こんな日の立ち食い蕎麦屋

 

 


 駅のホームにも雪は容赦なく入り込んでいて、屋根があるとはいえ、足元を疎かにすれば簡単に転んでしまいそうだ。だから、ここを歩く人は下ばかり見ている。降り積もった雪を見ても驚かない。それはありふれた日常だから、そんなものにわざわざ驚いてみせるほど愛嬌に満ち溢れていない。みんな忙しいのだ。
 電車は、少し遅れている。朝も、上りが信号機のトラブルで三十分ほど遅れ、次の運行が休止になった。私は下りだったから、駅にたむろする人たちを尻目に悠々と電車に乗り込んでいた。悪いことをした錯覚に囚われもしたが、人には人の目的地があるのだから仕方がない。
 外は寒かった。手袋もダウンのジャケットも、大した意味をなさない。身を切るような寒さから逃れるためには、沖縄か海外にでも飛ぶしかないのである。防寒具では、しょせん自分を偽る真似事しか出来ない。世界を変えることなど出来やしないのだ。身体を夏に変えたところで、日本は冬のままなのである。
 灰色の空を見上げる。雪は降っておらず、空気も澄んでいる。
 電車は、少し遅れていた。


 朝はいつも通り慌しく、朝食を取らないことが多い。
 昼食はなるべく頂くようにしているものの、緊急の場合はのんびり口にしてもいられない。今日はそんな様相を呈していた。用事が終わった今となっては、誰に気兼ねするでもなく食事に勤しむことも出来るのだが、はてさて、私は改札口を通過してホームにまで来てしまっていた。軽食なら目の前の売り場で買えばいいのだが、今はもっと身のあるものを食べておきたい。後は電車に揺られるだけでも、一時間を空腹のまま過ごし、次の三十分を試練と捉えて自転車に挑むのとでは、心のすり減り方がまるで違う。
 私は、販売店の裏にある立ち食い蕎麦屋に向かった。
 相変わらずその店はあって、値段も二週間前と変わっていない。年が明けても、運営方針は変わっていなかったようだ。良いことである。
 客は私の他に一人、作業服を着た男性が立っていた。蕎麦を待っているのか、饂飩を待っているのかは分からない。そういえば、ここは饂飩もやっているのだった。今日はそれを頼もうと思った。
「すみません」
 はい、と割烹着姿の中年女性が声を返すより早く、続けざまに要件を述べる。誰かと相対するとき、早口になってしまうのが私の悪い癖だ。
「生うどん一つお願いします」
「はいー」
 気楽だが、元気の良い返事だった。私は注文をしたすぐ後に、一つではなく一杯とか一枚とか言うべきではなかったか、一枚は蕎麦の方か、いやそもそも饂飩は別の呼び名があったような、と益体もないことを考える。いずれにせよ、常識を問われる以前に、店員は私に興味がなかったようだ。滞りなく準備は進む。
 待ち時間は暇だった。先に百円玉二枚と、五十円と十円を一枚ずつトレイに置いておく。手袋を外す際に袖から冷え切った空気が舞い込んだが、それも数分の我慢だ。一玉のうどんの器を持てば、手のひらから全身に熱が回るだろう。……ああ、饂飩は一玉二玉と言うのだっけ。思い出した。
「お待たせしましたー」
 顔を上げたら、器は私ではなくもう一人の男性のところに渡されていた。早とちりだ。空腹だからといって、焦ってはいけない。しばし待つ。やがて蕎麦をすする音が聞こえる。羨ましい、と少し思った。
 店員は、すぐさま饂飩の準備に取り掛かる。また暇が出来た。
 他のホームはかなり空いていて、構内に滑り込んだ真っ白な雪が、レールを覆い隠さんばかりに積もっていた。雪の中にある溝は、電車が通った後の轍だ。冬は、敷かれたレールが溝になる季節でもある。
「はい、お待たせ致しましたー」
 目を離していた隙に、饂飩は出来上がっていた。正確に言えば饂飩は作り置きしているのだろうが、味に問題がなければ文句を垂れるいわれもない。私は熱のこもった器に手を掛けた。
 深い醤油の色の中に、丸まった饂飩が沈んでいる。市販のものより細く、言われなければ饂飩だと気付かなかったに違いない。そんなものだろう、と納得しておいて、掻き揚げと玉子の浮いた水面に箸を伸ばそうとする。
 そこで気付く。
 誰に言われた訳でもないが、過ぎたるはなお及ばざるが如しとはよく言ったもので。
「あの」
「はい」
「頼んだの、普通のうどんなんですけど」
「あれ、掻き揚げじゃなかったっけ?」
「違います」
 お決まりのやり取りが交わされる。情報を整理するまで、二秒ほど掛かった。その間、隣の客は蕎麦を啜っていた。呑気なものだと思うが、人には人の目的があるのだ。
 大は小を兼ねる、という言葉が頭をよぎる。これがサービスなら良いが、私は外食には縁のない生活を送っていて、立ち食い蕎麦屋だと言って積極的に店員と話すほど気さくでもない。
 私の目は澄んだ琥珀色の水に落ちていたから、店員の顔色は窺えない。
 ずるずると蕎麦を啜る音が耳障りなのは、空きっ腹を刺激するからだ。
「じゃあ、いいです。掻き揚げうどんってことにします」
 貧乏性が足元をすくう。
 そのくせ、面倒を避けるためには多少の出費には目を瞑る。矛盾している。顔を伏せて財布の中身をほじくり返していたから、その時の私の顔色は読まれなかったはずだ。古くから使っている黒皮の財布から、いくばくかの硬貨を取ろうとして、値段表を見る。
 掻き揚げと玉子込みで四百円。小銭で膨らんでいた財布が、先程払ったものと合わせて十枚分軽くなる。
「すみません、ありがとうございますー」
 トレイが引かれて、ようやく中身に手を付けることが出来る。交渉は一分にも満たない。こちら側の一方的な妥協だったが、全て丸く収まった、というのは傲慢な考えだろうか。
 相手に非があるのだから、交換してもらうことも、そのまま食べることも出来た。
 結局、手違いがあった時点で良い気分のまま箸を進めることは出来ないのだし、それなら心変わりという名目で掻き揚げ玉子うどんを改めて注文しようかと思ったのだ。
 今となっては、言い訳も文句も何もかもが喉元を通り過ぎる。
 うどんは旨かった。掻き揚げは、以前頼んだものと同じく、スナック菓子の味に似ていた。


