伊吹風子観察日記
夏。
俗に言うサマーシーズンだとかで遊び呆けている者もいれば、受験だ就職だと切羽詰っている者もいる。そんな世間の輪の中にあって、俺はわりかし余裕のある日々を送っている。というか、そういう現実から目を逸らしているだけなのかもしれんが。
高校三年ともなれば夏休みの宿題を要求されることも少なく、それぞれのやるべきことをただやるのみである。春原なぞ、「僕にとってはこれが最後の夏になるかもしれないからねっ。せいぜい輝いてみせるよ!」とか何とか世迷いごとを口にしつつ、智代や杏のところへ特攻をかましていた。奴にとって、この夏が最期にならんことを適当に祈る。
じりじりと、アスファルトの照り返しが肌を焼く。
まさにボンネットの上で目玉焼きが作れるほどの熱気だが、そんなとこで焼いたのなんか汚くて食えねえよ。それだったら、最初からフライパンを設置しておけばなんとかなるかもしれんが、いちいち試すのもめんどい……。
かなりどうでもいいことを考えていると、不意に袖が引っ張られる。
視線を下ろせば、顔が隠れてしまいそうなほどに大きな麦藁帽子を被り、こともあろうに女の子っぽくワンピースなどを着飾った風子の姿があった。まあ、顔は見えないのだが。
「岡崎さん」
「……」
「岡崎さん」
「……」
「岡崎さん、岡崎朋也さーん」
病院の呼び出しか。
「……あんだって?」
「耳が遠くなったんですか」
なんとなく、怒っているようにも聞こえる。表情が見えないので真偽はわからないが、だとしても態度を改める必然性は感じない。だって、暑いんだし。
「返事をするのがめんどい」
「夏なのにですかっ」
「いや、夏は関係ないが……。暑いのが悪いというか、二酸化炭素の馬鹿野郎というか」
「岡崎さん、子どもですね」
ぷぷっ、とわざとらしく笑ってみせる。子どもに子どもだと言われたところで腹も立たんので、摘ままれた袖をそのままに、ひとまずの目的地へと急ぐ。
「あぁっ! 袖が伸びてしまいますっ!」
「いーんだよ、俺のなんだし。それよか、早いとこ行くぞ。わざわざ皮膚ガンを早めることもねえだろ」
「がーん!」
……あー、うるせえ。
出来れば口を塞いで黙らせたいところだが、すんでのところで理性が働く。
あいつも気を紛らわすためにやってることだし、余計なお世話だと思ってりゃいいことだ。大人になれ、岡崎朋也。
「……つーか、ヒトデなんて売ってるのか……」
「売ってます」
何故か自信満々だった。おまえの功績じゃないだろうに。
こうなったのも、風子に課せられたひとつの課題が原因である。
――自由研究、ヒトデの観察。
ご免こうむりたかった。
詳しく描写するのも避けたくなるような光景の中、それでもその情景を実況しなければならない俺って実は格好いい? とか春原レベルの戯言をぶちまけたくなる精神状況に陥りつつ、風子と付き合ってるとこういう場面を何度も何度も乗り越えなきゃならんのだなあ、とか共に歩くという過酷さを身を持って実感する俺って実は――。
……めんどい。
ヒトデの裏側を垣間見ただけで、鬱々たる思考の螺旋に囚われることもなかろう。
まあ、気色悪いことは認めるが。
「――――」
でもって、それを恍惚と眺める奴が存在することも認めざるを得ない。
世界は広いねえ。
「おいこら。起きろ」
「――――むはっ!」
水槽のガラスにへばりつく風子を引っぺがす。
店員さんも困ってるじゃないか。
「なぅ、何をするんですかっ! 相思相愛の仲を引き裂くなんて、まっ、まさか岡崎さんもヒトデのことが好きなのでは……!?」
「そこは『風子のことが』と言え。自分で言ってて悲しくならんのかおまえは」
不思議そうに首を傾げる風子。麦藁帽子を外した今では、その無垢な表情が逐一観察できる。
まあ、こういう奴だよなあ。俺がどうこう言っても始まらんのだが、やっぱりなんか悲しい。
再びヒトデの引力に吸い寄せられる風子の襟首を掴みながら、手を前に組んだまま、どうしたもんかとまごついている店員さんに話し掛ける。
「……つかぬことをお聞きしますが」
「はあ」
気の良さそうな店員さんも、思わず生返事を返す。
「こいつみたいな人って、他にもいるんですか?」
「……え、えぇとですね。そうですね、一年に一人くらいは、お嬢さんのように水槽にべったりとくっついてらっしゃる方が……」
いるのか。
日本も広いなあ。
と、そこでなんか嫌な予感がして、その詳細を尋ねてみる。例によって、風子は水槽に潜むコブヒトデの稚児にご執心のようだ。
