なべとえさ





 朝(もや)漂う住宅街をひとつの丸い影が闊歩する。
 一歩進んでは前足を止め、三歩踏み出しては身を震わせる。
「ゴフーっ」
 その影は黒く、精悍な体躯を振りかざして路上を邁進する姿は野生の趣きを失っていない。
 ウリ坊から猪へ、順調な成長を遂げた背景には一人の少女の優しさがあった。彼女は親を失い居場所さえ無くした只の獣を拾い、今に至るまで親の代わりを務めた。
 そのウリ坊の名をボタンと言う。
 今や立派な猪として育ちきった彼は、昔ほど育ての親に付いて回ることはなくなった。特に朝は与えられた家の枠を越えて、住宅街を散策・巡回するのが主な日課となっている。
 そして今日も、静かな町並みを彼は突き進む。
 いつもと違うのは、ある程度の距離を進む度に足を止め、その太い鼻と口をアスファルトに摺り寄せていることくらいだった。
 彼が進んでいる方向には、等間隔にパンくずが落ちている。焼き上がったばかりなのか、ほのかに湯気が立っているのが見て取れた。
「ゴフーっ」
 立ち止まっては口を摺り寄せ、喜びに声を上げながらパンを頬張る。野生ではありえないタダ飯喰らい、しかしながら人の手で育てられた彼がその行為に不信感を覚えることはない。むしろ感激しているくらいである。
 あるいは、それが彼の明暗を分ける一線であったのだろう。
 やがて、周到に敷き詰められたパンの道があるひとつの目的地を浮かび上がらせる。
 ――古河パン。
 だが、当然のごとく彼は気付かない。いかんせん猪の視界では看板の存在を窺うことは難しい。
 一歩一歩、突然に訪れた朝の食事を楽しみながら、彼は最後のパンに辿り着く。
 見掛けや匂いこそ先程までのパンと変わらないけれど、その切れ端ですら独特の存在感を放つパンは、日本広しと言えどもここでにしか味わえない絶滅危惧種。
「……ゴ、フ」
 鼻息が止まる。食の欲求より早く身体が脳に危険を叩き付ける。
 ――アレはあってはならないものだ。
 言語を理解しえない獣ですら、触れてはならないものを理解する。人が作りしもの――早苗パンは、生物の概念を超越して生命の危機を想起させる絶対的な破滅であった。
 元より空腹は解消された。主人の家からここまでの道程、パンくずと言えども積もり積もれば充分な栄養となる。目の前の不可知な物体に興味はそそられるが、アレに関しては近付くだけで本能が撤退を強制する。
 猪突猛進――その格言を裏切るように、彼は軽やかに身を翻す。
 しかし、この時点で包囲は完成していた。
 朝霧に黒い銃身が光る。

 ――そして、銃声。

「ゴフー!」
 チィ、という舌打ちと同時に、猪の遥か頭上から数発の弾丸が続けざまに射出される。
 一発目は猪の後ろ足を掠め、二発、三発は威嚇に過ぎない。跳弾が目暗ましになってくれれば幸いというレベルだ。初弾で仕留め切れれば完璧であったのだが、ここ数年で腕も鈍ってきたようだ。
 だが、少なからず効果はあったようで、銃声と跳弾を喰らった猪は明らかに撤退の速度を緩めていた。
 狙撃手は速やかに看板の陰から地面に降り立ち、第二波を仕掛ける。
 銜えっぱなしの煙草の先に、細長い導火線を近付けて――。
「墜ちろ」
 猪の進路に向けて、爆竹を投下した。

 ――爆音が静寂を駆逐する。

「……ゴ……フっ」
 眼も眩む閃光と、耳をつんざく轟音。小刻みに破裂する炸薬を前にしても、サングラスを掛けた男は怯まない。
 人間には煩い程度で済むが、猪などの小動物となればその効果は計り知れない。それだけで戦闘不能に至らしめるほどの衝撃を与えてもなお、狙撃手は銃の照準を猪にセットする。
 全てはぼたん鍋のために。
「次は、食卓で会おうぜ」
 男は引き金を引く。




「――――ッ!?」
 危機感が獣だけの特権でないのだとしたら、男がその弾丸を認識できたのも道理に叶う。
 朝の静謐な空気を引き裂きながら、四角い衝撃は男の銃身を確実に捉えた。
 ――否、本来ならば顔面を襲撃するはずの一撃だった。しかし、男がとっさの判断で銃身を盾にし、最悪の事態を回避したのだ。
 腕に返ってくる弾丸の重みを知って、我に返り猪の位置を把握しようとした時には――。
 靄も霧も、何もかもが消え去っていた。チィ、と舌打ちしても、居ないものは居ない。
 ぼたん鍋計画は水泡に帰した。
「くそぅ……。誰だか知らねえが、俺の計画を台無しにしやがって……」
 もうすぐ4歳を迎える孫のために、この辺りでも珍しい猪の鍋を作ってやろうと思った。一度、路地裏で猪を見掛けた時から次こそはと計画を練っていた。
 しかし、それも終わり。
 男は足元を見下ろし、弾丸として射出されたミニ辞典を拾い上げる。
 ぺらぺらとページを捲っていると、あるひとつの文字に目が留まる。
 ――『ふじばやし きょう』
「まさか、こんなのを撃てる奴がまだこの町にいたとはな……」
 知らず、顔が緩む。孫や娘を見て浮かべる笑みではなく、戦士が好敵手を前にして自然と浮かぶ微笑。
 その笑みを抑えることが出来ないまま、最終地点に置いた早苗パンを手に取った。裏返せば、そこに七色の輝きを見ることが出来る。
 確かに、猪だけならば勝負は簡単に着いていただろう。孫に鍋を食べさせてやることも出来たに違いない。
 ただ、自分が新たな好敵手に出会うこともまた無かった。
「わりぃ、汐……。ぼたん鍋は、この次だ」
 硝煙の香り漂う戦場で、ひとりの狙撃手だけが静かに笑っている。
 男はパンを握り締め、まだ見ぬ魔弾の射手に向けて高く捧げた。
「おまえに……レインボー」
 東の空には、ほおずきのように紅い太陽が昇っていた。





−幕−







・突発的くらなどSS祭りSS第二段。「料理」とは微妙に掛け離れているような。
 擬音を入れようかどうかかなり迷った。「パン!」ってちょっと緊張感に欠けるかな、と。
 案外そうでもないのか、未だによくわかりません。時と場合にもよるでしょうが。



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2004年11月12日 藤村流継承者

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