冷たいなあ、と思った。
九月に入れば寒くもなるだろう。半袖で頑張るのもそろそろ限界が近い。冬服を引っ張り出すのが面倒くさいとはいえ、小学生みたいにずっと半袖でいる訳にもいかない。それに、長袖だけなら桜が気を利かして箪笥の奥から引っ張り出してくれている。後は、自分がそれを整理するだけだ。
しかし、どうしてかその気が起きない。何故だろう。
ぼんやりと、空を見た。そこにあるのは月と空と星と風とわずかばかりの雲。こうしてじっくり月を見るのは五年ぶりか。親父との月見から、五年。
縁側に腰を落ち着け、足を投げ出して、冷たい夜風に晒されている。藤ねえに風邪ひくよーと言われたけれど、俺が生返事を繰り返すだけなのでため息まじりに帰っていった。桜はお風呂に入っているのだろうか。
彼女は俺の家に泊まることが多くなった。それも仕方ない。彼女の帰るべきだった場所には、もう誰もいないのだから。
桜にとって掛け替えのない家族であったはずの兄、慎二を躊躇いもなく奪っていった少女もまた頻繁に顔を見せる。慎二が姿を消して意気消沈している桜を励ましたのも、その白い少女だった。
罪悪感と、後悔があった。それは誰も同じこと。あの日、あの場所で心を殺しあった誰もが感じていること。生き残った者も消え去った者も。
失ったものは数知れず、得たものはほんの少し。
しかも形に残るものはほとんど無くて、心に刻まれたものですら少しずつ削れていく。
それでも。
『それじゃ、未練はないんだ』
あの戦争の時に縁が深くなった少女、遠坂凛はそう言った。俺も、それに頷いた。
彼女は家に姿を見せることこそ少なくなったものの、登校時に顔を合わせるたび、学校の廊下ですれ違うたび、他愛のない話を振ってくる。俺もその会話に乗り、当たり前の日常を反復する。
――九月。あれから、半年が経った。
月は闇夜に君臨し、こんなにも煤けた家を隅々まで照らしていた。
彼岸の月
「……先輩?」
いつの間にか、隣に桜が立っていた。丸くて黒いものがたくさん乗った皿を持っている。
「そんな格好のままだと、風邪ひいちゃいますよ」
「ああ、そうだな」
桜は薄いブラウスを着ていて、顔がやや上気している。やっぱりお風呂に入っていたようだ。
よいしょ、と俺の隣に腰掛ける。火照った身体を冷ましに来たのだろう。確かに秋風は上気した身体の隅々まで染み渡り、大体の感情を冷ましてくれる。
懐かしいことも、嬉しいことも、悲しいことも、おおよそ全てのものを。
「先輩、今日は何の日かわかりますか?」
「――あぁ」
唐突に桜が訊いてくる。真っすぐに俺を見て、手元には食べ物が盛ってある皿。
そうだ。
今日は九月の二十日。確か、秋分の日を挟んだ七日間は――。
「――お彼岸、だよな」
「はい」
にっこりと笑う。
皿に盛ってあるのは、おはぎだった。
俺と桜と、あと藤ねえも手伝ってかなりの量を握った。明らかに藤ねえの作品だけ浮いている。一応、捧げものとして最低限の体裁は整っているが、餡の量が不均一だから印象は悪いかもしれない。
その藤ねえは、学校の行事が忙しいとかで早めに帰宅した。一ヶ月後には学園生活最後の文化祭があるし、そうでなくても最上級生を受け持つのは進路の面からしても苦労が絶えない。
イリヤはイリヤで、邪魔はしないわなどと言いながら藤ねえの後に従った。何の邪魔かはわからないが、年齢不相応な世話を焼いているような気がしてならない。
「――――?」
桜を見る。その顔がまだ紅潮していた。
「……どうしました?」
「いや」
目を逸らす。桜はしばらく俺の横顔を眺めていた。
月見にはいい夜だった。別にお彼岸だからって月を見る必要はないのだが、事のついでだ。だんごはないが、おはぎでも代用は利く。ススキなら中庭にいくつも生えているし、何も問題はない。と、思う。
雲はないが風は心地よい。空気は澄んでいて肌寒いけれど、それがやがて訪れる冬を感じさせる。
忘れかけていた懐かしさと、寂しさを覚える。
彼の空に浮かぶ月に捧げる花と供物。それをおもむろに口に運ぶ。
俺がそうするように、桜も同じように食べる。俺より少し上品に、唇の端に餡子を付けたりしないように。
和風の家に相応しい風流な夜。
だが、俺の中ではそれ以上に大きな意味があった。
もはや辿り着けないほど遠い場所にいる誰か。それは男であり女でもあり、少女でもあり青年でもあった。それでも俺はいつかその場所に行くのだから、こうして空を仰いでいる。
尤も――。
あの少女は、自分への捧げものを勝手に食べたら途轍もなく怒り狂いそうではあるが。
そう思うと、自然に顔が綻んだ。
「――先輩?」
「ん、何でもない。ちょっと思い出してただけだ」
言って、おはぎを掴む。そして、見せびらかすように噛り付いた。
