まかない奮戦記





 なんかこう、思い出にすがって生きていくのはまずいと思うんだ。
 まあ、その、なんていうか。これから新しい生活を始めるって時に、後ろばっか振り向いてたらいけないんじゃなかろうか。ほら、車だって前とか見てないと危ないし。自転車も歩きの時だって危ないんだけどさ。うん。
 ……えーと、その。
「……」
「……じぃ」
 お願いだから、睨み合うのはやめてくれませんか。お二方。
 この狭い部屋の中だと、出来ることは高が知れている。テーブルの対面に座り、あまつさえ緩衝材代わりに俺を挟み込み、十分ほど前から飽きもせずにじーっと鋭い視線を絡ませ合うことぐらい。
 正直、それが出来れば何でも出来るような気もする。これを耐え切れば、これから先どんな辛い生活にも耐えられるだろう。ところでさっきから腹がキリキリ痛むんだが、これは俗に言う胃潰瘍、小洒落た言い回しをすると自業自得というやつですか?
「……」
「……じー」
 あと、わざわざ口に出して言うこともないと思う。言っても無駄だから言わないが。
 睨み合う両者は、高校時代の思い出を共有する者と、ここ最近の思い出を分け合う者。双方共に女性で、うち一人は女性と呼ぶには身長も雰囲気も噛み合わず、もう一人は年齢と容姿が噛み合わない。つまるところ、あんまり女っぽくないということだ。
 つーかここ、俺の家なんだけどなあ。いつからご近所の集会場みたいになっちゃったんだろう。謎だ。
「どうしたの?」
「どうしました? いつになく変な顔ですが」
「風子。それは日本語で失礼という」
「風子は、こう見えても立派なパリジェンヌですので」
「……じゃあ、フランス語で自己紹介してみなさいよ」
 呆れつつも、気転を利かせた杏が畳み掛ける。それをものともせずに、風子は自信満々に胸を張って自己紹介してみせた。
「こんにちは、伊吹風子でソワ」
「語尾だけかよ」
 ものすごく予想通りだった。




