名前はいらない
私の家の隣には、一人の女の子がいる。幼い頃はよく遊んだ覚えがあるが、年が経つにつれ、お互いの性を意識して手を取り合って遊ぶことも少なくなった。私もそれを当然のこととして受け入れ、回覧板の配達や、雨が降っているからと言って、親切に洗濯物の取り込みを指示してくれる他には、目立った会話も接触もなかった。
私にとって、彼女はよくある近所付き合いの輪に内包された一人であり、別段私の人生を左右するほどの逸材ではなかった。眉目秀麗でもなければ学力も平均的。日本人らしい黒髪が自慢だと聞いたことはあるが、両親の遺伝子が日本のものであればおよそ全ての日本人が獲得し得る才能である。目を見開いて偉ぶるほどのことでもない。
彼女が私に与える影響など塵芥もないと本気で考えていたから、大学に入った直後の四月、母から彼女がしばらく病床に臥せっていると聞いた時も、「お大事に」という在り来たりな美辞麗句を吐くのが精々だった。それでいて、自分を冷たい人間だとは思っていなかったのだから、本当に世話はない。
五月、六月とカレンダーをなぞるように日々は流れ、適当に飲み明かせる友人も増え、サークルにも入った。学業に専念しているとは言い難かったが、レポートや試験を無難にこなし、大学の施設にも慣れ、八月の長い休暇に入る頃には、大学における自由とやらを存分に満喫していたのだ。
大学に入っても自宅通学は相変わらずだったが、実家での生活も少々窮屈になって来た。私には兄が一人いるが、家から離れて三年ほどが経つ。以降、主の居なくなった部屋は通例に従い雑然とした物置と化し、始終淀んだ空気と埃の舞う場所に変容している。思い返せば、兄の部屋から隣の女の子の部屋が見えて、小さい頃はよく手を振って声を掛けていた。大抵、その後は兄に出て行けと蹴り出されるのだが。
休日の緩慢な時間、私は安穏とした面持ちで居間のソファに身を委ねていた。テーブルに置いた麦茶を持ち上げ、結露した雫が裸足の甲にぴたりと落ちる。冷たくも心地良い感触に身震いしていると、台所にいた母が苦い顔をして近付いて来る。
母は絞ったばかりの布巾で丁寧にテーブルを拭いた後、自分も座布団に腰掛ける。私と正対しているのに、視線を合わせようとも顔を上げようともしない。何とはなしに、嫌な予感がした。
少しばかり俯いて、母は喉の底から声を絞り出す。枯れた響きが、背景の中庭にそびえる老木を彷彿とさせた。
「お前、隣の子をお見舞いしておいで」
何故、と口にするより早く、母は端的に事情を告げる。事務的で淀みのない口調は、悲しみや絶望、あるいは諦観といったものを少なからず経験した人間だけが持ち得る、残酷な能力のように思えてならなかった。
「あの子、もう長くないそうだから」
手が滑った訳でもないのに、麦色のコップを取り落としていた。
絨毯に染み込んでいく濃い液体を見て、まるでドラマか映画みたいだな、と詰まらない感想を抱いていた私は、涙が出るほど酷く冷たい人間なのだと思った。
薄汚れたチャイムを押す。子どもの頃には好き勝手に鳴らせなかったベルも、今では腰を屈めた方が押しやすい。間もなく、引き戸の向こうから慌しい足音が聞こえて来る。不意に、それが彼女のもののように思えて、心臓が無意味に鼓動を速める。
いらっしゃい、と顔を出したのは彼女の母親で、私は促されるまま彼女の部屋に通された。錠前の掛かっていない扉の前に佇み、母親が扉の向こう側に言葉を投げる。
はい、と力なく返された細い女性の声が、どうしても人間のそれには聞こえなかった。
いや、違う。私の狭い世界では、痩せ細って十分に声の出ない人間の言葉など耳にしたことがないから、それを人間以外のものと履き違えてしまったのだ。
「入るよ」
軋みながら開いた扉の向こうに、白い女性が座っていた。腰から下を白いシーツで覆い、色白な痩躯は精巧に作り上げられた繰り人形を思い出させる。過去に出会った女の子たちとはあまりにも異なっていたから、私は何の言葉も紡げなかった。「今日は」とも「久しぶり」とも、おそらくは彼女が期待していた如何なる言葉も。
彼女の母親は、気を遣って部屋から出て行った。相変わらず私は何も言えず、静かに俯く彼女の横顔から目を逸らせないままでいた。
「あの、座りませんか」
控えめに、彼女が進言する。扉の前に直立していた私を、視線でベッドの近くにある椅子へ誘導し、多少ぎこちない動作ながら、私も彼女の顔がよく見える椅子に腰掛けた。
整頓された部屋の中には、勉強机と椅子の他に洋服箪笥、最近流行っている歌手のポスター、CDや映画のDVDも幾つかある。だが、それらは彼女の手の届く範囲にはない。
部屋の全体からしても、ベッドは異様に大きかった。窓のスペースにある白磁の花瓶には、彼女より幾分か白い花が活けられている。ここに蔓延している白は、清潔さよりか残酷過ぎる無垢さ、あるいは空虚さといったものを浮かび上がらせた。
