――はい。
ありがとうございます。神さま。
私は今日も生きます。
決して誤らないよう。
絶対に間違えないよう。
偽ることなく。
外れることなく。
最後まで。最期まで。
己を律し。
他を満たし。
他を愛し。
己を癒し。
永遠に――――――――エイエンに。
悠久に――――――――ユウキュウに。
私は、私で在り続けることを誓います。
Loveless
高校一年生の時に親が離婚して、わたしはママに引き取られた。
去り際、パパは「付いていけない」と言っていた。その理由は、今でもよく解らない。
わたしは勉強がよく出来た。
正確には、勉強が出来なければならなかった。
だって、これからはママと二人きりだから、ひとりで何でも出来なきゃならなかった。そのためには、公立の大学――それも特待生が望ましい――に入る必要があったし、その先も好成績を維持し続けて、焦ることなく――ママを焦らせることなく、すんなり就職を決めなければならない。
そのための準備は、早ければ早いほどいい。
高校に行けば友達もいるし、ちゃんと無駄なく高校生活を楽しんでいる。勉強だけやってる訳じゃない。大体、それじゃあ勿体ないもの。わたしはママを心配させないようにして、それで自分も楽しんでる。
別に、ママにそう言われたからなんかじゃ、ない。
わたしは、わたしがやりたいことをやってるんだ。だから、問題なんて、ない。
――なのに。なのに。
どうして?
ねえ、神さま――。
始まりは些細なことだった。
昼食時、クラスはふたつの人種に分かれる。学食派とお弁当派だ。わたしは後者で、友達と席を合わせて雑談しながら食べるのが常だった。
けれど、その日に限っては――本当に、どこも悪くなんてないのに――ごはんが食べられなかった。
その時は、気分が優れないだけだと思っていたのに。
「――あれ、どうかした?」
髪の短いクラスメイトが聞いてくる。うん、とだけわたしは言って、そのまま箸を置いた。
無理をすれば喉を通せないことはないが、無理して食べて具合を悪くするのも良くない。みんなに心配かけるのも良くないし、何よりママに迷惑を掛けちゃいけない。
わたしは、そうでなくちゃいけない。
「ちょっと、ね。おなかのあたりが、丸みを帯びてきたっていうか……」
冗談ぽくおなかを擦ると、向かいの女の子は突然身を乗り出した。
「え、もしかして妊し――」
「違うわよ!」
わりとシャレにならないことを口走りそうになる友人に待ったを掛ける。放っておくと行き止まりまで突き進んでしまう傾向にあるので、適当にブレーキを掛けてやらなければならないのだ。
全く、困った友人だ。
わたしに強く否定された彼女は、深く腰掛け、腕組みして、うーむと首を傾げている。
どうも、本当に見当がつかないらしい。妙な回答をされて噂が広がるのもまずいので、ため息まじりに答え合わせする。
自分では、それが真っ赤な嘘だってわかってるのに。
ほんと、道化だ。
「はぁ……。わかんない? よーするに、ダイエットよ。ダイエット」
「……はぁ。それはまた、ベタなリアクションですこと」
「いくら食べても太る気配すらないミハヤとは違うわよ」
「む……、失敬な。わたしでもちゃんと太りますって。なんつーか、こう、むしろ内臓が」
「……それ、自慢にならないから」
そう? なんて本気で聞いてくる。その表情が単純すぎて、少し笑えた。
ミハヤは案の定なんでよーとか言いながら、わたしのお弁当に箸を伸ばす。自分の弁当が空に近いからって、他国へ侵略してこないでほしい。尤も、わたしではこのお弁当を平らげることが出来ないのだけど。
もう、二度と。
それ以来、日に日に食事量は減っていった。
自分でもどうしてだが解らない。ただ、なんとなく食べちゃいけないと思っていた。
今思えば、それはわたしが思っていたんじゃなくて、わたしの中にいる、わたしじゃない誰かが思っていたことなんじゃなかったか。
う――ん。何だろう。よく解らないけど、変な感じ。
部屋に籠もることが多くなって、日に日に身体が変になっていく。――どうしてだろう。わたしはどこもおかしくないのに。ただちょっと、気分が優れないだけなのに。
それは誰のせい? 少なくとも、わたしのせいじゃない。
だったら、これは病気じゃない。病は気からっていうし、おかしくなるようなことなんて、何にもしていないんだから。
絶対に。
食べものを見るのは辛い。食べものを想像するだけでも辛い。味覚を思い出すなんてもっての他だ。
それなのに、ママはわたしにちゃんとごはんを食べなさいって言うし、クラスメイトだってやたらと食べものを勧めてくる。ありがたいけど、正直放っておいて欲しいと思う。
