杏とキャッチボール





 毎日をなんとなく過ごしていると、ふと思い付きで行動してしまうことが多々ある。
 俺は放課後の誰もいない校庭に立ち、前方200mあたりで手を振っている少女を黙って見ている。場合によっては学校帰りの仲良しこよしバカップルのように見えるかもしれないが、実態はそんな生半可なものではない。
 ある意味、筆舌に尽くしがたい異様な状況であると言えよう。それを認めるのは、いくら離れているとはいえ目の届く範囲に藤林杏がいるから無理な状態ではあるが。
 あっちが変わらずに手を振り続けているので、俺も準備が出来た合図として左手を挙げる。
 それを確認した杏は、右手に四角いものを掴んだ状態で大きく肩を回す。
 一歩二歩、その身を後退させたかと思うと、次の瞬間にはプロもかくやという投球モーションで、その四角く硬い広辞苑改訂第三版を射出した。

 ――おまえの辞書、一体どのくらい遠くまで飛ばせるのかな。

 これが発端。
 毎度のごとくバカをやって、杏の辞書投擲により日常生活に支障を来たす状態に陥った春原を見て、俺が不意に呟いた言葉だ。
 前回は廊下のドアから教室の窓まで、今回は廊下の端から端まで、射程範囲はおよそ50mほど。それでも十二分に人間離れしているのだが、俺はふとその限界を知りたくなった。尤も、そのときは単なるぽっと出の好奇心であって、まさか本当に実験に至るまでの本気では無かったのだが。

 ――それ、おもしろそうね。

 何故か乗り気になってしまった杏に引きずられる形で、その日の放課後にこうして付き合わされている訳である。あいつも自分の限界を知りたかったらしい。
 春原もかなり唐突な人種だが、杏も杏でなかなかの――。
 ――と、思考はそこで遮られる。
 俺と杏を繋ぐ白線のおよそ中間地点に、硬くて重いものが落ちた。
 距離にして約100m、硬球でも三桁に届かせるのは相当の鍛錬を必要とするので、それを角張った物体、しかもボールより何倍も重い辞書で成せるのは脅威という他ない。
 というか。

「……あいつ人間かよ……」

 春原もたまに人間かどうか疑わしい状態の時があるが、杏はまた意味合いが違う。
 その杏は、辞書が落ちた位置と自分の腕を何度も何度も見比べ、しまいには腕組みして首を傾けてしまう。どうもしっくり行かなかったらしく、おかしいなーと呟く声が聞こえた気がした。
 ……今でも充分おかしいのに、これ以上の業を見せ付けるつもりなのか、あの女は。
 正確に計測するのもバカらしい結果だが、俺は一応手持ちのメジャーで自分と辞書の距離を測る。本来は杏のいる位置から測り始めた方が楽なのだが、杏は当初から『100mは確実に越える』と宣言していたので、あんたの方が近いんだからそっちで測ってよという話なのだ。面倒な。断らない俺も俺だが。
 メジャーに小さな杭を刺し、メジャーを持ったまま辞書のある位置まで引っ張っていく。杏も正確な計測結果を知るために近付いて来ているが、なるほど彼女の言うとおりに俺の方が早く着きそうだ。
 やがて、その場所に辿り着く。俺のいた位置から白線までは約90m。杏と辞書の距離は約110m。
 辞書は白線からやや左に逸れた場所に、背表紙をこちらに向けたまま悲しく落ちている。本来の使用目的とは掛け離れた自分の姿に涙しているのだろうか。勿体ないおばけに憑かれるぞ、そのうち。

「あ、結果出た?」

 杏が辞書を拾い上げ、砂にまみれた部位を叩きながら言ってくる。俺は適当に頷き、「110m」と結果だけを報告した。

「……やっぱり、そんなもんなのかしらね。昔はもっと投げられたと思うんだけど」
「いや、個人的には限界を越えられても困るんだが」

 なにしろ被害が直結するので。
 まだどこか納得のいかない杏は、辞書を脇に抱えてうーんと唸っている。
 ……別に、その姿に思うところがあった訳でもないんだが。

「辞書でそれなら、普通のボールだったらどうなんだろな」
「……やってみる?」

 ふふ、とむちゃくちゃ含みがありそうな笑みを浮かべる杏さん。  いや、それで200m越えられてもリアクションに困りますけど。

「それよりボールが無いだろ」
「あるわよ」

 どこからともなく真っ白なボールを取り出す杏。入れ替わるように辞書の姿が無くなったということは、杏の懐はやたらと深いらしい。

「……やんのか?」
「ま、どうせすることもないしねー。暇つぶしにしたって、一人でするのと二人でするのとじゃえらい違いだし」
「……それじゃ、またあっち行かなきゃならんのか……面倒くせえ……」
「あんたが言い出したことじゃない。さっさと動く――って言いたいところだけど。別に行かなくてもいいわよ」
「……へ?」

