リトル・ブレイバー
秋だった。
紅葉が始まり、学校へと続く坂道がギンナン臭くなる季節である。そういえば、ギンナンって銀の杏って書くんだよなあ。他意はないけど。
決して緩くはない坂を一人で黙々と上っていると、校門の前にちっこい人影が見えた。まあ、あいつが唐突なことをするのは日常茶飯事なので、あまり気にしないでおこう。
誰かを待っているらしく、きょろきょろと辺りを見回している風子の横を通り過ぎようとする。
――ごぎん。
直後、後頭部に鈍い衝撃があった。
冗談じゃなく、目から星が飛びました。
「――岡崎さん!」
背後から聞こえる声を頼りに、俺は失いかけた意識を手繰り寄せ、
「ふ――風子ぉっ!」
とりあえず、今にも噛み付きそうな風子の頭を強引に引っつかんで、無理やり頭を下げさせる。
「ぐ……ぐぐ、これは何かのプレイですか」
「プレイとか言うな。悪いことしたら謝るのが礼儀だろうが」
風子も根性で首を持ち上げようとするが、タッパの関係上どうあってもこの体勢から逃れることは出来ない。
だが、減らず口はいつになっても収まることはなく。
「……風子、鈍感な岡崎さんを鈍器のようなもので撲殺しただけです」
「悪意ありまくりじゃねえか」
つーか殺意にまでレベルアップしてるし。
「岡崎さんは鈍感なのできっと衝撃が脳まで伝わらないと風子は判断しました」
「俺の神経はトカゲ並か」
「ヒトデ未満です」
「わかんねえよ」
それに、本当にそんなレベルの伝達速度だったら殴って気付かせる意味ないし。普通に呼べや。
流石にこれ以上は虐待になりかねないので、誰かを通して杏あたりの耳に入る前に強制謝罪の刑を解いてやる。今まで踏ん張っていた反動か、離した瞬間に凄い勢いで仰け反る風子。
「ぉ、とととと……!」
「つくづくエガちゃんだなおまえ」
「……ち、違います! 最近ではむしろワッキーです」
知らない名前が出た。せっかく江頭2:50をエガちゃんと略したものだという事実を突き止めたのに。
「ちなみに物覚えの悪い岡崎さんのために説明すると、ワッキーはペナルティーという芸人のボケを担当している人です。だいたいヘンな動きしてます」
詳しく説明してくれた。妙な知識はあるくせに、物事の分別がついていないところが実に生意気だ。
「――で、どうしたんだよ。もう授業始まるぞ」
「はい。実はですね、岡崎さんに耳よりな情報を提供しようと思いまして」
「……何のつもりだ?」
「いえいえ、別に見返りを求めている訳じゃないんですよ? これはただの善意です。風子の目を見てください」
言われて、仕方なく風子の小さくて丸くてビー球みたいな瞳を凝視する。
「なんとなく突きたくなるな」
「なんとなくで突かないでください」
「ちゃんと理由があればいいのか?」
「……風子の目が火災報知器だったら、あるいは」
それはちゃんとした理由に入るのか。
「だけど、おまえの目なんか見てもわかるわけねえだろ。ヒトデの触手を観察して気持ちを察しろって言ってるようなもんだ」
すると、風子がとても不思議そうに首を傾ける。その腕の中に抱えているのは、丁寧に誂えられたヒトデ。の塊。
「そんなの、簡単じゃないですか」
「ふつーの人間は無理なんだよ」
いつも言ってることだが、おまえは断じて普通ではない。それを自覚することから人と人のコミュニケーションは始まるのだ。
「風子、ふつーじゃないですか」
「むしろ痛風だ」
「風が吹けば桶屋が儲かるんですかっ!」
二人揃って意味不明だった。風子はきっと風が吹くだけで身体が痛む病気と言いたかったんだろうが、訂正しないでおく。
そんな下らないボケ漫才を繰り広げても投げ銭してくれるわけでもないし、始業のタイムもいつの間にか鳴っていたので即座に校門から撤退する。
話の区切りもつかないうちに駆け出したので、風子が付いてくる様子はない。数秒後に「はっ!」というわかりやすい覚醒音が響いたものの、既に圧倒的なまでの差が開いている。このアドバンテージを逃がす手はない……!