けど――だけど。ママがこうしてわたしのことを心配してくれるのは、とっても嬉しかった。こんなのはパパがいなくなってから初めてじゃなかっただろうか。
だから、わたしはこのままでいようと思った。
病気じゃないから大丈夫。いつかきっと、おなかいっぱいごはんを食べられるようになる。
だから、そのときまでは、もうちょっと。
ママを心配させてあげよう、なんて思ったんだ。
学校に行けなくなって、しばらく経って。
久しぶりに、クラスメイトに会った。いつか遊びに来てくれた時よりも散らかってはいるけれど、配置や彩色は大して変わっていない。だけど、やっぱり雑多な部屋の中に入って来られるのは抵抗がある。
彼女は、大丈夫? なんて在り来たりな慰めの言葉を告げて、見舞いの果物を示してみせた。
危うく、吐きそうになった。
だけど、彼女の後ろに隠れるようにして、見たことのある顔があったから――なんとか、踏み止まった。でも、具合は悪い。どうしてわたしにそんなモノを見せるのか。
この人は――わたしがいま、どんなことになってるのか、本当に解っているのか。
そう思うと、どうしても我慢が出来なかった。
「――――帰って」
ヒステリックにならないように、控えめに。だけど、押し殺した声は上ずっていて、彼女に不快な印象を与えたに違いない。
――嫌だな。わたし、そんなつもり、ないのに。
彼女は「ごめんね」とだけ言い残して、わたしの部屋からいなくなった。その後ろに控えていたクラスメイトの――誰だったろう、名前が思い出せない――男が、部屋を出る前に一言だけ言い捨てた。
「無理すんなよ」
「――――」
よく、わからない。誰も、無理なんかしてない。勿論、わたしだって。
大体、ごはんを食べないように無理をするって、何なんだ。わたしはそんなんじゃない。わたしはそんなんじゃない。わたしは、わたしだけはそんなんじゃないって最初から決まってるんだから。
そう。
ごはんを食べないのは、ママを不安がらせるためにやっていることで。止められないことはない。ただ、わたしが止めようとしないだけ。
その人が扉を閉めて、階段を下りて、玄関を出るときにママとちょっとしたやり取りをして、窓から二人の姿が見えなくなってから、ようやく。
わたしは、枕を思いっきりドアに投げつけた。
――なんて、無神経な人。
それから先のことはあまり思い出したくない。
ただ、クラスメイトは度々お見舞いに来て、気休めの言葉を吐いては帰っていった。あの斜に構えたような男の人は、たまにだが、顔を見せるようになった。
何も言わない時の方が多かったが、何かを言う時もあった。その言葉は友達のものよりぶっきらぼうで、しかしその人が抱いている感情に従った純粋な言葉だった。
このままでも大丈夫と言ったときは、
「病院いけよ」
ちゃんと歩けると笑ったときも、
「鏡、見たことあるか?」
みんなわたしとは違うから、と吐き捨てたときでさえ、
「当たり前だ」
容赦など、遠慮など知らない人だった。
温かくもなく、優しくもない人だった。
だが、だからこそ、忘れることはなかった。覚えていた。ただそれだけで、それ以上の感情を抱く前に何もかも取り返しのつかなくなってしまったのだけど。
――おなかはいつも空いていた。
霞を食べて生きる仙人になれればどんなに楽だろう、と何度思ったことか。いや、それでも満腹にはならないかもしれない。あれは満たす作業ではなく自己を削る作業だ。食事の楽しみがある訳ではない。
からっぽなのは、おなかだけじゃなくて、わたしの全てにまで広がっているようで、怖かった。
今のわたしなら、たとえ何が入ってこようとも拒むことは出来ないだろう。すきっ腹には、野菜でも肉でも魚でも骨でも、そうでないモノでも何でも入ってしまう。
それを怖いとは思わなかった。わたしを満たすならなんでもよかった。
けれど、満たすことで自分が変わってしまうことだけが、どうしようもなく嫌だった。
時間は過ぎていったけれど、わたしだけがその流れから取り残されているような気がした。
何もしなくても人間は成長するのに、年を取って、いろんなことを経験して、愛したり、愛されたり、するのに。そうしなきゃいけないのに。
本当に何もしていない私は、全く、変わることがないまま。
――いや、違う。
痩せ細り、自分ひとりでは立つこともままならない身体が変化していたのだ。わたしの思いとは裏腹に。
嬉しくない。こんなんじゃない。
こうなることを望んだわけじゃ――。わたしは、ただ。
――ただ?
