愛されるより愛したいみたい
昔どこかで聞いたことがある。
動物と目を合わせてはいけない。それがペットだとしても、相手には敵だと思われるから。
警戒心を抱かせてはいけないと知っていても、なかなか気配まで消すことは出来ない。難しい、というか不可能に近い。それを知りながら、伊吹風子はそれを遂行する。否、しなければならない。
何故なら。
「……ねこです」
彼女の左斜め前方約10mに位置するのは全身虎柄の猫。雑種ではあろうが、家猫か野良かは判然としない。野良の場合は餌を与えられ慣れている事情でもない限り、自分から寄っても来ないし他者の接近さえ許さない。家猫も人見知りする場合が多い。すなわち、猫と遭ったらまず逃げられることを前提として行動に移さなければならないのだ。
女子高生、伊吹風子は動くことが出来なかった。ここで動けば気付かれる。
――かわいい。触りたい。できることなら抱き締めたい。
ここだけの話、風子は可愛いものに目がない。無論、そのトップを飾るのはヒトデなのだが、猫や仔犬、うさぎや小鳥などといった小動物全般も琴線に触れるらしい。自身も小動物属性だからだろうか。
電柱の影に隠れて、風子は高鳴る鼓動を抑えながら標的を見据える。
その猫は夕焼けに染まるアスファルトに腰掛けて頭を掻いている。そのいかにも心地良さそうな表情に、風子も思わず瞳がヒトデに染まる禁断症状に陥る。
……数秒後、風子は標的がのったりくったり移動していることに気付く。
「いけません……。これでは同じ穴のムジナです」
状況と意味とが食い違っていることに彼女は気付かない。誤用を指摘する声もないので、風子はささささっと口で言いながら素早く虎猫の後を追った。
一定の距離を保ちながら、途中で猫が振り返っても視線を逸らして無関係を装う。その際は手持ちのヒトデをいじくり回し、あまりの興奮に禁断症状に陥って猫にまで引かれる。付き合い切れんわとばかりに遁走する猫の後ろを、夢の国から帰ってきた風子が追跡するというパターンが何度か続き。
――チャンスは訪れた。
実は、ある程度の距離を保っているようで、風子はだるまさんが転んだ状態で少しずつ標的に接近していたのだ。止まるたびに一歩先へ、じりじりと猫背の背中に肉薄し、やがては。
「……恐ろしいです。風子、自分の才能に身震いしてしまいますっ」
と、自分で言って自分で震える。独り言にも律儀だった。
それはともかく、電柱の裏に潜む風子から虎猫までの距離はもう1mもない。結局のところ、猫の方も風子の存在を知りながら無視していた可能性も否定できない。ここまで分かりやすい追跡者を看過するのは、よほど人に慣れた猫にしか出来ない所業である。
だが、追跡者たる風子はそんなこととは露知らず、己の才能に打ち震えながら欠伸をする猫に愛玩の眼差しを送る。
「あぁ……かわいいですっ」
飛び出したい衝動をこらえ、猫の視界から完全に消失する一瞬を待つ。右を見て、左を見詰め、そして前を向く猫の頭を確認し――。
鼠に飛びつく猫を思わせる体勢で、風子はその腕に虎猫を捕まえた。
――にぃ!
「あぁ、ぁぁあぁ……。も、もふもふしてますっ」
――ふーっ!
威嚇し、咆哮し、必死に身を捩じらせ、胴に食い込む十本の食指から逃れようとするも逃走は適わない。捉えようとする動きは瞬時に察知していたものの、まさかこの少女が人ならざる大胆な行動を取るとまでは考えが及ばなかったようだ。
かくて、天下の往来で行われた大獲り物は幕を閉じ、地面に座り込み猫に頬擦りする少女と、普段は決して見せないであろう牙と爪を遮二無二振り回す猫とが取り残されることになった。無論、風子は猫の迷惑など気に留めず、猫は風子の趣味など知る由も無い。相互理解と呼ばれるものが欠如したふれあいに待ったを掛けたのは、行き交う車でもバイクでも、ましてや幼稚園児でも北風でもなく。
ただ単に、そこらを通りがかった妙齢の女性だった。
「……あれ」
立ち止まったのは彼女ひとり。見慣れた制服と、見覚えのある虎柄を発見して思わず足を止めた。
彼女、相楽美佐枝はスーパーの袋を片手に掛けたまま器用に腕組みする。自分の考えが正しいのかどうか頭の中で吟味した後、
「……やっぱり、あいつよねぇ」
厄介な、とは思ってみても無視することは到底出来ない。自分の性格に恨み言を吐くように、彼女はひとつ嘆息した。
電柱と塀の片隅で座り込みを続ける少女に声を掛けるのは、いくら寮母を務めている彼女でも若干の抵抗があった。しかしまあ、いきなり逆切れされることもないだろう大人しそうな娘だし、と煩悶とした気持ちを切り上げ、まずは軽く挨拶しようと息を吸い――。
「おーい」
「――――。」
「こんにちはー」
「――――。」
「……1+1は?」
「――――。」
