空を見る





「――――シロウ。貴方を」
 綺麗だった。
 在り方も、生き方も、何もかも。だからそれを俺の身勝手で汚しちゃいけないと思って、吐きそうになりかけた言葉を飲み込んだ。
 その青い少女は、最後に俺を見て言った。



1.



 ぼんやりと、薄く翳る空を眺める。
 冷たかった空気は次第に温かみを取り戻し、冬の名残りを一気呵成に締め出そうとしている。
 その恩恵を日光というカタチで与っている俺――衛宮士郎は相も変わらず生きており、その日常は平和そのものだ。
 守りたかったものを守れた。それは誇ってもいいことだと思う。でも、大部分の人間があの戦争自体を知らずにいるから詮無いことだし、俺もそんな賞賛が欲しい訳じゃなかった。
 ――正義の味方として当たり前のことを貫いた。
 失ったものもあった。おそらく、もう二度と取り戻せないものを失った。
 でも、それでも後悔はなく。あの決断が美しいものだと思ったから、決して間違いではなかったんだ。
「――あ〜」
 見上げた空は青く、透き通るほどと言っても過言ではない。
 縁側で朝っぱらから暖かい日差しを浴びていると、どうにも眠くなってしまう。それは仕方ない。今日は休日なので、このまま眠ってしまうのも選択肢としては有りだ。
 睡眠時間は、魔術の訓練がスムーズに行っていることも相まって、以前より多く取れるようになった。元からそんなに睡眠時間を多く必要としない体質だが、やはり一定以上の時間を確保しておくに越したことはない。
 が、たとえその時間を確保していても、遠坂のように寝起きがゾンビみたいになっているようでは、魔術師としていろいろ問題がありそうだ。
 まあ俺が文句を言える筋合いでもないし、交差点でたまに会うときはキリッとしてるから実害――というか特に違和感は沸かないのだが。
 ――頂点に到達しそうな太陽の光が眼を焼く。
「いい天気だな……」
 手元に置いてある湯のみ茶碗を手に取り、ゆっくり傾ける。なんだかえらく年寄りになった気分だ。ほんの二・三ヶ月前までは、命を賭けて切った張ったの大立ち回りを演じていたのだから、こうしてぼんやりしみじみと、一日を徒然なるままに過ごしてみるのも時間の無駄じゃないだろう。
 ――が。
 玄関の扉が開く音、それから忙しなく接近してくる横柄かつ隙だらけの足音を耳にして、その安息も一時的に投棄されるんだろうなあと諦念した。
 衛宮家を横行闊歩する虎の申し子は、迷子の犬を探すような気軽さで俺の名を呼ぶ。
「士郎〜」
 廊下をどたどた鳴らしながら、藤ねえが現れる。毎度のことだが、チャイムは押さずに上がりこんで来たらしい。もう慣れたが。
 いつもの姿で現れた女性は藤村大河。俺の通う高校で教鞭を取っているとはとても思えない、活発で血気盛んで責任感が強く、総じて非の打ちどころが有ったり無かったりするそんな女性だ。俺もいろんな意味で助けられたり諌められたり衝撃を加えられたりしている。
 藤ねえは、縁側に腰掛けてぼんやり空を見ている俺を認めて――何故か、驚いたように足を止めた。
「……どうした?」
「あ、いや。士郎も暇だなあと思って」
 よいしょ、と俺の隣りに陣取る。ちゃっかりミカンの盛られたザルを確保しているあたり侮れない。ついでに俺の湯のみを引き寄せようとするが、それは死守する。あ、舌打ちした。腹が立ったので抗議する。