流石に二人では全部を食いきれない。残りは藤ねえに頼むとして、俺たちは今しか見れない空を眺めることにする。
夜も、そこに流れる月も、あらかじめ決まった形に並んでいる星も、さっきと何も変わっていなかった。その遥か下にある地面では、あっという間に何もかもが移り変わっていくのに。それが当然なのだとしても、少し悔しかった。
「――やっぱり藤ねえに援軍頼んだ方が良かったな」
腹を摩りながら言ってみる。胃がもたれること請け合いだ。どうぞ、と桜が用意したお茶で文字通りお茶を濁すが、あんまり役に立った感じがしない。
「仕方ないですよ、藤村先生も忙しいみたいですから」
「にしてもだな、自分で作製した分は自分で面倒見てもらわないと。どうして餡がおはぎ全体の八割を超えてるんだ……。糖尿になるぞ」
しかも作った数はいちばん多いし。捧げられた方も大変――――でもないか。彼女なら平気で平らげるだろう、きっと。それとも、雑だったとか食べにくいとか言い放つのだろうか。どちらにしても、今となっては微笑ましい。
その思い出が掛け替えのないものだと、今なら理解できるから。
「でも、イリヤまでなんで帰るかな。邪魔はしないとか言ってたけど、別に邪魔になることなんて何にもないんだけどな……。って、どうした桜?」
なんとなく熱を感じて隣を見ると、発火しそうなほど顔を紅潮させている桜がいた。
「――っ!! なな、なんでもありません!」
「おはぎ食いすぎて腹痛いのか?」
「違いますっ!」
違ったようだ。そう全力で否定されても困るのだが。
しばらく呼吸が荒かった桜の横で、俺は次第に心が底の方に落ちていく。冷めるでなく、冷えるでなく、自分という身体を超えた場所から、衛宮士郎を客観的に見下ろしている気分。その人間の奥にある記憶も思い出も残像も何もかも。
――もし、月が夜という幕に開いた窓だとしたら。
その向こう側に見える光は、なんて優しい、なんて艶かしい輝きなのだろう。そしてそこにある世界は、どんなに穏やかなのだろう。そこに眠る誰かは、静かに休んでいるのだろうか。笑っているのだろうか。
――ああ、問題ない。そんなことは当たり前だ。
あれだけ頑張った人たちが、そっちの世界で報われないはずがない。
正義の味方になりたかったと告げた人。
みんなが笑える国を作りたかったと言った人。
最期は笑って。
最後は微笑んで。
俺はその姿を深く心に刻み付けて。
もはや辿り着くことの出来ない彼岸へと旅立った。
――仏教とは、あんまり縁がないんだけどな。
一成が聞いたら嫌な顔をされるだろうか。あれほど説法を聞かされて、いまさら縁がないとはよく言えたものだと。
それを言うなら、あの少女の方が縁は薄かっただろう。しかし、全く無かったとは言い切れない。
だって、いま見上げている世界は、どこの世界でも、どの宗教でも必ずといってもいいほど存在する死後の世界。それは彼岸であったり天国であったりする訳だが、意図するものは全て同じ。――全く等しい理想郷。
そこに、少女たちはいる。俺もいずれ、そこに向かう。
けれど、その前に俺はこの世界で、仏教の言葉を借りるなら迷いある此岸の地で自らの理想を果たさなければならない。正義の味方、そしてその先にある世界を見るために。
と――。
隣から、桜の独り言が漏れ聞こえる。
「…………別に、ふ、太ったわけじゃ…………」
自分の指を絡ませて、顔を真っ赤にしながらぼそぼそと零していく。
俺は、なんか可哀想なので聞かなかったことにした。
「――ふぅ――」
桜が落ち着きを取り戻すと、彼女はぽつりぽつり言葉を探すように話し始める。実際、うまい言い回しが見つからないのだろう、結局は直接的と言っても差し支えないほど解りやすい質問だった。
「――兄さん、どこにいるんでしょう」
――ああ、元気でいるよ。
簡単な嘘もつけない俺の横で、桜はいつもと同じような微笑みを形作ったまま月を仰ぐ。
その先にある世界は、彼岸だ。ここに生きている俺たちでは、どうあっても届かない場所にある世界。
そこに、慎二もいるのだろうか。静かに眠り、優しく笑っているのだろうか。
願わくば、そうあってほしいと思うのだけど。
それは、誰にもわからないことだ。
「――それは、わからないけど」
「……ですよね」
見た目にはわからない程度に肩を落とす。そんな桜の目を見ることも出来ず、俺は当たり前の気休めを口にする。
それを偽善と、慎二ならそう言うだろう。しかし、それで救えるものがあるのなら。
俺は。
「だけど」
「……?」
「あいつのことだから、きっと元気でいるよ」
そう言うしかなかった。
桜はどんな顔をしているだろう。顔を見れない俺は、ただ目を宙に泳がせていた。