 なんか変な声が出てしまった。

「えーと……投げるん、だよな? ボールを」
「そ。投げるわよ、ボールを。でも、距離を測るわけじゃないからそんなに遠ざかる必要はないってこと。何も全力で投げ合わなくてもいいでしょ」
「……それはキャッチボールと言わんか?」
「言うわね」

 あっさりと言い放つ。
 だが、このキャッチボールには盲点がひとつだけ存在する。

「つーか、グローブがないだろ」
「まー、なんとかなるんじゃない?」
「ならねえよ。おまえの剛速球を受ける俺の身もなってみろってんだ」
「そんな速くないから大丈夫よ」
「……110mもの飛距離を叩き出しておいて、何をいまさら」
「あれは辞書だから出来たのよ、ただのボールじゃ無理だって」

 あはは、と気恥ずかしそうに笑う。
 普通の人間は辞書の方が遥かに無理難題なのだが、そこはつっこまないのが賢者の思考である。誰しも、愚者代表の春原のように顔面陥没の憂き目には遭いたくない。

「……じゃあ、どんくらい離れてりゃいいんだよ。90mか、80mか?」
「んー、10mくらいでいいんじゃない?」
「な……! おまえ、俺に永眠しろってのか!」
「死なないわよ。だって――」

 言うが早いか、ボールを掴んだ杏の肩が半回転し、5mの間もない俺目掛けて射出される。
 ……あ。

「あほかぁぁぁ――!」

 いやだー! こんなところで死ぬなんてダメだし、何よりギャグな展開で死ぬのはもっといやだー!
 とかなんとか、走馬灯について黙考して現実逃避しているうちに、白球が脳天を吹き飛ばす――かと思いきや。

 ――こつっ。

「てっ」
「あ、ごめん」

 絶対に悪いと思ってなさそうな声で、杏が告げる。
 頭に残っているのはわずかな衝撃の残滓、あとは浮かんで消える走馬灯の数々。
 地面に転がっているのは白い球、おそらくは杏の腕より放たれて俺の頭に着地した無邪気な凶器。
 ――いや。
 人を殺せなかった凶器など、もはや凶器ではない。
 なんのこっちゃ。

「……あの、杏さん」
「何よ? 改まっちゃって」
「全然、威力が違うんですけど」
「まー、ボールだからね」
「いや、意味わかんないし」
「死ななかったからいいんじゃない?」
「そういう問題でもない」

 あくまで笑い事にしたい杏だが、俺には無理だ。
 辞書だと良くてボールじゃダメなのか、その理由が知りたい。
 ……そんな気もするし、知らなくてもいい気もする。なんかこう、世界の法則というか、深入りしない方がいいこともあるのだ。きっと。
 だから俺は追及しないことにする。

「さっきのはちょっと狙いが狂っちゃったのよ。ごめんね」
「……なんだよ、素直に謝って。杏らしくもない」
「いや、ね? 子どもの頃は、手加減が出来なくて校舎の壁をへこませたりしたこともあるから、気を付けないといけないのよね」
「…………」

 ボールを手の中で回しながら、事も無げに言い放つ。
 前言撤回。
 この女、辞書でもボールでも人が殺せる。

「ていうか、子どもの頃ですら壁を破壊するって何なんだよ……」

 激しく項垂れる。
 俺は本当にこいつと友人でいていいのだろうか。いつか謎の刺客に闇討ちされるんじゃなかろうか。
 杏はそんな俺の苦悩を知る由もなく、ボールを宙に放り投げては反対側の手で捕球している。

「さぁ、日が落ちないうちにやっちゃいましょ」
「……あの、さ」
「うん?」
「遺書……書いてもいいか?」

 はぁ? と杏が素っ頓狂な声を出す。俺はあくまで本気なのだが。
 ――どうか、つつがなく明日の朝を迎えられますようにと。
 心の中で小さく誓って、俺は力強く右腕を突き出した。

「よし来いっ!」
「いい度胸ね……。それじゃ行くわよ――!」

 大きく振りかぶり、プロ顔負けの投球モーションで唸りを上げる腕から放たれる弾丸。
 そして――。

「――あぁ、言い忘れたけどあたし向かってくる相手には手加減できなくなるから頑張ってね」

 超逃げました。
 無理やっちゅうねん。





−幕−







・なんでしょうこれ。放課後SSSシリーズ第三弾、勢いのみ。
 投げてるのが球体じゃないのはクラナドの特徴。ひいては変化球主体な私の性質です。



SS
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2004年11月24日 藤村流継承者

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