 世界は俺のことなんて関係なくぐるぐるぐるぐると回りやがっていて、ちっぽけなネズミの俺は、そんな滑車を延々と回し続けてそのうちバターにでもなってしまいそうだった。
 そんな無意味な愚痴に埋没してしまうほど、俺は日々の生活に疲れ切っていた。一人暮らしを始めて五年くらい経ったろうか。親父から逃げるように家を出て、適当に借りた薄ぼろいアパートはやけに西日がきついけれど、慣れればそう大した問題じゃない。
 だから、そういう面倒くさいことにも、全部慣れてしまえばいいと思った。
 何もかも忘れて働ければ、少なくともその間は瑣末なことを考えなくなる。中学時代の栄光も、高校時代の中途半端な輝きも。どちらもそれなりに楽しかったけれど、今の生活に思い出なんてのはあまり必要ないものだと思った。
 ……思った、んだけど……。
 現状を考えると、思い出ってやつも馬鹿に出来ないらしい。
 高校時代の思い出が無ければ、杏がここに来ることもないし、風子と知り合うこともなかったのだから。
「このまま押し黙ってても埒が明かないわね……。いい、もう一度だけ言うけど」
「なんでソワか」
「……フランス語はもういいのよ。じゃなくて、朋也の昼食はあたしが作りますと言ってるの。あなたは明日にでも作ればいいじゃない、時間はたくさんあるんだから」
「昔の人の言葉で、時は金なりという諺があります」
「いきなり? ……いやまあ、諺じゃないかもしれないけど、あるっちゃあるわね」
「風子には、岡崎さんの介護をするだけではなく、もっと他にすべきことがあるのです」
 ご老人扱いだった。
「へえ、例えば?」
「例えば……ヒトデの飼育や、ウミウシの育成、あとは……岡崎さんの観察など……」
 今度は微生物扱いだった。
 泣けてくる。
「とにかく、岡崎さんの昼食を作るのは風子の役目なんですっ。文明開化の頃から決まっていたことなんです」
「どういう輪廻なのよ……」
 見た感じ、両者睨み合ったまま相譲らずと言ったところ。
 本当なら、ここらで俺の意見に耳をそばだてようという話になるのだが、女は三人寄らなくても二人いれば十分に姦しいので(例、電話)、特に鶴の一声を要求する様子もない。寂しい。
 近くの幼稚園で働いている杏が顔を見せたのは、ちょうど一月ほど前。
 どこからか俺が一人暮らしをしているという情報を得、暇潰しにと俺の部屋に遊びに来るようになった。いつの間にか、休日には朝から顔を出し、かいがいしく昼食まで作っていく始末。いらんと言っても、あえなく黙殺されてしまうのが弱肉強食の辛いところだ。……っていうか俺、食われんの?
 一方、古河の伝で伊吹さんちの風子と知り合ったのは、それより二月ほど前のこと。
 こっちは並大抵じゃなく、公子さんの紹介であるにも拘らずなかなか俺に近寄って来なかった。気分は希少な生物との触れ合いを試みる某探検隊である。あっちも、謎めいた物体を手渡そうと躍起になっていたそうだが、俺の顔を見るたびに凄まじい勢いで後ずさるため、俺とあいつは対になった磁石でも仕込まれてんのかと思うほどだった。
 で、まあ、結果は見ての通り。
 俺の部屋の片隅には、けばけばしい色彩を帯びたヒトデの彫り物が、幾重にも積み上げられている訳で。
「杏さんにはお伝えしていないのですが……。ここだけの話、岡崎さんはヒトデしか受け付けない身体になってしまったのです」
「いや、さっきタコ食べてたし」
「軟体動物はセーフです」
「どんな基準よ……。それに、あなたってちゃんとごはん作れるの? 下手したら、お米を洗剤で洗いましたーなんて大正時代のネタを披露しかねないじゃない」
「失礼ですっ。風子、そんな化石化したネタはやりません」
「そりゃよかったわ」
「せいぜい、お米をヤスリで研ぐくらいです」
「ややこしいわっ!」
 そう言っているわりに、しっかりと突っ込んでいる杏は心底偉いと思う。
 俺はというと、腹が減りすぎて全く力が出ない。ものすげえ働いた後の某パンマンくらいやべえ。助けて、ジョムおじさん……。
「あっ、岡崎さんの目が死んで来ました」
「なに冷静に言ってるのよ……。早くごはん作らないからじゃない、全く」
「こうなったら、仕方ありません」
「何よ」
「初めての、共同作業です……」
「意味が違うし。って、顔そらさなくていいから」
 まあ、身長と性格だけ見れば結構お似合いのカップルではなかろうか。
 どうでもいいが、作るなら早くしてほしい。でないと、磨り減った神経を補うのに、明日明後日明々後日のエネルギーを前借りせにゃならん。それはまずい、いろいろと。
 つーか、そう出来るなら初めからそうすれば良かったじゃん? とか思うのは俺だけですか。
 でも、言ったって聞きゃあしないんだろうな……。
 俺は弱者なのだと自覚した瞬間、自分の視界がちょっとだけ広がった気がした。