「それを言うなら藤ねえも、だろ。弓道部はいいのか?」
 はて、と藤ねえは首を傾ける。こちらの意図は見事に伝わっていない模様。美綴がいるなら心配はないだろうが……それでも一応、窘める程度には睨んでみる。
「……サボりは良くないぞ」
「む。士郎だって行かなくていいの? 復帰したくせに行ったり行かなかったりで、その度に桜ちゃんのテンションがアップダウンして見てるこっちがはらはらするんだから」
「それは――ごめん、と言った方がいいのか? バイトがあるから毎日は行けないって、再入部するときに前もって宣言しといた筈だけど」
 その場には美綴はもとより、藤ねえや桜もいた筈だ。一緒に部活が出来ないのは悪いと思うが、こちらにも退けない理由というものがある。
 具体的に言うと、食費だ。藤ねえはいいかげん俺の口座に食費を振り込んだ方がいいと思う。
「……ま、いっか。お互いサボり組みということで」
 藤ねえが妥協案を提示する。俺も頷くことにした。
 ――五月初め。世はゴールデンウィークと呼ばれる連休に弄ばれている。
 遊ぶ者は遊び、働く者は働く。レジャー施設で働く者の心境は複雑だ。
 俺も言うに及ばず休みな訳だが、弓道部にもバイトにも行かず朝から空を見ている。見事な五月晴れは眺めているだけで眠気を誘う。
 その休暇も今日で終わり。束の間の休息もあっという間に過ぎ去り、明日からは取り立てて騒ぎ立てるほどの行事もない日常が再開される。
 と、まともに働かない脳を揺さぶるように、藤ねえの言葉が届いた。
「セイバーちゃん、どうしてるかなあ」
「――――」
 何気なく呟いた一言。藤ねえに他意はないだろう。ここで妙な返答をしてはならない。
 その声が少し物悲しく聞こえたのは、俺の思い違いなのか。けれども、その数秒後には動揺も躊躇もなく、その言葉がストンと胸に落ちた。
「あぁ。元気でやってたらいいけど」
 それは本音だ。
 元気でいてほしい。無意味な願いなのは承知で、元気であってほしいと思う。
「そうねー。次のオリンピックとか、フェンシングのイングランド代表で参加してるかも」
「フェンシングって言うより、乗馬とかだろ」
「乗馬? セイバーちゃん、馬になんか乗れたっけ?
 ……あー、でもどことなく貴族っぽい風味が漂ってた感じがするわね、セイバーちゃんは。きっとお忍びで日本にやってきたイギリス王室の隠し玉だったりするのよ」
「……隠し玉って、意味が違う」
 けど、藤ねえの表現は言い得て妙だ。あの少女はイギリスの王族だし、ある意味その存在は隠し玉と言っていい。性別が逆だったらいろいろと隠したくもなるだろう。
 ――そうか。そういや俺、アーサー王が女だって知ってるんだな。
 それで優越感を抱くということもなかったが、ふとした弾みで彼女の秘密を垣間見る。この時代にはとうに消えている人間と、わずかな間にしろ一緒に過ごしたことがあるだけでも驚異だというのに。
「よし! それじゃあ乗馬クラブに入ってオリンピック日本代表に!」
「……藤ねえ、それは本末転倒だと思うぞ」
「そっか。ちょっと気が早かったね。……あ、それとどうでもいいけど、ばじゅつぶって言いづらいよね」
 本当にどうでもよかった。



