Little Mather Sensation!
朝。
どこからともなく鶏の鳴き声が聞こえてくるここは田舎町。
俺は愛すべき家族と共に川の字で惰眠を貪り、目覚ましを気にしなくてもいい日曜の朝を迎える。
起き上がり、未だ夢の中にたゆたう二人の横顔を見つける。渚と汐、もしかしたら失うはずであった二つの命がここにあるということは、俺の人生の中で唯一誇ってもいいことなのではないかと思う。
とか、慣れない思考に浸っていると、汐の掛け布団が少しはがれていることに気付く。おとなしく聞き分けがいい、俺の子どもとは思えないくらい良い子の汐とはいえ、寝相までは流石に繕えまい。なんとなく満ち足りた気分で、ずれ落ちた布団を手に掛ける。
と。
「…………」
気付いた。
気付いてしまった。
なら、俺はどうするべきだろう。勢いで絶叫するのもいい、あるいはオッサンのように町内を駈けずり回るのもありかもしれない。
だが俺は、そんな在り来たりな道は選べなかった。
「…………」
「おはよう」
何故なら、同タイミングでウチの奥さんこと岡崎渚嬢も、汐の影に潜む物体に気付いてしまったからだ。目覚めの挨拶にも返答はない。
ここで俺が取り乱せば、なんていうかもう収集が付かなくなる。それぐらいの未来予想図は描けるぞ。
――そして。
「し……」
渚が息を吸う。
「ちょっと待っ――」
「しおちゃんが、たまごを産みました――っ!」
俺の言葉は届かなかった。
それに、基本的な知識として、人間は卵を産まない。うん。
すなわち、汐の布団に転がっていた卵は汐が産んだものではない。当たり前だ。
「まあ、落ち着け。かなり動揺してるぞ」
「……は、はい。落ち着かないとダメですね、とりあえずしおちゃんの父親が誰なのか聞かないと」
「うん、というかそれ俺だから」
「あっ、はい。そうでした、朋也くんでした」
ほっと胸を撫で下ろす。
自分の妻ながら、そのボケっぷりには感嘆せざるを得ない。
「……鶏の卵……と見ていいな。にしても、汐がなんで――」
首を傾げる俺の横で、渚は数秒の迷いも無く答えを出す。
「たぶん、ひよこが生まれると思ったんじゃないでしょうか」
「……あぁ、なるほど」
納得する。子どもが考えそうなことだが、子どもしか思いつかないことでもある。
おそらく保育園かどこかで卵からひよこが生まれることを教わったんだろう。だがしかし、スーパーに並んである鶏卵は無精卵なので、いくら温めたところで人肌で温まった卵でしかない。そこから新しい命が生まれることはなく、人間たちの命を繋ぎとめる糧になるしかない訳だ。思えば悲しい運命である。
尤も、これが有精卵とは考えにくい。だってラベルがついてるしな。よく寝返り打ったときに割れなかったもんだ。
「……ぅ、ぅん……」
と、渚の叫びか鶏の鳴き声か、とにかく朝っぱらから騒いでいる俺たちに引きずられるように、汐が眠たげな声を出す。
汐が、ゆっくりと目蓋を開ける。お姫さまのお目覚めだ。
「おはよう、汐」
「おはようございます、しおちゃん」
「……ぅ、おは、よ――」
言って、その手の中に固い球体がないことに気付く。
慌てて布団に転がっている卵を握り締め、取り繕うように微笑んでみせる。……うーむ、こういう処世術は一体誰から学んだんだろう。杏とか、まあオッサンあたりが有力候補だろうけど。
「パパ、ママ、おはよう」
「うん、汐。おはようはいいんだが、その手の中にあるものを見せてくれ」
「なにもない」
「いや、さっきたまご掴んだだろ。たまご」
「つかんでない」
「……もしかして、ひよこが出て来るまで握ってるのか」
「うん。ひよこ、みてみたい」
「やっぱり持ってるんじゃないか」
「……あ」
この程度の誘導尋問に掛かるとは、多少大人びているとはいえ五歳児だな。まあ、たまごをその掌に挟んでいるのは知ってたが、無理やり取るとたぶん汐だけじゃなく渚からも苦情が来そうだし。
仕方ない、説得は苦手なのだが……。
「汐、あのな――」
「しおちゃん。よく聞いてくださいね」
