彼女の場合 〜 選択的未来予想図
卒業間近の高校にも律儀に通っているのは、それなりの事情があればこそ。
最後の期末試験ぐらい、真面目に受けておいて損はない。こんなところで留年の憂き目に合うのは我慢がならないし。
ついでにいえば……。
そろそろバレンタインだと言って、恋人の一人もいない男が浮かれていようとも、この世の誰がそいつを責められるだろう。たとえ世界がそいつを拒んでも、俺だけはそいつを受け入れる。
何故なら俺もそいつと同じだから。
……アホか、俺。しっかりしろ岡崎朋也。
そもそも、『恋人の一人も』って複数と付き合ってたら男はともかく女からは非難囂々だ。死ぬ。むしろ殺される。具体的には、辞書とか蹴撃とか、あとパンとかで。
「やあ岡崎! 今日も躁鬱症だね!」
午前の授業をハイエンドに放棄して、隣りの席に現れた春原は異様に操の気が高い。
おそらく、これもひとつの現実逃避であると俺は解釈する。知らずに目も細まるというものだ。
「おまえは相変わらず可哀想だな……」
「え、僕が可愛いだって……? やだなあ、そんなお世辞言ったってチョコなんてあげないよ?」
「いるか」
背中を手加減抜きで叩いてくる春原、その顔が赤くなっているのを俺はどう解釈すればいいんだろう。
とりあえず、ジャムの比率が少ないパンをもふもふと頬張りながら、一週間後のイベントについて夢想する。隣りからは春原の妄言が絶えず響いているが、これはまあ無視できないほどではない。そのうち杏に力ずくで黙らされるだろうし。
思い返してみると、自分は随分女子と関わって来たんだなあと実感する。
その中で誰か一人に焦点を絞るということはしなかったが、特に後悔や不満がある訳でもなく。
ただ、七日後の一応は特別な日に、何のリアクションも無いのは男として少し悲しいかなと思うぐらいで……。
古河渚。
昔から病弱で、弱気が身体に染み付いているような性格だけれど、基本的にはとても良い娘である。
義理という定義、お友達という定義が何処から何処までの関係を指し示すのかは議論の余地があるが、何にしても彼女ほど気の良い女の子ならば期待して損は無いだろう。
あくまで、義理として考える。じゃないと貰えなかったときに凹むから。
……いつの間にか下駄箱に入っていた手紙には、『わたしの家まで来てください 古河』という一文だけが記されていた。
なんだか本命っぽい展開だが、そこは都合の良い妄想なので無視して欲しい。
そういえば今日はあの日だったな、と心を躍らせながら古河パンまで足を運び、おそるおそる店内を覗いてみる。
「……来たか」
オッサンが現れた。
しかも、この冬に何故かタンクトップ。なんか着ろ。
「あんたはいい。……娘さんに呼ばれて来たんだ」
「渚が? あいつはまだ帰ってきてねえぞ」
……あれ、何かおかしい。
オッサンが適当なことを言うのはいつものことだが、こういう中途半端な誤魔化しはしないはずだ。
仕方なく、早苗さんを呼ぼうと声を出しかけたその時。
「おい、手紙を見てここに来たんじゃないのか?」
「……ちょっと待て。俺は古河に呼ばれて――」
思考が止まる。霞む視界に、オッサンの不敵な笑みが色濃く映る。
そういう、ことか――。
「悪いな、俺も古河なんだ」
「く、くそ……!」
目を離した隙に、オッサンの手にはチョココロネが握られている。
下駄箱に入っていた手紙がどちらの手によるものかはさておき、俺が今この場でしなければならないことはただひとつ。
――逃げること。
チキンって言うな。
「これはな、早苗がこの日のために丹精込めて作ってくれたバレンタインチョコだ。本来なら、俺も喜んで食うさ。だがな……」
もう一方の手に握られているのは、これまたチョココロネ。
「如何せん、数がな……。朝に一個、昼に一個、おやつに一個……。食うたびに味が違うんだぜ、参った参った」
ははは、と笑う顔も覇気に欠ける。それほど破壊力があるという訳か、今回の早苗パンは。
