何を守ろうと思い、何を救ったのか。
誰を癒そうと思い、誰を慰めたのか。
――そうだ。
全てを掬おうと思って、その全てを零したのだ。
ドッペルゲンガー
「――――」
夜気は冷たく頬を刺す程だが、サーヴァントである身にはどうとも感じない。
寒暖に対する感覚が鈍ったのか、抵抗力が増したのか。どちらにせよ、不感症になったのは確かだ。もうとっくの昔に朽ち果てた身体が動いている時点で、存在として明らかに歪んでいる。
歪み。魔術師はその歪みを制御し、自分らの都合の良いように扱った。それが彼らの本分であるなら文句を言うのは筋違いだ。召喚されたことを恨んでも何も解決しない。
――むしろ、感謝すべきだ。自分はまたとない機会を得た。
だからといって、歓喜も達成感も沸かない。全てはとうに終わったことだ。今さら何をしたところで、何も変えられないことは解っている。
使い走りの、ただの掃除屋である自分には何も変えられない。初めから、そうだったのだ。
ただ、それでも。八つ当たりだと悟っていても、耐えられなかった。自我など無く、意志さえも磨耗した連鎖の中で、その陳腐な復讐を拠りどころにして進み続けた。
あてのない終焉を目指し、果てのない結末を迎えるために。
自分に美しい終わりは来ない。人間らしい果て方を望むことすらおこがましい。自分にはこのような終末が相応しい。苦悶し、煩悶し、絶望し尽くす結末のみを求める。
「――ふん」
だから――なんだという。誰かに同情でもしてほしいのか。
自業自得と知っているから、自分はこの結末を受け入れているというのに。
なぜ、今になってこんな言い訳めいたことを……。
鼻を鳴らして、感覚を衛宮邸の周辺領域に拡張させる。今は哨戒に専念すべきだ。
哨戒とはいえ、事実上は番犬に過ぎない。マスターの命ならば従うが、不満がない訳ではない。
第一、あの魔術師には隙が多い。多すぎる。血の臭いがするのはあくまで『大目に見て』のこと。特に身内にはとことん甘い性格だ。
「あの程度では、魔術師とは呼べん」
それでもいつか彼女は根源を目指す。それが魔術師の最終到達地点であるが故に。遠坂の悲願は、まず聖杯戦争を勝ち抜くことだが、魔術師としての本分を忘れた訳ではあるまい。
その為に、切り捨てるものと胸に秘めるものは区別しておいた方がいい。モノを捨てる為に必要なのは勇気ではなく、只『捨てる』という技術だ。やり方を知り、一度実行すれば後はひたすら反復するだけでいい。
「出来なければ、いつか足元を掬われる」
――いや、もう掬われているか。
衛宮士郎の家に入り浸り、本来敵対すべき人物と仲良く会話している時点で、彼女は己が目指す魔術師の本分を大きく外れている。無論、彼女自身はそれを知る由もない。
だが、本当はそれでもいいのだ。それが遠坂凛のやり方ならば、自分が文句を言う筋合いはない。まして、その方法で勝ち抜いていった例をかつて目の当たりにしたのなら尚更だ。
……記憶の片隅に眠っている情報。その奥に、あの少女の面影が浮かんでは消えていき――。
結局、掴むことは出来なかった。
「――蝙蝠か」
闇夜の蝙蝠が、自分を器用に避けて移動する。
虫は死に絶えたように黙り込み、冬の空は空気が冷えて乾燥している為か綺麗に晴れ渡っている。
いくらアーチャーの眼が良いとはいえ、果てしなく遠い星の全容が視える筈もない。けれども星を眺めた。暇潰しに過ぎない行為も、飽きなければ最低限の意味を持っているといえよう。
「――だから、なんだ」
独りごちる。
気が荒んでいる。だがどうしようもない。
哨戒兵は眠らない。英霊なのだから眠る必要はない。理由もない。意味もない。
敵は来ない。早急に決着を付けたいところではあるが、急いては事を仕損じる。マスターの方針に逆らうのもうまくない。
「――次は」
あの結界を張った者と対峙することになる。自分とセイバーのどちらがケリを付けるかは解らないが、早々に処分したいところだ。
けれども、漁夫の利を狙うのもひとつの手ではある。
あのセイバーとマスターなら、全力をもって敵と相対したとしても勝利を決定付けられない。宝具を使えば膨大な魔力を消費する。マスターとパスが通っていないセイバーは、程なくして消えることを余儀なくされる。