俺の勘が正しければ、その人物とは――。
「もしかして、ちょうどこいつの親御さんくらいの年齢だったり……」
「……」
こくり、と店員は頷いた。
……遺伝って、怖いなあ。
話によると、その人はヒトデではなくてウニがお好みなんだとか。まあどっちでもいいが。
伊吹一族の因縁はさておき、その店員さんにヒトデの値段を聞く。
意外と単品は安価らしいのだが、厄介なのは水槽やポンプといった生命維持装置だ。なまじ海の底に這いずり回っている生物が陸に上がるのだから、多少の出費には目を瞑らねばなるまい。
「先に言っておくが、俺にはたかるなよ」
「ご安心ください。岡崎さんにたかるのはせいぜいヤブ蚊くらいです」
それなら風子の方がマシだった。
しかし、ここでさり気なく財布を取り出さないところが、岡崎の朋也たるゆえんである。
情けねえ。
甲斐性無しと囁く杏の声が聞こえる。
「では!」
「は、はいっ」
気合が篭もった風子の一声に、店員さんも思わず身を竦ませる。……ああ、ちょっと気が引けてしまうくらい良い人だなあ。古河とタメを張れそうだ。
「こちらのヒトデを一式お願いしますっ!」
舌を噛みそうな勢いで、堂々と購入宣言をする風子。
他にお客がいなくて良かった。心底そう思う。
風子が懐から取り出した数枚のお札を前にしても、店員は決して怯まなかった。提出されたのが子ども銀行のお札でしたー、というのがある意味理想的なオチなのだが、どうやら公子さんに前借りしてもらったらしい。
ヒトデ銀行という捻りオチでもなかった。
風子にしては珍しい。
「水槽とポンプはどうなさいます?」
風子のボケを期待していた俺をよそに、風子と店員さんは話を進めている。
「水槽は家にありますし、ポンプも当てがあるので平気です。こちらのコブちゃんだけで結構です」
コブちゃんて。
大成しそうにない名前だ。
「それでは、精算してきますね」
小走りにレジへと向かう店員さん。
で、陸に打ち上げられたヒトデをどうやって運ぶのかというと、バッテリー稼動の酸素ポンプを車の荷台に積んで、どんぶらこっことお客の家まで運搬するのが現実的なのだが。
どうせ、俺に運べとか言う気なんだろうな。分かってる。そのつもりで俺を呼び寄せたというところまで、全てまるっとお見通しだ。
くるり、とワンピースの端を翻しながら、風子が真剣な眼差しで俺を捉える。
「そんな訳で」
ほら来た。
答えは既に決まっている。風子と付き合うということは、いかに厄介事と付き合っていくかを知るということなのだから。
ここは、毅然とした態度で臨まねばなるまい。
風子が、期待に満ち満ちた目で俺を見上げ。
「岡崎さんは、人間ポンプ担当でお願いします」
「出来るか」
というか、それは吐き出しちゃうから駄目だろう。
結局、ヒトデのコブちゃんが入った発泡スチロール(酸素ポンプ付き・バッテリー稼動)は俺が抱えているのであった。
意気地なしと笑う春原の声まで聞こえてきやがる。
あとで折檻だ。
「……うわぁ。重いとか重くないとかいう以前に、中からがさごそ動いてる音が聞こえるんですけどー」
「――――」
「無視かい」
放置プレイとも言うらしい。惨め。
ヒトデが這いずり回る音だけでハピネスに浸れる風子も、呆然とするあまり電柱に激突するとか側溝にハマるとかいうベタなネタはかまさない。
むしろ避ける。
横断歩道など、白い部分だけ踏んで渡るくらいだ。
超子どもだった。
「――――はっ!」
「おまえ、この期に及んで自分が変な奴だって自覚がなかったら真性だぞ」
ようやく人気のない路地に入ったので、改めて風子を窘める。
風子は下がりすぎた帽子の縁をくいと押し上げ、挑戦的な目で俺を見る。
「岡崎さん……。自分が捻くれ捻じ曲がり前衛アートの集大成みたいな性格をしているからといって、他人にその怒りをぶつけるのは、ヒトデの川上にもおけませんよ?」
「まあ、とりあえず俺はヒトデじゃない」
腕も二本しかないし。
「……あ、間違えました」
しゅん、とこうべを垂れる風子。しかし過ちを認めるというのは良い傾向である。
「遠慮せずに言ってみろ。大人げないくらい怒るから」
「ヒトデなので、川上ではなく浅瀬というべきでした」
「そっちかよ」
人権無視もはなはだしい。
「あるいは、干潮と言っても過言ではないでしょう。そっちの方が格好いいですし」
浅瀬の面目丸潰れである。
というか、この発泡スチロール、水が入ってるためかやたらと重いのでなんとかしてほしい。