「くっ……!」
オッサンに背を向けて脱兎のごとく逃走を試みる。
――が。
「なに……!」
「まあ、一緒に地獄に堕ちようぜ。案外、あっちの世界の方が暖かいかも知れねえし……」
両手にチョココロネ(のような形をしたもの)を握り締め、テレポートしたとしか思えない速さでオッサンは先回りしていた。
考えたくないことだが、早苗さんのパンにそういう薬物が入っていたのだろうか……。
「さあ……」
「や……やめろぉー! そんな悲しそうな目で俺を見るなぁー!」
幽鬼のごとく、じりじりと擦り寄ってくるオッサンの手が俺の顎を押さえ――。
「ふぁっ!」
がごっ、と机と椅子が盛大に蠢く音で目が覚める。
寝ぼけまなこで顔を上げれば、教室内からくすくす笑いと白い視線を感じることが出来る。藤林まで笑ってるしな。くそ……。
とりあえず、隣りで俺を指差して笑っている金髪はラグビー部に売り渡すことにしよう。
「……岡崎」
「すんません」
恥ずかしさで、思わず先生にまで謝ってしまった。
これも、オッサンのせいに違いない。
あるいは早苗パンの呪いと考えることも出来ようが、それはあんまりといえばあんまりな結論なので先送りしておく。
結局、六時限目はさぼることにした。無駄に恥をかくこともないし、眠るんだったらそれに適した場所がある。
俺は旧校舎の空き教室をそのスポットに指定した。
昔は誰かが何かしらの作業をしていたような気もするが、記憶に靄が掛かっていて上手く思い出せない。
……まあいいか。思い出せないってことは、それなりに理由があるんだろうし……。
ひとつ欠伸をして、使われなくなって久しい机と机と継ぎ合わせて簡易式のベッドを作り、その上に寝転ぶ。下手するとフローリングに落下する憂き目にも遭いかねないが、それほど寝相が悪くもないから多分大丈夫……だと思いたい。
それにしても、さっきはヘンな夢を見たな……。別にチョコが欲しい訳でもないのに。
古河からは義理でも何でも貰えるとして、問題は杏や智代だろう。
これも義理という仮定で話を進めることにする。じゃないとあれだ、辛いんだ、いろいろと。
藤林杏。
いつも俺や春原に絡んでくる女。必殺技は辞書投げ。当たると陥没するが、春原に限っては数分で復活可能。たぶん上質な生命保険に入ってるに違いない。
男っぽいそいつに呼び出されたのも、きっと大したことのない用事だと思っていた。
はて、用事を済ますなら体育倉庫にまで連れてくることはないのにな、と不自然に思っていると、突然杏が謎の包みを俺に差し出す。
「こ、これなんだけど」
「……ん?」
「ぎ、義理よ義理。義理の中の義理、キング・オブ・義理なんだから、勘違いしないでよね。賞味期限もギリギリに合わせたんだから」
「そこまでしなくても」
リボンで包んであるそれの大きさは、チョコにしては大きい部類に入る。もしかしてケーキなのだろうかと内心浮かれていると、杏が腕を差し出した体勢のまま一歩二歩と後退る。
「あの、杏さん?」
「……んー、これぐらいでいいかな」
体育用具室の端から端、五メートルほど距離を置いて、杏はボウリングの玉を投じるように包みを胸に添える。それは、ソフトボールの投球動作にも似て……。
「おーい」
「……あたしの、ささやかな想い……」
俺の話が聞こえているようには見えない。なんとなくロマンチックな雰囲気と言えなくもないが、でもやっぱり違うような気もする。
「……受け取って!」
オーバースローではなくアンダースローで投じたことがせめてもの救いか。上から投げ込まれたなら顔面が陥没していたに違いない。
というか、投げんなよ。この世には慣性の法則とかいろいろあるんだぞ。
しかも、俺の胸じゃなくて顔目掛けて飛んで来るもんだから、辛うじてキャッチしようと腕を構えても、ホップ気味に飛来してくる包み(たぶん辞書だこれ。決定)が俺の五指を弾き飛ばし――。
「ぐぇっ!」
只事ではない衝撃に意識が覚醒し、同時に手の届かないところに遠ざかっていく。