2.



 ゴールデンウィーク明け、初めの一日。
 授業が終わって部活が始まるまでの束の間、俺は屋上に行くことが多くなった。
 勿論、バイトがあるときは急いで学校を出なければいけないし、部活だって疎かにしてはいけないのだが、時間があることがわかった時にはふらりと屋上に上がって空を見ていた。
 ――その理由は、ただ空が綺麗だったから。
 あの戦争が終わった後も、部活禁止令は一ヶ月ほど続いた。それでも時が経てば事件もその残滓も風化するもので、近頃その封印は解除された。運動系の部活は、溜めに溜めた鬱憤を次の大会に晴らそうと活発に動き回っている。
 俺は俺で、桜との約束もあり、弓道部にふらっと舞い戻ることにした。
 フェンスに背中を預けてぎしぎし鳴らしてみる。このまま柵が外れたら校庭に真っ逆さまだなあ、と薄ら寒いことを想像する。実際に三階あたりから落下したことのある身としては、あんまり他人事でもないのだが。
「――あ〜」
 意味のない声が漏れる。そのだれた呻きに呼応するように、
「何してるの?」
 前方約十数m付近から無遠慮に投げつけられる声。ぶしつけな言葉の中に親愛の情があると思うのは、都合のいい妄想に過ぎないんだろうか。
 目をやると、そこに赤い影が見えた。無論、今は制服に身を纏っているから、幻視した原色は彼女の私服を思い出したが故である。
「――遠坂か。いや、ちょっと空を見てた」
 なんでよ、と言いたげに、遠坂も空を仰ぐ。そこには、白くくすんだすだれ雲と、適当に青く広がる空があった。本当にそれだけ。昔の人は雲を見て鰯だとか羊だとか空想したらしいが、残念ながら俺にはそんな独創性は備わっていない。
 ぼんやりと見上げて、へえと漏らすだけ。
 遠坂はつまらなそうに俺を見て、素直な感想を口にする。
「好青年を装っちゃって、なんか企んでるの?」
「何も企んでない。……遠坂こそ、こんなとこに何しに来たんだ。屋上に用があるなんて用務員さんぐらいだぞ」
「他にもっと用途はあるでしょ。例えば――昼ごはん食べたりとか」
 ……あぁ、それは確かにいいかもしれない。冬の間は風が冷たくて、とてもじゃないが外で食べるなんて思いつかなかったけど、暖かくなれば屋上にふらふらと上って来る人も増えるだろう。
 ちょうど、今の俺みたいに。
 が、遠坂はそんな凡百の一人ではなかったらしい。彼女の目的はきっと俺だ。
「――で、どうしたんだ」
「まあ、言いたいことは数あるんだけど。単刀直入に言うと、わたし卒業したらロンドンに留学するのよね」
 いともあっさり、重大な一言を解き放つ。
 衝撃の告白。
 ……でもなんでもない。そんな感じの話は、春季休業の頃からちょいちょい聞かされていた。遠坂は、たまに大事な場面で自分の仕掛けた罠に引っかかるようなところがあるが、基本的には俺なんか足元に及びもしないほどの超エリート魔術師なのだ。
 彼女が求める世界はここよりもっと広い。今いる世界の天井を突き破って次の世界を開拓することのできる人物だと思う。
