理由





「はぁ――は」
 走る。走る。走る。
 走りすぎて脳に酸素が巡らないせいか、記憶は曖昧。しかし自分の置かれた状況だけはきちんと把握している。
 ずっと憧れていたあの人に、ばいばい、とだけ告げて。
 黙って消えたわたしのことを、今でも思い出してくれるだろうか。他人のことにあまり興味がない彼だから、あまりそういう期待をしない方がいいのかも知れない。でも、期待ぐらいさせてほしい。
 結局、『ピンチの時は助けてね』という言葉を投げ捨てたまま、その約束は果たされることもなく。誓いを交わした時点で、わたしはもうどうしようもない状態になっていたから、彼を責めるのは酷なのだけど。
 ――やっぱり、助けてくれなかったんだね。
 憎むべき吸血鬼はもう死んでしまった。だからせめて、約束を反故した相手に向かって憎まれ口を叩く。
 わたしのいる場所は、彼のいる場所と掛け離れている。住宅街や繁華街から外れた郊外の道。周囲に民家もなく、ただ水気のない田んぼだけが広がっている山間部。道路は舗装などされておらず、薄っぺらなシューズ越しに硬い石の感触が鋭く伝わってくる。
「――っ、は――」
 気が紛れる訳もないと知りながら、届きはしない愚痴を吐く。
 わたし――弓塚さつきは見えない何かから逃げるために、目的地もなく理由もなく意味もなく疾走する。走ったところで逃げられるはずがないのはわかっている。わたしは何より自分から逃げたがっているのだから。
 けれど、わたしから逃れることなんて出来はしない。
 それでも、逃避する。自分から、死神から、世界から。
「――なん、で」
 こうなってしまったんだろう。それだけがわからない。わたしが何をしたと言うのか。こんな身体にならなくてはならないほど、罪深いことをした覚えはない。前世の罪だというのなら、それは不公平だ。わたしの責任じゃない。
 平凡な生活を粉々にするだけの理由が、本当にあったというのか。
 ――なに?
 足が止まる。
 何もない道。右も左も真っ暗で、だけど視界は良好。夜目が効くのはいいことなのに、生きているものが何もないのは寂しかった。
 夏なのに、水もない田んぼ。水がなければ蛙もいない。鳴き声さえも聞こえない。
 ――わたしが生きている理由は、なに。
 そう。それだ。
 こんな不自由な身体になってまで生きる理由なのだ。理由がなければ生きていけない。裏を返せば、生きなければならない理由を探さなければならないのだ。わたしが生きるためには理由が必要だ。
 ……はぁ、と息を吸う。夜の空気は冷たく、心まで凍らせる。
 その反面、身体を蹂躪する炎はよりいっそう猛る。神経や血脈を傷付けることで熱を生み、それを修復する過程で以前より強固に構築する。だがそのためには材料が必要だ。釘や木材の代わりに、人間の血が要る。自分のために他者を犠牲にする。この世界に相応しい循環。
 ――だから、殺してしまえ、と。
 呟くのだ。囁くのだ。命を吸い尽くして自分のものにすれば楽になれるから、もう苦しまなくて済むんだよと優しく語り掛ける声が聞こえるのだ。
 むしろ、わたしは人間という種を超越し大いなる進化を遂げた――とさえ言い放つ。
 おそらく、正しい答えは。
 『人間として』わたしが生きる理由も意味もない。どうせ引き返せはしないのだから。
 そして、『吸血鬼として』わたしが生きる理由はある。意味がある。そうだ、生きろ。命がある限りは生きるのが最善だ。肉の代わりに血が必要になっただけ、他の命を食い尽くすことならば人の身でも散々行っていただろう、それが同種に替わっただけで何をためらう必要がある。
「――うる、さい――」
 跪き、頭に鳴り響く雑音を押さえつける。砂利が剥きだしの膝の皮を破り、夜の黒に血の赤が混じる。
 ……あふ、と息を吐く。身体にこもった熱はいまだ残留し、わたしの身体を何度も何度も駆けずり回っている。わたしを内側から傷付ける刃は熱いけれども、身体はやけに寒い。傷付き、徐々に崩壊する肉体は、痛みと同時に熱を想起させる。だから実際に熱い訳じゃない。わたしがそう感じるだけ。人間だった頃の名残で、この痛みを温かいと思いたいだけの話。
 それを辛いと、苦しいと思わなかったことはない。それでも我慢した。必死に堪えて、他人の血が欲しいと思っても自分の血を吐き出しながら堪えて堪えて堪えて――。
 ――なぜ留まるのだ。
 誰かが言う。周囲には、人影はおろか昆虫の鳴き声さえない。だからこれは自分の声だ。泣いている自分と、それを必死で慰めようとする自分の声。
 ――どうして人間でいたいと願う。
 人間。なんて懐かしい響きなんだろう。つい何年か前までは、何の疑いもなくその権利を保有していた。振りかざすまでもなく、人間であることを主張していたのに。
 あの日、いとも呆気なくその勲章は剥ぎ取られ、代わりに赤く汚らしい楔が打ち込まれた。
