君の吐息に恋してる
心地よい熱を感じている。温かく、それでいて甘く刺すような刺激が快感を誘う。
喜びに吐息が漏れる。休息に身体全体が安らんでいく。満たされるように、疲労が散らされていく。
ここには誰も居ない。
あえて、あたしはそういう場所を選んだ。人ごみは別に苦にもならないが、ひとりになりたい時は誰にでもある。あたしの場合、ひとりになれる時間が本当に限られているから、余計に孤独であることを欲してしまうのだ。
でも、あたしだって、好きでひとりになりたい訳じゃない。
もし、出来るなら――。
「――て、何を考えてるんだ。あたし」
ちゃぷん、と水面から手を伸ばし、湯に当てられた頬をさする。
頭に乗せたタオルは、いつまでもじっとしているあたしに乗っかったまま。日ごろの疲れを取るための温泉なのだから、男子寮にいるときみたいに忙しなく動き回る必要はない。
せっかく取れた休み、それを丸々使っての温泉一人旅なのだから、ゆっくりじっくり身体を休めないと大損である。
かといって、湯に浸かったままずっと同じ場所に座っているのも酔狂な話だ。
だけど、滑らかな岩に背を預けて、赤く成り始めた葉っぱを眺めているのも風情がある。少しぐらいのぼせたとしても、それはそれで温泉の醍醐味というものだろう。
「――――はぇ――――」
気の抜けたため息が漏れる。どことなく満たされた気持ちで、肩まで浸かっていた身体を更に屈めて、顎にお湯が着くまで沈んでみる。一瞬、頭がふわっとなって意識が飛びそうになったが、こめかみを刺激したらなんとか元に戻った。
そして、あたしはちょっとだけ低くなった視界を堪能する。
うっすらと立ち込める湯気の向こうに、憎たらしいくらい青い空が見えた。雲ひとつない蒼天、だけども上っては消える湯煙が雲の代わりになる。
首を巡らすと、まだ青い樹木が湯気のせいで潤んでいるのがわかる。手を伸ばしたら簡単に届いてしまいそうなほどの自然に、しかしあたしは手を差し出すことはなかった。ただ黙って、溺れるように身を沈めているだけだった。
「なんだかねえ」
耳を澄ませば、ちろちろと遠くの方で川のせせらぎが漏れ聞こえる。上流の川だから勢いには欠けるが、小さいからこその自然の響きが確かに伝わってくる。
ちゃぷ、と手のひらだけを浮上させる。生命線が少し長いだけの手を、水面に浮かべてみる。
身体ごとまとめて熱せられた手のひらは、不恰好なもみじ。それを肴に呑む酒なんてないけれど、それを見て楽しむぐらいの心の余裕はある。
なんだかんだで、あたしは嬉しいらしい。
癒されて、楽しんでいることを、あたしは認めなくちゃならないようだ。
「……まあ、いいんだけどね」
自分に言い聞かせるように吐いた言葉にも、説得力なんてありはしない。
「はぁ……」
零したため息も、今だけは湯気を吹き消すくらいの意味しかない。疲れて、呆れて、それでも必要とされることに満たされて吐いたため息より、遥かに軽い吐息。
それは、自分のために漏らすため息だった。
幸せに呆れ、喜びに溢れた吐息。
そんなもの、もう吐くことなんかないと思っていたのに。ふとした時に漏れてしまうのは何故だろう。
「ほんと、年取ったねえ。あたし……」
こんなどうでもいいことを真剣に考えてしまうのは、紛れもなく年を重ねてしまった証拠である。
つまらないことに拘泥して、いつまでも同じ場所でうずくまっていじけている。
それは、どうしようもない――。
「子どもじゃん……」
呆れる。今度こそ、呆れ果ててため息を吐く。
外面だけ年齢を積み上げて、内面は自他ともに認める意地っ張りな子ども。無くしたものが見付かるまで、ずっと町中を探し回って泣いている子どもだった。
あたし自身、その子どもであることに慣れて、それでもいいかと開き直っている。
少なくとも、探している限りは諦めたことにはならないから。
ちゃぷん、と水面を跳ねる手のひら。
「……あー、そろそろやばいかな」
どうもヘンなことを考えている気がする。自分が子どもだとか、そんな自虐的なことばかり考えているのでは身体が休まる暇なんてない。
長い間お湯に浸りすぎていたせいか、身体は熱を感じづらくなっていた。もう頭が熱いとか頬が火照っているとか細かい知覚は伝わってこない。
ただ、今の自分が危ないということだけは理解できる。
このままじゃ、どうも自分を保てそうにないということも。
ゆっくりと身体を起こし、やや痛みのある頭を押さえる。やはり相当血が上っているようだ。気持ちいいからといって、いつまでもバカみたいに浸かってるもんじゃない。
「あー……」
立ち上がると、ほのかに吹いてくる微風をまた心地よく感じる。必要以上に上がったあたしの頭を思い切り冷ましてくれそうだ。
だけど、そのうちに湯冷めして風邪を引いてしまいそうではある。見切りをつけるタイミングが大切だ。下手に長引かせると、元の状態に戻るのがちょっと――いや、かなり大変になる。
仕方ないので、あたしはよろめきながら温泉を脱出する。これ以上は無理。あとは夜か明日に取っておこう。
誰もいないからいいものの、自然の中にタオル一枚、しかもどこも隠さないで佇んでいるというのも、よくよく考えると異様な感じである。あたし、なんか知らないけど無駄に大きい箇所があるから、温泉などでもかなり視線が集中する――というか集中砲火を浴びることがよくある。ていうかあたしのせいじゃないし。誰に大きくしてもらったの? とかいう輩もいるけど、誰にもされてないからさ。
されそうになることはあるけど、大体足腰立たなくしてあげるし。関節技で。
「……はぁ。結局、あいつらのこと思い出しちゃうのね」
つくづく自分は世話焼きたがりのようだ。この小旅行の間だけは忘れ去ろうと決意していたのに、初日でこれとは情けないやら何やら。どうも、日本人でありがちな何もしないことが出来ないタイプの人間らしい。
でも、それはそれで。
他人のために吐くため息も、それが満ち足りている証拠ならば多少は愛せるというものだ。
自分のために吐くため息は、それが空っぽである証明ならばあんまり必要じゃない気もするし。
ふらふらと、温泉に背を向けて歩き出す。
足取りは頼りなく、方向も定まらないけど、それでもあたしは後ろ髪を引かれながらでも帰る。
何もかもが変わらずにはいられないけれど、昔の光景を忘れられないにしても、何度も何度も振り返ってさえ。
ため息のつける場所へ、あたしは帰ろう。
−幕−
・当初の予定よりシンプル化。
くらなど祭り2−2お題「お風呂」にて美佐枝さんSSが無かったことを受けて作られたもの。
我ながら即興だなあと思わせる出来(一時間)。
SS
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