 だから、初めにそれを聞いた時もさほど驚きはしなかった。そりゃ、かつての憧れだった少女が遠くに行ってしまうのは些か寂しいものを感じるが、遠坂に抱いていた幻想などとうの昔に放り投げた俺なので、今はまあ旧来の友人を見送る気概でどんと構えている。
「あぁ、そうなんだよな。遠坂ならうまくやれるよ。その、凡ミスさえかまさなければ」
「っ――だ、大丈夫よ。人間ってのは年を重ねるごとに慎重になってくものなんだから」
 ふん、と胸を張る遠坂。……なぜだろう。全く説得力を感じないんだが。
「とにかく、わたしはわたしなりに進む道を決めたわけ。……で、士郎はどうするのよ」
 真剣に睨む。どこかでその質問から逃げようとしている俺を逃がすまいと、遠坂は視線の檻を造る。
 少し、息を吸う。無色な空気は、俺の中に入っても大した変貌を遂げず、よって俺に何の変容ももたらさない。落ち着かない。冷静になれない。その問いだけは、確たる答えを出すことが出来ない。
 正義の味方に至る道を、俺はまだ選びかねている。この道に間違いはないと信じていながら、いざとなるとその道筋がわからない。
 今の俺には、どうしてもその解を導き出すための力が足りない――。
 それでも、その場しのぎでも何でも答えを返す。返さなければならない。
「そう――だな。まだハッキリとは決めてないけど、都心に行くのもいいかなと思ってる」
「へえ。それは上京ってこと? それとも旅行?」
「どちらでもない、かな。いちど、中心を見てみたいんだ」
「……本当に漠然としてるわね。でもまあ、いいんじゃない? わたしがどうこう言う話じゃないし……桜はどう言うか知らないけど」
 明後日の方角を見上げながら、遠坂がぼやく。あぁ、確かに桜たちを説得するのは大変に違いない。けど、誠意をもって話せばわかってくれる。そんな根拠のない確信は、常に胸の中にあった。
 遠坂は俺の答えを聞いて満足したのか、踵を返す。
「あ、遠坂――」
「それだけ聞ければ充分よ。ごめんね、変なこと言って」
「それはいいんだが、俺からもひとつ言っておきたいことがある」
 ――え、と遠坂の足が止まり、身体を俺の正面に据える。
 あんまり大したことを言うつもりじゃないから、そんなに身構えられても困るのだが。ちゃんと聞いてくれるのはありがたい。
「――遠坂。ロンドン行っても、がんばれよ」
「…………あのね」
 初めはぽかんと口を開けていた遠坂も、少し間を置いた後には腰に手を当てて俺をねめつけてくる。
「そういうのは、最後の最後で言う台詞だと思うんだけど」
「……だよな。けど、減るもんじゃないから今のうちから言ってみてもいいかな、とか」
「減るわよ。感動が」
 ごもっとも。
 別に感動を狙った訳ではないが、遠坂はそう捉えたらしい。ならそういうことにしておこう。俺はただ素直に激励の意味を込めて言葉を送った。遠坂もそれを受け取って、何か思うところがあった。
 完全に理解できていなくとも、俺たちはそのくらいのバランスがちょうどいい。
「あと、あっち行っても寝起きの姿を他人に見せるなよ」
「衛宮くんケンカ売ってる?」
 逆ギレする前に、早くその癖を矯正してくれることを切に願う。



3.



