ひとにやさしく。
桜が咲いた。
一年が過ぎ、今のわたしは暇を持て余している。
士郎もいないし、仲良くなったセイバーちゃんもいない。桜ちゃんは、今もまだ士郎の家にいる。
きっと、ずっと待っているんだろう。
士郎のことを。
わたしは、そこまで待ち続けることが出来なかったから、もうひとつの自分の家で暮らしている。
たまに士郎の家に行って、桜ちゃんがごはんを食べてるか、引きこもっていないか確認する。
学校にも来れるようになった。でも、以前と同じような覇気を取り戻すことは、卒業するまでなかった。
改めて、士郎がどれだけ桜ちゃんの支えになっていたか、思い知らされた。
わたしでは無理だった。士郎じゃなきゃ、桜ちゃんは寄りかかってくれない。自分のことを、自分だけで抱え込もうとしている。
――士郎も同じだった。だから惹かれあったのかもしれない。
でも、今はひとりだけ。支えになる片翼を失って、ゆっくりと、でも確実に落ちていく。
そんな偏った飛び方だけど、それでも桜ちゃんは前に進んでいられる。
だから――早く来てあげてよ。
士郎――
断ち切れないのはわたしも同じ。
だけど、わたしは解ってしまっている。大人のずるさか、そうした方が楽なのだろうけど、信じていたいと思ってるのに。
士郎が必ず帰って来ると。
『ただいま』なんて言って、『待たせてごめん』とか気の利かない台詞なんか言ったりして……。
「……なによ。帰って来るって言ったじゃない」
嘘つき。わたしも、士郎も、桜ちゃんもみんなみんな嘘つきだ。
果たせない約束なんかするんじゃない。残された人の気持ちを少しでも考えたことがあるのか、あの莫迦な弟は――。
今は、士郎の家にひとり。桜ちゃんは買い物に行っている。わたしはまだ弓道部の顧問をしているのに、今日だけはこんなところで項垂れている。
わたしらしくない。
わたしはいつでも元気に振舞ってなきゃいけない。つらいのはわたしだけじゃないんだ。それを言えば、桜ちゃんの方がずっと、
「――、っ。」
舌を噛む。染み出た血の味が、ひどくまずい。
……何を考えてるんだろう、わたしは。いつから同情なんて偉いことするような人間になったんだ。
この世でただひとり、桜ちゃんになにか偉そうなことを言えるのは士郎だけなのに。わたしに士郎の代わりなんて出来もしないのに。
頬をテーブルに押し付けて、そこから庭の景色を見るともなく眺めている。
――綺麗だった。
士郎が守りたかったものを、わたしたちはきちんを守ってこれただろうか。
一年前の事件に、士郎や桜ちゃん、遠坂さんが関わっていたのはなんとなく解った。みんな、わたしのことを思って黙っててくれたんだから、隠してたことは別にどうこう言う気はない。
士郎もきっと、なにか大切なものを守るために戦って、そして――
……でもね、士郎?
