るーことキャッチボール





 あくる日の昼下がり。
 俺とるーこは、いつかの河原に繰り出していた。
 五月の連休も過ぎ、在り来たりな日常が続いていく。その隙間にぽっと空いている休みくらい、好きな女の子に捧げたっていいだろう。
「……しかし」
「どうした、うー」
 ばしっ、とるーこはグローブを叩く。ご丁寧に、どこから調達してきたのか野球帽まで被っている始末。しかもどこのチームだか分からんし。
 かくいう俺も左手にグラブを嵌め、右手に硬球を握り締めているのだから世話はない。まあ、それもるーこに激しくせがまれての事なのだが……。
 当のるーこは、俺と20mほど離れた位置に立ち、両手を挙げながら待機している。……不思議と、野球小僧スタイルであればバンザイをしていてもさほど違和感はなかったりする。
「今になって怖じ気付いたか。……無理もない、いくらメジャーで活躍する日本選手が増えたとはいえ、未だ日本とメジャーの壁は厚い」
「いや、そういう問題じゃなくてな」
「うーはグリーンモンスターを知っているか?」
「知らないけど。……ノリノリなところ悪いが、なんで休日にキャッチボールなのかと俺は問いたい」
「るー」
 おそらく、とても不思議そうな顔をしているであろう俺を見て、るーこは首を傾げる。
「日曜日、イコール休日。これすなわち遊び呆けて怠け堕落するという意味だろう?」
「惜しい」
 外人という設定にしても、行き過ぎた翻訳になっている。
 業を煮やしたるーこは、表情の少ない顔をめいっぱい怒りに歪ませて、
「つまり、遊ばせろ」
 力強く言った。
 相変わらず抑揚のない口調だったが、意志は伝わってくる。しかし、俺には少々納得できないものもあったり。
「俺もそのつもりだけど……だって、キャッチボールだぞ? もっと他にやりたいこととか無いのか?」
「無い」
 断言されてしまった。こうなると俺にはどうしようもない。
 返事に窮した俺に、るーこは捕捉を入れる。とても優しく、温かい声で。
「正確には、うーとならば何をしても楽しい。何もしていなくとも、うーと居ればるーは幸せだ」
 そう言って、穏やかに笑ってみせた。
 五月の爽やかな日差しの中、その名前に相応しい聖母のような笑みで、彼女は俺の前にいる。
「…………いや、その」
 はっきり言って、反則だ。
 自分が好きになった女の子に、そんなことを言われて平然としていられる奴なんていない。俺だって、俯いておかないと真っ赤に照れた顔が見られてしまう。
「どうした、うー。ゆでだこか」
「ち、ちがうっ! 花粉症だ、花粉症!」
「スギの季節はとうに過ぎたぞ。ヒノキかキリかクスノキか」
「あぁそうだよ! もう分かったからさっさと行くぞ!」
「るー」
 大きく腕を振りかぶり、多少の手加減を加えてボールを投じる。
 一直線、というよりは山なりの軌道で飛んでいくボールを、教科書通り胸の位置で捕球するるーこ。素人目に見ても、その動作はかなり洗練されたものであると分かる。なにせ、捕ったと同時に投球動作に入っているのだから。
 しかも、見た感じだとかなりマジな投球フォームなのだが、手加減とかサジ加減とかそこんとこどうなのか。
「るーっ!」
 今まで聞いたことのない必死な掛け声の後、数瞬遅れてるーこの腕から放たれる硬球という名の弾丸。……おおっ、ボールが手から離れる瞬間が捉えられなかったぞ。速過ぎて。
 つーか、こんなに落ち着いてていいのか自分。ボールは山なりだった俺の軌道とは打って変わって、定規でも引いたかのような地面と平行の軌道を保ちつつ、高速で俺に接近する。20mって言ったら時速100kmでも一秒に27mは行くぜってもう一秒経ってんじゃん!
 そして。
 ――耳元を掠める風の音は、間違いなく俺の意識を根こそぎ奪い去って行った。
 ……一秒後、硬球という名の暴走機関車が川に着水し、水切り名人が放った石のごとくパシャパシャと水面を跳ねていく音を背中で聞いていた。
 常識が、理論が、技術が、何より俺の理性がこの事実を否定する。
 しかし、これは疑いようもない真実で。
「るー」
 勝ち誇ったかのように万歳をする少女が放ったものであると、俺は認めなければならないらしい。
 ……そういや、出会って間もない頃に“るー”の力だとかで衛星軌道上にボールを投げたことがあったっけ。危ない危ない、あんなのを地上で喰らったら頭蓋骨がバターみたいに溶けちまうところだったぜ……。
「ちょっとるーこ。こっち来い。集合」
「負け惜しみか、うー。見苦しいぞ」
「……このさい勝ち負けは度外視するから、とにかく来るの」