 台所の方で、わいわいがやがや女二人が共同作業している。
 平和だった。やたらと鋭い視線に貫かれることのない俺もまた、平和だった。
 一時は「俺、もてもてじゃん?」とか春原ばりの勘違いをしてしまいそうな状況だったが、世間はそんなに甘くない。女の戦いって怖いんだなあ、いつも頼りなげな風子が、この時だけは虎に見えたし。
 ……訂正。やっぱり虎猫くらいか。
 杏はもう、駄目だ。あれは地上に存在していい生物じゃねえ。ぎりぎり映画のスクリーンにのみ存在が許される、ダークヒーロー的な生命体を彷彿とさせる。
「……なんつーか、平和だなあ。腹は減ったけど……」
 タコの酢漬けも残り少なくなって来た。ぐきゅる、と空腹を訴える腹を押さえながら、早くしてもらえないもんかと台所の様子を覗き見る。
「こうなったら、あの幻の七つ道具を使うしかないようです……」
「それはいいから、早く火を止めてっ! 焦げるってばー!」
「でも幻なので存在しませんっ! これは盲点です!」
「盲点じゃねー! ああもういいわよっ、あたしが止めるから!」
 戦場だった。
 というか、明らかに若干一名様が足を引っ張っていた。
 びっくりするくらい予想済みだったが。
「でしたら、風子はこのタマネギを、クールな殺人鬼のように切り刻んでみせます」
「……まあ、殺人鬼だってカレーくらい作るかもね。はいはい、がんばってー」
「……くっ、なんということでしょう……。こんなにも、涙が止まらないなんて……うくっ」
「ああもう、やると思ったらやっぱり……」
「しかし、自分から選んだ仕事なので、涙ながらに従事しなければ……。くぅ……。女性を泣かせるなんて、なんて罪深い球根なんでしょう……。このっ」
「うん、まあ……。がんばってね」
 全然クールじゃなかった。
 確かに、彫刻刀を振りかざして走り回っていれば、ぱっと見は殺人鬼に見えなくもない。
 ……でも、あいつ彫刻刀なんか振りかざしてたっけ? 自分で言っておいて、記憶の出所に心当たりがない。
 腕組みして考え込んでいる間にも、調理は続く。もしこれが料理勝負だったなら、風子の涙は仮初のものじゃなくなっていたことだろう。
「ニンジンを切ってもいいですか。この、いかにも大空を飛びそうな」
「飛ばない飛ばない。ま、やるなら早くやっちゃって。野菜は早く仕込まないといけないんだから」
「分かりました。それでは、ジャック・ザ・リッパーのごとき冷徹さで挑ませていただきます」
「うん……。というか、それはもう適当に切るぜってことなの?」
「あたたたたたたっ!」
 杏の指摘を無視し、ダイコンのかつら剥き世界一の達人を思わせる速度で、ニンジンの皮を剥きに剥いていく。これには、さしもの杏も一旦持ち上げたフライパンを下ろさざるを得ない。
「うわっ、ものすごい勢いでニンジンを!? しかも全くスピードが緩まない……。二周目に入ってもまだ――って、やっぱりどこが止めどころか分かってなかったんかいっ!」
「風子に言わせれば、ニンジンは食べるものじゃなくて切り刻むものです。あいたっ」
 怒られた。
 何もしていない俺が言うのもなんだが、ごくごく当たり前のことである。
 つっこみを入れる杏の口調も、段々と険しいものになっていく。もしやとは思うが、風子が意図的に邪魔をしているんじゃないかと勘ぐっているようにも見えた。
 何も考えていないように見えて、相手の二手、三手先を読み尽くし、余計なことをして自爆するのが風子という人間である。気にしなくてもいいってことだが。
「うだうだ言ってないでさっさと切る」
「出ました、杏さんの素が……。コロンブス並の大発見です」
「それじゃ、あなたに新大陸を見せてあげましょうか?」
「つつしんでご遠慮いたします」
 無駄に殺伐としながらも、なんとか調和を保っていた。小錦が薄氷を踏む感じではあるが。
 しかし、風子が裏の顔を露にした杏とやり合えるとは思わなかった。こっちの方が新発見というか、新鮮な衝撃というか。
「それはそうと、フライパンに火が掛かったままです」
「わあーっ! ていうかそれを早く言いなさいっ!」
 焦げ臭い匂いに包まれながら、そのうち俺はガンになるかもしれないなあと、冷めた頭で予想する。週一でこんな感じの日常が積み上げられていれば、そんな未来に辿り着く日もそう遠くはないんじゃないかと思う。
 ……部屋の鍵、もうひとつ増やそうかなー。