……出番を取られた。
まあ、ここは母親の方がいいのかもしれない。たぶん。渚も悪気はないんだろうし。
「ひよこさんは、にわとりさんが温めないとちゃんと生まれないんですよ」
「そうなの?」
「はい。お母さんがいてくれて、初めて安心してぷはって出てくるんです」
「ぷはっ、て?」
「ぷはっ、て」
見事に子ども目線で語っている。素晴らしい、俺には到底出来ない業だ。渚も母親なんだなあ……って父親の俺が言ってちゃ駄目なんだが。
「……じゃあ、このひよこさんは」
しゅん、と哀しそうに手のひらの白い球を見やる。ここで『実は死んでいるんだ……』とか言ったら一生恨まれそうなので何も言わない。そういう冷たい現実は、風子でも相当ショックを受けるだろうし。
汐は、引き続き哀しげな口調で呟く。
「あいじんさんの……」
「ストップ!」
衝撃の告白。渚も目が点になってる。きっと風子経由でインプットされたんだろうが、このタイミングで言い放つとは恐れ入る。
まさかこっちがショックを受けるとは思わなかったぜ……! 流石はウチの汐だ。あるいはオッサンの孫だ。
「その言葉は十年早い! 忘れろ忘れろ!」
「じゅうねんたったら、言っていい?」
「……やっぱり三十年くらい寝かせとけ! きっと美味しくなるぞ!」
「ワインじゃないんですから……」
珍しく渚がつっこみ役に回るという神秘が拝めたところで、いいかげん話を切り上げないと腹が減って仕方ない。
中途半端にショックから立ち直れていない渚の代わりに、慣れない説得役――ではなく、頼りないかもしれないけれども、一人の父親として語りかける。
握り締めるでもなく、両の手のひらに寝転がる卵を見詰めている汐。その手のひらに優しく触れる。
「たまご……」
「汐。それは卵だがひよこじゃないんだ」
「ひよこじゃない……?」
小さく小首を傾げる。俺は、汐にも分かるように適当な言葉を探してみる。
「まあ、なんていうか鶏からのプレゼントってところか。俺らに元気を分けてくれるんだな、その卵で」
「でも、ひよこは?」
「ひよこはひよこで、別の卵なんだ。そっちは鶏の子どもだな」
「……よくわかんない」
「まあ、そういうのを見分ける人がいるから、安心して鶏からもらったプレゼントを食べた方がいいってことだ」
「……うん」
分かったのかどうなのか、汐はひとまず卵を冷蔵庫に戻しに行く。渚はその後に付いて、ついでに朝食の準備をするつもりなのか。
汐が寂しそうな顔をしていたのは、なんだかんだ言ってひよこが生まれる瞬間を見れなかったからだろう。俺もあったなあ、かぐや姫を探しに竹林を散策したり、桃太郎を探しに川で洗濯して溺れそうになったりとか。今思えば物凄いバカ丸出しだが、子どもの頃は結構本気だったのだから微笑ましい。
もう一度布団に寝転がって、ひよこが生まれる瞬間でも見せてやりたいなぁ、なんて親バカなことを考えてみた。ボタンに頑張ってもらうとかすれば、まあなんとかなるんじゃないかと思わんでもないが。
幸せな妄想に浸っていると、自然にまぶたが落ちてくる。あ……なんかまずいかも……。
「あっ、パパが眠っちゃいます!」
「ねむっちゃだめー」
「ごふっ!」
汐のフライングダイヴを腹部に受け、思わず口から卵を出しそうになる。なるほど、こういうオチか……。
……って、納得してる場合じゃねえ。
「うしお」
「パパ、ねむっちゃだめ。ごはん」
「いたい」
「あさごはん、たべたくない?」
「おもい」
「それはれでぃーにしつれいですっ」
「風子だろ、それ」
「うんっ」
笑顔で答える。まあ、楽しいならそれでいいか。本当に重くて痛い訳じゃなくて、なんかこう、父親としての威厳に欠けまくる感じがして情けなくもあったりするのだが、別にいいやと思えるのが子どもの笑顔というやつである。
……でも、やっぱり重たいかなあ、ちょっと。
−幕−
SS
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