神様を見たことは、多分ないと思う。

 

 

 

 

 修学旅行なんて行ったことないけど、きっと、こんな感じなんだろう。
 簡易式のベッドに寝転がりながら、二人して地球の動画を鑑賞する。ほんと、一本いくらもしない環境販促用の動画なんだけど、この子はほんと馬鹿みたいに喜んでいる。そんなに鳥を見るのが好きなんだろうか。
 それとも、こんなことを言ったら絶対に自惚れるだろうから、絶対に言わないけど。
 もしかしたら、ノノは、私と何かを見ることが嬉しいのだろうか。
 そんなふうに、自惚れてもいいのだろうか。
「お姉さまー」
 ふと、間の抜けた声が届く。隣のベッドには、正座した太ももの隙間に手を突っ込んで、次の動画をわくわくと待ち構えているノノがいた。
「……ぷっ」
 その仕草が、ほんと子どもみたいで、笑ってしまった。
「ああっ、なんで笑うんですかー」
 むっとしたように言うけれど、ぷうっと頬を膨らます仕草も子どもじみている。図体は立派なのに、人工知能と釣り合っていない。
 でも、まあいいか。
 私も、バスターマシンなんてものに乗っている以上、身体と釣り合いが取れていない力を秘めていることになるんだから。
「ふふ」
「むー。いいですよー、わたしひとりでも見ちゃうんですから」
「あぁ、ごめんごめん。一緒に見よう」
 ベッドから身を乗り出し、リモコンを操作する。
 その視界の端に、ぱぁっと弾けるような笑みを浮かべたノノが映っていた。

 

 

 ベッドの中でまどろみ、浅く、深く呼吸をしている時は、母の胎内にいるようなものだと思う。
 ディスヌフの操縦席にいる時とも、また違う。あそこは、胎内というより、外向きに発現された爆弾の内部みたいなものだ。落ち着くことは落ち着くけれど、操縦席にいる時は、眠れなかった。多分、それくらいの違いでしかないのかもしれない。
「……朝」
 呟いてみて、自分がどんな格好で寝ていたか、気付く。
 逆さまに昇る太陽は、空に向かって燦々と輝いている。海の青は下、空の青は上。その遥か彼方にある宙は私の目にもちゃんと映っているはずなのに、脳はその色を認識しない。おそらく、星の輝きもまた。
 カーテンが開いているのは、閉める前に寝たからだ。単純な話である。
 でも、ベッドから首が落ちそうになっているのは、ちょっと複雑だ。
「……眠い」
 しばし、そのままの体勢を維持して、額を撫でる。
 そういえば、額のシールを剥がして生活するようになってから、どのくらい経っただろう。
 星が瞬く幾星霜に比べれば、ほんのわずかな時間なのだろうけど。
「起きるか」
 ハンドスプリングの要領で、くるりと床に着地する。寝起きの頭はそれでも貧血に負けることなく正常に働き、彼女に羨ましがられた銀髪がふわりと視界を横切る。
 太陽は、当たり前のように真上に輝いていた。

 

 

 ヤンバルクイナに会いに行こう。
 そんなセンスの欠けらも感じさせないキャッチコピーに釣られたわけじゃないけれど、私はヤンバルクイナの調査に沖縄を訪れていた。自費である。正直、かなり痛い。まあ好きでやっていることだから、仕方ないと言えば仕方ないのだけど。
 火星の鳥は死に絶えたのに、火星より古くから人間を住み着かせている地球の鳥は、まだまだ元気に生きている。ヤンバルクイナは確かに絶滅危惧種として保護されているけれど、日本のスズメやカラスは思った以上にやかましい。あれはきっと、地球の自然が壊滅的なダメージを負っても、しばらくは生き残る。間違いない。
 茹だるような暑さの中、額から零れる汗を拭いながら、林の中を歩く。
 あれもこれもみな自費だから、ガイドを雇うことも難しい。ホテルのグレードを落としたり、食事を節制したりすれば何とかなる範囲だけど、折角来たんだから食事くらいは楽しみたいじゃないか。それにしても海ブドウは美味しかった。ぷちぷちして。
 ……ああ、わかってる。
 半分くらい、現実逃避が入ってることは。
「はあ、ふう……」
 汗を掻き、息が荒れ、そこそこに年齢を重ねたことを実感する。チコだって、昔はあんなに小さかったくせに、今はもう立派な女性としての立ち振る舞いが出来るようになっている。なら、私はどうだろう。身体が立派でも、性根が純粋な子どもだったあの子と比べて、今の私は、どんなふうになっているんだろう。
 あの子には、どんなふうに見えるんだろう。
 そんなことを思いながら、歩みを進める。
「……あ」
 人っ子ひとりいない砂利道に、ヤンバルクイナが一匹だけ。
 胸のポケットからカメラを取り出そうとして、その慌しさに気圧されたのか、ヤンバルクイナは尻尾を巻いて逃げ出してしまった。林の中を駆けて行く赤い嘴が、ひどく印象的だった。
「あー……ちくしょう……」
 私はカメラを掴んだまま、灼熱の太陽の下で呆然と佇んでいる。
 ぬるくなって、飲めた気がしないスポーツドリンクを喉に流し込み、もう一度くらい、ヤンバルクイナに会いに行こうとキャッチフレーズを掲げてみた。