多分打ち所が悪かったんだろう、寝相は悪くないと思ったんだけどなあ……。
とかいう言い訳が脳裏を掠めることも無く、俺は三度空想の世界へと旅立った。
××××。
そいつは三度の飯よりヒトデが好きな、それはもう他の追随を許さないくらいヘンな奴だった。
無論、事あるごとにそいつに突っ掛かっている俺も同類みたいなところはあったが。
ある日、そいつがいつものようにヒトデの彫り物を抱えて廊下を走っているのを見掛けて、俺は思わず声を掛けてしまった。だが、そいつは俺が声を出す寸前に速度を殺し、俺との間に微妙な距離を作る。
「……おはようございます」
「もう夕方だけどな」
こいつも精が出る。受け取られるかどうも定かじゃないのに、自分の姉のためにヒトデを配り続けているんだから。
ただ……。
今日、こいつが抱えているのはいつもと色が異なっている。形はヒトデなのだが、至極丁寧にラッピングされているような。リボンまで付いてるし。
「岡崎さん」
きっ、と真面目すぎる眼差しで俺を射抜く。
そういえば、こいつはいつだって真剣だった。
「なんだ、改まって」
襟を正し、丁寧にヒトデの包みを両手に持って、深々とお辞儀しながらヒトデを差し出す。
「いつもお世話になっている岡崎さんに、風子からせめてものプレゼントを贈ります」
「……せめてもの、って使いかた間違ってないか?」
というか、こいつが俺にプレゼントするなんて、本当にこれは現実なのだろうか。
でも、やけに目も口も鼻も真剣で、無性に摘みたくなってしまう。そこを堪えるのが大人の心意気。
俺は、おずおずとそのプレゼントを受け取る。ずしりと重く圧し掛かるヒトデ、これはかなりの大物と見た。
「……なあ、これは一体……」
一応、気にはなるので聞いてみた。
すると、待ってましたとばかりに胸を張って答えてくれる。
「その名も……」
「その名も?」
「ヒトデチョコです」
聞くまでもなかった。
「まあ、いつも通りってことだよな」
「とりあえず、愛だけは詰まっていません」
意味ねえ。
でも、労いの意味が込められているだけマシか。こいつが俺に感謝の言葉とお礼の品を贈ってくれること自体、都合の良い妄想みたいなものなんだし。
それにしたって、チョコってのも時期外れだよなあ。もう四月なのに。
「じゃあ、ここで開けてみてもいいか?」
「はい。出来れば、早めに食べることをお勧めします。賞味期限があるので」
言われるがまま、丁寧にラップを解いていく。
姿を現したのは、こいつが言った通りそのまんまのヒトデチョコ。新種のヒトデかと思うくらい、綺麗な星型にぎっちり甘いチョコレートが詰め込まれている。
ふと、プレゼントを渡した張本人を確認する。
「…………〜」
遠くの世界に逝ってしまわれたようだ。南無三。
それはともかく、これを一口に食えと言われても正直困るな……。迷信とはいえ、鼻血が止まらなくなる虞がある。
「――で、どうしたんですか?」
お早い復帰で。
「いや、ちょっと量が多いからな。これは家に帰ってからゆっくり」
「いえ、いま食べてください」
「……マジで?」
「比較的マジです」
何と比べてるのかは不明だが、とりあえず真剣ではあるらしい。いや、だからそんなに見詰められても困るんだが。そもそも何を期待されてるのかよく分からんし。
「仕方ないなあ……」
「ささ、ぐぐっと」
「居酒屋じゃないんだから……」
愚痴をこぼしながらも、巨大なチョコを掴み上げる。ゆっくりと口の中に運んでいく過程で、ちっこいヒトデ少女の嬉しそうな顔が印象的だった。
そして、ヒトデの形をしたチョコに深々と歯を突き立てる。
「……」
――ガリ、のあとに、にょろ。
「どうですかっ」
どうもこうもない。にょろってなんだ、にょろって。
ああ、言語中枢とかがもうヤバイ感じだ。現実を認めたくない、しかしこの生っぽい舌触りと活きの良い触手の蠢く感触を認めなければ先に進めない。
