私の胸でお眠りなさい
 恐いものなど何もないから
 私の胸でお眠りなさい
 楽しい明日が待っているから
 おやすみなさい またあした会いましょう
 おやすみなさい またあした会いましょう
 おやすみなさい
 また あした ―― 

 

 

またあした

 

 

 遠く、懐かしい歌声を聞いた気がする。
 それが完全に錯覚だったと知れたのは、渚が細く透き通る歌声を奏でていたから。
 あまり子守唄というものを耳にしたことのない俺は、その唄に憧憬を抱いてしまったのだろう。
 広くもないアパートの一室に、男が一人、女が二人。うち一人は小さな子どもで、俺たちが守らなければならない――いや、違うか。俺が、渚が、心の底から守りたいと願った、ひとつの命。汐。
 川の字になって、布団に転がる。
 汐を挟んで、大人が二人。眠れないとぐずる汐を宥めるように、慰めるように渚は唄う。
 優しい、優しい子守唄。
 悲しい訳でもないのに、泣きたくなってしまう。どうしてだろう、と考えて、それはやっぱり懐かしいからだと結論付ける。
 昔、こんな唄を聞いたことがあったっけ。
 今はもう、記憶の片隅に埋もれてしまったけれど。
 あの日のことを思い出して、不意に涙してしまいそうになるくらいには、あの思い出は俺の胸に残っている。
「……朋也、くん?」
「ん……。どうした、歌詞でも忘れたのか」
 不思議そうに、渚が尋ねる。暗闇に慣れた視界は、枕に半分埋もれた渚の顔を捉えている。
 名前を呟いた彼女の顔が、少しだけ不安そうに俯いていた。その理由を鑑みて、やっぱり自分のせいなんだろうなと思い至る。いつもいつも、俺は誰かのことを心配させてばっかりだ。
 だけど、想ってくれる誰かがいる。想っている誰かがいる。
 俺は、ずっとこうしていたい。
「いえ、朋也くんが……」
「俺が、どうかしたか」
 そこで、少し言いよどむ。
 可愛い寝息を立てながら、汐は夢の世界を旅している。
 焦る必要もない。そのまま、後頭部に組んだ手を差し込んだまま、渚の言葉を待つ。
 覚悟を決めて、間もなく。夏の夜、虫の鳴き声に掻き消されてしまいそうに微かな囁きが漏れた。
「朋也くん、泣いてました」
 渚が悲しむことではないのに、彼女はとても悲しそうに呟く。
 俺にしても、悲しみに涙してしまった訳じゃない。目から何かが零れた訳でもない。
 ただ。
「泣いてねえよ。ただ」
「……ただ?」
「――懐かしいな、って」
 そんなことを、思ったんだ。
 でも、たまには、そんな何でもないようなことで泣きそうになるのもいい。
 でないと、泣き方なんかすぐにでも忘れてしまうんだから。

 

 

 私の腕でお眠りなさい
 いつもあなたの側にいるから
 私の腕でお眠りなさい
 あなたのために私はいるから
 おやすみなさい またあした会いましょう
 おやすみなさい またあした会いましょう
 おやすみなさい
 また あした ―― 

 

 