 

 

「ヤンバルクイナってさ」
 目の前を通り過ぎる二羽の鳥は確かに実体を持たない幻影であるはずなのに、大きな身体をした子どもであるところのノノは、そこに本物の鳥がいるかのようにじっと目を凝らして画面を見つめている。
 そのあまりの真剣さに、話を続けようかどうか、ちょっと迷った。
「羽があるけど、飛べないんだよ」
「え、そうなんですか?」
 意外、というふうに、ノノは驚いた様子で私を見た。太ももの間に突っ込んだ手は、硬く握られて汗でも掻いているのだろうか。
「正しくは、ニワトリくらいは飛べるらしいんだけど。……あ、ほら、あんなふうに」
 ちょうど、画面を横切りながら飛び上がろうとするヤンバルクイナを指差して、ノノの興味を誘う。
「あぁ、ほんとですー! 一生懸命羽ばたいてますよー!」
 小さなことでも一喜一憂し、感情豊かにころころ表情が変わる。
 ヤンバルクイナはそれでも天高く舞い上がり、軽々と木の枝に降り立った。人間は流麗に飛ぶ鳥の姿を知っているから、彼らの動きが滑稽に見えたり懸命に思えたりするのかもしれない。だが、彼らは彼らの精一杯を、ごく自然に、当たり前のようにこなしている。だからそれはとても当たり前のことで、今更私たちが声をあげて驚くことじゃないんだろう。
 でも、やっぱり、驚くのだ。
「わあ……」
 きらきらと瞳を輝かせて、シーツを手のひらの中にぎゅっと掴んで、そこにある架空の画面を真実の宙であるかのように見惚れ、いつか必ず会えると信じ、感嘆の息を漏らしているこの子は。
 不意に、暗がりの中でノノは私を見る。私は驚く。
 そうして、幸せそうに、にっこりと笑うのだ。
「見れますね」
「え」
 突然、目的語のない発言をするものだから、何を指しているのか、一瞬理解が覚束なくなる。
 ノノはそんな私の動揺すらすんなりと受け入れ、丁寧に解説してくれる。
「お姉さまの家に行ったら、そのときは」
 あ、と変な声が出た。
 自分で提案しておいて、忘れていた。迂闊にも程がある。
 そして私は、ノノに悲しい報告をしなくちゃならない。しかしながら、それはいくらでもフォロー出来る内容だから、私もそう悲観してはいなかった。
 きっと、ノノは残念そうな顔をするだろうな、と思っていたけれど。
 そんなノノの顔を見るのも、意地悪だけど、ちょっとだけ楽しくて。
「ノノ」
「はいー」
「残念だけど、ヤンバルクイナはね、私が住んでいたところにはいないんだ」
「え、えぇー!」
 想像通りの、打ちひしがれた顔。
 人差し指と人差し指をつんつん突き合わせて、そんなぁ、と悔しがる姿は、実にノノらしい。正確に言えば、子どもっぽい。
 でも、やっぱり、これがノノなんだ。
「でも、さ」
 心持ち明るく、希望を抱かせるように、私は言った。
 ノノも暗く沈んだ顔を持ち上げて、自信たっぷりに頬杖を突く私を見ていた。
「そんなの、いつでも見れるよ。だって」
 ――だって。
 時間は、いくらでもあるんだから。