せめて、どこか遠くに行く前には、おねえちゃんに一言言っておいて欲しかったな。
それくらい、贅沢な望みじゃないと思うんだけど。
「――なに言ってるんだ。贅沢きわまりないじゃないか」
幻聴が聞こえる。待ち焦がれた士郎の声なのに、これが幻聴とすぐに解ってしまった。
……あぁ、これは昔に聞いたことのある台詞だ。呆れた顔で、年上のわたしを窘めるように言った言葉を思い出す。
わたしはその記憶を辿りながら、自分の台詞を重ねてみる。独り言を聞かれるような心配もないから、わたしはわたしという役を演じることにした。
「贅沢なんかじゃないわよ。ちゃんと大学に入って、立派な教師になって士郎をしごいてあげるんだから」
記憶の中にあるわたしは、テーブルを挟んで士郎と向かい合っていた。切嗣さんは上座で淡く微笑んでいる。今は寝転がったままでごめんなさい。
6年くらい前、小学校を出るか出ないかの小さい男の子は、鼻息を荒くしながらわたしに言った。
「それが無理だってんだ。藤ねえなんかに大学入れるだけの常識があるわけないだろ」
「む。士郎、わたしがどれだけ頭いいか知らないからそんなこと言えるのよ。 ……そーよねぇ、士郎の学年はまだ三角関数とかアヘン戦争とか習ってないもんねぇ。せいぜい平行四辺形とかアオミドロとかそのくらいでしょー?」
「う……っ! うるさいなっ! とにかく、大学落ちて留年でもしたら困るんだよ!」
「……なんで?」
「あ、いや……」
「それはね、士郎が大河ちゃんと遊べなくなるからだよ」
切嗣さんが口を挟む。士郎の顔が見る間に赤くなるのが解る。
……ふむ。この頃はわたしにちゃんと異性としての感情を持ってくれたんだね。できればもうちょっと長く持ち続けて欲しかったけど。
「おっおっ、おおやおやじ……っ!?」
「はは、いいじゃないか。大河ちゃんもまんざらじゃないって顔してるし」
「そんな顔してません!」
わたしもつい意地になる。士郎の気持ちも嬉しかったが、わたしの本当の気持ちは、あのとき切嗣さんに――。
……どこかで、回線が途切れた。
音が聞こえなくなる。風も鳥も虫もいないから、耳が痛くなるくらいの静寂。
士郎も、切嗣さんの姿なんてどこにもない。思い出の中にある虚像だから、仕方ないんだけど。
すぐ消えたことに納得している自分も、なんか嫌だった。もっと執着してもいいのに。わたしは、いつからこんなに見切りが早くなったんだろう。
わたしは、テーブルに突っ伏したまま動かない。士郎や切嗣さんの声が聞こえなくなっても、その姿が見えなくなっても、頭の中にその思い出はある。
思い出がカタチになって現実に現れるのは、たとえば現実と過去にバイパスみたいなものが、たまたま通った瞬間なんだと思う。
だから、こうしていればまた偶然にパスが通るかもしれないと思って、じっとしている。
……花びらが庭の石に落ちる。縁側にも何枚か舞い込んでくる。
桜ちゃんが生け始めた花も、部屋の中にたくさんある。でも、まだ花は咲いていない。
「……花見、したいなぁ」
ぼそっと言う。
でも、ひとりでやったって意味がない。本当は桜が見たいんじゃなくて、桜を見てみんなで楽しく騒ぎたいのに。
それをやるには、足りないものが多すぎる。
切嗣さんはもういないし、花より団子って感じのセイバーちゃんも、なによりご馳走を作ってくれるはずの士郎が――。
「料理ぐらい、自分で作ればいいのに」
かちんと来るぐらいに冷めた声。
また、パスが通ったんだ。
「藤ねえ、少しは自分で家事が出来るようにならないと、誰も嫁に貰ってくれないぞ」
うるさい。そう思うんなら、ちょっとは料理を教えてくれてもいいのに。台所に立たせてくれないのは士郎のせいじゃないか。
台所から、エプロンをかけた士郎が愚痴ってくる。これは桜ちゃんがこの家に通い始める前、中学を卒業するかしないかの頃。
ふと、将来は何になりたいとかそんな話になったんだっけ。
「教師になったからって、生徒から告白されるって決まった訳じゃないんだぞ」
「別にそんな理由で先生になりたかったんじゃないもん」