 それは堕落という名の飛躍を意味し、永遠という名の腐敗を証明するもの。血を啜り、命を喰らい、魂を犯す――人間を脅かす悪魔。吸血鬼。
「――あ――ん」
 なぜ、人間でいたいか。そんなのは、言うまでもない。
 あの人と同じ舞台で踊っていたい。たとえ自分が彼の演じる舞台に出演できなくても、傍らから見守る資格だけは持っていたい。
 ――楽しそう。わたしも、手を握って一緒に踊ってみたいのに――。
 いつか、もしかして。彼が誘いに来てくれるかも知れない。そんなことは有り得ないと知りながらも、その期待にすがる。希望に寄り添う。弱くてもいい。かすかな希望さえ持てない人生なら無い方がましだ。
 そのために人間であることを願う。朽ち果てても、魂までは蹂躙されまいと頑なに祈る。
 愚かな呪願であろうと、何人たりともその誇りを犯させはしない。絶対に。
「だから――ね?」
 それがわたしの生きる理由なのだ。
 間違っていてもいい。身体は人間じゃないし、血が欲しいと訴えている。
 だが、二度と引き返せないにせよ、人間でありたいと願うことは間違いじゃない。叶うかどうかなんて、本当は大した問題じゃないんだ。
 自分に言い聞かせて、震える足で立ち上がる。進まなければならない。この場所ではまだ安心できない。あの女性は、きっとわたしを捕まえる。そしてわたしを必ず殺す。それも、絶対に。
 死にたくはない。死ななければならない理由などない。
 生きるのだ。どんなカタチであれ、生き続けるのだ。そうすれば、いつかきっと報いがあって――。
「いえ、そんなモノはありません」
 救われる、はずなのに。
 誰かが吐き捨てる。とても優しいのに、全く感情がこもっていなかった。だからこれはわたしの声じゃない。今のわたしに、吸血衝動以外の感情を抑える術はない。
 足を引きずって、前に進む。わたしの眼は昔より良くなったから、その先にあるものまでよく視える。たとえば、闇の中でもちゃんと映えるカソックを着た女の人だとか。
 殺すこと、殺されることの痛みに慣れた人の顔だとか。
 もう、こうなったら立ち止まるしかない。こんなに苦しいのに、休むことも、気を紛らわすために走ることも出来ないなんて。
 まったく、あきらめがわるい。先輩も、わたしも。
「――シエ、ル――先輩」
「血を吸いましたか?」
 端的な質問を浴びせる。そんなこと、先輩はとっくにわかっているはずなのに。それをわたしの口から言わせようとしている。
 何も言えない。そもそも、はっきりとは覚えていないのだ。血を吸われて、目が覚めて――その後に、自分の知識にある通りのことをしたのか、それとも我慢したのか。
 わからないなら、せめてこれからは耐えようと思った。人間には戻れなくても、わたしのままでいようと思った。
「わた、し――」
 反駁しようと、唇を開く。その前に、先輩は畳み掛ける。
「覚えていないのなら、はっきりと言いましょう。あなたは他人の血を吸った。だから吸血鬼として生き長らえているのです。いくらその後から血を吸わずに耐えたところで、訪れる結末は等しい」
 言って、先輩はわたしに向かって駆けた。
 ――そう、なの。
 そんな気はした。これでまた、彼の舞台から一歩遠ざかったことになる。もともと、彼はわたしのことを覚えていないのかも知れないが。
 血を吸ったことが罪なら、先輩に殺されることは罰なのだろう。ならば、この結末を受け入れることも別に不自然じゃない。
 文字通り、終わってしまえば楽になれる。この不出来な身体も、人間としての、吸血鬼としてのわたしも速やかに終わりを迎える。弓塚さつきは確実に死ぬ。
 諦めればそこで終わり。痛みはそれこそ一瞬、後悔すら指先から零れ落ちて、わたしの全てが跡形も無くなって――。
 ――嫌だな、どうして、わたし――。
 躊躇したのはわずかに半瞬。天秤は、わずかに生への渇望に傾いた。
「――は、ぁ――」
 踏みとどまる。罰は受け入れる。けれど、まだ死ぬ訳にはいかない。死にたくない。
 罪は消えない。約束も果たされなかった。罰は具現化し、死は限りなく接近している。
 それでも――。
 願いが欠け、磨耗しながらも、前進する。
「――っ!」
 動く。力は入らなくても回避するだけの余裕はある。
 この身は半欠けで混ざりモノだけど、縋るものがある限りは『わたし』を守っていられる。
 群青の影が躍動する。まだ足りない。吸血鬼になりきれない自分と、死徒を刈るために生きている先輩では経験の差が大きすぎる。
 だからもうひとつ、何かを掛けなければならない。勝つ必要はない、たとえ一拍だけでも彼女を超えることが出来ればそれで済む。負けなければいい。死ななければいい。どんなカタチであれ生きていたいと、わたしはついさっき誓ったばかりじゃないか――!
