カレーと彼女の事情(甘口)
「遠野くん、わたしは思うんです」
「はい」
シエル先輩がカレーをすくいながら言う。
俺もナプキン越しにカレーパンを掴みつつ答える。
ここはメシアン。カレー初心者からカレー狂に至るまで、(無駄に)幅広い層の顧客を有するカレーのスィートスポット。
……あれ、この英語ってこの使い方で良かったっけ。
まあ、後で先輩に聞いてみよう。
「わたしが……その、カレーという食べものを愛してやまないことは、重々承知していると思います」
「……それは、俺が、という意味ですか? それとも、先輩自身が?」
一見、重苦しい雰囲気の漂っている会話であるが、先輩が手にしたスプーンを止めないように、俺もまた手に取ったカレーパンを口に運ぶ。
その香ばしくも鮮烈な香りを堪能し、ゆっくりと噛み締める。
徐々に広がっていく刺激、しかしそれは数瞬後に訪れる極楽へのほんの序幕に過ぎない。
――うん、やっぱりおいしい。
なんていうか、いろいろ難しいこと考えても旨いものは旨い。俺は自分の表現能力の限界を悟った。
ふと見れば、先輩はトんでいた。
……いや、どこにと言われても困るけど。だいたい、極楽って西にあるらしいから、多分そっちじゃないかと。
なんとなく弁明している最中に、先輩は幽体離脱から帰ってくるように突然話を再開する。
「両方の意味です。要するに、わたし=カレーという方程式が、フレミングの左手のごとく知れ渡っているということこそが問題なんですよ遠野くん」
「はあ」
果てしなく今更な話題だったが、口調がいつになく真剣だったのでとりあえず生返事でも返しておくことにする。
先輩は、たまに自分の存在意義がカレーにしかないのではないかと本気で悩むことがある。
失礼な話、俺でさえも気が付いたら『あ、カレーせんぱ……』と声を掛けてしまいそうになるのだから、都市伝説というのは恐るべきものである。
というか、タタリなんじゃないかと真面目に思ったりもした。
でもまあ、シエル先輩がカレー好きでも俺は別に先輩を軽蔑したりしないし、こうしてカレーを奢ってもくれるし、何よりメシアンの売り上げに物凄く貢献しているし――その反面、ここの店長と何がしかの確執が生じていることはさておき――、悪いことばかりでもない。
確かに、アルクェイドがそのことでシエル先輩を茶化すのは問題だけど。
「いい加減、ここらで何か手を打っておいた方がいいと思うんですよ。実際問題、わたしのアパートにも『弟子にしてください』とかいう東南アジア系の方々が結構来てますから……」
「マジっすか」
「マジですよ」
はぅ、と先輩はシナモンの香り漂う溜息を吐く。
「でも、カレー断ちするのは冒涜ですし……」
そうなの? とつっこみたかったが、先輩はあくまで真剣らしいのでカレーパンを静かに頬張る。
「かといって、肌が黄色くなり始めたらそれはそれで問題ですし……」
いや、俺たち黄色人種だから。
言おうと思って、そういや先輩ってフランス出身だから肌は白っぽいじゃん、と自己完結した。再びハムスターのごとくパンを咀嚼する健気な俺。
実はあんまり意見を求められないので、かなり暇なのだった。
先輩ばっかり喋っているように見えても、いつの間にか先輩の前に置かれたカレーの中身はコンスタントに減っているから驚きである。
なんとなく、アキラちゃんが言っていたことを思い出す。
『――あの人、将来は世界を飛び回って貧困層にカレーパンを配り回ります――』
次期カレーパンマンの座は揺るぎない。空も飛ぶしね。
一足早く、おめでとうと言ってあげたい。言ったら怒るから言わないけど。
……本当は嬉しいはずなのに。
「恋人はカレーパンマン、か……」
すごく微妙だった。
いきなり小難しい顔になった俺を不審に思ってか、先輩がスプーンを止める。
「? どうしましたか?」
「あ、いえ…………そうだ、先輩」
「何でしょうか遠野くん。何か妙案でも?」
「いや、そういうのじゃないんだけど……」
どう言っていいものやら。
辛さの残る口の中をもごもご動かしながら、都合のいい言葉を考える。
でも、結局は言いたいことを素直に言うしかないのだった。
自分の思っていることを、先輩にどうして欲しいのかを、正々堂々と。
「先輩は、先輩のままでもいいと思いますよ。カレーが好きなことも含めて、俺はシエル……先輩のことが、好きだから」
「――――」
「こうして向かい合って食事が出来るのも、本当に楽しいんだ。……と、その、口から火が出るっていうのは、恥ずかしい時にも当てはまるんですかね……」
自分でも真っ赤になってるのが分かる。まして、ここは先輩の家じゃなくて見ず知らずの他人が集まった店の中なのだ。無論、俺の告白が誰かに聞かれていない保証なんてどこにもない。
だけど。
言いたいことは言ってしまおう、という判断は間違ってないと思う。
「――――ぁ」
「はは、でも、気にしないでください。先輩がカレーをやめたいって言うなら、俺は力になりますよ」
「――そ、そんなことないじゃないですか。嫌ですねぇ遠野くんは」
ははは、と空回り気味の笑いをこぼす先輩も相当顔が赤い。
何事も無かったかのようにカレーに手を付けても、それが口に届く前に何度もこっちを見てくる。俺も見られていることを知りながら、あえて気付かないふりをしてカレーパンを食べ続ける。
……ていうか、パンばっかり食いすぎだな俺。喉がぱさぱさだ。
曖昧に途切れた会話の間を埋めるように、手元の水を飲み干していく。
と――。
「それです!」
先輩が叫ぶ。
思わず口の中身を丸ごとリバースしそうになったが、先輩とかカレーとかあるのでなんとか自制。
その分、鼻の中に水分が逆流してしまったが、被害は最小限に留められた……と、思う。
その原因たる先輩は、青い眼をこれでもかと輝かせながら右の拳を握り締めている。
……ちょっと怖い。
「せ、せんぱい……?」
「そう、それなんですよ遠野くん! 灯台下暗しとはよく言ったものです……全く、視野狭窄も甚だしいですね。これほどまでに俗世に浸っていたとは、まあそれだけ楽しいのは事実なのですが……」
ぶつぶつと呟く姿は、ここが民間の食堂であることなど一切考慮していないくらい不気味だった。それは文章が支離滅裂なところからも推測できる。
うーん、こういうところがなければ、もっと素直に好きだとか言えるかもしれないのに。
少し残念ではあるが、これからの楽しみでもある。
そう思って、俺は再度カレーパンに挑戦した。
「――要は相手にわたしがカレーを食べていると思わせなければいい訳です。そのために必要なのは、カレーそのものを忌避することではなく、カレー以外のものを食べていると錯覚させること。すなわち擬態ですね。いい言葉です、今度セブンにも刻んでおきましょう。
さて、ここで必要なるのは何でしょうか。……簡単です。カレーとカップ、それだけなんです。
その名もカレージュース。……別にここはヘンな顔するところじゃないですよ遠野くん。わたしはあり得る可能性のひとつを述べているだけですから。これが実現するもしないも、この国の科学力に掛かっている訳ですが……。ところで遠野くん、お知り合いに科学を嗜まれる方はいらっしゃいますか?」
―幕―
・今更な話ですが、ちゃんとした月姫SSはこれが2作目なので大目にみてください……。
まあ、カレーの灰汁をちゃんと抜いたような苦味のない話です。
SS
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