ふくれる。こういうとき、わたしはよく頬をふくらましてたけど、その度に士郎はやれやれみたいな顔になっていた。……やれやれって、なんなのよ。
教員免許を取って、この街で先生になる。それは、わりと昔から決めてたことだ。
ひとつの目標を達成したわたしは、士郎もなんか成りたい職業とかはないの? と訊いてみた。いつも言ってる『せいぎのみかた』は抜きで。それ、厳密には職業じゃないし。
士郎はわたしの追及をはぐらかして、ついにはわたしの不甲斐なさにまでつっこみを入れてきた。料理が出来ないだの、素行が粗暴すぎるだの、名前を呼ばれたくらいで怒りすぎだの……。
でも、わたしはちょっと嬉しかった。一応、わたしを心配してくれてるようにも取れたから。
都合のいい解釈だったとしても、別に構わなかった。少なくとも、そのときは。
「いざとなったら、士郎がお嫁に貰ってくれるから別にいいんだもーん」
「『だもーん』じゃねぇ。俺だって家事がやりたくて生きてる訳じゃないんだぞ。他にやってくれるようなスキルを持った人間がいないから、仕方なーくやってるんだ」
「……仕方なーくで、和食と洋食をほぼ完璧にマスターしたの?」
「う。……それはだな、やり始めるといろいろと拘りが出てくるというか、やるからには美味しいものを提供しなきゃならない義務みたいなものがあるというか……」
「好きなんでしょ?」
「好きじゃないっ」
意固地に否定する。そうはっきりと言われると、まるでわたしのことまで拒絶されてるみたいで気に食わない。
でも、いいんだ。士郎がどう思っていようと、士郎にエプロンは似合いすぎてる。
できれば、好きなことを好きだと素直に言えるような、素敵な男の子になってほしいんだけど。
士郎がそれを果たせたのかどうか、わたしには最後まで解らなかった。
……涙は出なかった。
自分でも悲しいのか懐かしいのか解んないから、仕方ないかも。悲しくないのに泣く必要なんかない。
顔を上げても誰もいない。そういえば、昼ごはんを食べていないような気がする。
……それとね、士郎?
わたしもちゃんとごはんを作れるようになったよ? この前みたいに、炊飯ジャーに洗剤入れるとかいうベタなことなんかしないで。
残念なのは、そうなると士郎がわたしと結婚してくれるこじ付けが無くなるってことかな。
面と向かって、わたしのことが女として好きなのか、それを聞くことは出来なかったから。
だから、冗談めかして呟くことしか出来なかったんだ。
わたしも納得してる。だから、後悔なんて、絶対にない。
本当に、ない。
冷蔵庫に入っていたチャーハンが温まるまでの間、ふらふらと土蔵の方まで歩いてみた。
そこは士郎の部屋で、遊び場だった。で、わたしがたびたび持ってきた機械やら何やらを保管していた場所でもある。
士郎は、何かを捨てられない性格だった。少しでも、たとえほんの少しでも直せるような可能性があるなら、どうにか直してしまおうとする性分だった。
もしかして、捨てられないっていうのは、切り捨てる何かを選べないってことだったのかもしれない。
わたしには、それの意味するところは解らないけど。
そのことで、士郎も、そしてたぶん切嗣さんも、きっと辛い思いをしたんだろうと。
唐突に、そう思ってしまった。
「――っぷ。ホコリっぽ……」
無理もない。あれからほとんど手を付けてなかった場所のひとつだから。
いつか、士郎が帰ってきたときに文句を言われないようにと、あのときのまま保護していた空間。
ちょくちょく掃除をしては脆い箇所を補強してはいるが、埃だけはどうしても溜まってしまう。そのせいで、ここに居るべき人がいないってことを、再認識してしまう。
「……別に、することもないんだけどね」
けほ、と咳をしながら周りを見渡す。長い間、士郎がその目に焼き付けていた景色を、自分の目に刻み付ける。
どこから取ってきたか知らない鉄パイプとか。ビデオデッキやストーブはわたしが不慮の事故で壊してしまったもので、ポスターはずっと前にあげたものだけど、なんでここに破けたまま置いてあるんだろう。
足元にあった手ぬぐいを拾い、これで士郎が汗を拭ったのかと思ってちょっと変な気分になる。