「っ……あぁぁぁああぁぁぁぁぁ!!」
 視界が歪む。血脈が踊る。わたしは激しく慟哭する。
 痛みと苦しみと悲しみと虚しさを共鳴させる。そこに喜びや楽しさや怒りや憎しみはそこにはない。動力となるのは全て負の思念であり、わたしをこの世界に繋ぎ止める感情の全て。
 命を賭ける。でなければ目の前にいる死神から逃れることなんて出来ない。
 わたしの中と外に有る何もかもを使って、わたしは弾丸のように弾け跳ぶ。
「っ――!」
 悲鳴は前方から。急激な加速に対応できないのか、予測すらしていなかったのか。それならそれでいい。混乱に乗じて逃亡を果たす。
 終わらない。終わらせてなんかやるものか。
 尖った刃が飛来する。何本か、わたしの腿を腕をお腹を貫く。けれども足りない。わたしを殺し切るにはまだ足りない。
「あぁぁぁ――!!」
 走る、駆け抜ける、疾走する跳躍する飛翔する――。
 自分の腕を振り回しながら先輩の横を通り過ぎる。次の瞬間、背中に一本の剣が刺さった。
「――ぁ、ぎ――!」
 痛い。身体が弾け飛んでしまいそう。傷口はこんなにも熱く灼けているのに、身体の芯はどうしてこんなにも寒いのか。わからない。わかりたくもない。
 刺さった剣を抜き、反射的に先輩のいる方向へ投げ付ける。剣はきっと当たらないだろうけど、時間稼ぎにはなってくれる。
 勝つ必要がないのなら話は早い。走れ、走れ走れ走れ走れ走れ……!
 その先に何があろうと知ったことではない。命あるものいつかは死ぬのなら、今死ぬのも後に死ぬのも同じだ。けれどいつか必ず死ぬのなら、今この時この場所で死ぬ必要がどこにある。
 他人を殺したのなら、その分まで生きなければ嘘だ。生きるために殺したのなら、今さら死ぬことなど選べない。そんなことは許されない。
 だから、殺されるまで生きてやる。殺されなければいつまででも生きていられるなら、わたしは易々と殺されたりしない。
「――待」
 聞かない。掛けられる声など無視して走る。
 同じなのだ。立場は逆でもわたしと先輩は同じ。
 平凡から異常に逸脱し、異常から平凡に辿り着いた。わたしも同じ道を辿っている。
 わたしが先輩と同じ末路を迎えるかはわからない。あえなく朽ち果てるのが当然の未来かもしれない。
「――ぁ――は」
 息が乱れる。
 いくら身体を動かしても、全く身体が熱くならないのには違和感があった。わたしはこんな寒さを抱えながら、ずっと独りで生きていく。それを辛いと、苦しいと思わなかったことはない――けれど、その痛みがあるから、生きているのだとわかる。
 再び夜の闇に取り残されて、それでも走るのをやめたりしない。街灯の数が少しずつ増えてくる。地面は前より硬く冷たくなった。近くに街があるらしい。しばらくはここで潜伏することになる。
 永遠に続く鬼ごっこが終わるまで。
 わたしにとって、走ることは生きること。届かないゴールに向かい続けること。
 目的地は遠く、どこにあるかもわからない。けれども、確かに存在している。
 それだけでいい。それだけで走る理由にはなる。
「――遠野、くん」
 今もどこかで生きている人の苗字を呟く。最後まで、たった二文字の名前で呼ぶことも出来なかった。チャンスはいくらでもあったようで、結局別れの瞬間しか無かったような気もするけど。
 彼は、わたしのことを許してくれるだろうか。たぶん、ダメだと思う。殴られるか、怒られるか。でも、彼に殺されるのなら、それはそれで素晴らしいことではないか。
 そこで初めて、彼と同じ舞台に立てる。たった一瞬、手を取り合って円舞を踊る。
 でも、やっぱり元には戻れないってことが、悲しいと言えば悲しかった。
「ぁ――志貴、くん」
 呼んでみただけ。……うん、悪くない。空想の中でなら、いくらでも名前で呼べる。
 これからは、何の返事もしてくれない月に向かって志貴という名前を呟く。遠い未来に訪れる舞踏会のために、愛する人の名を復唱する。
 走りながら、不器用な笑みを浮かべるわたしの顔を、冷たい月が無愛想に照らし続けている。
 それだけのこと。ただそれだけの、寒い夜。





−幕−








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2004年6月14日 藤村流継承者

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