 時間が静止する。
 弓の弦を引き、停止する――会の時には何も考えない。思考は既に終わっている。後は弦を引いた腕をため、指を離せば思った通りに矢は飛んでいく。手放す瞬間は早くても遅くてもいけない。適当な間を保ってこそ美しい射が成り立つ。
 ――離れ。
 弦は顔のすぐ横を通過し、矢羽が鋭く頬を撫でる。視線は常に一定に保ち、音が鳴る瞬間を待つ。自己のイメージが現実に即しているかどうか、どちらであってもその結果を受け入れるために待つ。
 ――矢は的に当たる。
 おぉ、と後ろから部員の声が聞こえる。その中には藤ねえもいた。
 もう一本の矢を(つが)える。同じ動作の繰り返しだが、一度として同じイメージは巡らない。当たる幻想も全てカタチは異なる。
 その工程でふと考えてしまうのは、あの戦争のことだ。良くも悪くも、自分の幻想はあの戦いを期に大きく飛躍したのだろう。
「――――っ」
 イメージに齟齬が生じる。矢がぶれて、的の枠に直撃する予感。
 修正は――効かない。理想的な会の時間が終わり、自然と手が離れる。
 一直線に飛び、想像通り的枠に矢じりが激突する。中心に当たれば太鼓のように重厚な音が鳴るが、枠に当たればあからさまな破壊音を生み出す。生理的に嫌な音ではあるが、的中であることに違いはない。
「一年、的の準備しといて。あ、矢が抜けなかったら的ごとこっちに持ってきてね」
 美綴が早めに指示する。
 結果は、四射中四射が的を捉えた。一応、連続的中記録は留まることを知らないという感じではある。
 俺は、次に射つ人に自分の場所を譲り、後ろに引っ込んで座りながら篭手を外す。
 ――俺の射を待って、的から矢が取り外される。
 道場が広いとはいえ、射を打てる人数は限られている。一度に全員は打てないから、射つ人のリストを作る。一回で四度矢を射ち、計五回繰り返す。で、二十点満点中何点かの成績を出す訳だ。
 ……まあ、俺は外れることが滅多にないから、美綴にあれこれ目の敵にされたり、一部の部員から尊敬の眼差しで見られたりするのだが。
 その美綴が、打っている部員の邪魔にならない場所で射を眺めている俺に話し掛けて来た。
「今日も調子いいねえ、衛宮」
「……いつも通り、てトコかな」
「いつも通りで的中かい。嫌味な人間だねえアンタは」
「……どうあっても俺に絡みたいらしいな」
「仕方ないだろう。主将なんてのは平均的な成績が部員中トップの人間がなるもんだ。その称号を半分くらいあんたに奪われたままで一年近くを過ごしたあたしの苦しみの何割か、あんたに返さなきゃ気が済まないってもんだ」
 ふふんと笑いながら、美綴は憎々しげに言う。親愛の情が行き過ぎて憎悪に転じたらしい。
 ふと、中途半端な間が空く。道場の後ろでは、先程打った矢の矢じりに付いた砂を拭き取る作業が続けられている。藤ねえは年功序列を重んじることもたまにある人間なので、こういう地味な仕事は一年に押し付けている。俺もそうだった。
 ――唐突に、不自然な間が空いたからどうしてもそう感じるのだが、とにかく美綴が問い掛けてくる。
「衛宮、昔ほど真ん中に当たんなくなったね」
 はっきりと言う。質問というより賛同の意を求めているといった方が近い。
 言われるまでもなく、俺もそう思う。もしかして昔より下手になったのかも知れない。というか、一年くらい弓道から離れていれば腕が鈍らない方が異常だ。
 だから、俺は素直に答えた。
「――だな。今のうちに見限っておいた方が、俺への幻想が壊れた時にショックを受けなくてすむぞ」
「へ。何様のつもりだよ、あんた。謙遜するくらいだったら、いっぺん道場の外にまで射を外してみな。そうすりゃ衛宮のこと幻滅してやる」
「ンなこと出来るか。あそこの雑木林には、たまに野良猫がうろついてるんだ。動物虐待とかで噂になったら嫌だろ」
「その猫にピンポイントで当てたら、逆の意味で凄いけどね」
 にやにや笑いながら、美綴は俺をからかい続ける。内心、出戻りを希望していた本当の理由は、俺への対抗心じゃなくて苛める相手が欲しかったからなんじゃないかと邪推してしまう。
 視界の端に、弓を引く桜の姿が映る。あとわずかで引退する三年の次には、桜たち二年が部を引っぱっていくことになる。桜も部長候補だが、なんとなく辞退しそうな気はする。
 ――真ん中に当たらなくなったね。
 美綴の言葉が頭を掠める。
 それでも的には当たるのだ。中心から外れても、目的を果たすことは出来る。
 どんな手段を用いても当たりは当たり。法に触れるようなことはしないけど、それだけ選択肢が広がったということかも知れない。
 正義の味方という理想を体現するための方法はひとつじゃない。今はひとつの道さえ定められないけれど、いつかは必ず――。
「日が長くなってきたね」
「……あぁ。眩しいな」
 傾いた日が、赤い光を俺たちに浴びせかける。眩しくて、目を覆いたくなるくらいの赤が、少しずつ濃く広がっていく。
 そうなれば、俺はまたあの日のことを思い出すのだ。
 どうしようもなく赤く焼けた空と、その下で静かに笑う少女のことを。