 出来ましたー! という虎猫の咆哮は、ぐぉんぐぉんと唸り続ける換気扇の音に半分以上も掻き消されていた。
 肝心要の料理を運んで来たのは、杏。大きめの皿に盛られているのは、大盛りの焼きそばであった。
 シンプル。しかしイズベストである。というか、ここまで腹が減ったら何を食べても旨いと思う。
 てなことを二人に言ったらぶん殴られそうな気がするので、あえて口にはしないが。
「お待たせ……。ちょっ、おなか空いてるのは分かったら、野良犬みたいに鼻をふんふんさせるのやめなさいよね。器が知れるわよ」
「どうせ空っぽだから関係ない。とにかく早く食おうぜ。ほら、風子も座って」
「岡崎さんも少しは手伝ってくれるとありがたかったです」
「分かった分かった。洗い物は手伝うからさ」
「ふっ、安い男ですね」
「……おまえに言われると、なんかカチンと来るな」
「はいはい! ごはん時くらい積もりに積もった禍根は断つ!」
 流石は幼稚園の先生、子どもを諌めるのはお手の物だ。すぐさま、杏の対面に腰を下ろす風子。
 ……まあ、自分が子どもっぽいと認めるようで軽く欝になるが、器が空っぽだと言った手前、大人ぶるのも格好悪い。それに、飯を作ってくれた人の言うことは聞くべきだと思う。餓死するから。
「それでは、用意はいい?」
「いつでも」
「換気扇回しっぱなしです」
「嘘をつかない」
 こすい真似をする風子をよそに、杏はいつもそうしているように手を合わせる。
 つられて、俺と風子も焼きそばの前に手を合わせる。ありがとうタマネギ、さようならニンジン。まあ、殺人鬼と化した風子に切り刻まれたんだから、合掌するのもあながち間違っちゃいないんだろうけど。
「それじゃ、いただきまーす!」
「いただくぞ!」
「いたたただきます」
「『た』が多い『た』が」
 つっこまずにはいられない杏より先に、風子は焼きそばに箸を付ける。なかなかの策士だが、猫舌のためにキャベツが口の中で暴れているらしかった。意味ねー。
「ふっ、あふ……! 計りましたね、杏さん……!」
「ほら、お水」
「助かります」
 現金だった。
 落ち着いて水を飲み込むあたりには、もう鉢合わせ当初の険悪な雰囲気は消え失せていた。焼きそばもなかなかの出来だし、例の共同作業で二人の仲も良い方に進展したみたいだし。このまま行けば、本当に共同作業でケーキを切ることになる可能性も――。
 ……なくはないかもしれないが、個人的には否定したいかなあ。
「本当、杏はこういうとこ上手だからな。見た目と違って」
「あははっ。面白いこと言うのね」
「いや、全然面白くなかったな。ごめん。だからその箸を下ろしてくれないか」
 今、俺の隣に仕事人がいる。
 咄嗟に話題を風子に明け渡す。割り箸を射出する寸前だった杏のオーラが、行き場を無くして霧散するのを感じた。
「一回、杏の弁当を突っついたことがあるんだけどな。それがもう、主婦としか思えねぇ出来だったんだよ」
「なるほど、つまり杏さんはバツ」
「あははっ」
「むぐっ、ぐむむむぅ!」
 風子の口を押さえて、強制的に黙らせる。
 杏は、風子への制裁を後回しにし、焼きそばの感想を求めて来る。
「どう? 懐かしい味だったでしょ?」
「……正直言うと、あんまり昔なんで正確には覚えてないけどな。でも、旨かった。これだけは確かだ」
 断言する。
 こういう手作り料理ってのは、俺の乾いた生活にはない味だった。ずっと昔に食べたことのあるお袋の味、あるいは親父が作ってくれたご飯の味……。どっちも覚えちゃいないが、確かこんな味がしたような気がするのだ。
 懐かしい。
 そう言われれば、確かにそうかもしれない。
 感謝しようとして見上げた杏の顔は、なんだかいやに赤らんでいた。こいつも、キャベツが口の中で暴発したんだろうか。
「そ、そう? まあでも、こんなの誰にでも作れるし、今日はほら風子ちゃんが足手まとい……じゃなくて、手助けしてくれたし」
「……ぷはぁっ! そうです、そんな昔の思い出だけが全てではありません! 前を向いて歩いていくことが大切なのです! 三百六十五歩のマーチです!」
「それ、三歩進んで二歩下がっちゃうんじゃなかったっけ……?」
 さり気なくつっこみを入れるところにも、杏のポテンシャルを感じ取れる。
 積み重ねて来たものは、杏の方が多い。思い出はヤスリで磨かれ、美化されたまま額縁に収まっている。それに対して、風子はここ数ヶ月の思い出しか積み上げられていない。
 が、それがなんだというのか。
 思い出に数も質もない。
 大切なものは、いつでも心の中にあるんだ。
 たとえば……。

 ……たとえば……。

 ……ヒトデ、とか?

「……」
「どうしたんですか、岡崎さん」
「駄目じゃん!」
「何を今更分かりきったことを……」
「いちいち辛辣だなおまえ」
「あはは、いいじゃないの。自分のことは、自分じゃよく分からないっていうし」
「……やっぱり駄目なのか、俺……」
 へこむ。
 杏にしても、笑いながら言うことはないと思う。俺も、春原が似たような状態に陥っていたら死ぬほど爆笑するが。
 まあ、とりあえず。
 今日という日がいつか思い出になったとしても、額縁には嵌めないでおこう。
 下手に美化しちゃったら、なんか取り返しの付かないことになりそうだし。
「ちなみに、風子が切り裂いたニンジンはですね」
「見りゃ分かるよ……。だって、ヒトデだもんな……」
「あっ、よく見るとごつごつした突起まであるわね」
 杏先生、そこは感心するところじゃないと思います。




 そしてその一週間後、鍵をひとつ増やしたにも拘らず、ごく当たり前のように俺の部屋で睨み合っている彼女たちは一体何者ですか。
 いえ、あの、不法侵入ですしね。
 合鍵ちらつかされても。
「……」
「……じぃ」
 女って、怖いなあ。
 目を瞑りたくなる現実を直視しながら、俺はとりあえず薄っぺらい布団に包まって二度寝を貪ることにした。
 どうか、目覚めた時には平和な世界てありますように――。

 多分、無理だと思うけど。





−幕−







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Index
2005年6月6日 藤村流

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