「そういえば、隣りの家に囲いが出来たんだってね」
「――――。」
「……いや、あたしも古いなあとは思ったわよ」
――みゃあ。
もう風子の手から逃れるのを諦めた猫が、風子の代わりに返事をしてくれる。だが、それは美佐枝が古き時代に生きたのを認めているようで、若干腹立たしいものを感じはしたが――たかだか猫相手に本気になるのも大人気ない。美佐枝は諦めることにした。
一方、風子の方はただただ沈黙。ひたすらに無言。
だが、それが無視や傍観の類であればまだやりようはあった。問題は、大前提において美佐枝の声が少女に届いていないかもしれないということだった。勿論、日常生活で鍛え上げられた声量を持ってすれば女子高生のひとりやふたり、覚醒を促すことは造作もないのであるが、流石に屋外でそれをやるのは気が引ける。学生寮の寮母が高校生を恫喝しているなんて噂が立ったら、泣くに泣けない。
とにかく、美佐枝はもう一度風子の顔を覗き込む。
「――――。」
トリップ、という単語がよく似合う。幸せそうに緩んだ顔からは幸せが零れ落ち、ついで半開きの口からは微量の涎も零れ落ちている。頬を寄せられたままの猫は勘弁してくださいと言わんばかりに身をくねらせていたが、健闘むなしく少女の放ったクモの巣に捕らえられてしまう。
――にゃあ。
「そんな哀しそうな声しないの」
鳴いている、というよりは泣いているといった方が近い声を聞き、美佐枝は一旦ビニール袋を地面に置いた。こうなったら持久戦である。寮の仕事はあらかた終えているので、たまには無駄に待ってみるのもいい。
というか、待つのは相楽美佐枝の専売特許なんだからね――と、半ばヤケ気味に呟いて。
日は陰り人影もまばらになる中で、どこまでも幸せそうな少女と、いつまでもお人よしな猫と彼女の耐久レースが始まった。
「――――はっ」
時間にするとおよそ30分ほどであるが、夢を見るようにトんでいた風子にとってはまさに一瞬のことであった。わずか一瞬でありながら青かった空が赤に染め上げられているのだから、まさに束の間の時間旅行と呼んで差し支えないだろう。当の風子は何が起きたのか理解しておらず、首をあちこち巡らせて状況確認を急いでいた。
しかしそれでも虎猫の身体はがっちりホールドして離さないのが風子の真骨頂である。
更に風子の混乱を加速させたのは、隣りに肩膝を付いて、掌に乗せた猫缶を食べさせている女性の存在だった。酒と煙草を常用していないのが不思議なくらいに疲れた表情が印象的だ。あるいはそれが魅力的でもある。
けれども、その疲れの半分は風子を待ち続けていたせいなのかもしれないが。
「……おはようさん」
「おはようございます」
当たり前のように挨拶を交わす。小さな身なりで結構大物かもしれない。
「ときに、あなたは誰なのでしょうか」
「あんたが握り締めてる猫の飼い主、てことになってるけど」
飼い主だ、と断定はしない。美佐枝自身も飼っているのかどうか判然としていないのである。
風子は飼い主という言葉に身じろぎしたが、表情は平静を装ってみる。
「そうですかっ。ねこさんのお名前はなんて言うんですか」
「んー……特にこれ、ていうのは無いけど」
「それでは、風子と出会った記念にヒトデの名を差し上げます」
「なぜヒトデ……」
――にゃあ。
「あっ、喜んでもらえましたかっ」
「いや、どっちかというか嫌そうな顔してるけど……」
結局、猫の考えることは分からない。鳴き終えた猫は再び缶詰に舌を伸ばす。
「とにかく、抱くなとは言わないけどそろそろ離してやってくれない? なんだかコルセットみたいでキツそうだし」
猫が同意するように風子を見る。その純真な眼差しを受けて、風子が思わず呻く。
「べ、別に風子はねこさんを連れ去ろうなんて考えませんっ」
「誰もそんなこと言ってないって」
「確かにもふもふしてるとは思いましたが、それだけで我を失ってしまうほど軽率な風子では――――」
じっ、と虎猫を凝視したかと思うと、また夢の国へとリターンしそうになる。美佐枝は慌てて風子の肩を揺さぶって帰還を促す。
「頼むから、これ以上待たせないでよね……」
万感の想いを込めて呟く。
「――――はっ」
意識が覚醒した拍子に、猫を掴んでいた十指の力が弱まる。ここが好機とばかりに、虎猫はその軟らかい体躯を最大限に捻らせて、風子の檻からの解放を勝ち得た。その後は遁走を計るでもなく、美佐枝の手に添えられた猫缶を、口の端で少しずつ啄ばむことにしたようだ。
美佐枝も缶詰を地面に置き、長い間折り曲げていた足と腕をめいっぱい伸ばしてやる。猫の解放はそのまま彼女の解放も意味する。
風子も捕らえるべき対象を失って、どこか寂しげに身を起こした。そこかしこに付いた埃を払いながら、美佐枝を鋭く見据える。――つもりだったが、美佐枝からすると子どもが拗ねているようにしか見えないのが誤算だった。