4.



 部活が終わると後は帰るだけ。これまで学校が終わればバイトに明け暮れていた日々だったので、こうしてのんびりと家路を辿るのはちょっと懐かしい。
 桜は美綴との特訓を志願したので、先輩は先に帰っててくださいとのこと。俺も残ると言ったのだが、先輩がいると気が紛れるので駄目です、だそうだ。……まあ確かに、俺なんかが隣りにいても邪魔なだけだし。
 歩幅を一定に保ちながら、ゆっくり坂を下る。視界に入るのは焼け焦げた空と霞んだ雲、あとは夕焼けで錆び付いた住宅街ぐらいだ。
 まだ、焼けた空を見ると心が締め付けられる。空が赤いと、それが夕刻だろうと早朝だろうと、その色を見るだけであの光景を思い出す。
 痛みは少しずつ和らぎ、苦しみは初めからない。まだ残っているのはわずかな記憶と少しの温もり。それもいつかは消えていく。絶対に忘れないと固く誓っても、生きている限り少しずつ磨耗してしまう。
 ――でも、君を覚えている。
 最後の一欠片でも心に引っかかっていれば、きっと思い出せる。どれほど記憶が磨り減っても、身体が蝕まれても、言葉を紡げなくなっても。
 自分が大人になる前に出会い、わずか一時を共に歩んだ少女のことを思い出す。
「――あぁ」
 目が痛い。赤く滲んだ太陽なんか凝視するもんじゃない。
 と、交差点のあたりで見知った顔と出会った。
「――イリヤ」
「あ。お兄ちゃんはお帰り?」
 軽く頷く。そう言うイリヤの手はビニール袋で塞がっている。現在、藤ねえの本部で世話になっているイリヤは、こうしてたまに買い物を頼まれることがある。雷画の爺さんに気に入られているとはいえ、魔術師は等価交換やらなんやらで宿飯の分はきっちり労働をもって返還しなきゃ、ということらしい。律儀だ。藤ねえに聞かせてやりたい。
「片方、持とうか?」
「ダメよ。ただでさえライガに甘やかされてるんだから、こんなとこ見られたらシロウも只じゃすまないわよ、タイガに」
「む」
 なぜそこで藤ねえの名が出て来るのかはわからないが、確かに甘やかすのも良くない。それにイリヤは藤ねえの天敵だし。藤ねえが一方的にいてこまされているだけだが。
 ――ついでなので、途中まで一緒に帰る。後になれば藤ねえともども我が家に乱入してくる。毎度賑やかな食卓だ。
 そこに、つい最近まで座っていた誰かの姿が認められなくても。
 日が翳り、影は伸びる。イリヤは俺の少し前を歩く。どこがで聞いたことのある歌を口ずさみながら、その歌を俺に見せ付けるように紡ぎながら歩いている。
 ドイツ語、だろうか。綺麗なメロディーだ。しばらく心を奪われる。
 ふと、イリヤは歌うのをやめる。
「……あれ」
「ふふ、どう? シロウ」
 自慢げに微笑む。
「あぁ――いい歌だな。何の歌かはわかんなかったけど」
 素直に言うと、イリヤはむっと口を尖らせた。背伸びをすることが多いこの少女も、たまに見た目相応の子どもっぽい表情をすることがある。怒られているのに、なんだか微笑ましくて笑ってしまった。
「あ――ごめん」
「……まあ、いいけど。シロウに文句言ったって仕方ないし。
 これはね、わたしのママが教えてくれた歌。ローレライっていうの。みんな知ってるけど、上手に歌える人は本当に少ないの」
 足を止め、肩越しに俺の顔を伺う。その柔和な表情から、寂しさとか悲しさといったものは確認できない。
 もっとも、俺に見られないように隠しているだけなのかも知れないが。
 イリヤは言った。
「ね。わたしのうた、上手だった?」
 ほんの少しだけ躊躇いながら、イリヤは俺に正対する。
 そこで、俺はなぜか空想した。
 ――イリヤは、故郷が懐かしいのだろうかと。
 少女の帰るべき場所はどこなのか。イリヤはここに残るといった。それでも、故郷に置きざりにしてきたものが何かひとつくらいある筈なんだ。
 それは誇りであったり、義務であったり――親であったりするのだろう。俺はまだ、そこまでイリヤに踏み込んでいない。語るべき時が来たら話してくれるだろうけど、その時を選ぶのはイリヤだ。
 無邪気に微笑んで、俺の答えを待っている。
「――うん。とっても上手だったぞ」
「そっか。……うん。ありがとうシロウ!」
 言葉を噛み締めて、にっこり笑って。イリヤは思い切り俺に抱きついてきた。ビニール袋はうまいこと落とさないように身体を預ける。
 その柔らかくも唐突な衝撃に、思わず倒れそうになるのをなんとか堪える。
「うわあ! いきなりは危ないぞ!」
「へへー。じゃあ、いきなりじゃなかったらいつ抱きついてもいいんだ」
「そそ、そういう問題じゃ……」
 たじろぐ。……く、何をこんなことで頭が熱くなってるんだ俺は。イリヤは俺をからかってるだけじゃないか。
 と、イリヤは冗談ぽい小悪魔的な笑みを解いて、ふっと静かに唇を反らして、優しく笑う。
「……ふふ。冗談よ。でも、さっきのは本当に嬉しかったよ」
 吐息を交えて、俺の胸元で語り掛ける。背中に回る華奢な腕が、しっかりと俺を捕らえて離さない。それは勢い余って俺を殺してしまいかねないほど、強くて無邪気な束縛。
 そして歌を口ずさむ。小さく、俺にしか届かないほどにか細い声で。
 ローレライを歌う。
 仕方ないから、しばらくその体勢で空を仰いだ。
 ――月が昇り、空の色は反転する。
 白い少女は妄執を捨てここに残り、青い少女は誓いを胸にここを去った。
 そのどちらも間違いではない。
 ただ少し、懐かしいと思うことはあるけれども。



