殺陣連鎖(さつじんれんさ)





 損をしているな、と自分でも思う。もう少し楽に生きることを選んだほうがいいと、いつも誰かが言っていたような気がする。
 しかし、彼は達観していた。誰が何を言おうと、自分の境遇を責めはしなかった。どれほど不遇な立場にあろうと、不満も言わず与えられた役に徹した。
 報酬など無く、賞賛も皆無。手を抜けば打たれ、好演しても蔑視を食らう。
 それでも、何も言わなかった。
「――もとより、在って無きが如しだからな」
 呟いた言葉は、呆気なく夜霧に溶ける。
 彼はアサシンと名付けられている。戦争が好きな輩のおかげで、本来は駒である女豹に召喚された異例の存在。イレギュラーである限りは行動に制約も課せられる。彼は柳洞寺の門をこの世の接点としているため、そこから動くことは出来ない。故に門番として仮初の生を謳歌する運命にあったのだが。
 ――はて、これは如何なる戯れか。
 仰いだ空は山頂で見たものより若干遠いが、さほど大差ない距離にある。宝石をばらまいた――とよく言うが、そのような豪奢なものに縁の無い彼には実感しがたい。しかし、美しいことは認めよう。確かに今宵の空は澄んでいる。
 そのくせ、彼が立っている場所に立ち込めるのはむせ返るほどに甘い香り。
 知っている。これは結界と呼ばれる隔離された空間だ。用途は多様だが、今回は遮音に優れたものであるらしい。万が一、惨劇の様相が外部に漏れてはうまくないという判断だろう。
「――なれば、このようなことなど瑣末だろうに」
 そう。今から彼が行う儀式には何の意味もない。
 英霊と呼ばれるものは、同種の魂を喰らうことによって自分の魔力量を増やすことが出来る。
 しかし、彼を呼び出した者は、彼に充分な魔力を供給している。ただでさえ街中から魔力を摂取しているのだ、このような手間を掛けるより魔力を奪う人間を増やした方がどれだけ楽か。
 それでも、彼に不満はない。
 いかに彼の主が矛盾を晒していようと、彼の行く末は変わらない。ならばその矛盾を嗤おうではないか。いつの世も変わらず、世界は矛盾に満ちているのだと。悟ってしまえば、この世も意外に救いがあるというものだ。
 これは、キャスターが彼の実力を測るための、ほんの戯れ。ただの遊戯にこれほどの手間を掛けるのは、これまで用意周到に策を巡らせてきたキャスターらしからぬ隙ではあったが。
 令呪の作用はどこまで働くのか。依代とした柳洞寺の門さえ騙すことの出来る力なのか、それとも純粋にキャスターの魔術によって彼は門から離れることを許されたのか――。
 そのどれかであり、その全てかも知れない。が、瑣末事には違いなかった。
 この身がキャスターによって作られた幻影であったとしても、意思があるならば現実と相違ない。
「さて、頃合か」
 何時でも良かった。彼がこの時と決めたのに主立った理由は無い。
 強いてあげるなら、月が彼の真上に昇ったから、だろうか。
 その敷地に踏み入る。造作もない。彼を出迎える様子もない。――当然か。彼は足音を立てない。気配を漏らさない。漏らしても、殺気など微塵も放っていない今なら只の来客とみなされる。
 扉の前に立つ。それでも、住民は気付く様子はない。絶対的な危機感が欠如しているな、と彼は現代の危機管理を憂いた。
 チャイムを押す。郷に入れば郷に従えという文句がある。異なる時代に赴けば、その作法に従うのが道理だろう。今から世間の道理に外れたことを行うというのに、形式だけ整えても無意味ではあるが――その無意味さすら、またいとおしい。
「はーい」
 薄皮一枚を隔てて、緊張感のない台詞が響く。無造作な足音が扉にたどり着くまでの刹那、彼は何も考えなかった。意味も理由もない殺戮に、考えるべき事項はない。命じられたなら事を成すまで、そこに何の逡巡もない。
