夢で逢えたら

 

 

 最近、よく夢を見る。
 舞台はどこかの高校で、今思えば俺が昔通っていた高校だったような気がする。
 そこには背の低い女の子がいて、廊下を元気に走り回っていた。俺はその襟首を捕まえたり、たまに逆襲を受けたり、仔犬がじゃれ合うような遊びを繰り返していた。
 贔屓目に見ても、夢の世界は楽しかった。現実も捨てたものじゃないが、夢には夢の気楽さがあった。過去も未来も考えずに、いつまでも楽しく遊んでいられるのだから。
 だが、夢は覚める。
 そこで初めて、俺は夢を見ていたことに気付く。
 夢の中にいる時は、本当の現実のように振舞っていたのに。
 目が覚めれば、あれが夢だったんだと簡単に受け入れてしまえるなんて。
「……朝、だよなあ」
 目覚ましは、あと五分ほどで喚き始める。
 障子越しに浴びる日の光が、今日という日が無事に来たことを教えてくれる。
 一人の部屋は隙間が多い。逆に言えば、その分だけ何かを満たせるということだ。
 さあ、一日を始めようか。
 夜になれば、また夢を見ることが出来るだろう。

 

 

 最近、変わった夢を見るんですよ、と先輩の芳野さんに話しを振る。
 夢の話ほど、他人が聞いて面白くない話もない。けれども、芳野さんは茶々を入れずに黙って聞いてくれた。
 学校の校舎で、見慣れない生徒と遊んでいる夢。
 そいつには何か目的があって、必死に頑張っているのだが、俺はそいつをからかって遊んでいた。夢の中だけど、悪いことをしたなと反省する。でも、次に夢の世界で会う時には、自身を省みたことも忘れ、いつものようにそいつをからかって楽しんでいる。
「最近、その夢ばっかり見るんですよ。何かの暗示でしょうかね」
 初恋の人かもしれんぞ、と芳野さんは冗談混じりに言った。
 俺はすぐさま否定したけれど、もしかしたらそうかもしれない、と何時しか思うようになった。

 

 

 仕事を終えて、扉を開けても誰の声もしない。
 独り暮らしにも慣れ、独りであることにも慣れてしまった。それを悲しいとは思わないけれど、もし人生に分岐点があるのなら、ここではない別の道に進んでみるのも面白いと思った。
 他の道を歩いている俺の隣には、大切な誰かがいてくれるのだろうか。
 下らない想像だけれど、酒の肴程度にはなる想像だった。
 一番単純なのは、高校時代に恋人を作って、その彼女のために働いているという幻想。
 誰かがいれば、俺ももう少しだけ強く在ることが出来るだろう。きっと、必ず。
 最低限、酒に頼らずとも、胸にくすぶる虚しさと向かい合える程度には。

 

 

 その夢は次第に明確な形を帯びるようになった。
 けれども、ついに彼女の名前を知るまでには至らなかった。


 こんにちは。
 またあなたですか。
 自分でもよくできたと思います。


 誰だろう。
 不確かな世界だけれど、そこに自分がいるという自覚はあった。
 笑っている。笑っている。
 ああ、そこにいる自分は幸せだったんだ。
 あの時は知らなかったけれど、俺が過ごして来た時間は満ち足りていたんだ。
 何故か、それを思い出すことはままならないのだけど。
 記憶を閉じ込める鍵も、時間が経つにつれて徐々に錆び付いていき、しまいには夢の中に零れ落ちるようになった。
 懐かしい思い出を掬い取りながら、俺は、彼女の名前をずっと探していた。


 なあ。おまえの名前は――。


 業を煮やして尋ねれば、次の瞬間に夢は形を失ってしまう。
 リノリウムに輝く床が、音も立てずに崩れ落ちる。
 一人、現実の世界に落ちていく俺のことを、あいつは少し悲しそうな目で見下ろしている。


 また、会いましょう。


 夢は夢、現は現。
 その境を見誤ることはないけれど、せめて、あいつといられる時間がもう少し増えればなあと思った。

 

 

 休憩時間には、芳野さんに夢の話をすることが多くなった。
 適当に相槌を打っているだけだったが、話を聞いてくれているだけで十分だった。
 もしかしたら、芳野さんは俺が危うい状態にあると思っていたのかもしれない。
 だけど、今はそれでも良かった。
 あいつのことを話すのは、俺があいつを忘れていたことに対する贖罪であって。
 何より、こんな俺にも楽しいと思える時間があったという証明だから。

 

 

