あなたの膝で眠りたい/ユメオチ
その日は雪が降っていた。このあたりでは珍しく、かなり積もるだろうと思わせるほどに深々と落ちてくる。
自分はただそれを眺めているだけで、子どものように外を走り回ったりはしない。
最近はごたごたしていて疲れが溜まっているのもそうだし、何より今の自分は身動きが取れない状態にある。
溜息を吐こうと思ったが、それを気取られることを恐れて息を殺す。ソファに腰掛ける自分の膝で丸くなっている、その黒猫のために。
「……こたつがあれば、そこで丸くなれるんだろうけど」
代わりに、諦めの言葉を吐いた。幸い彼女が目覚める気配はない。
朝が遅い自分は、翡翠に起こされない限りどこまでも寝続けてしまう。しかし、たとえ休日でも午前中を寝潰すのはどうも時間の無駄遣いのような気がして、八時には翡翠に起こしてもらっている。もっとも、翡翠が言うには彼女が俺を起こそうとしても、なかなか目覚めてはくれないらしいのだが。
起きたら起きたで、いつまで寝ているつもりですかと秋葉に責められ、寝惚け眼で返答すれば話を聞いているのかと叱られる。だって仕方ないじゃないか、外は雪だし、寒ければ寒いほどにベッドは恋しい。
『――兄さんは、私よりもベッドの方が大事だって言うんですか!』
そんな言い訳をしたものなら、飲みかけのカップをテーブルに叩きつけて怒鳴り散らす始末。なんというか、そっちの方が無作法な気もするけど、それを言うと説教が長引くので自重する。
何はともあれ、毎朝の行事みたいなやり取りが終わり、朝食を済ませば後はもうやることがない。時間の無駄遣いを嫌がってはいても、時間の使い方がよく分からないのだから秋葉に馬鹿にされるのも仕方がないというものだ。
秋葉は自分の部屋で何やら学校の課題をしている模様。琥珀さんは昼食で凝った料理を作るらしく台所に篭りっきりだし、翡翠は相変わらず掃除三昧だ。そんな中、遠野家の長男であるはずの俺は、ひとりダイニングで猫と戯れているんだから世の中というのは不思議である。積極的に働きたい訳ではないが、周りの誰もが忙しなく動いているときに自分だけが暇を持て余していると、たとえようのない罪悪感に囚われてしまう。
だがしかし、今日だけはここでじっとしているのも悪くないと思う。
膝の上に小さな温もりを感じられる今なら、暇を潰すのもひとつの娯楽であると素直に思えるから。
「レンって、普段は滅多に触らしてもくれないのにな」
知らず、笑みがこぼれる。
一定の温度に保たれた部屋でも、何もしていなければ指の先端はかじかんでしまう。やや痺れの残る指でそっと、黒猫の背をリボンの掛けられた首から順になぞる。淑やかな毛並みに出来た細い道の先に、眠りながらも時折り揺らめいている尻尾が見えた。
しばらく尻尾の手前で膠着した指先に、呼吸する黒猫の動悸が伝わってくる。穏やかな振動は彼女が正しく生きていることを教えてくれる。それだけで、訳もなく安堵してしまう自分に驚いた。
――レンは、使い魔である。
正確には猫を媒体にした魔術生物であり、夢魔というカテゴリーに属する。何でも夢を見せて生気を奪い取るとかいう話だが、詳しいことはよく分からない。ただ、レンがこの夏までとても危い状態にあったこと、そして図らずもその危機を救ったのが自分ということだけは知っている。
だから、こうして何事も無かったかのように夢に落ちている黒猫を見ると安心する。夢を操る者が、夢に落ちるというのも変な話だけれど、それはそれで幸せなことなんだろう。
「……あら、こんなところにいらっしゃったんですか。レンさん」
その呼びかけに振り向くと、割烹着姿の琥珀さんがトレイを携えていた。おそらくは、レンのためにミルクを持ってきたというところだろう。それにしても、相変わらず足音と気配を消すのが上手い人だ。いつキッチンから出て来たのか全く分からなかった。
彼女は俺の膝で眠るレンを確認すると、テーブルにトレイと皿に盛られた温かいミルクを置く。
「よく眠ってますね」
「えぇ、珍しいことですけど」
「きっと、志貴さんだからですよ。わたしにも懐いてくれますけど、それはごはんをあげるときだけですから」
ちょっと羨ましいです、と言って琥珀さんは笑った。いつもと同じ優しい笑みだったけれど、そのときは何故か寂しそうに見えた。
琥珀さんが再びキッチンに舞い戻った後、俺はどうやってレンを起こすべきなのか考えていた。こう、本当に気持ちよく眠っていると、その眠りを妨げるのも悪い気がしてくる。かといって、このまま延々と待ち続ける訳にもいくまい。ミルクは温かいうちに飲ますのが良いと琥珀さんも言っていたことだし。