 さて、壁の向こうに誰がいるかも確認せずに、扉はあっさりと開く訳だが。
「――あの、どなたですか?」
 顔を出したのは、中年の女。髪は短く、顔に少しシミがある。それ以外は取り立てて挙げるべき特徴もない只の女だ。彼女は見知らぬ来訪者に警戒しているようだ。
 それを知って、彼は自己の名を明かす。
「佐々木小次郎という者だが、知らぬならば良い」
 まごうことなき真実を口にする。だが、その真実すら正しくはなかった。何故なら、彼は佐々木小次郎ではない。
 彼女も不審に思ったのだろう、二度目の問いを掛けようとする。その間はわずか一秒にも満たなかったはずだ。
  「え――」
 続きは無かった。発せられない。喉が無くては言葉を生み出すことは叶わない。
 斬られた。斬られると思うまでもなく、危ないと意識する余裕もなく、首を貫かれた。
 彼なりに、どうすれば楽に此の世から消えられるかを考慮しての斬撃だった。彼自身の殺害の困難さではなく、死す者の苦楽を考えての業である。そして、今の斬撃は女が死の苦しみを味わわずに逝くことが出来たであろうと確信した。
 ――血が零れる。一瞬、赤い噴水を避けようかどうか逡巡したが、あまり意味はないので浴びるがままにしておいた。操縦者を失った肉体は、糸が切れた操り人形を思わせる動きで床に倒れこんだ。
 意外に大きな音が鳴った。剥き出しのコンクリートに血の海が広がる。その海に立ち尽くしていると、次の人間はすぐに姿を現してくれた。
「――あ?」
 まずは疑問。次はなんだろう。憤怒か、それとも慟哭か。どちらも大差がないから、天秤に掛けるのは無意味だ。
 その男は、中年の女よりも更に平凡な人間だった。眼鏡を掛けている。頭が少し禿げっている。典型的な日本人の体型を維持しているその男は、ある意味で尤も在り来たりな人生を送ってきたといえるだろう。が。
 最期は、少しばかり特殊な終わり方をすることになった。
「お、おま――なんで! なんなんだ、この馬鹿野郎……!」
 混乱している。言葉を整理した方が良さそうだ。しかし、自身の錯乱状態を悟る前に、その男は駆け出した。怒りで忘我しているのだろう――それは、自然な感情だ。愛した女が、血を流して倒れている。まだ死んだとはわかるまい。たとえ側によって抱き起こし、脈を取ったにせよ、その男が女の死を認めない限りは、男の中で彼女が死んだことにはならない。
 だが、その考察もまた、無意味。
 一歩。彼は地を踏んだ。
「――――ぃ」
 悲鳴でも嗚咽でもない。ああ、そういえばそのどちらも似たようなものだ。
 上から下へ。右から左へ。袈裟に切り下ろす刀はいとも容易く男の身体を切断した。皮を破り肉を裂き鎖骨を断って肋骨を砕き心の臓を殺す。見事なまでの殺人、だがそれに賞賛を送る者も、罵倒を吐く者もいない。
 元よりこれは殺戮であり、何の美徳もない。だから最初に言ったのだ、意味などないと。
 ど、と落ちる。糸が切れ、魂が零れ落ちた肉の器が地面に還る。結局、男は女が生きているかどうか知らないまま、永遠の暗がりに消えていった。あるいは、女の死を受け入れるよりは楽な道ではあったのかも知れないが。
 それは、彼が決めることではない。
「次は」
 視界に入ったのは、二階へ続く階段だ。今は血塗られてしまった廊下も、二階までは赤く染められていない。未だ純白を保ち続ける階段の向こう側に、小さな呼吸を聞いた気がした。
 年端も行かない子どもが寄り添っている光景を幻視する。階下で何かがあった。怒鳴り声も聞こえた。だが、あまりに怖すぎるから、部屋の隅で凍えているしかない。無力な、助けを求めるしか術を知らない幼子が震えている。
