外は雪が降っていた

 

 

 やけに冷えると思って外を見れば、狭い庭は白い雪で覆い尽くされていた。
 雪国の育ちだから雪が珍しいと思うことは少ないが、やはりその時期に雪が降らないとどうにも冬が訪れたという気がしない。父親は車が渋滞して困るとか、母親は雪掻きで苦労するとか散々電話で漏らしているが、都心の郊外ではせいぜい踏めば消える程度の積雪量にしかならないだろう。
 私はカーテンを閉めようとして、ふと視界の隅に映った茶色いものに気付く。
 自宅と隣家とを隔てる塀に掛けられた樋を傘にして、身を縮こませるようにしてその猫は静かに丸くなっていた。こちらの視線に気付いていないのか、逃げようとする気配はない。
 野良、だろうか。家猫である可能性も否定出来ないが、どちらにしても随分寒そうである。当たり前だが。
 私はガラス一枚隔てた自分の巣に引き篭もっていて、暖房も服も完備しているから何も問題はない。多少、窓に擦り寄っているせいで隙間風を感じることはあっても、あの猫のように身体を強張らせる必要はどこにもない。
 これが人間と猫の差だ、とでも思えばいいのだろうか。あまり頭が良い方だとも思っていないので、私は単に猫への同情心が先に来てしまう。
 よせばいいのに、私は窓のロックを外して、はらはらと舞い散る雪の世界へと半身をはみ出した。
 玄関からちゃんと靴を履いていけばいいものを、ベランダの下に押し込んであるサンダルを引っ掛けて、踏めば消えてなくなる新雪の上を歩いていく。薄着のまま外出するのには慣れていないし、新居での暮らしにも慣れてしまったので、寒いどころの話ではない。小粒とはいえ、襟首に舞い降りてくる雪の結晶には思わず声をあげてしまいそうになる。
 けれど、不思議と足を止めようとは思わなかった。そもそも、うちの庭は言うほど広くもない。
「言ったら、怒られそうだけど……」
 まだ帰って来はしない相方の反応を想って、静かに笑う。緩んだ表情にも、肌を凍らせる冷気は容赦なく襲い掛かる。自然に、笑みもその形を崩されていく。
 わずか数歩で辿り着いた雨宿りの集会所には、一匹の猫が深々と陣取っている。表情の無い顔は死んでいるように冷たかったが、髭にくっ付いた雪に反応して閉じていた目蓋を開けたり、尻尾の位置を絶えず気にしたりしているから、この冬でも生き延びているのだろう。
 突如、開いた目蓋の向こう側に巨大な影を発見して、猫は明らかに動揺しているようだった。
 逃げるか留まるか、猫にとってその選択はあまりに残酷すぎる。宿り木を失えば、今度はいつ雨露をしのげる屋根を手に入れられるかわからない、しかし今現在の危機にも目を向けなければならない。
 私は、猫になった気分で考えてみて、やっぱり逃げてしまうだろうと結論付けた。不用意に近付いてしまったことを後悔しても、元よりこの同情が発作的なものなのだから、準備などしていよう筈がない。
 だから、覚悟はしていたつもりだった。けれど。
「……逃げないのね」
 膝やお尻に雪が付かない程度にしゃがみ込んで、私は猫に尋ねた。答えや頷きなど全く期待せずに、疑問をそのままの形で口に出した。人懐っこい猫でも、初対面の人間には大体警戒心を持つものだ。それなのに、初顔合わせの猫は私を前にしても逃げる気配はなく、依然その身を達磨のように縮めて寒さを凌いでいる。
 そんなに、寒いのか。この冬と雪は、猫の自意識を鈍らせるくらいに冷たいのか。
「寒い? それとも冷たい?」
 試しに質問してみるが、当然のように返答など返ってこない。ただぴくりと左の髭をわずかに振るわせただけで終わり。愛想もへったくれもない。
 知らぬ存ぜぬ、人間とは関係のない世界で生きている猫に構う方が間違っているのかもしれない。私なら、自分の十倍もでかいお隣さんと親しくなろうとはしないし、お隣さんも他人と関わり合うことを避けるだろう。種族の壁とは、つまりそういう棲み分けの境界線のことだと思う。
「……なら、私も勝手にする」