 るーこはまだ何か言いたそうだったが、それでも右肩を回しながら誇らしげに近付いてきた。
「ところで、ボールがないぞ。うー」
「……えーと、その前に」
 前置きしておけば、これは怖い目に遭ったことへの報復ではなく、るーこが周りに迷惑を掛けないための線引きみたいなものである。
 俺は親指と中指でわっかを作り、中指で溜めに入る。
「ちょっと額を出せ」
「る?」
 不審がりながら、言うとおりに頭を下げるるーこ。
 その綺麗な額に一瞬ためらいを覚えつつ、俺は若干の手加減を加えながらも一応は本気のデコピンを放った。
 ビシッ! と消しゴム程度なら机からフリーダイブしかねない衝撃を受け、るーこはちょっとだけよろめいた。
「……っ!?」
「これはお仕置き。ボール無くすし」
「る〜……」
「恨みがましい目で見ても駄目だぞ。いけないことはいけないんだから……って痛い痛いっ! ボディ、ボディを攻めるなボディを!」
「DVだぞ、うー……。本来なら貿易摩擦に発展しかねないところを、内臓破裂で融通してやろうというのだから、感謝こそすれ非難される謂れはない」
「んなアホな……って痛い痛い痛い! おま、リバーブローなんて高度な技をどこで!?」
 しばし、俺とるーこのインサイドでの攻防が続き、グラブを嵌めていたことが功を奏したのか、左手でるーこのデンプシーを捌き続けているうちに時間は過ぎていった。
 ボールもないからキャッチボールは出来ないが、これはこれで有意義な休日の使い方なのかもしれない……訳ないだろ、まったく。ボディはやめろよな。
「……あー、いてえ……」
「情けないぞ、うー。そんなことでは巨人のベルトを掴むことなど到底不可能だ」
「趣旨変わってるじゃん……。その以前に、巨人はベルトなんて巻いてねえよ……」
 丈の低い雑草が生い茂る地面に横たわり、苦痛に歪む俺の顔を上から見下ろするーこと睨み合う。
 疲れた身体を無理やり起き上がらせて、益体もないじゃれ合いに費やした時間を確認する。
「……一時間も何してたんだ、俺たち」
「愛の深め合いだ」
「さいですか」
 気のない返事を返し、痛む腹を擦りながら空を仰ぐ。……なんだか腹が空いた気がするのは、けっしてボディを集中攻撃されたからではないはずだ。男の名誉のために言っておくが。
「そろそろ帰るか。夕飯の準備とかもしないといけないし」
「る? まだ早いだろう。楽しい時間は短いのだ」
「いや、だってボールないし」
 ならばとガードを固めるるーこ。
「それも無し。おまえのボクシング技術は身をもって味わったから」
「……るー。でも、ボールならあるぞ」
 不満げに告げて、細い人差し指で俺の後ろを指し示す。
 なんとなく振り返った河原の向こうには、当たり前のようにとうとうと流れる川があり、その奥にはやはりもう一方の河原があって……。
「流されて無くなったと思うんだが」
「……いいだろう。うーがあくまでそう主張するのなら、その目を開いてとくと見るがいい」
 言うが早いか、るーこはさっきまで華麗なステップを踏んでいた疲れも見せずに橋の方へ駆け出していく。
 あー、と止める声も虚しく、るーこの影は暮れ落ちようとする日の陰に隠れる。正確には、橋の欄干に隠れて見えなくなっただけなのだが。
「やれやれ……。元気なのはいいんだけどなぁ」
 あれだけはしゃいでいるのを見ると、このみと同じように靴を駄目にするんじゃないかと不安になってしまう。でも、俺と一緒に居るだけであれだけ楽しんでくれるのは、正直本当に嬉しい。嬉しくてたまらない。
 ……やばい。にやにやしてるのが自分でも分かる。
 こんな姿を知人(特にタマ姉)に見られでもしたら、一生とは言わなくても一週間ぐらいはこれをネタに俺の日常が脅かされる――って、タマ姉の危機はいつものことだよな。うん。そう納得してしまうことが男として正しいのかどうかは永遠の謎だが。
 ぼう、と幸せと不幸せについて思いを巡らせていると、俺の背中に何やら聞き慣れた奇声が届けられた。奇声が耳馴染みというのも問題ありなのだが、それはそれだ。
「……るーこ?」
 振り返る。と、そこには。
 おそらくは、さっき俺目掛けて全力で投じられたはずの硬球を右手に掲げて、るーこことルーシー・マリア・ミソラが雄々しくバンザイする姿があった。
 そして、あの第三種接近遭遇を再現するかのように、るーこは小さく助走を取って右腕を砲台のように構え――。
「って、ちょっと待ったぁ――!!」
「るぅ――っ!!」
 二人の絶叫が重なり、悲鳴は水飛沫に掻き消された。