「そう――ですね」
たったそれだけ、自分に言い聞かせるような言葉を告げて、桜は笑った。
ような、気がした。
「結構、冷えて来ましたね」
「そうだな」
「ちょっと、雲も出て来ましたし」
「月も、少し隠れてるからな」
「はい。とりあえず、お茶汲みなおして来ます」
「ああ」
小さな足音が遠ざかっていく。
身体は、ほとんど寒さを感じていなかった。かといって熱くもない。言うなれば、感覚そのものが希薄だ。無、と言ってもいい。
ただ、視線は常に上を見詰め続けている。
そうすることで、向こう側にいる誰かに思いを馳せる。
何も無い方が、感情や感覚など無い方が、より向こう側に近くなる。向こうの世界が見えたり、声が聞こえたりする。あくまで錯覚、あるいは幻覚と呼んで差し支えないのだけれど、そんな気がする。
でも、完全に全てを無くすことなんて出来ないから、俺はまだこちら側にいる。無くしたくないものが、まだここにある。
静かな足音が近付いてきて、そっと俺に手を差し伸べる。
「――はい。お茶です」
「ん、ありがとう」
淹れたてのお茶を受け取る。手のひらの温かさが、静かに俺の身体に染み渡る。
あっという間に俺は無を無くし、人間として有るべき感覚を取り戻す。
ゆっくりと、お茶をすする。それが無くなるまで、座っていようと思う。桜と二人で、何もせずにいようと思う。
――俺には何もないけれど。
少なくとも、熱いものを熱いと、寒いことを寒いと感じる心がある。懐かしさに空を見て、悲しみに息を止める。
それだけで、今は充分だった。
「桜」
「はい」
「そろそろ、閉めるか」
「――はい」
桜が立ち上がる。俺は飲み終えた茶碗を置いて、最後にもう一度空を見上げた。
月は、完全に姿を隠し。
窓は、閉ざされていた。
「また、来年の九月か」
「違いますよ」
え、と首を向ける。桜の目は、もう月を見てはいなかった。
誰かのように人差し指を立てて、諭すように言ってくれる。
「次のお彼岸は、三月です」
今度はおはぎじゃなくてぼたもちですね、と笑う。
正直、その違いはよくわからなかったが、とりあえず俺も笑ってみた。桜の笑顔を見て、笑っていた。
月は昇り、その気になればいつでもその窓を覗くことが出来る。その先にある遠い世界を見て、懐かしむことだって容易いだろう。
しかし、それはまたの機会に預けておく。
足を止めけば止めた分だけ引き離される。俺が望むものは簡単に遠ざかってしまう。こっちが死に物狂いで走らなければ、絶対に届かない場所だから。
息をついて休むのは、また今度。
これからは、上ではなく前を。
この世界の遥か彼方にある理想郷を見つめて行く。
「――――っくしっ!」
「あ……、先輩、風邪ひきました?」
「……どうかな」
途端、もうひとつでっかいのが。
「……んあ」
「あ、待っててください。いま取ってきます――」
桜はすぐに駆け出した。居間のティッシュが切れてるのを察し、すぐさま俺の部屋へ。その判断は、どうこう言う隙もなく正しすぎるので何も言わないことにする。
「――全く――」
鼻を啜りながら感じる風は冷たく、厳しい季節の訪れを否応なく思い知らせてくれる。でなければ意味がないのだから、人間ひとりを病の床に陥れることなど簡単なのだろう。そりゃ、寒くなる時期に半袖で外を眺めている自分の責任ではあるのだが。
「ちょっ、せんぱいちょっと待っててくださいね……!」
俺の後ろを桜が通り過ぎる。どうも俺の部屋にはティッシュが無かったらしい。廊下の角を曲がる背中を見て、桜が妙な誤解をしてないかどうかちょっと気になる。
――それじゃ、長袖を出すとするか。
面倒くさかった訳ではない。ただなんとなく、懐かしかっただけ。あの冬の日が近付いているのだと実感してしまう袖の長さ。感じる温もり、頬を伝う悲しみと懐かしさ。
で――。
またその日が来て、また同じ土蔵にいる自分を夢想する。絶対に自分はそこにいるだろう。別に何を期待している訳でもないが、ストーブを修理したり、目覚まし時計を修理したり、魔術の鍛錬をしたりしながら、黙々と夜を過ごしているに違いない。
あの日から一年が経ちましたという、ちょっとした記念に。
「――全く。すげえ女々しい奴だな、俺って」
まあいいや。どうせ前から知ってたことだし。
それに――。
それだけは、たったひとつ自分からこぼれ落ちた気持ちだから。
いつまでも、大切にしなければと思う。
――さて。
やれやれと、桜が閉じかけた雨戸を引っ張り。
――また、次の機会に。
別れと再会の意思を残して、俺は最初のお彼岸を終えた。
―幕―
SS
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