5.



 ――いつもと同じ朝が来る。
 間桐桜は、久しぶりに土蔵へ向かう。それというのも、最近の衛宮士郎は土蔵で朝を迎えることが少なくなったのだ。桜が衛宮邸の門をくぐった時には、待ち構えたように台所に立っている。その対抗心から桜がどれだけ早く来ても、これまで桜に起こされた分を取り返すかのように、彼女の先手を取って台所に待機している。
 これでは、桜が味わっていた役得――ではなく、日課が無くなってしまったようで、少し寂しく思っていた。だが、今日。
 およそ一ヶ月ぶりに、士郎の姿が彼の布団にないことを桜は確認した。すぐさま踵を返して中庭へ降り、サンダル履きのまま土蔵へ歩き出した。少し早足で、先輩を起こすまでのわずかな時間を楽しむように。
 扉は閉まっていた。そっと手を掛ける。
 ――ぎぃ、と重厚な音と共に、日の光が暗闇を浸食する。埃っぽいのはいつものことだが、人が活動している空間特有の臭いはする。ただ、今は土蔵の主は居ないようだった。
 桜は一歩踏み入って、さして広くない蔵の中を見回す。一応、ガラクタの隙間なども確認してみたが、士郎らしき人影は存在しない。
「――あれ?」
 不意に疑問の声が上がる。これは、桜の士郎行動予測パターンにはない。彼が今の今まで、桜の訪問時に台所か土蔵かもしくは彼自身の部屋にいなかったことが、果たしてあっただろうか――。
 ともかく探索は続けなければならない。寝惚けて服を着たままお風呂に入っているのかもしれないし、屋根に上ってニワトリの真似事をしているのかも知れない。あるいは、トイレにはまって身動きが取れなくなっているのかも……。
「て、そんな訳ないじゃない」
 妄想を振り払う。先輩はそんなドジを踏む人じゃない。気を取り直して、士郎が居そうな場所を検索する。
 ――土蔵を出て、眩しい日差しに目を細める。良すぎる天気というのも考えものだ。もっとも、梅雨時に入ればそんなことは言っていられなくなるのだが。
 と、視界の隅に道場が映った。
「――先輩?」
 確信めいたものを感じて、桜は真っすぐ道場へ向かう。何故かは知らないが、衛宮士郎はあの場所にいると、桜の普段使われていない箇所が告げている。第六感とでも言うべきか。
 最短距離でそこに向かう途中、不思議と心は平静を保っていた。先輩に会えるという期待でもなく、予測を裏切られたことへの嫉妬でもなく。きっと、衛宮士郎は自分とは関係のないところで何かが変わって、だから土蔵ではなく道場なんかに居るのだと、例の第六感が叫んでいた。
 ――つまり、寂しい。先輩を変えたのが自分じゃないことが、もうたまらなく。
 不遇な想いを抱えたままで、道場に近付く。少しだけ隙間の空いた引き戸の前、深呼吸をするのも忘れて戸を開ける。その後で、もうちょっと余裕を持っていれば良かったのにと自嘲した。
「せ――」
 士郎は確かにそこにいた。眠りの中ではなく、既に覚醒した状態で道場に居る。
 桜が言葉を失ったのは別の理由からだった。士郎が何か変なことをしていた訳ではない。
 彼は禅を組んでいるだけだった。窓から差す光を遮ろうともせず、目を閉じて、静謐な空気の中に漂いながら座っている。
 ただそれだけの姿が、何故だかとても綺麗に見えて――。
「――さくら、か?」
 士郎に先手を取られてしまった。
「あ、先輩……おは、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
 笑顔で答え、足を崩す。途端、道場内に漂っていた空気が解れて薄くなる。
 桜は、素直な疑問を口にした。
「先輩、ここで何を……?」
「……ん、ちょっと精神統一、というか。最近だらけてるなあと思って」
「そんなこと、ありませんよ。部活もアルバイトも、一生懸命やってるじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどさ」
 言いよどむ。どうもはっきりしない応えに、桜も釈然としない表情で返す。
 気まずい空気を先に崩したのは、士郎だった。
「――なんか、済まなかったな。いつもと違うところに居て、紛らわしかっただろ」
「え? ……あ、いえ、そんなことありません。ただ――」
 先輩の寝顔を見れなかったのが残念かな、とは言えない。お互い、あまりにも恥ずかしすぎる。
 けれど、桜の語尾が気になる士郎は追随をやめはしない。こういうとき、彼の鈍感さがひどく恨めしい。
「ただ?」
 ぐっ、と顔を近付けてくる。異性を感じるような超近距離でもないのだが、桜は急激な接近に脳の回線が一時ショートした。矢継ぎ早に話を展開する。
「と、とにかく! 朝ごはんの準備はわたしがしておきますから、先輩はあのちょっと落ち着いてから席についてください!」
「充分に落ち着いてるつもりなんだが……」
 士郎の釈明は聞かず、草食動物の如き俊敏さで道場から逃げ去る桜。訳がわからずに立ち尽くす士郎は、慌てふためく桜の背中を見て、少し表情を緩めた。
「もう、朝なんだな」
 ぽつりと、誰もいない道場の中で独り呟く。一日を早く感じる。それだけ充実した日々を過ごせているということなのだろう。
 士郎は居間に行こうとして、桜の言うとおりに少し心を落ち着かせることにした。動揺も絶望もしていないけれど、この冷静を装っている心臓の深いところまで抉りこむように、自分を掘り下げていく。そのための座禅であり、精神統一だった。
 再び、日の光でほのかな熱を帯びてきた床に膝を下ろす。
 禅を組み、瞳を閉じる。深く、深く、自分の中に潜水する。
 今の自分と同じことを、あの少女も行っていた。少女が垣間見たような境地に、衛宮士郎は立てているだろうか。立てなくてもいい、近付けなくてもいい――その境地を、ほんの一瞬でいいから見ることが出来さえすれば。
 ――きっとそこに、あの少女の背中があるに違いないから。
 そう信じて、士郎は心を閉じた。



6.