 たまに、思うことがある。
 俺の母親は、一体いつ居なくなってしまったんだろうか、と。
 正確な日時は覚えていないけど、物心が付くか付かないかのうちに亡くなってしまったということは分かる。
 だから、母親のことを思い出せないということが、悲しいとさえ思わなくなってしまった。
 全く、酷い息子だと思う。殴ってやりたい。
 朧な意識の中、闇雲に腕を振れば適当に自分の頭を痛打する。我ながら、どうでもいいことに勘が働く。もう少し、その能力を仕事とかプライベートとかに活かせないもんかと思う。
「……うー」
「ぱぱー」
「……しおー……」
 混ざった。
 首を曲げれば、布団の上にぺたんと座っている汐の愛らしい笑顔が映る。威厳ある父親の顔面をぺしぺしとさえやっていなければ、個人的にベストなのだが。
 教育とか人生とか、なかなか上手いこと行かないものだ。
 反対側に首を逸らし、時計の短針と長針を確認。出勤まではかなり余裕があり、ほんのわずかだけれども娘と戯れる時間を獲得出来たという訳だ。これを勝利と呼ばずして何と呼ぶ。
 ふんぬっ、と腹筋を最大限に利用して、額を叩き続ける娘の身体に擦り寄る。若干アクロバティックな感は否めないが、これも一種のスキンシップということで大目に見てほしい。
 ちなみに、汐の向こう側にいる渚は、珍しいことにまだ寝入っていた。おそらく、汐も母親を起こそうとはしてみたものの、俺に勝るとも劣らない熟睡っぷりに進退窮まっていたのだろう。
「ぱぱ、あくろばてぃっく」
「おおっ、そんな難しい言葉を知ってるなんて、汐は偉いなー」
「きょうせんせーが、教えてくれたの」
 親ばかそのものの台詞も、親になれば簡単に吐くことが出来る。
 それもまた、幸せの証なのだと勝手に思い込む。
 ぐにぐにと俺の頬を抓っていた汐だが(理由はわからん)、突然はっと右手を離した。何かを思い出したのか、それとも父親の偉大さに今更ながら気が付いたのか。自分で言っておきながら、後者はありえないだろうなとは思ったが。
 そんな父の苦悩など知る由もなく、汐はマイペースに言葉を紡ぎ出す。
「忘れてた。うしお、ぱぱに言うことある」
「……ん。なんだ、改まって」
 どうでもいいが、中国人っぽいイントネーションである。
 汐の表情が真剣そのものだったから、余計な茶々は入れなかったが。
 小さな子どもに抱え切れる限界ギリギリの重さは、大人にとっては本当に軽い範疇でしかないのだけど。
 身の内に抱きかかえている精一杯の想いは、大人も子どもも誠意を持って受け止めなくちゃならないものだし。
 それ以前に、俺がその想いを受け止めたいと願っているから。
「ぱぱ、今日もおはようございます」
 ぺこりと、その小さな身体を丁寧に折り曲げて、教科書通りに挨拶してくれる汐の姿に。
 俺は、ありがとうと呟きたかった。
 側にいてくれて、ありがとう。
 生まれて来てくれて、ありがとう、と。
「……ぱぱ?」
「……あぁ、そうだな。朝だもんな」
 でも、それは不自然だから。
 娘に余計な心配を掛けるのも不味いので、ここはしっかり朝の挨拶をかわすとしよう。
 今日も明日も明後日も、いつだって初めはこれなのだ。
 素晴らしい一日が始まって行く。そんなささやかな実感を胸に抱きながら、俺は礼儀正しく頭を垂れる。
「おはよう。汐」
「うんっ。おはよう!」
 二回目の挨拶は、弾けるような笑顔で。
 きっとその台詞は、もぞもぞと動き出した布団の主にも投げ掛けられるのだろう。
 昨日、眠る前に繋いだ両手は、夢の途中ではぐれてしまった。けれど、今は汐がいる。もし手と手が剥がれたとしても、汐がその手を繋ぎなおしてくれる。
 だから、安心して眠ろう。
 次の朝には、また元気に会えるのだから。
「……む、ぅうー……」
「ままー」
「……し、おちゃん……」
 また混ざった。
 つくづく、俺たちは相性が良いらしい。
「まま、今日もおはようございます!」
「……はいっ、おはようございます。しおちゃん」
 寝惚け眼でも、元気に挨拶。母親は強いな、と感動するシーンでもないのだが。
 俺も爽やかにおはようと言って、この朝に再び出会えたことを知らしめよう。
 ついでに言えば、こんな日が何日も続くことを思い知らせるためでもあるのだ。
 だから、今日はほんの少しだけ大きな声で。
 恥ずかしくても、恥にはならない挨拶を。
「渚ー」
「あ、朋也くん――」
 まあ、ちょっと不意打ち気味になってしまったのは申し訳なかったにしろ。
 その分だけ、今日という日が胸に残ってくれる。


「――おはよう――!」

 

 

−幕−

 

 



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2005年 8月20日 藤村流

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