さらばだ風子、俺だっていつまでもおまえのネタに付き合ってられないんだよ……!
そんな悲壮とも言える決意を胸に秘めて。
昼休み。
風子は何の躊躇いもなく俺の教室に踏み込んできた。
その手に相変わらずヒトデの塊を抱えたままで。
……確認しよう。
俺は三年、風子は一年。年齢とか身長とか色気とかはともかく、学生簿の上ではそうなっているはずだ。
ほれ、周りのやつらも激しく違和感を覚えているじゃないか。
なのに、風子は全く気にする用もなく、ごくごく当たり前のように俺の隣の席に座る。そこの主である金髪はまだ登校すらしていない。
「岡崎さん、先程はよくも置き去りにしてくれましたね……。風子、岡崎さんをうらみます」
「じゃあ、俺は風子を逆恨みしよう」
「では、風子は岡崎さんを逆逆恨みします。……って意味がわかりませんっ!」
ノリつっこみだった。
「いつものことだろ」
「そうですか。それなら良かっ……たなんて言わせないでくださいっ!」
絶好調だった。
時々、こいつがどこまで本気なのかわからなくなる。人生全てネタなんじゃないかとさえ思う。でも、姉の公子さんは立派な女性だからとても不思議だ。きっと、ヒトデの存在が風子を変えてしまったに違いない。
そう考えると、つぶった目がカラスの足跡みたいになって、それでもヒトデの塊を手放さない風子がなんだかとても哀れに思えてしまう。ふと、目頭が熱くなった。
「おまえ……。人間は、ヒトデと結婚できないんだぞ? それでもいいのか?」
「……何故か諭されています。岡崎さんはバカになってしまったんでしょうか。元からその気はありましたが。だとしたら、とても残念です。惜しい人を亡くしました……」
風子も泣いていた。なんだかんだ言って、こいつも俺のために泣いてくれるんだな……。
お互いがお互いのために瞳を潤ませながら、俺たちは手を差し伸べた。
「って意味わかんねえよ!」
「って意味わかりません!」
つっこみ合うふたり。台本などなくても、ふたりはまさにプリキュアだった。どっちが黒とか白とかは考えない方向で。
教室の端々から拍手が聞こえてくる。その賞賛を前に、俺たちは立ち上がって両手を上げる。
目を瞑れば、色んな人が手を振っていた。春原に杏、智代、ことみ、渚、藤林、それと美佐枝さんに芽衣ちゃんまで。
遠くの方にいるのは、幸村のじいさん。奥にいるのは……親父だった。決して強くはないが、それでも手を叩いている。いつかのように、優しい顔で。
素晴らしかった。世界は、こんなにも輝いている。
俺は、ここにいてもいいんだ……!