でも進んだところで待っているのは地獄でしかないのだから、別に認めなくてもいいじゃんサヨナラ人類とか口走ってしまいそうになるが、口に含んだものを吐き出さないと喋ることすらままならないから困りものだ。
というか、さっきから困ってばっかだなあ俺って。お茶目さんめ。
「……」
「お気に召しましたかっ。……安心しました、活きの良いヒトデを丸ごと大胆にパックした甲斐があったというものです」
生かよ。
ほっとしてるとこ悪いが、俺はそろそろ限界みたいです。
どこぞの密林探検隊でもないのに、どうして俺はヒトデなんかとディープキスをしているんでしょう。教えて藤岡弘、。
……ふっ、と糸が切れるように落ちていく意識と身体が最後にキャッチしたのは、相も変わらずヒトデトリップに浸っている××××の姿だった。
――目覚めは最悪。
夢の中でも涙は出るんだね、初めて知ったよ。
身体を起こしてみると、いつの間にか机のベッドから落下してしばらく床で眠りこけていたことに気付く。どうも後頭部を椅子の足にぶつけたらしい。
「つくづく、空き教室で良かったな……」
埃を叩きながらしみじみと呟く。
ところで、ヒトデヒトデと散々な目に遭ったのは良いが(まあ良くも無いのだが)、あそこに出ていたちっこい女の子は、はてさて何処の誰だったんだろう。教室を見渡してもそんな影はなく、そもそも夢の中の出来事なのだから現実に姿を現すこともない。
ただ、口の中に残るヒトデチョコの甘酸っぱさだけが心残りだった。
で、一週間後。
放課後の教室にひとり、夕焼けの赤色を全身に浴びながら、俺は静かにたそがれていた。
別に泣いてるんじゃないよ、チョコが貰えなかったからって死ぬ訳じゃないさ。
心の中で天使が必死に俺を慰めるが、そんなものは腹の足しにもならない。天使も大分やる気なさげだし、そろそろ帰るとしよう。
「……まだこんなところにいたのか」
席を立った瞬間、知り合いの声が聞こえた。
その主が誰なのは、声を聞いただけで分かる。俺は振り向かず、夕焼けに目を細めながらぼそりと呟いた。
「去年までは、何でもないと思ってたんだけどな……」
そいつは何も答えない。
同情すら痛々しいと悟ったのだろうか、そいつは何も言わずに近付いてくる。
「慰めはいらないぞ」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。……今日はな、おまえに渡したいものがあって、ずっと探していたんだ」
そこで、ようやく俺は振り返ることができた。
そいつの顔がやけに赤みがかって見えるのは、果たして夕焼けのせいだけなのだろうか。
よく分からないし、分かりたくもない。
ただ、この場を支配している空気だけが真実だ。
「……おまえ」
「これを、受け取ってほしい……」
差し出されたのは、無骨な手のひらと小さなチョコ。そこらのコンビニで売っているようなものだが、リボンが付いているのを見ると少しは奮発したらしい。
「料理とか、得意じゃないから。自分で作るよりは既製のものの方が喜ばれると思って……」
「……そうか」
俺は頷く。
これは本物だ。誰が何と言おうと、本物の想いが込められた何物にも変え難い大本命の贈り物。
だからこそ、半端な気持ちでは立ち向かえない。
俺は、しっかりと相手の顔を見る。
「本気……なんだな」
「ああ……。本気だ」
そうなれば、答えはひとつ。
「さあ、僕の気持ちを受け取ってくれよ岡崎!」
「いらん」
「ああ! そんなこと言わないでくれよぉ!」
「帰れ!」
嗚呼、これが現実というものか。
……夢の中に帰りたい。割りとマジで。
春原を見るも無残な状態にした後、泣きながら帰った家で親父から手作りチョコを貰った。
食ってみたら案外旨かった。
ちょっと親父が好きになりそうな、岡崎朋也二月十四日の夜だった。
−幕−
SS
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