 

 

 寄らば大樹の陰、という諺があるけれど、それはもしかしたら雨の日に使う方が相応しいのかもしれない、と何となく思った。
 沖縄の夏は酷く暑い。少なくとも、炎天下にツナギを着てうろちょろする人間に一切の情けを掛けない程度には厳しい。要は暑い。
 やたらと大きな木の幹に寄りかかり、両脚を投げ出して、さわさわと梢の囁く音を聞きながら、灼熱の光を避けて休憩している。無論、ヤンバルクイナには会えていない。会えるはずもない。ぬるさを通り越して熱くなり始めたスポーツドリンクすら既に空っぽで、どこかに湧き水でも見つけないと生命活動そのものが困難な状況下にある。
 さて、どうしよう。
 選択肢はさほどもないくせに、あれはないか、これはだめかと考える。
 悪い癖だ。
「ディスヌフー……なんちゃって」
 額のシールを剥がすふりをして、じんわりと染み出している汗を拭う。
 量子論もトップレスもバスターマシンも取っ払い、その後に残されたのは、日本の僻地に座り込んでいるただのラルク・メルク・マールでしかない。
 ちっぽけで、何も出来ない――なんて、卑下するつもりはさらさらないけれど。
 ほんと、状況は変わるもんだ。
「さて……」
 立ち上がる。
 みしみしと軋む膝は、便利な乗り物にばっか跨っていたツケが回っている証拠だ。人間、地に足を着けていないと、地球にいることを忘れてしまう。宇宙は無重力だから、足を落ち着ける場所がない。それは、とても不安なことだと思う。
 そんな宇宙に漂い続けている人たちは、果たして、成すべきことを成していても、ほんとに幸せだと言い切れるのだろうか。
 ノノは。
 ノノリリは。
「……ん」
 ぎゅ、と胸を掴む。目を閉じる。まぶたの裏には、あの子の笑顔がある。千変万化、縦横無尽に移り変わるやんちゃな姿がある。
 幸せなのかどうか、それは、そんなことは、誰にもわからないけれど。
「会いに行こう」
 呟く。
 瞳は、果てしない空へ。
「あっつ……」
 大樹の陰から一歩踏み出すと、褐色の肌を更に焼き焦がしかねない激しい日差しが襲いかかる。
 その熱波を振り払うように歩き始めた私の前を、一羽のヤンバルクイナが、懸命に羽ばたきながら通り過ぎて行った。
「あ……」
 私は横目でその勇姿を拝み、彼が飛び立つ瞬間を狙い、ろくにファインダーも覗かずにシャッターを切った。今は、写真よりその姿を瞳に焼き付けたかった。ばたばたと、羽根を撒き散らしながら低い空を駆け上がる姿は、何かに似ているようで、私が何かにこじつけようとしているだけのようにも思える。
 やがて大樹の枝に留まったヤンバルクイナを、私はゆっくりとカメラの視界に収めた。
 火星の鳥は死に絶えた、と彼女は言った。最後の鳥は、ある日、思い出したかのように飛び去ったとも。
 でも。
「飛べるじゃない」
 飛べないと思っているのは、飛ぼうという意志がないだけのこと。
 意志さえあれば、ヤンバルクイナもニワトリも立派に飛べる。裏を返せば、いくら洋上を優雅に舞うアホウドリだって、その気がなければ飛べやしないのだ。
 私は、シャッターを切る。
「だから」
 カメラを下ろすと、そこにはもう、ヤンバルクイナの姿はなかった。赤い嘴と、縞の模様がまぶたの裏に焼き付いている。
 呆然と立ち尽くす私の身体を、太陽は何の躊躇いもなく熱し続ける。
 朦朧とする意識の中、それでも前に歩き出す。更に丘の頂上へ。ヤンバルクイナの調査は終わった。検証するのはホテルでも構わないけれど、今は、今だけは、もう少し前に進まなければ。
「だから、さ」
 独り言のように、ぽつりと呟く。
 帽子を深く被り直し、分厚い靴で土を踏む。
「飛び立つんなら、帰っておいでよ」
 帰る場所なら、きっと。
 足を落ち着ける場所は、きっとあるはずだから。
「あっつぅ……」
 だくだくと流れる汗を拭う。
 太陽は、ほんのわずかだけれど、西に傾き始めている。