ありがとう、ありがとう――。
「ってワケわかんねえよ!」
「うわ、岡崎さんひとりボケつっこみです! でも心の中で自己完結してるから全然理解できません!」
至極丁寧に解説する風子。
直後、昼休みの終了を告げる鐘の音が鳴り響いた。何事も無かったかのように散っていく我がクラスメイト。ノリとテンポのいい奴らである。
「……参りました」
風子が机に置いたヒトデを拾い上げる。その顔は苦虫を噛み潰したように歪んでいたが、やはり童顔だから子どもの膨れっ面レベルでしかなかった。
「何が」
「これまた岡崎さんの術中にはまってしまったと言うわけですね」
「そうなのか?」
「――ですが、放課後は見ていてください。今度こそ出し抜かれることなく、ヒトデのような包囲網で岡崎さんを捕らえてみせます!」
最後まで騒がしく風子はクラスを後にする。
ところで、ヒトデのような包囲網ってなんだろう。
答えの出ない疑問を常に投げかけてくる、そいつの名は伊吹風子。
ぶっちゃけヘンな奴だった。
で、放課後。
特に何の問題もなく、俺は春原の本拠地に到着した。
「むちゃくちゃザルじゃねえかよ……」
本当は面倒なことがなくて喜ぶべきなのに、あまりに肩透かしっぷりに落胆する。
やはり網としてヒトデを選択したのがまずかったらしい。基本的に陸に上げるべき生物ではなかったのである。青い海に帰れ。
「よっ、春原――」
俺はノックなどせずに春原の部屋に入る。結局、今日は学校に来なかった。バカは風邪をひかないから病欠の線はないとしても、何か犯罪に手を染めていないとも限らない。もしそうだとしたら、親友としてとどめを刺さなければならないのである。
だが、それも杞憂に終わったようだ。俺の前には、だらしなく散らかった部屋の中に座っている、
「あ、春原さんではありませんが、こんにちは」
風子がいたからだ。
……ヒトデ包囲網は?
指揮官たるべき伊吹風子少佐は万年コタツの布団に座り、とも当然であるかのようにせんべいをかじっている。そのせんべいが星の形をしているのは言うまでもない。
なんとなく、俺は人差し指を額に当てて、
……ぱたん。
うむ。実に悪い夢だった。さっさと真の春原ルームに移動しよう。
閉めないでください! という声は無視して、俺は頭を振りながらその場を去る。
クラウチングスタートで疾走しかけていた俺の後ろから、扉を激しく開け放つ音。と同時に絶叫。
「おか――」
直後、俺の勘は絶望的なまでの悪寒を察知した。これは朝にも感じたことのある気配……!
しゅぅん! と唸り声を上げて飛来するヒトデ型の物体を、ここぞというタイミングで両手に挟む。
「……むむ。ヒトデ白刃取りですか」
「いや、ヒトデに刃はないだろ」
「歯はありますよ」
文字で表記するとわかりやすいが、口頭だとさっぱりだった。
ともかく、俺は思わず受け止めてしまったヒトデを投げ返そうとして、
「……ぅおっ?」
その腕に感じる、思わぬ重さに身体を泳がせた。
バランスを崩し、当惑する俺に風子は不敵に笑いかける。それでも子どもが悪戯しているようにしか見えないのが残念といえば残念だった。
「ふふふ……。ようやく気付きましたね。そのヒトデに」
「……ど、道理でいつもより衝撃が重かったわけだぜ……」
なんとなく驚いてみる。俺も付き合いがいい。
「で、なんなんだこれ」
「わかりませんか。お弁当です」
……へ?