 藤ねえと桜は朝練だから早めに学校へ向かう。俺は少し遅れて家を出る。同じ弓道部なのに朝練に行かない理由は、一日のペース配分を考えているからである。今日は放課後にバイトが入っているため、朝からそう活発に動けない。
 弓道のような疾走や跳躍を必要としない競技でも身体は使う。俺の場合、筋力よりイメージを編むための精神力を多く必要とする。精神力も酷使すれば疲れがたまる。魔術と似たような理論で弓を引いているのだから、消耗して当然だ。
「――ふあ……」
 欠伸が出た。今になって、ようやく澄み切った空を眺める。
 右から左まで果てのない青が、視界全体を覆う。雲ひとつない空は、爽快だけれども何か物足りない感じがする。
 考え事はせず、学校までの道程を歩く。無心になることには慣れた。そうなる術を覚えれば、実行するのはわりと簡単だった。
 交差点に辿り付く。人通りが絶えないその分岐点の向こう側から、見知った赤い影が見えた。
 ……いや、正確には赤くなどないのだが。つい彼女を見るとあの赤を思い出してしまう。
「――あ、遠坂」
 呟く。その声が聞こえた訳でもないだろうが、遠坂は若干足を速めて俺に歩み寄ってきた。しかしその表情はどこか不満げだ。
 立ち止まって動かない俺に向けて、あたりさわりのない挨拶を投げる遠坂。人の目もあるから、あからさまに馴れ馴れしくするのもどうかという優等生なりの配慮だろう。もしくは魔術師ゆえの打算か。それを隠しきれていないあたり遠坂らしいけど。
「おはよう衛宮くん。わたしの顔を見るなり一時停止してくれて、交通課の人も道路標識を守ってくれて喜ばしいと思っているわよ。きっと」
「……よくわからないけど、おはよう。遠坂」
 無難に返事をする。赤い少女はどうも俺の返答に納得がいなかったようだが、すぐに表情を切り替えて、学校へと続く坂道を俺より先に進んでいく。
「あ、遠坂」
「早く行かないと遅れるわよ」
 振り向かずに坂を上る。俺も少し遅れてついていく。
 いつもと変わらずに過ぎる日常においても、あの日のことを思い出すことはある。その時間はもう二度と取り返すことは出来ないんだけど、無ければ良かったなんて思えない。
 辛くても、懐かしくても、少しずつ削れて消えていくにしても。
 それでもなお、あの日の記憶は心に刻み込まれている。
 流れる血は消えても傷痕は消えない。永遠に、俺の証として残る。
 ――セイバー。
 あの少女もまた同じように、この憎たらしいほど青く澄んだ空を眺めているのだろうか。だとしたら、それはどんなに――。
「士郎! ……じゃなかった、衛宮くん! ぼーっとしてると電柱にあたま打ち付けるわよ!」
「わ――わかったらそんな大きな声出すなよ……!」
 小声で抗議しながら、腕を組んで踏ん反り返り俺を見据える赤いあくまの相貌に相対する。上ばかり見ている俺を不甲斐ないと思ったのか。それなら一人で先に行けばいいものを、優等生の羊の皮が剥がれる覚悟で俺を叱咤するとは。
 遠坂は、俺なんかよりよっぽど強い。人生を最大限に謳歌している。その意味で、俺は彼女の足元にも及ばないだろう。
 それでも、俺は俺にしか出来ないことがあると知った。親父の出来なかった理想を果たす。
 その道を貫くだけの理由なら、誰にも負けていないと言い切れる。俺の中に有るものを必死に振りかざして目的地を目指す。それが痛みの伴う道だとしても、俺には駆け抜けなければならないだけの理由がある。
 いつかの誓い。親父と、あの青い少女に誓った理想を果たすために。
 汗ばむ陽気の中、慌てて坂を駆け上る。
 急ぎながら、でもたまに止まりながら。そんなときは空を見たりして。
 この空を、彼女も同じように眺めているとしたら、それはどんなに――。

「――――貴方を、愛している」

 どんなに懐かしいことなんだろう。
 どんなに、嬉しいことなんだろう。
 ――あぁ、坂の上の遠坂がこっちを睨んでいる。今は早く坂を上らないと。
 ごめん、俺は先に進まないといけない。
 だから、君を思い出すことが少なくなっても謝らない。これが最後。
 お互いに、あの別れは正しかったと信じているなら、そこに謝罪の言葉はいらない筈なのに。
 それでも済まないと謝るのは、やっぱり君が好きだからなんだと心の中で付け足して。
「いま行くから、怒鳴るのはやめてくれ……」
 赤いあくまが今か今かと待っている。今にも咆哮せんと佇んでいる。
 俺は、長く長く続く坂道を上り始めた。





−幕−








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2004年6月8日 藤村流継承者

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