願わくば、くっちゃべってる暇があるなら足を動かせよコラ、という感じ。
てなことを口走ると風子が警戒するので、そう滅多なことは言えない紳士な俺なのだが。
「……よ、ようやく見えてきたなぁ……」
あの店員さんも無料で届けてあげると言ってたんだから、この殺人的な熱気の中をへーこらと這いずり回ることも無かったろうに。
風子の家と、涼しげな庭をぼんやりと眺める。
ちなみに、ぼんやりとしているのは視界ではなくて頭の方である。
「やや、岡崎さんはいつからメトロノームに転職したんですか?」
「いや、職業じゃねえし……。……あ〜、うだうだ言ってる暇はねえ、このままじゃあゴマちゃんも干上がっちまう……」
「コブちゃんです」
似たようなもんだ。
俺は、ふらつく脚を愛と希望以外のもので押さえ付ける。
一歩、一歩、ゆっくりと丁寧に足を踏み出す。
右に揺れるたびに水が撥ね、左に振れるたびにコブちゃんがざわつく。実はこっちの方が気色悪かったりする。
したたる汗が発泡スチロールの外面を叩き、手と足が棒になったと確信した頃に、ようやく風子の家を見上げられるようになった。
――涼しい。
あたりには水が撒かれていて、きらきらと輝く水飛沫の向こう側に、頼れる救世主の公子さんが待ち構えていた。
「あぁ、岡崎さんっ。お疲れさまです」
「み、水を……」
風子は「水ならそこにあるじゃないですか」とスチロールの中を覗き見ていたが、おまえは俺にヒトデの嫁入りをしろとでも言うのか。進化の樹形図をどんだけ遡らなきゃならんのだ。
それと、公子さんも笑顔でホースを差し出さんでください。あなたがやると冗談か本気かわかりませんし。
……ああ、とかなんとか、つっこみを入れることすらしんどくなってきた……。
もう、下ろしてもいいよね……?
「うあぁぁ!」
咆哮と共に、発泡スチロールをアスファルトに押し付ける。一瞬、『じゅっ』とかいうミディアムレアな音が響いた気もするが、あえて無視する。
ぐでり、と白い長方体の上でとろけ始めた俺に対し、風子は情け容赦ない叱責を浴びせかける。
「あぁっ! 岡崎さん、嫉妬のあまりコブちゃんをぞんざいに扱ってはいけません!」
「んだよー。文句ならこの太陽に言ってくれよー。今日の俺はいつもよりオーバーフロー気味なんだよー。暑いんだよー。麦茶をくれよー」
「はい、ご用意しておきましたよ」
と言って、優しく麦茶を差し出してくれる公子さん。
――ありがとう、今のあなたは女神にも等しい神々しさを放っている。
星に換算すると、マイナス2等星くらいです。
「……しっかし、俺が言うのもなんだが、本当に飼うのか?」
水分を確保した俺は、ひとまず玄関に棚上げされたコブちゃんを見詰める。
風子は相変わらず自信たっぷりだが、飽きる飽きないにかかわらず、こいつに動物が飼えるだけの自主性はないと思うんだが。子どもっぽいことを差し引いても。
というか、ヒトデに見惚れすぎて餌をやり忘れてしまう光景が頭から離れない。
「公子さん。今回ばかりは、手助けは禁物ですよ」
「分かってますよ。ふぅちゃんだって、頑張りますよね」
「ごもっともです」
「なにせ、こんなに格好いいボーイフレンドを捕まえることが出来たんですからっ」
「……」
ぐっ、と拳を握るところではないと思うのだがどうか。
風子も柄にもなく照れてやがるし、俺に至っては言うまでもない。どうしろと。こんなくそ暑い中で茹だってる場合じゃないってのに。
まあ、風子がやるっていうなら俺が文句を言うのも筋違いだ。自由研究の題材としてはいささかシュールに過ぎる気はするが、時代の三歩先を行っていると考えれば、そんなに悪いテーマでもないのだろう――。
と、感慨に耽る俺の背中越しに、何やら聞いたことがあるような無いようなそんな感じの声が。
「こんにちはーっ! ――と、あれ?」
明らかに戸惑っている。まあ、さっき出店した妙な客にばったり出くわしたら、人の良い店員さんでなくても驚くことだろう。
しかし、狙いすましたかのように「こんにちは」と来た。これをどう見る。
「……えっと、伊吹さん、でよろしいですよね?」
「はい。伊吹です」
公子さんの言葉で、ようやく胸を撫で下ろしたようだ。この人も無駄に苦労を背負っているような気がするなぁ。あくまでそんな気がするだけだが。
その店員さんは、店で会った時と同じエプロン姿のまま、ワゴンの荷台に積んであった発泡スチロールを抱えて持って来た。
……ちょっと待て。
発泡? しかもスチロールだと?