 拝啓。
 るーこのお父さんとお母さん。
 るーこは、この慣れない地面の上でも元気に暮らしています。
 そのせいで、俺が酷いことになってるのには目を瞑ります。
 だから心配しないでください。
 どうしても心配したいというなら、俺の方を心配してください。
 正直、身体が持たないような気もします。
 けれど。
 るーこと居られてとても幸せです。
 るーこもきっと幸せです。
 でも、ボクシングは教えなくて良かったんじゃないでしょうか。
 痛いし。
 主に俺が。




「――情けないぞ、うー。そんなことでは明日のジョーは明後日もジョーだ」
 ……意味が分からない。
「理解したら、さっと立つんだ。ジョー」
「いや、ジョーじゃないし……野球関係ないし……てて」
 無様に腫れ上がった額を抑えながら、よろよろと立ち上がる。なんか遺書のような手紙を綴っていたような気もするが、覚えてないってことは夢だったんだろう。きっとそうだ。
「……ボール、あったんだな……」
 るーこが握り締めている硬球に目をやる。多少薄汚れてはいるものの、確かにさっき使っていた球だ。ちゃんと『Lucy』と名前が書いてある。でも水性マジックだから色が霞んでいたり。
「無論だ。水切りの原理を応用すれば、球体を向こう岸に着岸させるのはさほど難しくはない。さりとて安易かと問われれば、決してそうではない」
 何やらるーこが居丈高に語っている。どうにも意図が読めないので、素直に尋ねてみた。
「……つまり?」
「褒めろ」
「……あー、偉い偉い」
「もっと」
「凄いなー、るーこは破壊神だなー」
「それは褒めてないぞ」
「じゃあ、暗黒大魔王で。HPが8000ぐらいの」
「マイナス方向にグレードを上げるな。しかも安っぽい」
 ビシッ、とわりかし本気のデコピンを喰らう。しかもタンコブが出来た箇所にクリーンヒット。
「いてえ!」
「これは天罰だぞ。理解したなら、真っ白になるためにキャッチボールを続行しよう」
「……いや、だから原型を留めてないんだって……」
 そう言いながら、グラブを嵌め直す俺も付き合いが良い。
 適当に距離を取って、るーこのボールを待つ。
 ……分かってる。るーこが本気の球を投げることなんて。
 それでも、るーこがあんなに嬉しそうな顔をしている限り、俺はちゃんとるーこの球を受け止めなきゃいけないと思う。もう何を言っても無駄だろうし。
 だから、さあグラブを構えて。
「来い――!」
 若干腰が引けてはいるけれど、音速を超えてはいないるーこのボールを全身で受け止めようじゃないか。
 にやり、とるーこは不敵に笑い、大きくその黄金の右腕を振り上げて――。




 拝啓。
 アメリカのどこかにいるっぽい親父とお袋へ。
 俺は幸せです。
 ほんの少し頭が痛いけど、それでも幸せなんです。
 だから。
 せめてあともうちょっとだけ、治療費という名の小遣いをください。
 お願いします。

 ――あなたの愛する息子、河野貴明より。血判を添えて。





−幕−







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2005年2月19日 藤村流継承者

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