 

 

 面白おかしくはしゃいでいたノノも、夜が深まれば大人しく眠りに就く。
 隣のベッドから、衣擦れの音と共に小さな寝息が聞こえてくる。地球の鳥を映し続けていた画面は既に平坦な壁に戻り、耳を澄ましても、目を凝らしても、地球の風景を垣間見ることは出来ない。
 でも、ノノは、夢の中でも地球の風景を見ているような気がする。
 アンドロイドも夢を見る。それが嘘が真実か、人間である私にはわからないけれど、ノノがそう言うのならそれを疑う余地はなかった。
「ん……」
 ベッドから這い出て、ノノの寝顔を観察する。
 すぅすぅと一定のリズムで呼吸を繰り返し、時折もぞもぞと寝返りを打つ。起こさないよう、静かに眺めているのだけど、たまに頬を突っついても軽く口をもごもご動かすだけで、目覚めそうな気配は一切感じられない。
「ぅ、ん……」
 やや枝毛の目立つ髪に触れていると、ノノの唇が小刻みに動く。
 苦しげに、眉を潜めながら、重苦しい響きで。
「ううぅ……も、もう食べられませんん……」
 ベタな寝言だった。
 それからは、寝言も寝返りも打たずに、穏やかな寝息を漏らしながら深い眠りに落ちていた。
 何となく、手の掛かる妹を持ったような、そんな気分だ。身体は私よりよっぽど大きいくせに、お姉さまなんて呼ぶものだから、私も子どもじみた勘違いをしてしまいそうになる。
 でも、悪い気分じゃない。
「……ふふ」
 柔らかい頬を撫で、静かに微笑む。
 そろそろ、私も眠ろう。
 指先を離し、束の間に背を向ける。背中に感じられる寝息が、私が一人じゃないことを教えてくれる。頼もしいとか、力強いとか、そういうことじゃなくて。もっと単純な、誰かが側にいる温かさ。
「おやすみ、ノノ」
 面と向かっては言えないから、背中越しに挨拶を送る。
 返事はなくても、ちょっとだけ満たされた気持ちになった私は、ようやく落ち始めてきたまぶたを擦りながら、ベッドの中に滑り込んだ。
 ――おやすみ。
 瞳を閉じて、今日から明日に続く挨拶を反芻する。
 眠りに落ちて、夢から覚めれば、一日の始まりを告げる挨拶が言えると信じて。
 私は、今日という日を終えた。

 

 

 茜の空に、無数の水鳥が飛び交っている。
 見るものを魅了する圧倒的な光景を頭上に置き、私は携帯電話を片手になだらかな丘陵を登り続けている。通話の相手はチコ、何でもシリウスの方に派遣されるとかで、それなりに忙しい日々を送っているようだ。
『まあ、――でも、ないけどさ』
 落ち着き払った声が、左の耳から左の脳に流れていく。
 あの頃から少しだけ変わったようでいて、さほど変わっていないようにも聞こえる、妙な感覚。
「なんだ、知らないの?」
 呆れたように呟くと、チコは宇宙の果てから呑気な相槌を打つ。
 ――昨日、ハワイの天文台が観測した。
 遥かな昔に、この地球から飛び立った、希望の星。
 今宵、一万年越しの流星が帰還する。
「……ふぅ、はぁ」
 ようやく、頂上に辿り着く。
 通話を終え、携帯電話をツナギのポケットに仕舞いこむ。
 ランプの灯りを吹き消して、地平線の彼方に沈む太陽を見送る。
 橙から深い藍に移り変わる空の中に、ぽつり、ぽつりと輝く星の瞬きを待つ。
 街の灯りが、一斉に消える。
 もう少し、あと少し。
 年甲斐もなく、どきどきと脈打つ胸の鼓動を感じながら、私は果てしない宙を仰ぐ。
 今日は、七月七日。
 あの子が会いたいと望んでいた、ノノリリが帰ってくる。
「――――――――――あ」
 そして、星は流れた。

 

 

 

 

 ――だから。
 私の願いは、きっと叶う。

 

 

 

 



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2007年10月30日 藤村流

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