 電車は、まだ遅れていた。
 出発を待って、二人掛けのシートに一人陣取った私は、堆く積み上げられた雪の山をぼんやり眺めながら、下っ腹をさする。
 出されたものを食べ切ってしまうのは、貧乏性だからではなく、礼儀だからだと信じたい。けれども、どちらであっても食べ切った方が片付けは楽だろう。言い訳のようにそう思う。
 膨れた腹が、軽くなった財布を内側から押し出している。
 過度に暖められた車内で座り込んでいると、次第に目蓋も下がってくる。運行の遅延を伝える車掌の声が緊張を促し、時折喉元にせりあがる満腹の証が緩和を勧める。
 朝も早かったことだから、寝てしまっても問題はない。さしあたっての問題は、ほんの些細なわだかまり。妥協すべきではなかったとか、偽善者ぶってるとか、そんな青臭い問題ではなく。
 私は初めに二百六十円払い。
 その後に、二百四十円を支払って四百円とした。
「……腹いてぇ」
 憂鬱なのは、雪でも、遅れている上り電車でも、立ち食い蕎麦屋でも偽善でもなく。
 簡単な計算をも誤ってしまった、私の頭の方だった。
 電車は、独特なアナウンスの数秒後、へこんだレールの上を緩やかに滑り始めた。

 

 

 

 


※ この話は事実を基にしたフィクションです。

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2006年1月7日 藤村流

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