「……まず、あなたの名前を聞いておきます」
「いいけど、どうしてそんなに挑戦的なの」
「風子のライバルとしてあなたをご指名です」
「そのホストみたいな制度は一体……」
「……そうですか、人の名前を聞くときにはまず味方からと言いますからね。分かりました」
勝手に誤用して勝手に納得する少女を眺めていると、訳もなく温かい気持ちになるのは美佐枝だけではあるまい。
しかし、あとでちゃんと正しい用法を教えておこうと美佐枝は思った。
「伊吹風子、訳あって高校一年生をやっています」
「相楽美佐枝、訳は無いけど学生寮の寮母をやってるわ」
――にぃ。
「そうですか。頼まれなくても猫をやっているんですかっ」
「分かるの……?」
「女の勘です」
女じゃなくて小動物の本能なんじゃないの、と美佐枝は思ったが口には出さない。
からん、と足元で空の缶詰が引っくり返る。空腹が過ぎたのか、それともストレスが溜まっていたのか、早くも食事を終えた猫が美佐枝の足に擦り寄る。美佐枝はやれやれと呟いて、空き缶を拾って袋に投げ入れた。
何もかもが赤く染まる夕焼けの道が、少しずつ夜の黒に沈んでいく。冬の気候は昼と夜で大きく異なる。
「もうすぐ暗くなっちゃうし……あんたも家に帰った方がいいわよ」
「あぁっ、いつの間にか場が仕切られています!」
「そういう性分なのよ」
「しかもあんたではなく風子ですっ」
「はいはい、風子ちゃんも痴漢と暴漢に気を付けてね」
もっと他に気を付けるものがあるだろう、と風子は思っても口には出さない。
「はい、美佐枝ちゃんもキャッチセールスに気を付けてください」
「ごめん、ちゃん付けは勘弁して」
もっと他に気を付けるものが……とまでは、全身から力が抜けていたので言えなかった。
「では、美佐枝たん」
「もっとやめて」
どこでそんな俗称を覚えてくるのか、少女の未来に一抹の不安を抱く。
「では、美佐枝さんでよろしいですか」
「うん、じゃあそれでよろしく」
「……月のない夜には気を付けてください」
なぜに宣戦布告、と言う前に、風子は背を向ける。まだ猫のことを諦めていないのだろうか。それとも美佐枝との繋がりが欲しかっただけなのか。
それなら普通に友達になってくださいと言えば良いのに、と美佐枝は思う。
しかし、それがこの少女のやり方なのだろう。
さようなら、と名残惜しそうに別れを告げて、風子は小走りにその場を後にした。
闊達な少女の背中を最後まで見送って、美佐枝はスーパーの袋を持ち直す。左手に出来たスペースは、何か物欲しそうにこちらを見上げている猫のための特等席。
「……ほら、折角だから乗ってかない?」
鳴きもせず、頷きもしなかったが、虎猫はごく自然に彼女の腕に抱かれた。ここが本当の居場所であるというように。
彼女もその感触に小さく笑みを落として、点き始めた街灯から寮までの帰り道を急いだ。
冬の風は冷たく身も心も凍りつきそうだが、そんな中でも元気な人間はいる。
ひとつは子ども、ひとつは多少世間とずれた認識を持っている――というと失礼だろうが、とにかくそんな人々。
伊吹風子という少女もその類に漏れず、学校指定の制服とマフラーのみで無邪気に走り回っていた。ただ彼女も無闇に駆けている訳ではなく、今はしっかりとした目的地がある。今日は自慢の彼氏も連れて、つい最近出来たばかりの友達に会いに行くのだ。
すばしっこい風子の後ろから、薄手のコートを来た青年が追って来る。こちらは寒さに抵抗出来るほどの陽気さを持ち合わせていないのか、立ち止まったと思えばすぐに手を擦り合わせる。
「なぁ、風子……」
「なんですかっ」
やや上気した頬を青年に向け、続いて弾んだ声を返す。
「その、新しく出来た友達ってのは誰なんだ……?」
「まったく、そんなことも知らないんですか岡崎さんは」
「聞いてないんだから分からねえよ」
「仕方ないですね……」
「仕方ないのはおまえだからな」
呆れ顔の風子に、同じように呆れた青年が言葉を投げる。風子に掛ける忠告や指摘の大半は受け流されて捨てられてしまうのだけど、青年がそれをやめることはない。これもまたコミュニケーションのひとつだから。
風子は腰に手を当てて、もったいぶるように口を開いた。
「お友達の名前は――――」
名前は、と青年は先を促す。
どこか嬉しそうに頬を緩ませ、多少なりとも風子の声が上ずっているのは何もおかしいことではない。何故なら、このような形で誰かに友達を紹介するのは、彼女にとって生まれて初めての出来事なのだから。
風子は、その大切な名前を告げる。
「――美佐枝ちゃん、です」
−幕−
SS
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