にもいくまい。
 紅葉のように色を変えたりはしなくとも、白い花弁は、灰と見紛うばかりにくすんでいる。それで十分。
 疲れた背中を地面に浸せば、簡単に意識は落ちてくれた。
 その眼に幻想の花を映して、透明な紅葉が輝夜の上に降っていた。

 

 

 どうか、お気を付けて。
 そういうこと、と納得出来た理由が、今なら何とか、言葉に出来そうな気がした。

 

 

 夜遊びをした子どものように、恐る恐る玄関の扉を開く。やはり、家は明るい。加えて、何となく暖かいものだった。
 そこには、二匹の兎が対照的な姿勢で待ち構えていた。背の低い兎は頭の後ろに手を組んで、薄手のシャツにタイを着けた若い兎は、はらはらと胸に手を重ね合わせて。
 どちらにしても、それなり心配しているように見えるから不思議である。
 ああ、そうか。
 心配、してくれていたんだ。
「たらいま〜……」
「じゃないですよ、姫! 今何時だと思ってるんですか!?」
「はいはい」
「軽く流さないでください! あぁもう、こんなに汚してどこをほっつき歩いていたんですか! 洗濯とか手当てとか大変なんですからね!」
 力強く答弁する鈴仙の横合いから、やや冷淡な突っ込みが入る。
「でもさ、洗うのは鈴仙じゃないっしょ」
「う……そ、それでもです!」
 折角の熱弁も、どこか空回っている様子だった。
 一方のてゐは、よっと気楽に手を挙げる程度。けれども、輝夜が出掛けたところで出迎えなどしたことがなかったてゐだから、これが特別な待遇なのだと思える。
 ふらつく身体を、重々しい扉に預ける。鈴仙の説教とてゐの横槍を呆と聞き流していると、長く長い廊下の向こうから押し殺した足音が聞こえて来た。長年連れ添っていれば、足音からでもそれが誰かは分かってしまうものだ。
「お帰りなさいませ、姫」
「只今帰って来たわ、永琳」
 永遠の従者は、鈴仙ほどではないにせよ、かすかに表情を歪めていた。
「あ、師匠からもひとつお願いします! 姫ったら、またこんな格好になって……!」
「それはともかく、少し騒がしいわね。姫もお疲れのようだし」
「あ……。も、申し訳ありません!」
「あ〜、説教が傷口に染みるわ〜」
「うぅ……」
 逃げ場を失い、鈴仙は小さく呻いていた。その目に、何か光るようなものが見えた気がして、やっぱり錯覚だったと思い知る。そんな都合の良いことはないし、そこまで自分のことを考えている者はいないだろう。
 だが、不覚にもそう見誤ってしまったのは。
 蓬莱山輝夜は、誰かに泣いてもらいたいのだ。
 鈴仙、てゐ、永琳、加えるなら慧音、そして意味合いは異なるけれど、恐らくは妹紅にも。
 永遠だ何だとぼやいたところで、所詮はただの生き物だ。
 疲れた身体を休める場所は、目の前にいる者たちによって支えられている。
 だからこそ、こうして生きていられる。
「姫」
 てゐが、多少なりとも畏まった言い方で問い掛ける。
「どうしたの?」
「茶碗蒸し、気が向いたら食べてくださいね。そりゃあもう、アホみたいに作りましたから」
 意地悪く微笑み、一人勝手にこの場を後にする。鈴仙が引きとめようとしたが、あまりに逃げ足が早いからすぐに諦めてしまった。
「もう、あの子は……」
「いいのよ。てゐも、約束は果たしてくれたから」
「……え?」
 驚愕の声が上がる。その原因を知ってか知らずか、輝夜はぼろぼろになった履物を脱ぐ。
 一日中、そこらを動き回っていた。気ままに散歩するというのも、何だかんだで疲れるものだ。妹紅と久しぶりにやり合ったせいで、身体の節々が軋んでいる。喉には紅々とした大きな紅葉が刻まれていて、輝夜の事情を知らない者なら顔面蒼白になったであろう。
 輝夜が脇を通り過ぎても、鈴仙が呆と突っ立ったままだったため、永琳は彼女の背中を強く叩く。
「わあっ!」
「? どうしたのよ、鈴仙」
 輝夜が振り向き様に言うと、鈴仙の時間が一瞬完全停止する。
「……わー! やっぱり聞き間違いじゃなかったー!」
「何なのよ……」
 初めて本名を呼ばれたせいだとも知らず、輝夜は前傾姿勢のままだらしなく廊下を歩く。
 ……と、その前に。
 くるりと踵を返して、良い姿勢で佇んでいる従者と、慌てて付いて来る月の兎に向き直る。果たして、今の自分はどういう顔をしているのだろう。想像すると楽しくて、自然と顔が綻んでしまう。
 だから、その笑みが崩れないうちに、言ってしまうことにした。


「心配してくれて、ちょっと嬉しかったわ。ありがとうね。永琳、鈴仙」


 それから、てゐに、慧音も。
 再び前に身を翻し、勝手気ままに先へと進む。
 後ろから、驚愕と微笑みが響く様子を思い浮かべて。
 それがまたどこか楽しくて、やっぱりもうちょっとだけ笑ってみた。


 この良き日が速やかに終わることを、通り過ぎていった全てのものたちに感謝しながら。

 

 

 



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2005年10月30日 藤村りゅ

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