オーバー





 わたしは猫が嫌いだ。
 嫌いなものに理由はないし、好きになるための努力なんてしない。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、一生を猫嫌いなまま終えるんだろう。
 そんな、意味もない確信を得たりしたこともある。
 ――戦争はもう終わってしまったから。
 わたしは、意味のない生涯をこの地で終えることになるだろうと思った。




 することもなく、わたしは深山町を散歩していた。
 季節は見事な冬、薄着ではとても耐えられないほどに寒い。コートを纏っていても、袖の隙間から舞い込む風に涙が出てしまいそうになる。
 だから、寒いのは嫌いなのだ。
 それでも散歩に出てしまうのは、退屈な時間があまりにも多すぎるせい。シロウもタイガも学校だし、ライガだって始終暇を持て余している訳ではない。
 散歩もまた、人によっては退屈な遊びかもしれないが、わたしはそうは思わない。
 目的地がなくても、外を歩いて空を見て、風の冷たさや雪の白さを感じるだけでも実りはあると思った。
 だけど、難点はある。
「……あれ」
 住宅街の脇道、電柱の根元にダンボールがあった。気付いてくれと言わんばかりに存在を主張しているそれからは、弦を弾くような微かな音色が響いていた。
 嫌な予感がする。
 散歩の悪いところは、見たくもないものを見てしまうということだ。
 黙って何も見なかったことにして通り過ぎろと、わたしの中の悪魔が告げる。
 ――いや、違うか。わたし自身が小悪魔なのだから、わたしの中に潜んでいるのは天使なんだろう。
「ごめんね。天使がそう言ってるから」
 言い訳のように呟いて、箱から目を逸らしたまま足を進める。
 一歩、二歩、近付くたびにそれの鳴き声は大きくなる。どうせ気まぐれで買った動物が引越しするとかで飼い切れなくなって、悩んだりした挙句に捨てたんだろう。バカなことをする。けれど、偽善者でも慈善者でもないわたしは何も助けてあげない。
 五歩、六歩でちょうど真横にダンボールが来る。
 同時に。
 ――にゃぁ。
 鳴いた。
 間違いなく、猫だ。小判をあげても喜ばず、額は狭く、その皮が三味線の胴にも張られたりする哺乳動物だ。
 わたしが、大嫌いな動物だ。
「……なんで立ち止まるのよ」
 自分の足に文句を言う。嫌いなものをどうして救い上げようとするのか、全く意味がわからない。
 ただ、その生意気な顔を拝んでやろうと思い、頑なに閉ざされたダンボールを開くことにする。飼い主も何を考えているのか、ダンボールをガムテープで貼り付けたら食べ物も何もあげられないではないか。本当にバカだ。
 その人間も、何も知らずに鳴き続けている猫も。
 ――にゃぁ。
「……あぁ、どうしてバカみたいに鳴くのかしら猫って……!」
 寒さにかじかむ指で、どうにかガムテープをはがし切る。無理やりに開いたダンボールの向こう側に、毛並みはぼさぼさ、瞳は虚ろな白い仔猫が静かに腰を落ち着けていた。
 やっぱり、猫だ。
 ちっとも可愛くなんかない。
「バカね。人間なんかの世話になるから痛い目に遭うのよ」
 だったら、いっそのこと何も信じなければいい。助けを求めるために鳴いているより、自分で歩いて生きる道を確保する方がよっぽど確実だ。
 ――にぃ。
 未だに鳴き続けている仔猫を見下ろして、わたしは気まぐれで最後の情けを掛けてやった。手袋が汚れるのも厭わずに、両手で仔猫を掬い上げる。仔猫はされるがままに吊り上げられて、その細い身体を冷たいアスファルトに落ち着けた。
 ダンボールの中には、飼い主だった人間が書いたであろうメッセージが残されていた。
『幸せにしてあげてください』
 汚い字だった。『幸せ』が『辛い』という字になっていたのが、皮肉としか思えなかった。
 これを書いたのは年端もない子どもか。だからといって、自分の責任を面識もない他人に押し付けることが許される訳でもない。無論、わたしも請け負ってやることはないのだし。
「あなたはこれから野良として生きなさい。その方が楽だから」
 仔猫は、分かってもいないくせに小さく鳴いた。
 野良として、一人で生きて一人で死んだ方が楽だから。別れの辛さを他人に負わせることもないから。
 いつかそれをシロウに味わわせてしまうわたしからの、せめてもの忠告だった。
「じゃあね。せいぜい生き長らえなさい」
 可愛げのない台詞を残して、在り来たりな脇道を振り返りもせずに行き過ぎる。
 遠くから、耳鳴りのような鳴き声が聞こえた気がした。