デジャビュか。
「えー、伊吹風子さんにお届けものです」
「はい。頂けるものなら全て頂きます」
ごうつくばりだった。
無駄にキャラの立っている風子にも多少は慣れたのか、店員さんも苦笑いをしながら配達物の中身を発表する。
俺は耳を塞ぎたかったが。
「えー、こちらのコブヒトデですね」
「――――」
放心する風子。
いつもの条件反射だが、こういう時ぐらいは「そんな馬鹿な」とか言ってもいいと思う。
俺は言わない。
こいつと一緒にいると、よくあることだし。
「……え、えと、印鑑かサインしてくださるとありがたいんですけど……」
あくまで控えめに要求する店員さん。風子がこんなんなので、代わりに公子さんが家の中に引っ込んでいった。
取り残されたのは、発泡スチロール二個(ヒトデ入り)と俺、そして何も知らない店員さん。
……何か言いたそうな顔をしているが、まあ、気にしないでおこう。
よくあることだし。
というか、こうなると長い付き合いにならざるを得ないと思うが。
「――――」
「……えーと、こういう奴なんです。深く理解しない方が楽だと思います、個人的に」
「はあ……」
「あと、これの贈り主は、やっぱり伊吹なんとかさん」
「そうですね。一年に一度、うちの店にいらっしゃるお客さんなんですけど」
店員さんの脳裏にも、その怪しげな人物の姿が浮かんでいるのだろう。複雑な笑みを浮かべている。
ヒトデ想いの……じゃなくて、娘想いの良いご両親じゃないか。中身があれじゃなかったら素直に感動できるのに、世の中うまく出来ていないものだ。
「――――はぅ!」
現世に復帰した風子は、店員さんが下ろしたヒトデ箱と、棚に積まれているヒトデ箱を交互に眺めて、一言。
「コブちゃんは、双子だったんですね……」
たぶん違うけどな。
そんなこんなで、俺は発泡スチロールを抱えたまま玄関の前に突っ立っている。
流石に二匹は飼えないとかで、一匹俺に譲ってくれるのだそうな。巨大なお世話をどうもありがとう。
こっちは俺たちが引き取ったコブちゃん。遠距離恋愛になりますね、と瞳を潤ませながらヒトデに語りかけていた風子に、今更ながら危機感を覚える。
さしあたっては、俺の危機をどうにかしたい。
「……素敵なヒトデじゃないか。朋也くんが買ったのかい?」
「いや、そういうんじゃねえけど……」
「そうだ、水槽があったね……」
ふらふらと物置に向かおうとする親父の背中を見て、このまま預けちゃおうかなーというよこしまな想いが過ぎる。とりあえず、大切にはしてくれるだろうし。そういう問題じゃない気もするが。
「いいよ、やるよ」
「……いいのかい?」
「別にいいよ。必要なもんでもないしな」
それはマジな感情だった。
発泡スチロールを差し出しながら、ついでに風子から渡された一冊のノートをその上に乗せる。
「……ただ、毎日これを付けてくれよ」
親父は、中央にでかでかと綴られた、つたない文字列をゆっくり読み上げる。
「『コブちゃん、観察日記』……。……最後の、伊吹風子というのは」
「気にしたら負けだ」
涼やかな風が吹き、俺と親父の間を擦り抜けていく。発泡スチロールの檻に閉じ込められたコブちゃんが、苦しげにうごうごと蠢く。
――なあ、風子。
宿題くらい、自分でやれや。
−幕−
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