 そこに何者かいると知って、彼は歩みを進める。今の自分がどのような顔をしているのかは知らない。知ったところでどうにもならない。彼はこの家に住むものを殺さねばならぬ。いくら自分を嫌おうと、この身がアサシンである限りは従わねばならぬ使命だ。
 ――道化だろう。この為に仮初の命を貰ったのか。
 嗤う。何より己を嗤う。
 滑稽な殺戮を演じなければならぬこの身を呪う。浅はかな命令を退けられぬ弱さを呪う。
 そして、いずれ果てるであろうその時までに、生きるべき目的を探し出せるように祈る。
 階段は終わる。一人分の幅しかない廊下と、三つの部屋に続く扉が見える。
 まず、階段に近い扉を開ける。――何もない。あるのは箒や掃除機、ハタキなどといった家事の道具くらい。狩り立てるべき命はない。
 少し歩いて、突き当たりの右にある部屋に踏み入る。
 子どもらしく、雑多に広がった空間。ベッドがあり、机がある。ゴミ箱の周囲にゴミが落ちており、ベッドの上に鞄がある。遊具が床に散乱し、足の踏み場すらない。
 ここにも人間はいない。残るはあと一部屋。そこで終わる。ようやくこの茶番を終わらせることが出来る。
 ――開ける。
 そこにいたのは、震える幼子が二人のみ。それ以外には何もない空間。子どもら二人が入れば、身動きひとつ取れない倉庫であった。
 到底身を護れる筈もない薄い衣服を纏った、十にも満たない男児。加えて、それに覆い被さるように凍えている少女が一人。齢は上であろうが、成人には遠い。
 しかし、どうしようもなく震えている。冬であることを除くにしろ、この痙攣は異常だった。まるで、今まで出会ったことのない恐怖に初めて遭遇したような。
 果たして、彼がいることに気付いているかどうか。
 言葉を発するのはやめておいた。ただ刀を下ろした。
 肉を断つ感触が伝わって来る。人間を貫いたことは一度や二度では済まない。しかし無抵抗の人間を殺すのには慣れていない。もとよりそんな瑣末で無意味なことをする理由がなかった。
 尤も、瑣末なこと意外にすることも無かったのだが。
 刀を振ると、少女だけが倉庫から転がり落ちた。背中から絶望的な量の血が流れている。意識はあるだろうが、もはや助かるまい。
 少年は、奇跡的に無傷だった。凶器を振るった時、わずかばかりの躊躇いが生じたせいか。それとも少女が思ったより強く少年を抱きしめていたせいか。少年が浴びた血は、全て目の前の少女に貰った血の赤である。
「あ……ぁ……」
 言葉にならない。眼の焦点も合っていない。もう、正気を失っているのかも知れない。その方がむしろ幸せではあるだろう。全てを忘れられるのなら、それ以上に楽な生き方はあるまい。
 その中で、ただ少女だけが動いていた。言葉は出ず、笑えず、手も伸ばせない。しかし、その眼は真っすぐ少年を見ている。そしてゆっくりと這いずるように、少年に近付く。
「……ぁ、ぁ」
 少年は、逃げ場のない空間を後退ろうとする。まだ年端も行かない少年にとって、血にまみれた家族は他人以上の未知だった。だから、現実も含めてこの場所から逃避しようとする。しかし、逃げられはしないし、少女も止まろうとしない。
 アサシンは、ただその光景を眺めていた。感傷がないと言えば嘘になる。罪悪感は、さて、有っただろうか。剣を振るう身とすれば、自分のせいで他の命が果てることもあると納得している。覚悟など、とうの昔に背負っている。
 それなのに、なぜ自分はこれほどまでに忘失しているのだろう――。