 好きなものにくっ付いているのは、とても楽だし幸せなのに、嫌いなものに付け狙われているのはこんなにも辛いものか。
 振り返りもしないし声を掛けてもいないのに、背後からナニモノかの気配を感じる。
 人間未満ネズミ以上、いつも猫背でヒゲを生やしたペットボトル大嫌いっ子。だけども科学上は別にペットボトル自体が苦手な訳じゃないのだそうだが、この際そんなことは関係ない。
 猫だ。
 たった一度だけ情けを掛けた猫が、相も変わらず鳴きながらわたしを尾行しているのだ。というか、自分の存在を気付かせようとしているんだから尾行でも何でもない。ある意味キャッチセールスより性質が悪い。
 散歩は続いている。これしきのことで日課を怠るのもバカらしい。
 深山町と新都を繋ぐ橋の上にあっても、猫の声は鳴り止まなかった。しつこい。粘着質の猫というのも珍しいが、猫について詳しく知ろうとも思わなかったから数自体は結構いるのかもしれない。
 ――しつこい、と言うならわたしも似たようなものだった。
 一応、目的は果たしたことになるのだろうか。結局、わたしを苦しめていた人は死んでしまったし、わたしの中にあった憎しみも霧散してしまったのだし。
 けれど、キリツグに会いたかった。
 憎かったけど、苦しかったけど、それでも会ってみたかった。一言、たった一言でいいから言葉を交わして、そして殺してあげたかった。勝手に死んでいるなんて、ずるい。わたしの関係ないところで居なくなるなんて、なんて無神経なんだろう。
 バカだ。
 キリツグも、こんな捻くれた感情しか持てないわたしも。
 ――にゃあ。
 ……気のない鳴き声で、ようやく自分が橋の上で呆としていたことに気付く。しばらく足を止めていたせいで、白猫もわたしに追い付いてしまっている。
 振り向くまいと決めていた猫と視線が合って、わたしは慌てて橋の先にある新都に目を向ける。
 やっぱり、猫とわたしは全然似ていない。
 こんな素直になんて、わたしはなれなかったもの。




 猫とわたしの距離は縮んだけれど、わたしはそれの声を努めて無視することにした。
 風もいっそう冷たくなり、街の中心に行くに従って人の数も多くなっていた。忙しい人間の足音を聞くたびに、自分と他人の違いを思い知る。
 わたしとすれ違い、振り返るような類の人間の顔はだいたい同じだった。ああ、彼らと自分は違う。わたしはこんなに他人に興味が持てない。それくらい寂しい人間なのだと実感する。
 耳を凝らすと、まだ仔猫の声が聞こえる。小さいくせに根性だけはある猫だ。
 人の群れが濃くなるにつれ、車の群れもその密度を増してくる。田舎暮らしに慣れたせいで、未だにこの煙は受け付けない。差し掛かった信号がちょうど青になったので、さっさと渡ってしまうことにした。
 結局、猫と人間が気になって景色を楽しむ余裕はなかった。尤も、新都に入った時点で景色の美しさは望むべくもなかったのだが。同じような形と色で揃えられた鉄の塊、中にはその羅列を楽しめる人間もいるようだけど、わたしにはまだ無理だった。
 信号の原色が点滅し、安全地帯の終わりを告げる。その時はもう反対側の歩道にたどりついていたけど、横断路にはまだ幾人かの姿があった。中には、人間とは思えないほどに小さく白い影もあって――。
「え?」
 遅い。
 四車線の道路で、まだ半分の道程にも達していない白猫を助けるには距離が離れすぎている。自動車の信号は青になっている。
 間に合わない。
 助けたところで何になる。どうせ近いうちに凍え死ぬ運命だ、そんなものに差し出すような手は持っていない。この手はただ、戦争を生き抜くために指揮棒を振るう術しか知らなかった。
 誰かに手を伸ばしても、誰もそれを掴んではくれなかった。
 ――でも、シロウは掴んでくれた。
 なら、掴んでやればいい。
 あの時に果たされなかった望みを叶えてあげればいい、他ならぬ自分の手で。
 どうせ朽ち果てる肉体だ、先のある命のためにくれてやっても損はない――!
 ……心の中から、天使のような悪魔の囁きが聞こえる。ああもう、面倒くさいからどっちかに統一してほしい。でないと、本当に自分が正しいことをしてるか分からないじゃないの――!
「もうバカなんだから……!」
 走る。
 逡巡は一瞬で終わった。手前の車線は車が動き出そうとする直前だったから、わたしが飛び出してもまだ当たらない。急停車ぐらいはさせたかもしれないが、車のボンネットが魔術で破壊されるよりはいいだろう。
 走る。
 魔術なんて掛ける暇はない。何より、焦燥感が強くて頭が混乱しているのだ。助けなければ、走らなければという衝動がわたしを突き動かしていたから。
 悲鳴が背中に投げ付けられる。車道に取り残された白猫と、横断路を逆走するわたしに投げた悲鳴だろう。思えば、子どものわたしよりは大人の方がよっぽど速いはずなのに、そうやって悲鳴だけあげて悲しんでいるフリをすればいいだけなんだから楽でいい。
 わたしはやっぱり特別なんだ。
 でも、今はそれが愛しい。
「っ、く……!」
 ――にゃあ。
 場違いな鳴き声に脱力しそうになりながら、半分呼吸を止めて駆け抜ける。白猫は、逃げる様子もなく一定の速度でわたしに近付いてくる。いっそ向こう側に走り去ってくれたら手間が省けるのに、気の利かない猫だ。
 これだから、猫って嫌い。
「……はぁっ!」
 腰を屈めて、一気に白猫を救い上げる。そこで暴れてくれなかったので面倒くさくはなかった。
 これで、後は反対側の歩道に抜ければ――。
「っ……!」
 急ブレーキが聞こえる。
 相手の車を見る余裕はない。こんな精神状態で魔術が成功するとも限らない。何より、せっかく助けてやった猫が巻き添えを食うのはどうしても避けたかった。
 わたしは、全力で身体を動かして向こう側の歩道へ駆ける。驚いた人間の歪んだ顔が大きくなる。
 ――間に合う。
 そう安堵した直後、ずっと身体を支え続けてきた膝から力が抜けるのを感じ。
 次の瞬間、絹を裂くような悲鳴がわたしを包み込んでいた。