剣と盾を無くした人間を始末するのは容易い。どうせ自分と衛宮士郎の間に如何なる取り決めもない。同盟は士郎と凛の間で交わされたもの、それも契約ではなく約束でしかない。
セイバーが消える時、アーチャーは動く。
その時、衛宮士郎はどう動くのか。
自ら憧れた正義の味方を貫くのか。それともセイバーを現存させる為に、今まで自分を走らせていた理想を裏切るのか。
あるいは、そのどちらでもない手段を選ぶのか。それほど器用な人間には見えないのだが、あの衛宮士郎という少年は。
正直、アーチャーにとってはどちらでも良かった。奴がどう動こうと、自分のやることは変わらない。
「――つまらん。暇潰しというなら、意趣返しの方がよほど趣味の悪い――」
吐き捨てる。それこそ必要のない行為だ。自分がどう行動したところで因果が逆転することはない。世界はあるがままに進み、自分とは全く関係のないところで現実を紡いでいく。
世界の使い走りになった自分が、主である世界を変えることが出来ると言うのか。
それはマスターとサーヴァントの関係に似て、ひどく滑稽な話だった。
――しかし、それでも私は。
後悔はなく、未練などなかった。誰かの為に誰かを救った訳ではなかった。もとより救うことに意味はなかった。
自分の為に誰かを救った訳でもなかった。全ては他人のために、自分の見える世界だけでも笑っていてほしいと願って、ひたすらに自分を殺して走り続けたのに。
結局、誰かを救ったように見えて、その実誰も救えていなかった。だから、救ったはずの誰かに憎しみを背負わせて、彼を手に掛ける道を選ばせてしまった。
それさえも自分の責任だと、そう思うのは勝手だ。だからそう思うことにしたのだ。
もとより自我などない、借り物の願い。だが、その願いだけは本物だと信じて。
本当に馬鹿で、救いようもない決断だったにしても――。
後悔は、しなかったように思う。
――済まない。
謝った。誰の為かは知らない。救った人間の総数は高が知れている。目に見える全ての人間を救うならば順序をつけてはならない。平等に平均的に窮地を救わねばならない。
だが、そうしたところで歪みは生まれる。彼が救った村のひとつ隣りの村で危機が訪れたとしても、彼は目に見えるひとつの村しか救えない。その目に映らなかったものまで救おうと駆けずり回っても、人間でしかない自分に出来ることなど、ほんの僅かでしかなかった。
だから、『すまない』と。
見当違いにしか思えない言葉を残して、理不尽な刃を甘んじて受けたのだ。
「――――く」
今の彼は、人間だった彼とは違う。誰かを救うのはその誰かの為ではなく、まして自分の為などでもなく、世界の為だ。世界のため、人間という種が滅びる要素になりうる因を殺し、世界を滅ぼしかねない汚染を消毒する。より大きなモノの繁栄の為、弊害となる無数の小さなモノを確実に捨てていく。
虫を殺すように。紙を破るように。糸を解くように。
その決断を、自分は後悔して――。
「――何を、今更」
独り言を零す。そんなモノ、誰も掬ってくれない。言葉は誰も知ることなく地面に落ちて消え去った。
中庭を見下ろせば、誰かの背中が窺える。赤毛の少年はいつかの綺麗な――偽りの理想を抱えたまま、この世界に蔓延する矛盾と戦っている。
その姿に、吐き気を覚える。
――それは間違いなのだ。誤りなのだ。その状態でどこまで行こうと、貴様の願う理想になど辿り付けない。
むしろ辿り付くな。途中で果てて死んだ方がどれだけ楽だろうか。こうして、いつ果てるとも知れない仮初の命を預けられるくらいなら、その方がよほど――。
「……く」
あの少年に語る言葉などない筈。
見えない敵を睨みつける瞳だけはやけに頑丈で、鉄の意志が感じられる。その眼で何を見ているのか。果てのない理想か。まだ見ぬ敵影か。
――だがそれも。退かぬことと譲らぬことは同義ではない。道を間違えるな。間違えたのなら修正しろ。ただそれだけのことだ。そんなちっぽけなことに気付けなかったから、私は。
後悔は還らない。還すべき場所もない。
過ちは繰り返されるのか、否か。
どちらであれ、彼が延々と後始末をすることは変わらない。衛宮士郎が死んだところで。
