イージーライダー
アクセルに掛かった指はとっくの昔にかじかんで、マフラーに包まれた首筋にも肌寒い風が舞い込んでいる。
夏場なら半分くらいずらしてあるヘルメットも、泣き出しそうな冬空の真下では、きつくベルトを締めないといけない。遮光ゴーグル越しに見える薄い茶褐色の世界が、普段自分が生きている世界とは一線を画しているように感じる。
それが他愛もない錯覚と、理解してしまっている自分にちょっと自己嫌悪。
「――、――」
鼻歌は、耳に届かない。
時速三○km超過の抵抗風を浴び、最低の体感温度と最高の疾走感を得て、その後に彼と出会えたらいい。待ち合わせの場所まであと少し。右手の関節をわずかに軋ませて、手首を捻った分だけ広がった手袋の隙間に風が吹き込み、不意に整った顔を引きつらせた。
「――――、――!」
鼻歌は、本気の熱唱になった。
持ち歌は全部流行りの歌で、目に映り、耳に聞こえる歌が先生だ。彼女は自分の歌が下手だなどと微塵も思っていないから、わざわざ確かめようともしない。絶対の自信と言えば聞こえはいいが、実際は下手だ何だと難癖を付けられるのが嫌なだけだった。
本当は、自分に自信なんて無かったのだ。
妹に比べても、恋人に比べても。いや、恋人に負けるのは気に入らない。よりにもよって、青春の真っ只中に人生を諦めているようなのに敗北を喫しているなどという事実は、彼女のみならず彼の悪友でさえも思わず否定したくなる現実だろう。
だから、ほんのちょっと力を振り絞って。
ブレーキは掛けず、スピードはとうに制限速度を越えている。
曲に合わせてタップを刻み、熱演は風音を突き破り鼓膜の内側まで。本気になれるものはまだまだあるはずだ。例えば。
視界の端にぽつんと佇む、見知った青年とか。
彼女の照準は、間違いなく彼に合った。
「――」
問題はない。
速度超過の赤い点滅が煩わしい。ブレーキは間に合わないが、何、死ぬ訳でもないだろう。多分。きっと。
過去に何度か同様の接触事故を起こしたことがあるけれど、その際も特に問題はなかった。彼女が事件を揉み消したという経緯もあるが、それは起こらなかった事故とされているからこれまた問題はない。
ぐい、と彼女はハンドルを切り。
「……ん?」
けたたましい排気音に反応した男が、面白いように灰色の空へと飛んで行った。
ヘルメットを外した直後、温もりの残る額に鋭いチョップが命中した。
「いたっ」
「痛えのは俺の方だろ、たく……」
腰を押さえながら、パーカー姿の青年が一人ごちる。
幸いにも、軽く二mほど飛ばされた程度で大事には至っていない。これもまた有り触れた馴れ合いであると彼女の方は認識しているが、彼との間に見解の相違があるのは火を見るより明らかだった。
「ごめんごめん、勢いが余っちゃってー」
照れ隠しに冗談ぽく舌先を出しても、彼の機嫌を直すまでには至らない。
「……お前、その性格いつか人殺すぞ」
「それ朋也のこと?」
うぉん、とアクセルを吹かしながら一言。
朋也は、引きつりながらも殊勝な笑みを浮かべていた。
待ち合わせの場所にいるのは二人きり。学校の校門前、冬休みに入っているこの頃は生徒の姿も少ない。そも、今日は午後から雪が降るのではという予報だった。電話で呼び出された朋也も、何故こんな日に出掛けなきゃならんのだと受話器越しに口を尖らせていたが、
『あ?』
たった一語、愛しい恋人の脅迫にも似た要請により、あえなく寒空の下に躍り出る羽目になったのであった。
杏がやって来た今もなお、朋也には呼び出しの目的が分かっていない。
無論、杏でさえ明確な目的を持っていないのだから、知り得ないのも当然と言えば当然なのだが。
「……で、これからどうするんだ?」
「んー……。朋也はさ、どうしたい?」
「そうだな」
腕組みし、小さく溜息をひとつ。
「最近、とみに寒いからな……」
「うんうん」
「抱きたい」
直接的な懇願は、より直接的な抵抗によって無残に砕け散った。
ヘルメットが痛い。
「ばか」
「馬鹿は春原の代名詞だろ」
「あんたの二つ名でもあるじゃない。三年来の」
「何故そうなる」
上手く頭にヘルメットを乗せながら、器用に憤慨する朋也。杏が引っ張って確認しても、特に外面がへこんでいる訳でもなく、単に朋也の頭が変な形をしてるんだなと納得することにした。
「だってよ、寒いんだから仕方ないじゃん」
「猿じゃないんだから、もうちょっと順序ってのを考えなさいよ」
「なんだ順序って」
身を切るような寒気に鼻をすすりながら、朋也は杏を見る。
ゴーグルの向こうに映る茶褐色の恋人は、やはりいつものようにやさぐれて見えた。
「それは、ほら……。いろいろあるじゃない?」
「ねえよ」
「あるの!」
だん、とバイクの足場を踏み付ける。紅潮する顔が、照れのせいなのか怒りのせいなのかよく分からない。ただ、原因が朋也であること以外は。
「いいから、後ろに乗りなさい!」
「何故」
「ヘルメットもあるから」
「人の話を聞け。というか原付は原則二人乗り禁止な」
シートの裏から甲斐甲斐しくヘルメットを取り出す杏に、何を言っても止まらないことは分かっている。だが言わずにはいられない。言ってやらないと分からないことがある。それは、何にだって言えることだ。
結局は、ピンク色のやや恥ずかしいヘルメットを受け取ることになるのだが、結果は同じでも過程が違うならそれでいい。負け惜しみでなく、朋也はそう思う。
「さ、乗って」
「どうしてもか」
「どうしても」
「結果的に、俺はお前を後ろから抱くことになるが」
「……だから、順序があるって言ったでしょ?」
「そうだな」
頷く。
「普通、男が運転するもんなんだけどな」
「しょうがないじゃない。朋也はへたれなんだから」
「へたれ言うな」
愚痴りながらも、ヘルメットを装着して杏の後ろに陣取る。杏も、外したばかりのヘルメットを付け直す。
杏がいくら前に詰めても、どうしたって二人の席は狭くなってしまう。寒さで多少は硬くなっているものの、やはり人間の身体は柔らかくて温かいものである。
と、似たようなことを二人は思った。
そんなことは、昔から分かっていたはずなのに。
低くくぐもったエンジン音は、心臓の鼓動や激しい脈拍を適当に誤魔化す。身体が熱く、頬が火照っているのは、相手の体温のせいに出来る。
「杏」
「……何よ」
「やっぱり、手は胸に回した方が取っ掛かりが良っ!」
後方側面への鋭利な肘鉄は、ほぼ的確に朋也の顎を打ち据えた。バックミラーからは、物理的に首を捻らせている朋也が窺える。
「お腹とか腰とかに決まってんでしょ、ばか」
「……はひ、すんませんした」
「分かればよろしい」
告げて、アクセルを一閃。
鳴るアイドリングと、腰回りに若干怪しい手付きを確認し、背中に感じる逞しい熱をガソリンにして。
目的もなく、そこいらを気ままに旅しよう。
安易だけれど、どうしようもなく本気の旅を。
「さあ行くわよー!」
「ちょ、おまえマフラーが俺の口にー!」
暑苦しいのがちょうど良い、泣き出しそうな冬空の下で。
OS
SS
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