 だいじょうぶ、という声がする。
 よかったな、という他人事が聞こえる。
 どうしてこんなことしたの、という叱咤が届く。
 バカね、という言葉がわたしの中から響いた。
 うれしい、という鳴き声がわたしの耳には痛かった。
 猫は人間の言葉を喋れないし、わたしも感謝されたいとか喜ばれたいとかいう理由で助けた訳ではない。だから、そういうふうに鳴き声を解釈してしまうのは嫌だった。わたしはただ、自分がしたいようにしただけなのに。
 ――ずっと、虚ろな気持ちだった。
 声を掛ける人の言葉をぼんやりと聞き流し、適当に受け流してその場を去った気がする。救急車は、という提案は少し魅力的だったが、ありがとう、とだけ言って笑ってみた。誤魔化しきれたかどうかは分からないが、お茶を濁す程度には成功したようだ。
 確かな意識を保てないまま、わたしはいつかの公園に着いた。なんだかとても疲れたので、ベンチに座って休むことにする。
 そういえば、さっきから腕の中が温かい。感触が曖昧な腕を見下ろすと。
 ――にゃあ。
 心配そうな鳴き声がした。
 あるいは、抱き締めすぎて苦しいと言っているのか。
 どっちにしろ、自分はバカなことをしたな、と思った。大嫌いなものに歩み寄るだけではなく、身の危険を冒してまで猫を窮地から救い上げるとは。ほんの何時間か前、自分は偽善者じゃないと言ったばかりなのに。
 まったく、素直じゃない。
「……野良で生きなさい、て言ったじゃないの」
 白猫は答えない。
 仕方ないので、わたしはぼんやりと空を仰ぐ。曇天の空は白く、わたしの髪と白猫の身体と少し似ている気がした。
 ――違うか。空がわたしの髪を真似してるんだ。わたしの髪は、すごく綺麗だから。
「ひとりで生きるのは、いや?」
 ――にゃあ。
「そう……」
 瞳が閉じる。眠たい訳じゃないのに、目蓋が落ちていく。
 これで死ぬ訳じゃないと分かっていても、意識が無くなるということはそれなりに恐ろしかった。
 その前に、伝えるべきことは伝えておこうと思った。
 いつか来る別れを知っていても、また新しい絆を得ようとするバカな仲間へのメッセージを。
「……これからも、よろしく」
 微笑むことすら出来ないわたしに、小さな猫は小さく鳴いた。




 わたしは猫が嫌いだった。
 今もあんまり好きではないけれど、例外というものはどこにでもある。
 それがわたしの隣りにいるとしても、何もおかしなことはない。
 ただ、それだけの話だった。





−幕−







・無名SS/第四回短編競作会イリヤ大会に投稿した作品。



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2005年1月13日 藤村流継承者

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