 星の形をしたそれは、見たまんま星にしか見えなかった。
 分かり切ったことだから、それはなんだ、と問うこともしなかった。
 でも、あいつに言わせればそれは大きな間違いだったようで。


 ヒトデです。


 自信満々に答えるあいつが、何故か頼もしく見えた。
 理由は分からないが、あいつはそれが本当に好きだったから、誇りを持ってヒトデだと答えられたのだろう。
 他人から指を指されようとも、だからどうしたとつっばねられるだけの信念を持っていたから。
 俺にはそんなものなんてなかったから、ほんの少しだけ、その姿に憧れてしまったのかもしれない。


 そうか。そりゃ良かったな。


 同情の中に、幾分かの憧憬を込めて。
 あいつがそれに気付いたかは分からないけれど、出来ればそうあって欲しい。
 誇らしげに胸を張り、本当に嬉しく笑っているあいつ。
 岡崎さん、と多少憎らしい声で告げるのは、間違いなく俺を知っているからだと理解した。

 

 

 喧しく喚き立てる目覚ましを、かなり乱暴に停止させる。
 寝惚け眼のまま部屋を見渡したところで、木彫りのヒトデなんぞある訳がなかった。
 無理もない。あいつが俺の知っている人間だという確証など、どこにもないのだし。
 疲れた身体は、いつも通り俺が生きていることの証。
 ならば、夢の中にいるあいつを証明する術は、一体どこにあるのだろう。
 そんな他愛もないことを考えながら、顔を洗うために洗面所へと急いだ。

 

 

 芳野さんの反応は、昨日までとは大きく違った。
 どこが、というほどはっきり変わっていた訳ではないが、相槌を打つ回数が少なかったのは覚えている。
 そして、自分も似たような夢を見たことがあると、衝撃的な告白をしたことも。
「本当ですか!?」
 思わず芳野さんの手をぎゅっと握り締めてしまい、鬱陶しいと強引に引き剥がされた。
 俺が落ち着きを取り戻した後、芳野さんは丁寧に語ってくれた。
 星としか思えない木彫りのヒトデを抱えて、そこらじゅうを走り回っている光景。
 俺とは違い、学校ではなく近所の公園にあいつは居たらしい。
 ……あいつ。あいつ。
 どうして、いつの間にあいつ呼ばわりが出来るようになったのだろう。
 芳野さんに、あいつが誰だか知っていますかと、答えられないはずの質問を投げ掛ける。
 答えなど、返って来ないはずだった。
 が。
「週末、家に来るといい」
 そんな、曖昧な言葉を口にしていた。
 呆然とする俺に、芳野さんは休憩時間の終わりを告げる。緩んだ頬を両手で叩き、改めて渇を入れる。
 仕事の時間だ。誰かに胸を張っていたいのなら、自分のすべきを成さなければ。

 

 

 蛍光灯を点けるのも億劫だったけれど、明日を考えてボタンに指を掛ける。週末まで、後二日。
 早く夢に落ちたい。深く考えると、眠り急ぐというのは堕落に近いような気もする。
 でも、夢に堕ちるのも詩的で素敵じゃないか。
 まして、独りで堕ちる訳じゃない。夢の世界には、会いたいと願う誰かがいるのだ。
 疲れた身体を投げ出したい衝動も、どうにかぎりぎりで我慢する。風呂、の前に夕食か。仮にも女の子と会うのだから、身だしなみは整えておかなければいけない。
 最低限の礼儀、というものが、当のあいつに出来ているかは分からないが。

 

 

 なのに、その日も、その次の日も。
 結局は芳野さんの家――つまりは、公子さんの家に行く前日まで。
 俺の夢に、あいつが出て来ることはなかった。

 

 