 やがて少女は行き着いた。少女の赤い手が少年の素足に触れ、そこで止まる。少年は錯乱しながらその手を払おうとするが、どうしても解けない。子どもにとって、その手は少年を死へと誘う黄泉の手招きに思えるのだろう。仕方のないことだ。少女はもう黄泉の住民であり、少年は未だに地獄じみた現世に留まっている。
 もう動かない少女を見下ろし、アサシンは息をつく。そこでようやく、少年が彼の存在を自覚した。
「――――――――」
 忘我。忘失。失念。
 魂が抜け出たとしてもこれほどの抜け殻にはならないであろう痩躯で、少年は彼を見上げていた。圧倒的な死、絶望、虚無、あとは――なんだろうか。強いてあげるなら、感動か。
 少年は知った。今この瞬間に、少年が信じていた此の世の全てを覆す事象に遭遇していることを。
 彼の存在は死を与え、それに等しい生を目覚めさせてくれた。死に直面している今こそ、狂おしいまでの生の衝動に包まれていると知った。それを感動と呼ばずして何と呼ぶ。
 しかし、それを認められるほど少年の心は熟しておらず。死を認められるほど達観していない少年は、姉に掴まれた手のことも忘れ、彼に戦いを挑んだ。
「――あぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁあああああああぁぁぁ!!」
 無意味。無駄。無骨。無粋。無様。
 武器は拳しかない。技術など何一つ知らない稚児の手は柔らかく、何かを打ち据えれば内側から砕けるような諸刃の剣だった。
 届かない。絶対に届かない。叶う筈もなく、果たす意味すらない。彼を殺したところで失った命は還らない。
 だが、そんなことは判っている。そんなことはどうでもいい。
 殴る。殴る。殴る殴る殴る殴る殴る。殴る。殴る。
 痛いのは彼か、それとも少年か。少年は叫んでいた。涙は出ない。それは人間の流すものであって、タガの外れた生物が零せるような安いものではない。
 幾度繰り返されただろう。彼は何もしなかった。少年に死を与えることもしてやらなかった。もはや、ここにまともな生物は存在しないから、これ以上の殺戮は無用と悟った。
 打たれる度に、血で汚れる。擦り切れた少年の拳から飛び散る血で穢れていく。床に浸された赤い海も、足元からアサシンを腐らせる。
 抗いようの無い暴力を浴びせられ、死んでいった者たちの呪詛。彼はそれを拭う気にはなれなかった。
 ――それでいい。罪を背負っているのなら、穢れている方がわかりやすい。
 あぁ、なるほど。やはり自分は、罪悪感を覚えているのだ――。
「あぁぁぁぁああ……!」
 叫び声は終わらず、少年はただただ殴り続けていた。声は既に枯れている。擦り切れた喉から血が零れている。それか、あるいは唇を噛み切ったのかも知れない。
 彼は、たった一歩だけ後ろに下がる。それだけのことで、少年は前のめりに倒れた。もはや動かない。死体と同様に地面を舐めている。
 ――何か言おうとして、やめた。
 もう少年には何も与えてやる必要がない。空っぽではあるが、どうあっても塞ぎようのない穴が少年には空いている。注いでも全て零れてしまうなら、同情するだけ無駄だ。その欠損を満たしてやるのは、その傷を与えた彼の役目ではない。
 踵を返して、惨劇を後にする。呼びかける声はない。少年はやはり物言わぬ人形になって、かつて姉であったものと寄り添って眠っている。
 その光景に何の感傷も抱かないといえば嘘になるが――。結局のところ、どうでもいいというのが最終的な結論だった。
 少しだけ穢れた着物を纏ったまま、アサシンは玄関の扉をくぐる。もう血の海を避ける必要はない。豪胆に、横柄にその海を縦断する。その度に穢れ、彼の罪を浮き彫りにする。
 ――それでいい。
 彼は満足げに微笑み、やはりそれだけのことだと自嘲した。