少年は土蔵に消える。そこでまた、愚直な鍛錬が行われ、繰り返される。喜びも愉しみもなく、痛みしかないと知りながら、この身はずっと誰かの為にならなければならないと、そんな呪いのような強迫観念に突き動かされて――。
「……そうか」
やっと気付いた気がする。
もはや少年と赤い騎士はスタート地点を同じくしただけの物体。憧れた道筋が同じ、辿ろうとした道が同じ。――結末だけが違う。
結局、彼は。
どこまでも他人を救おうとし、その為に自分をいくらでも殺してしまう人間で。
在り方は生きていた頃と同じ。もっと自分を大切にしなさいと、いつか同年代の少女に叱られたことを思い出す。息絶えてまで、訳のわからないモノにまで扱き使われながら、彼は己の在り方だけを頑として変えようとせず。
ただ、もう疲れたと言い残して。
生涯の最後に、唯一自分自身が満たされるために、衛宮士郎という別の自分を殺そうと決めた。
衛宮士郎という他者を殺し、やはり衛宮士郎という自分を殺す。
最後まで、何を犠牲にしなければ何も救えないと、そんな事実を突き付けられたままで。
終焉は意外にあっさりと、あるいは定められたように唐突に訪れた。
バーサーカーの根城に侵入すること自体軽率極まりない。ましてや衛宮士郎を救うためだとすれば、足を運ぶだけ無駄というものだ。
しかしマスターの意向とあらば従うのが道理。アーチャーが否定しようとも彼女は動く。とすれば、マスターは死、サーヴァントである彼の身も消える。それでは意味がない。
――私はマスターを守るため、ひいては自分の身をこの世界に留めるためにアインツベルンの城に同行した。
衛宮士郎そのものは割り合いに早く見付かった。問題はその後。危機というものは、常に気を緩めた瞬間に訪れる。解っていたことなのだ、そんなことはとっくに。
それなのに、こんな在り来たりな過ちを犯してしまったのは――やはり、自分は何も解っていなかったということか。
「なぁんだ、もう帰っちゃうの? せっかく来たのに、残念ね」
白い影が、黒い巨人を従えて登場する。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。バーサーカーのマスターにして、最強の器。
誰も動かない。――否、衛宮士郎は動けまい。巨人の存在自体が否応なしに死を叩き付けてくる。生身の、それもどうしようもなく矮小な人間には、動こうという意志さえ浮かばないに違いない。
「どうしたの? 黙っていちゃつまらないわ。せっかく時間をあげてるんだから遺言ぐらい残した方がいいと思うな」
不敵に笑う。今の彼女に敵はいない。
ゆっくりと階段を降り、舐めるような視線でマスターたちを見る。どれが一番美味しいのかと、ケーキを見定めるような甘い眼差し。
……そうだ。少女にとってこれはゲームに過ぎない。彼女にとっての日常が喧騒で満たされているなら、その中で他者を容赦なく葬り去れる優位な戦いは遊戯にも等しい。ちょうど、猫が鼠を甚振り殺すがごとく。
「――誓うわ。今日は、一人も逃がさない」
言う。同時に、黒い巨体が動く。大山が鳴動し、小さな鼠は静かに戦慄いている。その中でも、凛の焦燥は一層激しい。
その理由を探し、すぐに解答を見付けた。――なるほど、これなら魔術師としての凛はすかさずその一手を打ち、相反する凛の意識はその一手を躊躇うだろう。
しかし、彼女は命じる。それはもう決定していたことだ。
彼女がマスターになり、彼が彼女をマスターと認めた瞬間から。
「アーチャー、聞こえる? 少しでいいわ。一人でアイツの足止めをして」
――彼女は強い。
だから、自分が消えることでその姿を曇らせてはなるまい。鎮痛な面持ちのまま、いつまでも自分の影を背負わせることだけはどうしても避けたかった。
「……アーチャー、わたし」
「ところで凛。ひとつ確認していいかな」
零れかけた自責の念を遮って、彼は不遜な態度で凛に尋ねる。
「……いいわ、なに」
「ああ。時間を稼ぐのはいいが――
別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
背中に感じるのは、汚れなき理想を見詰める少年の視線。
――なんたる皮肉。今、衛宮士郎が見ているのは、まさしく少年が辿り付いた理想であるのに。その理想である私は、こんなにも血で穢れている。
振り返らず、過去の自分に背を向けたままで呟く。