 記憶は不思議と徐々に思い出されて、実家から謎の彫り物を取り戻すまでに至った。
 これを渡そう。何と言われるかは分からないが、これ以上に贈るべきものもないから。
 芳野さんの家までの長い距離を、思いを巡らすためだけに歩いて向かう。
 雲ひとつない晴天に、妙な木彫りの何かを抱えた男か一人。怪しすぎる。ただ、散歩するのには文句の付けようがない天候だった。
 何か歌おうと思ったけれど、何を歌っても気持ちが落ち着くことことはなさそうだった。
 だから、淡々と何も考えないように歩いて行く。胸のうちには高鳴り続ける熱だけを置いて、希望や期待は心の片隅に寄せて。
 芳野さんは、家の前に立っていた。初めて見るスーツ姿は、お世辞でも何でもなく綺麗に決まっていた。けれど、その格好でいる理由が見当たらない。
 ――いや、見付けたくないから、そう思い込もうとしているのか。
 本当は、一張羅のスーツで行くつもりだった。だけど、それがどうしても嫌で、普段通りの私服にしたのだ。
 なのに今は、虚勢を張っているのが自分でも分かる。
 それでも、逃げ出すことはなかった。
「おはようございます」
「ん、おはよう。良い天気だな」
 目を細め、芳野さんは容赦のない日差しを仰ぐ。
 憎らしいのか、呆けているのか。長くを生きていない自分には、まだその意味は分からない。
 芳野さんに促されて、玄関に上がり込む。途中、公子さんの姿が見えた。小さく会釈をして、廊下を通り過ぎる。
 誰も、何も言ってはくれなかった。家の空気は決して重たくはなかったけれど、息を吸うたびに、得体の知れない虚しさが胸に広がっていくようだった。
 廊下は唐突に終わり、正面にドアが待ち構えている。芳野さんは、俺に開けるよう目で訴えた。
 頷き、恐る恐るドアノブに手を掛ける。
 現実では、会いたい人に会うのがこんなにも辛いものなのか。夢の中では、あんなに楽しく振舞えていたのに。
 分かっている。これが現実だということは、最初から。
 取って付けたような救いなど初めから存在しない。あるのは、ただの夢や幻なのだ。
 だが、それでも救われたような気がする。
 救われたのが、俺か風子かは最後まで分からなかったけれど。
 俺は、ドアを開けた。

 

 

 ありがとう、ございました。

 

 

 それ以上は、一歩も動けなかった。
 位牌の前に崩れ落ちて、掛けられる言葉もなく、彫り物を抱えて泣き続けていた。
 額を床に押し付けて、熱いものが染み渡って行っても、今更とめることは出来ず。
 芳野さんは何も言わないし、慰めもしない。ただ、俺の横に突っ立っていた。
 花が、たくさんあった。そして、ヒトデのような彫り物もたくさん。
 その中に、俺がもらったものも置こう。
 そう思ったけれど、今は無理だった。
 ずっと忘れていた自分が悔しくて泣いているのか、風子のことが悲しくて泣いているのか、その両方なのか全然分からなかった。
 ごめん。
 忘れないと、約束したはずなのに。覚えていてほしいと、頼まれたはずなのに。
 ごめん――。
 許されたかったのか、それとも責められたかったのか。それは今も分からないけれど。
 ごめん、と。
 裏切り続けていた風子の想いに、俺はようやく気付くことが出来た。
 だから最後には顔を上げて、胸を張って彼女と向き合おう。
 そこに彼女の幻影しかないのだとしても、この心に確かな形があるのなら。
 俺は、仏壇に一歩近付く。かすんだ視界を無理やり拭って、その遺影を心に刻みつける。
「……久しぶり」
 お帰りなさい、という声は聞こえなかった。
 今はまだ、身体の震えもとまらず、零れて来るものを抑えることも出来ないけれど。
 伊吹風子という女の子に出会い、そして再び巡り合えたことを誇りに思う。
 掌を合わせ、目蓋を閉じても楽しいことしか思い出せない。自分勝手な願いだと思うけれど、風子もきっとそうであってほしい。
 だから、俺の夢なんかに出て来てくれたんだと、そう思いたかった。
 だから。
「……ありがとう、な」
 俺はグシャグシャになった眼を開けて、無骨な彫り物を遺影の横に置いた。
 そうして、長い、長い物語は終わりを告げる。
 この物語を無闇に引き伸ばしていたのは俺だから、責任を持って幕を下ろそう。
 部屋の中は、異様に蒸し暑かった。
 とても静かで、彼女がいるとは思えないほど穏やかで。
 写真の中で笑っている彼女と、夢の中で笑っていた彼女を見比べても、そこにはっきりとしたものを見出せなかった。
 幸せだったのか、それを俺が決めることは叶わないのだけど。
 出来れば、そうであってほしいと願った。

 

 

 以来、俺の夢の中に風子が出て来ることはなかった。
 けれど、俺の中にいる風子はいつも気楽に笑っているから、それでいいのだと思う。
 風子の幕が引かれても、俺たちはこれからも演じ続けなければならない。
 風子の思い出を糧に、時には笑い話にしながら、最後までこの道を歩き続けて行く。
 なぁ、これでいいよな――。

 

 

 ――風子。

 

 

 

 



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2005年9月16日 藤村流

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