辞書を開けたら蛍光ペン

 

 

 

 ある日、それは当然の事ながら授業中に調べたい単語があって辞書を開いたら、さも初めから引かれていましたと言わんばかりに濃い太字の蛍光ペンで、卑猥な単語ばかりざっと百以上線が引かれていた。
 一目で分かる。
 ここまで来ると恋する乙女のような勘の鋭さだが、これは単に腐れ縁による合理的な類推である。
 間違いない。
 杏は、机に突っ伏しながら確信する。
 春原陽平だ。
 うわ……やっちゃおうかな……。
 次にすれ違ったら、訴訟沙汰に持ち込まれかねない懲らしめ方をしそうである。現生徒会長の巧みな手腕により被害者家族の提訴が取り下げられる可能性は十分に考えられるが、またつまらぬものを投げてしまった、が杏の決め台詞になってしまう虞もある。ゆめゆめ注意しなければならない。
 よし。
 杏は腹を決めた。
 次にすれ違ったら、事故を装って屋上から突き落とそう。
 花壇の上に落ちるだろうから、助かるに違いない。うん。
 シュミレーションは完璧だった。
 だが、考え事をしている最中に担当の教師に異状を悟られ、辞書を覗き込まれた挙げ句、蛍光ペンに彩られた「こけし」の文字をまじまじと観察された。
 とりあえず、春原はコンクリートの方に突き落とされることとなった。

 

 