「――いいか。おまえは戦う者ではなく、生み出す者に過ぎん。
所詮おまえに出来ることはひとつだけだ。ならばそのひとつを極めてみろ」
応えはなく、彼もそれを期待していた訳ではない。これはただの独り言。自分自身に還す言葉なら、静かに消えるのも頷ける。それを受け取るのが過去の自分であれ、今の歪んだ自分であれ。
そこに大した意味などないはずだ。
「――忘れるな。イメージするのは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。おまえにとって戦うべき相手とは、自身のイメージに他ならない」
――そして、私にとっても。
その言葉を飲み下し、彼は目前の敵を見据えた。
自分が駆け出すのと同時に、背後の影が遠ざかる。己のマスターである少女は、衛宮士郎とそのサーヴァントを連れて城を出た。
彼女らは無事に逃げ切るだろう。――いや。私が逃がす。
おそらくは、そう定められていたのかも知れない。輪廻の枠から外れ、ただの現象に成り下がった自分に出来ることなど、ひとりの少女と愚かな少年を助けることぐらいだ。
だが――これが呪いであれ、最後まで張り続けようとした理想であれ。救えるのなら、たとえこの身がいくら擦り切れようとも救ってみせよう。どうせそんなことしかやっていなかった人生なのだ。救うことなら、誰よりも巧い。
その行為、その手段が正しいか否かは別として。
――体は剣で出来ている。だから、どれほど擦り切れても抗い続ける。
自分と、それが辿る運命に。
「投影、開始」
呟く。
剣は飛び、巨人の足を貫く。同時、石斧が脇腹を掠める。
「……投影」
刃を返す。それだけで、巨人のハラワタが溶解した。
刹那、闇雲に振るわれる腕に右足を持っていかれる。
「何やってるの! 早く、潰しなさい――!」
巨人がマスターの声に反応する。その腕が振り下ろされる刹那、赤い騎士は思考をクリアにした。
「投影、開始」
幻想はあくまで幻想、しかし純化した幻は現実を侵す力を持つ。
爆音が響いた。
「■■■■■■■■■■――!!」
デタラメな腕力を、壊れた幻想で相殺する。が、完全には殺しきれず、剥き出しの壁に叩き付けられる。
巨人はその隙を見逃さない。油断すれば、自分もいずれ同じような末路に至ると知っている。
腕は、あるだろうか。右腕は動く。左腕は……無い。そういえば、吹き飛ばされた時に突き出していたのは左だったか。
左足はあるようなので立ち上がることにした。やることは決まっている。この武骨な狂戦士を討つ。そう決めた。
白い少女は微動だにせず、戦況を傍観している。赤い騎士が満身創痍だと言うのに、彼女はまだ納得がいかないらしい。圧倒的なまでの戦力差がありながら、我が破壊神に太刀打ちできる英霊がいたことを。
だが、それもじきに終わる。
「――体は、剣で」
呟く。それは独り言。自分にしか意味をなさず、自分にしか扱えない秘術。
その断末魔の悲鳴が最後まで漏れる前に、巨人は疾走する。
「――故に」
遺言じみた言葉が唇から滑り落ち。
斧が、振り下ろされた。
次があるのかさえ知らない。
ただ、自分が永遠に繰り返される現象であることは理解している。ならば、次は必ずある。
次こそ、私は――。
そう考えて、気付いた。私は、こんなにも衛宮士郎を求めている。殺すために出会いたいと願っている。その希望はあまりにも拙く、目も当てられないほど悲惨な望みだ。
しかし、そんな罪深い希望であれ――私は、彼を欲していることに違いなく。
そんな自分を笑う。
誰を救おうとし、誰を殺したのか。
何を守ろうとし、何を捨てたのか。
――そうだ。
全てを掬おうとし、その全てから見放されて――尚、掬い上げようと手を伸ばした。
彼の至った路と、衛宮士郎が至る道。そのどちらが正しいのか、いずれ答えは出る。
――赤い騎士の意識は途絶え、次の機会を待ち望む。
その間、どれほどの血を流し、どれだけの人を殺し、どれくらいの絶望を見るだろう。
起こり得ない奇跡を願う姿は、かつて届かない理想に手を伸ばしていた姿にも似て。
とても、綺麗だった。
−幕−
SS
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