 けれど、同情して何が悪い。いくら頭で格好の良いような、都合の良いようなことを考えてみても、自分の気持ちと完全に折り合いが付けられる筈もない。
 私はかじかんだ手のひらを差し伸べる。綿も布も巻いていない素肌は赤く染まりかけていて、見た目には美味しそうに見えなくもない。もしかしたら指先を齧られてしまいかねない、そんな場違いな恐怖を織り交ぜながら、私は茶色い猫の反応を待つ。
 お世辞にも整っているとは言えない毛並みと、サンタでも引きずりかねない赤鼻、そして歴戦の証であり不細工の象徴でもある引っ掻き傷が、この猫は野良であると証明していた。
 あまりに寒くて宿り木を探すなら、もう少し大きな屋根を探せばいい。探しても見付からないのなら、いつか手を差し伸べてくれる人が現れるかもしれない。もし現れないにしても、どうせ人間のすることだからと鼻で笑ってしまえばいい。
 ただで預かれる恩恵なら、預かっておいて損はない。私が猫なら、間違いなくそうする。
 そのさもしい考えがまさに人間の考えだと、不意に思わないでもなかったけど。
「おいで」
 差し伸べた手のひらに、雪がひとつふたつ落ちてくる。結晶は、降り積もる前に私の体温で溶かされてしまう。徐々に痺れて、感覚が希薄になっていく手のひらと、薄汚れた猫とを何度も見比べる。
 待ち続けている冬の空の下、一体どうなれば次の段階に進めるんだろうと答えを探す。猫がどう反応すれば良いのか、その後に何をするのが正しいのか、明確な基準を持たないままに飛び出した庭の片隅で、私は今も手を伸ばし続けている。寒さや痛みなどとうに冷め切っていて、もしかしたら猫もこの空気にあてられて無愛想になったのかな、と不器用に考える。
 けれど、私の推測が間違っていたことは、他ならぬ猫が証明してくれた。
「……あ」
 凍り付いたはずの唇から、わずかな痛みと驚きが吐き出される。ちょいちょい、と凍えた指先に触れる冷めた温もりを、どこか信じられないものを見るように眺めていた。
 猫じゃらしを撫ぜるように、それでいて始めた見たものに興味本位で触っているような手付き。意外に柔らかい孫の手の感触を堪能する間もなく、私は次にどうすべきかを咄嗟に思い付き、後先を考えずに猫を抱き上げていた。
 動物の扱い方は慣れている。しかし、今のやり方はどうも良くない。段階を踏まないで一気にスキンシップを図るのは愚行としか言いようがない。でも仕方ない、自分でも止めようがなかったもの。
 一方、突然抱き上げられた猫もあまりにも突飛な状況に付いていけないようで、私の腕の中で凍り付いている。ごわごわした毛の温もりは、どこか鼻むずがゆいものだった。
「ああ、服よごれちゃったな……」
 猫が茶色いのは毛の模様だけではなく、雪びたしの舗装路を何時間も歩いていたせいもあるのだろう。白で統一されたシャツは、冗談のように猫の足跡がくっきり刻まれていた。
 そう遠くない未来、あれこれと小言を投げ付けてくる相方に顔をしかめながら、私は玄関に引き返す。これだけ汚れていれば、さぞ洗い甲斐があるだろう。嫌がって暴れ出す猫を想像して、ふとシャンプーを嫌がる子どもを連想する。まだ子育てには縁のない生活を送っているけれど、そう遠くない将来、同じ経験をしないとも限らない。
「でも、言い訳かな」
 猫は私の愚痴に同意してくれない。でもそれでいい、黙って聞いてくれるだけで充分だ。
 外は雪が降っているけれど、触れ合っていればそれなりに温かい。もしかして、温もりを求めたのは猫ではなくて私の方かもしれないと、やっぱり言い訳のようなことを考えながら扉を開けた。

 

 


−幕−

 

 

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2004年12月30日 藤村流継承者

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