「ていうか、食いもん投げるなよ」
「出来心です。風子の責任じゃありません」
「それじゃヒトデの責任か?」
「……やっぱり風子に非があったと言わざるをえません」
残念ですが、と本当に辛そうに答える。
「あー、だから一日中持ち歩いてたのか。おまえ」
「はい。鈍感な岡崎さんにもわかるよう、ほのかに秋の味覚を詰め込んでおいたのですが、岡崎さんの無神経さは風子の想像の斜め上を行っていました。ここまで悟られないとは、まさか岡崎さんはヘンな人じゃないのかと昼のニュースで言ってました」
暇なテレビ局である。
あんまり興味もないが、一応は聞いてみる。というか、風子が妙にそわそわしてめちゃくちゃ聞かれたがっている。
「秋の味覚って何なんだ? もしかしてマツタケとかだと、不意におまえを尊敬しないでもないが」
「岡崎さんは、自分がそんな価値のある人間だと思っているんですか?」
散々吐かれた罵倒の中でいちばん酷い台詞だった。
泣きそう。
「……あの、本気にしないでください。風子、ちょっとは価値があると思ってますから」
「ちょっとかよ。……まあいいや。マツタケじゃないとすると……秋刀魚とか、柿とか、栗とか?」
「外れです。……わかりませんか? いつも学校に行く途中に落っこちてるじゃないですか」
ふふふ、と鈴を転がすように笑う。
……まさか。
「ていうか、ギンナンじゃないよな?」
「ていうか、ギンナンですけど」
大正解でした。
本気で泣きそう。
それより、まったく匂ってこない密封性抜群のヒトデ(容器)の方が不気味なんですけど。
「あのよー、ギンナンっつーのはふつー茶碗蒸しに入れたりするぜー?」
「風子、ふつーじゃないですから」
根に持たれているらしかった。顔が怖え。
無意味に誇らしげな風子に、俺は一体なんと言えばいいのだろう。密閉されて、開放される時を今か今かと待ちわびているヒトデのパッケージを手にした俺は、どんな選択肢を選べばいいのだろうか。
誰か教えて。
「もしかして、怒ってる?」
「怒ってないです」
むちゃくちゃご立腹だった。
なぜ……と思うが、思い当たるフシが多すぎてどうしようもなかった。
やはり、鼻でジュースを飲ましたのがあれだったのか。
「よし、木の実は森に返さないとなっ。熊にでもあげようか、最近ハラ減らしてるみたいだしっ」
「スキップで誤魔化しても駄目です。ここで開けてください」
有無を言わせぬ口調。こういうところは風子も女なんだなあと場違いに感心してしまう。
「おまえ、こんなにギンナン拾い集めたりして鼻とか平気なのか?」
この時期のギンナンは、高確率・広範囲で一般人に殺意を覚えさせるほどの生臭さであるのだが。
「だいじょうぶじゃないです。だから、風子にこんなことをさせるまでに追いつめた岡崎さんが、風子の欲望のはけ口になってくれればいいんです――って最後の方ちょっとえっちですっ!」
自分で口走って勝手に赤くなってりゃあ世話はない。
あろうことか逆ギレまでされるし。
「か……、勘違いしないでください! 風子はそんな安い女じゃありません! グラム300円です!」
「比較する単位が違うぞ」
安いのか高いのかわからんし。
……それはともかく。
「食う……のか?」
「はい」
「あと、個人的な予測ではたぶん生だが」
「はい」
「あ、そうなんだ……」
せめて炒ってからにして欲しかった。
「あのさ、やっぱり熊にあげた方が消化も早いと思うんだ、俺」
「好きとか嫌いとかはいいです。ギンナンを食べるんです」
強制だった。
超怖え。
というか、これだけ騒いでるのにラグビー部の方々はどうして茶々を入れてこないんですか。さすれば混乱に乗じて逃亡することも不可能ではないのに。
「さあ」
何故だ。
じりじりと距離を詰められる。素手の風子に追い詰められる。心も、体も。
「さあ」
出来るはずだ。
脱兎のごとく逃げ去れば、おそらく風子は付いて来れない。しかし、どういう訳かそれを選ぶのは生ギンナン以上に危険な行為に思えた。
「さあ!」
早く。逃げなければ、ならないのに。
何を選ぶことも出来ない俺は、杏のごとくに暗く燃える瞳を付きつけられて、ついに逃げ場を失った。
そして、行き場のない思いは――。
――ぎぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
「おいしいですか?」
「おまえ、どの面でそんな台詞を……」
「こんな顔です」
「え…………」
――ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
「女の子にそれは失礼ですっ!」
だったらそんな顔するなよ、と言う前に、俺の視界は真っ白に染まっていた――。
−幕−
・くらなどSS祭り2−3お題「色」用に書いたSSも、なんだか意味不明な仕上がりに。
普通にお弁当でほのぼのオチにするのも芸がないので、オチを付けてみました。
風子だって怖い顔をすることもあるんです。想像はつきませんが。
SS
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