何を、しようと思っていたんだっけ。
何になろうと、どんな風にしようと、何にならなければならないと、そうしなければならないと、思っていたんだろう。
考え事にふけっていると、離乳食に近い食べものを持ってママが部屋に入ってきた。
その匂いを嗅いだだけで、胃の底がこみ上げてくるものを感じる。何も吐き出すものなんてないのに、胃を、腸を、内臓すべてを裏返すのかのように湧き上がってくる衝動に、わたしは息苦しくなった。
「……おねがい」
これ以上、こんな姿を誰かに見られたら、もう泣き喚いて死んでしまいそうだった。
だから、少し強い口調でわたしは言った。
「もう、来ないで」
それは優しさの裏返しであるはずなのに、誰もそれに気付いてくれない。突き放した腕にこめられた弱さを、誰もそれを認めてくれない。お医者さんも、友達も、そして、そして。
辛そうに、ママは言う。ママでさえも言うのだ。
「あなたは、どうして――」
――どうして、そうなの。
震える声は聞かないことにして、わたしは叫んだ。この枯れた身体のどこにそんな力が残っているのかと思うほどにその叫びは強く、情けないほどに怯えていた。
悲しかった。
ママは、認めてくれなかった。
あなたのために、あなたのためだけに生きていたわたしのことを。
この世でいちばん、あなたを愛していたわたしのことを。
あなたは、認めてくれませんでした。
なのに、わたしは、わたしだけは。
こんなわたしを、認めなければならないのですか。
9月。
その日も叫び声が響き渡っていて、少し喉が痛かった。
そのとき、ふと犬の鳴き声が耳に届いた。それはとても耳障りな響きで、もういいかげん我慢の限界だったわたしの撃鉄を起こした。
同時に、わたしの中にナニかが満ちるのを感じた。
それでも、空腹だけは満ちてくれなかったから、それは別のモノで代用するよりなかった。
――――――――。
遠吠えと、悲鳴と、喧騒と、苦痛と、虫の音。
ああ、そうか。
虫の声はおなかから聞こえる。女の子なのに、みっともない。しかしおなかが空いていては仕方ない。それくらいのことは許容してもらわないと、何も出来ないじゃない。
――――――――。
だから、吼えないでよ。
うるさいのはキライなんだから。おなかの音がうるさくて、もうトラウマになりそうなの。
――――――ッ。
おねがい、静かにして。
わからない? それが、あなたのためなのよ。そしてわたしのためでもある。
みんなは静かな夜を過ごせて、わたしは満たされる。
悪いとは思うけど、これも仕方のないこと。だって、この気持ちはわたしじゃないもの。
わたしのせいじゃないもの。
だって、これは。
――――っ。
聞こえない。もう何も聞こえない。良かった。
徐々に、おなかの中が膨らんでいく。それは純粋に嬉しかったけれど、今までの自分が打倒されていくようで、変わっていくようで、ただただ恐ろしかった。
と、血が喉に絡んだ。
と、骨が喉に刺さった。
と、目が地面に散乱しているあれこれを拾い上げた。
理解して、しかし恐怖はなく、絶望さえなく、ただ事実だけを呑み込んだ。
わたしが手に持っているのは石である。少し尖っていて、華奢なわたしでも小動物くらいなら簡単に潰せる。
滅多打ちというほどではないが、声がうるさいので静かにしてほしいとの願いもこめて力強く叩き続けた。そうするうちに骨も砕け、皮も剥げ落ち、肉も良い感じに柔らかくなった。
けれど、どんなモノであれ、わたしの身体は食べものを受け付けてくれない。
――ォ。
吐いた。その音がうるさくて、なんとか止めようと思ったけど、衝動にも似た嘔吐感を抑えることだけは出来なかった。
しかし、それも慣れるだろう。マイナスの分を考慮しても、それを上回るほどのプラスがあれば話は別だ。
吐けば、急激に身体が変化することもないだろう。満たされて、自分は変わらないままで、幸せに、元気に生きていく。
わたしはまだ、自分の中に滑り込んできたモノの正体に気付いていなかった。
だから、そんな簡単に割り切れていたんだ。
もしかして、そう思わせていたのは悪魔の仕業かも知れなかった。わたしに同化して、悪魔が感じている幸せをわたしのものだと勘違いさせようとしていたのかもしれない。
きっとそうだ。
だから、わたしは食べたんだ。本当は食べたかったけど、あんなものを食べたかった訳じゃない。
食べて、吐いて、吐いて、食べて、吐き捨てて、呑み込んで、嘔吐して、吐瀉して、悪飲して、唾棄して。
それを自分の感情だと思い込ませて、悪魔はわたしの身体を乗っ取ろうとしている。
ならば、わたしは何をすべきなのか。このまま黙って身体を明け渡すのが正しいのか。
その答えを、わたしは知っているはずなのだ。
ならば、わたしはわたしのままで在り続けるしかない。何があろうとも、どんなに心を揺さぶられようとも、いかに外面が変化しようとも、どれほど内部が侵略されようとも。
これが試練ならば。
わたしは、わたしで在り続けることを誓います。
――はい。
ありがとうございます、神さま。
わたしにこのような機会を預けてくださって。
わたしを選んでくださって。
わたしは今日も生きます。
決して誤らないよう。
絶対に間違えないよう。
偽ることなく。
外れることなく。
最後まで。最期まで。
己を殺し。
他を殺し。
他を愛し。
己を愛し。
他を満たし。
己を満たし。
永遠に――――――――。
悠久に――――――――。
わたしは、わたしのままで生き続けることを誓います。
−幕−
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