最終的に、俺は身体を動かさないようにトレイを手に取り、ミルクの入った受け皿を鼻の前でちらつかせることにした。眠気より食い気、という論理がアルクェイド以外にも通用するのかは不明だが、アルクェイドも猫っぽいところがあるからあながち的外れな戦法でもないだろう。
立ち上る芳しい湯気に、思わず自分も鼻をひくつかせる。元はただの牛乳なのに、熱するだけでこうも異なる印象を与えるのか。何か一手間加えてあるのかもしれないが、料理不精の自分には見当すら付かなかった。
やがて、自分と同じように鼻をぴくぴくさせていた黒猫が、殻を破るようにゆっくりと目蓋をこじ開けていく。
眼前にさらされたミルクと、足元に感じる温もり、加えて自分を見下ろしている両の目に気付いたとき、彼女は一体何を思っただろう。人間であり、女性でもない俺には理解が及ばない領域ではあるが、少なくとも酷く驚いてるということは分かった。
――表情のない顔が、そのとき確かに驚愕で歪んだ。
爪を立てるや否や、温もりを引き剥がすように膝から遁走する。その行方を追えるだけの反射が出来なかった俺には、かろうじてミルクを零さないようにするのが精一杯だった。
「……とっ!」
傾く水面をどうにか地面と平行に保ち、腰を浮かせたり両手で押さえたりしながらどうにかテーブルに据える。
ふぅ、と息を付かせる間もなく、小さな視線を背中に感じる。
「いや、別に怒ってる訳じゃないから」
締め切られた扉の傍に、ちょこんと座っている黒猫を宥める。
猫と人間は話が通じない。しかし、この娘が使い魔であることを差し引いても、猫は人間の表情や声質から感情を読み取れる。だから、良いことをしても悪いことを仕出かしても、ちゃんと真摯に語りかけてやれば何かしら伝わるものがあるんだと思う。
かといって、相手が必ずしもそれに応じてくれるとは限らない訳だが。
それでも彼女が腰を上げ、ミルクが置いてあるテーブルに擦り寄ってきたところを見ると、やっぱり感慨深いものがある。尤も、単に食い意地が張っているだけと考えられなくもないが、そこはあえて考えない方がいいだろう。
「早く飲まないと冷めちゃうからな」
皿を床に置いて、黒猫が行儀良くミルクを舐めている様子を眺めながら、独り言が多くなったなと益体もないことを考える。自分としてはレンと会話しているだけなのだが、傍から見れば猫しか友達のいない寂しい奴なのかもしれない。殊更に寂しいとも感じない自分としてはその評価はかなり心外なのだが、同性の友人が有彦ぐらいしか思い当たらないことを考えれば、無理もない話かもしれなかった。
そんな俺の疲れた顔を見てか、レンの瞳が俺を捉える。
「……友達、ていうのとも違うしな。レンは」
主従関係でもなければ、恋人などとは言えない。何かしらの縁はあるにしろ、それは言葉にすれば詰まらない現象に成り下がるような気がした。自分とレンの関係は、形に出来ないような淡い繋がりで構わない。か細い線であれ、その糸が繋がっていることを俺たちは知っているから。
ぴちゃぴちゃ、という食事の音を聞きながら、空を埋め尽くす白い雪をガラス越しに眺める。
外はさぞ寒いことだろう、アルクェイドも家の中で丸くなっているだろうか。
黒猫は雪の中できっと美しく栄えるに違いない、けれどもレンはそれを望まないだろうとも思った。誰だって凍えそうなくらい寒い場所には居たくない。
在り来たりな想像を巡らすうちに、今度は自分の目蓋が少しずつ落ちていくのを感じる。
これはもしかしてレンが見せてくれる夢なのかな。自分には確認する術がないし、レンは初めから何も言わない。
だけど、もしかしたら。
――膝の上で見た夢があまりにも気持ちよかったから。
そのお礼に、俺にも同じような夢を見せてあげたいと。彼女が思ってくれたのであれば、それはなんて綺麗なんだろう。多分、俺の自分勝手な想像でしかないのだけど、そう思わせてくれるだけの純粋さがレンにはあった。
「……おすやみ」
いつ眠りに落ちるか分からないから、とりあえずそれだけは言っておくことにした。
ぴちゃぴちゃ、という音が少しだけ途切れて、黒猫が視界の端で首を傾げたように見えた。
もしかして彼女もおやすみなさいと言ったのかな、とか都合の良い妄想を抱いたのを最後に、俺の意識は深い闇の中に消えていった。
どこまでも深く、けれどもレンと同じ色をした闇の中は、やっぱりどこか優しい匂いがした。
−幕−
SS
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