「……やだな。わたし、そういう趣味はないはずなんだけど」
でも、こんなにも士郎がいた証拠はあるのに。
胸の中が空っぽで、悲しいのは。
ここにこうして立っているだけじゃ、士郎がここにいたってこと、ここでいろんなことをやって、悩んで、生きてきたっていう温もりみたいなものがあるのか、それさえも解らないことで。
一年が長いか短いかは、人それぞれの感じ方だろうし、他人の杓子定規に当てはめられるものでもない。
でも、やっぱり長いと思う。少しずつ、忘れたくないのに削れていってしまう。士郎のこと、声や髪の毛や足取りや呼吸の仕方とか、触れたときの温かさだとか叱咤されたときの反抗心だとか――。
笑った顔や怒った顔、それと滅多に見られない、泣いたときの顔。
そのぜんぶが、ちょっとずつ角が取れて、やがてわたしの中から完全に無くなってしまうんだと。
そう思ってしまったら、ダメだった。
なんか、ぽろぽろとこぼれてくる。
……変なの。別に、いま出す必要なんてないのに。
こういうのは、士郎が帰ってきたときにめいっぱい出してやればいいんだから――。
「――なにしてるんだ、藤村さん」
どこかよそよそしい士郎の声は、扉の向こう側から響いてきた。
……いや、これは幻聴だから現実に響いてるんじゃなくて、わたしの耳に聞こえているだけの話。
だけど、今回はあまりにもタイミングが悪すぎた。なんか次から次へと溢れてくる涙の対処に忙しくて、思い出の士郎に向かって言い返すことが出来ない。
――その代わり、思い出の中にいるわたしがその返事をしてくれた。
「な……なにもしてないわよ。だいたい、あなたもこんな夜中になんでうろちょろしてるのよ」
これは、いつの記憶だろう。わたしも士郎のことを『あなた』なんて言ったり、真正面から士郎を見てないような感じがする。
「別に……」
……思い出した。士郎が切嗣さんの養子になって一年くらいした頃。出入り禁止になっていた土蔵に
士郎がちょくちょく行っているのを見て、あそこには何があるんだろうと思ったんだ。
「ここでなにしてるの?」
わたしの横を通り過ぎ、所定の位置に座る士郎。問い掛けても反応は無かった。
わたしがいるせいなのか、士郎はこっちに目も向けずに、ただぼんやり座っているだけ。現実のわたしは涙のせいで受け答えができないまま、思い出の2人をただ目で追って、耳で聞いているだけ。
「――ねぇ」
「だから、なんでも無いって」
そんなはずないのだが、士郎ははぐらかすだけだった。
その代わりに、士郎はわたしに聞いてきた。
「……藤村さん、どうして俺につっかかってくるんだ?」
「うん?」
そのときは、年端もいかないガキが余計なこと聞くんじゃない、とか思ったもんだ。聞かれたくないことを聞かれてついムキになるのは、今も昔も変わってない。
けど、このときの士郎の真摯な眼差しの、なんて可愛いこと。なんかもうなりふり構わず抱き締めちゃいたくなる。
「……ほら、俺が親父の隣りにいると、なんか知らないけど『どけっ』て睨んでくるじゃないか。あれ、何なんだよ」
子どもながら感性は鋭い。子どもだから、かもしれないけど。
あの頃は、士郎に切嗣さんが掠め取られたみたいで、嫉妬していたんだ。わたしだけじゃなくて、きっといろんな人に優しかった切嗣さんだから、みんなに愛されるのは解る。
でも、その中でもいちばん愛されてるのは、そして切嗣さんをいちばん愛してるのはわたしなんだって、わりと本気で思っていた。だから。
「……あなたのことが、気に入らないだけよ」
そんな、みっともない言葉を吐いてしまった。今なら本当の気持ちを言えたのに、喉がつかえて喋れない。
――でもこれは今のわたしの気持ち。あのときわたしが思って、吐き出した言葉は、間違いなくわたしの真実なんだから。
それを、今のわたしの我がままで否定しちゃいけない。
で、また、士郎も変に納得しちゃったみたいで、
「そっか。――でもさ、俺は藤村さんのこと、嫌いじゃないからな」
やたらすっきりした笑顔で、言ったこっちが後ろめたくなるようなことを、いともあっさり言ってのけた。
「………………」