 彼の剣客はその一瞬だけ暗殺者となり、命令通りに全ての人間を殺した。
 殺すことの定義を、正常な人間で無くすという意味として捉える限りにおいては。


――


 一年が過ぎた。
 イリヤが心霊手術を受けた。
 三年が経った。
 藤ねえが結婚した。
 五年が流れた。
 遠坂が時計塔で一目置かれる存在になった。
 八年が経過した。
 桜が、居なくなった。


――


 長い坂を上れば、そこに教会が見えるだろう。しばらく前に神父が代わって、途端に活気付いてきたあの教会だ。
 天気はさほど良い訳ではなく、むしろ悪いと表現した方が近い。尤も、雨が降ったところで少年が足を止めることはないだろう。
 すれ違うのは、まだ年端も行かない少年と少女。兄妹だろうが、無邪気にはしゃいで道路を駆け回っている。平和だった。少年は微笑ましい光景を見て、自然に笑おうとして――。
 ふと、笑い方を忘れていることに気付いた。
 ――教会の前には墓地があった。そこには死者が眠っている。正確には生きていた者の肉体が横たわっている。そして例外なく腐り落ちている。だが例外として、保存料が多分に含まれた食品ばかり摂取していた人間の身体は、数年だってもほぼ原型を保ったまま『保存』されているらしい。
 皮肉な話だ。そんなところで、人間がただの肉であることを証明させられるとは。
 外では子どもが走っていた。男の子が、女の子を追いかけている。苛めの類いではなく、ただの遊びに過ぎない。もしくは、彼が彼女に好意を抱き、その上で追いすがっているのだろうか――。
 いい加減、妄想にも飽いた。まず、自分のやるべきことを果たそう。
 ――きぃ、と重厚な扉を押し開ける。中を見ると、見た目ほど荘重な印象は受けなかった。所有者が変わったせいだろうか、協会全体が纏っている空気がとても柔らかい。以前に何かの行事でここを訪れた時よりも、格段に心地よい雰囲気に包まれる。
 ロビーにも数人の子ども――孤児がいた。教会の神父は自ら進んで孤児を預かっていると聞く。神に仕える者なのだから、その行為は偽善でないと信じたい。運が悪ければ――もしくは運が良ければ、自分はここに預けられていたかも知れなかったのだし。
 一歩ずつ、教壇に向かって歩いて行く。途中で満遍なく笑顔を振り向く少女とすれ違う。
 笑っている。笑っている。とても穏やかに、楽しそうに笑っている。
 ……頭が、痛む。
 それを押さえ付けて、教壇に立って子どもをあやしている男と対峙する。その老人は、子どもが泣き止むまでは待ってくれと視線で訴えた。仕方ないので、待つことにする。
 笑い声とはしゃぎ声、加えて目の前から聞こえる泣き声。
 雑音ばかりが響く中、少年の足元に誰かが寄ってきた。見下ろすと、小学生未満の少女と目が合う。
 少女から見れば、少年は明らかな不審者だ。確かに、風呂には3日ばかり入っていないような。服も上等とは言えないし、何より目付きが悪いと評判である。今も、少女が泣き出してしまわないかと危惧してしまうくらいに。
 だが、この少女はそんなことなど気にはしていないようで、
「――ねえ。お兄ちゃん、だれ?」
 疑問に思ったことを、素直に口にする。
 丸い琥珀色の瞳が、少年の正体を暴こうと光り輝いている。見知らぬ人物が、いい人なのかどうか見極めようとしているかのようでもある。
 尤も、そのどちらも少年の杞憂に過ぎないことは解っているのだが。
 そう思えてしまうほど、自分で自分を追い詰めていることに、ようやく気が付いた。
 とにかく自己紹介だけはしておこう。少女のちっぽけな疑念を氷解させるだけでも、無意味なこととは言い切れない。
 少年は腰を屈めて、少女と視点を同じくすると、殊更に優しく応えた。
「僕はね、お祈りをしに来たんだ。どうか僕の願いが叶いますようにって」
 言って、両手を合わせる。目を瞑っても、神様など見えはしない。
 少しばかり、少女はきょとんとしていた。もしかして、変に声が上ずっていたかも知れない。それとも笑顔が歪んでいたのか。恐怖を与えてしまったなら、悪いことをした。
 一瞬、謝ってしまおうかとも思ったが、
「――うん、そうなの」
 と応えたので、出しかけた言葉を飲み込んだ。ヘンなの、と少女は無邪気に笑って、少年のもとを去って行く。同じ境遇の、けれども不安など一切見当たらない仲間たちの輪に帰っていく。
 彼女たちには、家族という安易な分類がいちばん似合っているように思う。今の青年にとって、家族とは憧憬に過ぎず、ひとつの永遠と化して少年の手の届かない場所で輝き続けているものだから。
 ――妄想は終わり。これからは真実と向き合おう。
 腰を上げると、ちょうど神父がこちらに顔を向けたところだった。彼の目に罪を暴き立てる積極さはない。
「待たせたね」
 穏やかに――自分とは違い、意図しないまま自然に問い掛けてくる。
 神父の腕の中で、一歳に届かないであろう稚児が眠っている。神父はこの教会の主であり、絶対的な君主であり、そして何ものにも変えがたい親であった。
 そこに自分が割り込もうとは思わない。家族という形を壊してしまうことの恐ろしさは、何より自分がよく解っている。
 だから馴れ合おうとは思わない。異端でもいい。僕は――。
「話からすると、お祈りに来たそうだが」
「いえ、実は違うんです」
 即座に否定して、肩に下げたバックを下ろした。
 ――ここから先は、もう引き返せない。それを言うなら、触れられるほど近くで姉を殺された時に、僕は終わっている。疑いようもなく、心が死んでしまったんだ。
 前提が死んだ状態だから、これ以上失うものはない。けれど体は生きたがっているから、何かを拠りどころにすることで、生きるための推進力を得ようと思った。
 ――だから僕は、復讐にその拠りどころを求めた。
 頭を下げる。神父が首を傾げているのが、見えなくても想像できる。
 その上で、
「――お願いです。僕に、人を殺せるだけの力をください」
 と、言った。


――


 そして、十年が終わり。
 聖杯戦争が始まった。





−幕−





 


SS
Index
2004年7月17日 藤村流継承者

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