 結果、春原は下の階のベランダに不時着して事無きを得た。
 期せずして惨劇の目撃者になった岡崎朋也は、健やかに汗を拭っている加害者におそるおそる声をかけた。
「コンクリートの方に落とせばよかったのに」
 志は同じだった。
 腕を組む。
「まぁ、春原にも家族はいるだろうし。死んだら線香の一本も立てなくちゃいけないし、そうしたらお坊さんがお経読んでる間はずっと正座しなくちゃいけないし……」
 変な方向に逸れてきた。
 朋也は話を戻した。
「なぁ、その辞書……」
「朋也は、花壇の方に落としてあげるから」
 墓穴を掘った。
 朋也はたじろぎ、ひとまず正中線をずらしてみる。あまり意味はない。おそらく、肉弾戦でも敵うまい。それほどに藤林の壁は厚い。ちなみに、胸の壁もなかなかに厚い。
「冗談よ」
 すぐに取り下げ、辞書を肩に担ぐ杏に獣としての畏怖を感じる。
 簡単に言うと、超こええ。
 今の思考が読まれていたら――そう思うだけで、メシが三杯はいける。カロリーが消費されるという意味である。
 昼食時にもかかわらず、屋上に人の姿はない。風は既に冷たく、呑気に素肌をさらしてお弁当だ何だと騒ぎ立てる季節は過ぎた。
 ふと、杏が憂いを帯びた表情を浮かべる。秋風に髪が揺れ、独創的な髪型が不意に乱れた。
「辞書を投げるのも自粛した方がいいかもしれないわね……指紋が付くし、まかり間違って通りすがりの岡崎朋也に当たったら不幸じゃない」
「なんで俺限定なんだ」
「岡崎朋也futuringヨウヘー・スノハラとかじゃないの」
「別にフューチャーするところもないだろ。このご時世にボンバヘ一筋だぞ」
「そういうところは一途なのにねえ……」
「ところで、フューチャリングってどういう意味だ」
「いや知らないけど」
 風が吹いた。
 朋也は、杏が抱えている辞書を指差す。杏がぽんと手を叩く。
「たく、そのための辞書だろ。開かない辞書なんてのは、飛ばない春原のようなもんだ」
「飛ばない春原はただの豚だってこと?」
「それは、豚に失礼だと思うぞ」
 それもそうねえ、と顎に指を掛ける。
 仕草のひとつひとつは女らしいのだが、行動原理が血と辞書と破壊に満たされているためか、どうも見るべきところが少ない。前述のようにスタイルはよく、朋也から見ても及第点と言える。
 だが、例えは悪いが乳牛を見ても興奮しないように、杏と絡んでもあまり女性と接している印象を受けない。
 春原が屋上から突き落とされている光景を目の当たりにすれば、百年の恋も一瞬で冷めようと言うものだが、春原に関して言えば朋也と杏の認識はおおむね共通しているため、与えるべき軽蔑も賞賛もない。
 当たり障りのない日常の1コマである。
「さて、春原の追悼番組も終わったところで、その辞書に引かれた卑猥な語句をひとつひとつ見て行くことにしたいと思うんだが」
「確かに陽平が天国で元気にやっていけるよう適当にシュミレーションしてちょっと失敗したところだけど、この辞書を開いたが最後、超自然的な因子によって屋上は木っ端微塵に砕け散ると思うのよ」
 双方、一歩も退かずに睨み合う。
 舞台を整えるように風が吹き、次いで屋上の扉が開かれた。
「ひどいよッ!」
 春原の帰還である。
 見事な春原ダイヴを決めてからものの数分と経っていないのに、凄まじい回復力である。ただ、首が据わっていないのか、若干明後日の方向を向いて話さざるを得ないようだった。
 金髪が風になびく。
「……おまえが来たから、何の話をしてたか忘れた」
「飛ばない春原はただの豚ってところ?」
「だからそれは豚に失礼だと」
「いちいち繰り返さなくていいよ! ていうかわざと言ってますよね!?」
「ああ」
「うん」
「悪びれもせずに!?」
 頭を抱える。
 けれども向いている方向が逸れているからいまいちツッコミに威力がない。朋也は強引に話を戻した。
「杏」
「嫌よ」
 断られた。
 ついでに、ノーモーションで辞書を顔面に押し付けられた。
 いわゆる、辞書ナックルである。
 非常に重く、人体によくない影響を多々与えると考えられている。実際、とても痛い。
「……痛え」
「あたしの心の痛み……これしきのものじゃなくてよ」
 口調が変わっていた。
 多少、瞳もきらきら輝いているんじゃないかと思ったが、やはり錯覚だった。
 芸達者である。
「仕方ない……これだけは、したくなかったんだがな」
「な……何をする気なの」
 ごくり、と杏が唾を飲み込む。
 なんだかんだと、付き合いがよくて助かる。
「春原」
「なんだよ」
 首が動かせないため、身体ごと朋也の方に向ける。
 動きがいちいち不気味だったが、これも春原の個性と飲み込んで、決定的な質問を投げかける。
「杏の辞書に引いた単語はどれだ」
「あぁ、それはねぇ――」
 耳鳴りがした。
 糸を引くように、杏の手のひらから辞書が射出される。軌道は真一文字の直線に、ソニックブームが発生していないのが不思議でならなかった。
「ぶぅ――!」
 悲鳴は断絶する。
 既に大きく曲がった春原の首に、杏の辞書砲によってどれだけの負荷が掛かったのかはわからない。だが、吹き飛ばされた春原が数秒もせずに立ち上がったところから察するに、致命的な衝撃には至らなかったと見るのが適切だろう。
 忘れてならないのは、杏が芸達者であるように、春原もまた彼女を凌駕するくらいの芸人であるということだ。
「ふ、ふふふ……ふははは!」
 春原が笑っている。
 その腕に、杏が撃って間もない辞書を抱えて。
 首は九十度ほど曲がっているが、前世が草食動物なのかあまりに苦にしている様子もない。横歩きするのに便利そうだ。
「愚かだね……あぁ、実に愚かだ! まさか、杏ともあろうものが二度も同じ過ちを犯すなんてね!」
 こちらも口調が変わっている。
 杏は怒りに打ち震えている。けれども何の怒りかは判然としない。春原の侮辱に対する怒りか、はたまた不覚を取った己に対する怒りか。
 朋也は、この話に関係ないからコンビニのおにぎりを食べていた。
 海苔が美味である。
「まさか、そのためにわざと撃たれたって言うの……!」
「ふふ……そんなの、偶然に決まってるじゃないか!」
 正直者だった。
 だが、いくら間の悪い男でも、引き際だけは誤らないようだった。
「ここからなら、僕の方が早い――!」
 一目散に、屋上の扉へと駆け出す。
 杏も必死に手を伸ばすが、闇雲に伸ばした手が掴めるのは空気だけである。歯噛みする。これでまた、杏の辞書には卑猥な語句にだけ蛍光ペンが引かれるのか。それはそれでからかい甲斐があるからどっちでもいいか、と朋也は思った。
 明太子がうまい。
「ふッ――!」
 それはどちらの笑みか。勝利を確信した時に笑う者は敗北する運命にある。だが、その声を発した杏は、単に勇ましく掛け声を放っただけだった。
 むしろ、笑んでいるのは春原の方だ。
 直角に曲がった首は、いやがうえにも敵である杏の方を向いてしまう。だから、見えてしまった。その手に装填された新たな弾丸を。夜空に瞬くはずの星が、何かの間違いでとある芸達者な女子高生の手に収められている。
 春原は覚えていた。
 杏も、また朋也も覚えている。
 あれが、星ではなく。
「ひぃ――ッ!」

 ヒトデである、ということを。

 流星が、人の身に落ちた。

 

 

「また、つまらぬものを投げてしまった……」
 この世の不浄を嘆く杏の言葉は、朋也の左の耳に入り右の耳から抜けて行った。
 地に落ちた辞書が、吹きさらしのコンクリートを洗い流すように吹きすさぶ風にぱらぱらとめくられる。
 その中に、蛍光ペンで引かれた「sex」や「brest」があったことを、敗者として打ち捨てられた春原だけが知っていた。

「なあ」
「でもコンニャクはちょっと……て、なによ。ひとが余韻に浸ってるのに」
「おまえも、こけしがなんで卑猥な単語に選ばれたのか知ってるんだな」
「……」
「コンニャクもわりと卑猥だぞ」

 杏は、朋也の頭をわりと強く殴った。
 世間は、杏に同情的であったという。

 

 

 



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2006年12月14日 藤村流

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