今のわたしも昔もわたしも、固まって何も言えやしない。
なんで怒らないのか。
なんで笑うのか。
なんで嫌いと言われて簡単に納得できるのか。
なんで――
嫌いじゃない、なんて。
曖昧で思わせぶりなことを言ってくれやがったのか。この女たらしは――。
「な――なんで!?」
「っ――。大声出すなよ、親父起きちゃうだろ」
「うるさい! そもそもなんでそんなに冷静沈着なのよ! わたしはあんたが嫌いだって言ったのよ!? なのに、なんでさぁ――」
「――だって、藤村さんは俺の家族みたいなもんだからさ。嫌いになんかなれないだろ」
「な――え――?」
わたしの身体に衝撃がほとばしる。
どうして士郎はそんな優しい顔して笑えるんだろう。
ずっと不思議で仕方なかったけど、ようやく解った気がする。
「かぞ、く……? わたしが?」
「うん。これだけうちに押しかけといて、いまさら無関係なんて言わせないぞ」
あぁ、きっとそうなんだ。
『せいぎのみかた』になりたくて、でもどうしたらいいか解らなくて。
切嗣さんに預けられてからしばらくは、大火事の夢を見てうなされることもあって。
近所のいじめっこと戦っては、ぼろぼろになって帰ってきたりして。
でもその顔があまりに誇らしくて。怒ることは出来ても、そのやり方を否定することは出来なかった。
自分の行こうとしてる道が間違いなんかじゃないって、本気で信じ切ってるんだから。
そうやって自分のやり方を模索しながら、少しずつ『せいぎのみかた』に近付いていくんだ。
この、衛宮士郎という少年は。
誰にでも優しく出来るように。
守りたいものを、きちんと守っていけるように。
「そう――だね。いまさら赤の他人って言える訳ないし」
「だろ?」
「うん。そうなったらいつまでも『藤村さん』ってのじゃおかしいわね」
「――ん?」
なにか嫌な予感がしたのか、士郎の顔色が変わる。さすがは士郎、悪寒を察する能力には長けている。その能力を鍛えたのがわたしの素行だという説は、このさいうっちゃっておこう。
「どうせだから、気前よく『藤村おねえさま』とお呼びなさい。宝塚みたいに」
「やだよ。だいたいおねえさまってガラじゃないだろ」
「なにをー! この溢れ出る才気を感じ取れないのかあんたはー!」
「なんだよそれ……。じゃ、大河ねえさんでいい?」
「む……。それだと、なんか恋人みたいでやだ」
我ながら、その言い回しはどうだったんだろう。士郎のことが好きなのか嫌いなのか、思わせぶりな発言だ。
……どっちにしても士郎のあの言葉を聞いた後じゃ、嫌いになんかなれるはず無かったんだけど。
士郎は、どうも別のところで驚いてるみたいだった。
「あれ。名前で呼ばれたのに、怒らないんだ」
「なんで家族にそれぐらいで怒んないといけないのよ。別に馬鹿にされた訳じゃないからいいの。そこんとこ寛大なのわたしは!」
「結局怒るんじゃないか……。まぁいいや。それじゃな――」
「藤ねえ、てのはどう?」
困る。
そんなこと言われても、今のわたしは答えてあげることが出来ない。
士郎が見ているのは昔のわたしで、そのわたしはきっと『うんっ』て言う。
本当は、そんな在り来たりな呼び方じゃなくて、大河ねえちゃんでも良かったんだ。その方が、呼んでくれる人が少ない名前の方が、特別な気がするから。
でも、もう巻き戻しなんか利かなくて――。
ぜんまいが途切れた後の空っぽの背景を、わたしは項垂れながら見ることしか出来ない。
――どうして、こんなものを見せるんだろう。
始めのうちは、士郎に会えるんだなんて思って、少し嬉しくもあった。
けど、まだ士郎のことを断ち切れていないわたしは、こんなものを見ちゃいけなかったんだ。
切嗣さんのように完全に無くしたって解ってしまえば、アルバムをめくるみたいに過ぎたことを懐かしく思えるのに。喧嘩したことも遊び回ったことも、楽しかったんだって笑えるのに。
「…………っ………………」
ダメだ。こんなんじゃダメだ。
立ち上がらなきゃ。わたしだけは笑っていなきゃ。
こんな下を向いて、床にへばりついてるだけじゃ何にもならないって解ってるのに…………!
「……ほんとに、女泣かせなんだから……」
負け惜しみ。果たせなかった告白の言い訳。
――後悔してる。もうどうしようもなく。
ああすればよかった、こうしてあげればよかったって、頭のてっぺんから爪先まで、自責の念が駆けずり回っている。
でも、巻き戻せないんだ。
それも認めないといけない。認めたくないけど。ほんとは。
こんなわたしだから、振り切るにはまだ早い。わたしは弱いから、そんなことが出来るかどうかも解らない。
だけど、いつかは。
埃のついたスカートを払って、土蔵を出る。
チャーハンをレンジに入れっぱなしだったことに、ようやく気付いた。それと同時にあなかが鳴って、空腹を素直にアピールしてくれる。
……良かった。気分はこんなでも身体はちゃんと機能してる。
逞しいのか、ひとに言わせれば神経が図太いとでもいうのか。そのどっちだとしても、生きてるってことを実感できるんだから、正直嬉しかった。
「――さて」
サンダルを脱いで縁側に上がる。
振り向いた後には何もなく。
居間にも台所にも誰もいない。
まぶたをこすりながら、チャーハンを取り出す。ひとりだけのごはんは寂しいから、そうするのを意図的に避けていた気がする。
でも、これからこういう食事も増える。寂しいことに慣れるのはいやだけど。
かちゃかちゃと乾いた音が響く。テレビでも点ければ気が紛れるんだろうけど、暗い気分のときは暗い気分に浸りたいというか……、でもこれって失恋したときの対処法じゃなかったっけ。あんまりわたしのガラじゃないのかなぁ――
がらがら。
「ただいま、帰りました」
桜ちゃんが帰ってきた。
お皿を片付けて玄関に迎えに行く。
「お帰りなさい、桜ちゃん」
「はい。藤村先生」
買い物袋を受け取る。その表情に翳りはないけれど、生気もあまり感じられない。
滑るように廊下を過ぎていく背中に、わたしは思わず声を掛けてしまった。
「あの、桜ちゃん……?」
「はい」
力なく生きているその顔は、どこか痛々しくて。見ている方が何も言えなくなる。
なにかに縛られてるから、こんなに元気のない顔をしてるんだろうか。
……解らない。わたしはそんな顔したことないから解らない。
もし、縛っているのかバカな弟だとしたら、いつか絶対ぶん殴ってやる。
――でも、桜ちゃんがまだちゃんと立っていられるのが、甲斐性なしの弟がいたからだとしたら。
「ね、士郎は桜ちゃんに優しかった?」
聞いちゃいけないことかもしれない。士郎のことを話題に出さなければ、無為に桜ちゃんを傷付けることはないのかもしれない。
――けど。
「――はい。とても」
桜ちゃんが嬉しそうに笑ったから。
士郎がやったことは、バカだったかもしれないけど、決して間違いじゃないって思えた。
「そっか」
桜ちゃんの背中を押して、居間へと促す。
今日はわたしが腕によりをかけてごはんを作ってあげよう。
たぶんそれぐらいしか、わたしに出来ることはないだろうから。
問題は、和食最強の実力を持つ桜ちゃんを、料理を覚えて一年のわたしこどきに、唸らせることができるかってことぐらい。
……む、けっこう困難きわまりないかもしんない。でも諦めない。千里の道も一歩から。
やる前から諦めるのはガラじゃない。出来ないからって、簡単に投げ捨てるのはつまんないじゃんか。
「よし! 今日の夕食はわたしに任せてといて! 美味しくて栄養のつくもの食べさせてあげるから!」
「え――そんな、迷惑をかける訳には――」
「いいのいいの。そんな細かいこと気にしなくても。だって、桜ちゃんは――」
士郎。
わたし、ちゃんとやってるから。
桜ちゃんも元気でいるから。
あなたのやったことが、きっと誇れるものであったことを。
わたしも桜ちゃんも、みんな知ってるから。
あなたは、ゆっくりと休んでなさい。
これはおねえちゃんからの通告。がんばりすぎなあなたへの、めいっぱい怒りをこめた優しさ。
わたしがそっちに行くまで、じっとしてないとダメなんだからね。
絶対に言いつけを守ることっ。
……なんでかって?
だって、士郎は。
「わたしの家族なんだから」
−幕−
SS
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