窓の向こうには、物置小屋と化した兄の部屋が見える。どんなに目を凝らしても、無邪気に手を振っている自分の姿までは覗けなかった。
「久しぶり」
「ええ、何年かぶりですね」
初対面の人間が交わす会話だった。それでも、自然に話せるのであれば贅沢は言えない。
「十年ぶり、だと思います」
「もう、そんなに経つんですね。懐かしい」
唇に指を当てて、冗談ぽく彼女は笑う。私は、まだ笑えなかった。頬の肉がこそげ落ち、腕時計も嵌められないほどに細く締まった手首を思えば、彼女がどういう境遇にあるかは漠然と理解出来る。その程度の理由で何も言えなくなる自分を、この時ほど歯痒く思ったことはない。
「私、不安に思っていました」
「何を」
「あなたが、私のことを忘れてるんじゃないかって」
椅子に浅く腰掛けたままでは、彼女の顔色を窺い知ることは難しい。声色だけで相手の心情を察知できるほど、私はまだ人間を知らなかった。言い訳の機会を失い、不自然な沈黙が流れる。こういう時に限って、鳥の鳴き声も近所の子どもが泣き喚く音も聞こえて来ない。
「本当に、忘れてしまったんですね」
窘めるような呟きが、何より心に痛かった。同時に、そこに悲哀や失望が込められていないことを訝しむ。
「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」
「それは、そうでしょうね」
また、下唇に指を添えて淡く微笑む。それが彼女の癖だと気付いたのは、再会からしばらく経ってからのこと。
「でしたら、また会う日までに、私の名前を思い出しておいてくださいね」
言って、自らの小指を差し出そうとする。指切りげんまん、という懐かしい盟約を意味すると気付いた時にはもう、彼女の指は清潔なシーツに引っ込められていた。頬が少し紅潮しているところを見ると、自分でも恥ずかしいと思っていたらしい。
再会の日は、お互いの顔合わせで終わってしまった。私が彼女のことを明確に記憶していれば問題はなかったのだが、かつて遊んでいた頃の彼女と、乾いた老木のような今の彼女と、それらのイメージを上手く擦り合わせることが出来なかった。
体に障るといけないから、などと尤もらしい理由を連ねて、退室しようと試みる。その際、彼女からひとつ頼まれ事を受けた。
「もし良ければ、大学の話でも聞かせてください。私、最後まで楽しみにしていたんですけど、結局行けませんでしたから」
最後はきちんと私の目を見て、楽しみにしています、と上ずった台詞を投げてよこした。
幸い、長期休暇はサークル活動以外に予定もなかったから、暇を潰すためと称して彼女の部屋に足を運んだ。暇潰しなんて子どもでもしない言い訳を見付けなければ、他人と会話することも出来ない卑怯者だった。
すんでのところで、彼女の名前は私の記憶から擦り抜ける。それでも私は、もうひとつの約束を果たすために彼女の家に赴く。朝は十時から夜は八時まで、時折病状と通院の関係で会えない時もあったが、八月いっぱいは特に問題もなく彼女と話すことが出来た。
「大学は、楽しいですか?」
窓はいつも開け放たれたまま、締め切られた物置の窓を映している。彼女のベッドからは空も中庭も枯れた老木も見えるだろうが、彼女にはもう見飽きた風景なのだろう。学食の安いカレーや、大学にありがちな怪談話が佳境に入ったところで、彼女は不意を打って訊いて来た。
しばし、正答を模索する。その間も、彼女は両の手をシーツに隠れたお腹の上に当て、穏やかに返答を待っていた。
「はい、楽しいですよ。思っていたように」
返した言葉は、誰にでも言える当たり障りのないものだったけれど、私なりに考えた偽りのない答えだった。
「そうですか。それなら、良かったです」
確かめるように、彼女は小さく唇を動かした。言ってしまえば、私より彼女の方がよほど在り来たりな台詞だったように思う。その器に含まれた真意を、深く汲み取りはしなかったけれど。
「ところで、いい加減に私の名前は思い出せましたか?」
問われたところで、私は首を振るしかなかった。嘘や冗談の類は元々得意ではなかったし、彼女にそういうものは一切通用しそうになかったからだ。
残念です、と冗談めかして肩を落とす彼女に、私は平謝りすることしか出来ない。必死に謝罪を繰り返す私を見て、くすりと分かりやすく微笑んだ後、じゃあ次はよろしくお願いしますねと言ってくれたら、大抵は収まりが付くのだった。
予定調和のような、断絶された十年を補填する些細な遣り取りの中で、いつの間にか彼女の白い体も気にならなくなった。八月の最終週、私たちはまだ止まり続けている。
母親や友人から、よく一人暮らしのことを聞かれる。その都度、良い条件が見当たらないと嘘を吐いた。親しい友人には、ルームシェアだとかで一緒に暮らそうと言われた。私は、倫理と経済の観念を説いて強引に諦めさせた。
暇潰しとしてではなく、わざわざ暇を見付けては彼女の部屋の扉を叩く。空腹も紛れた昼下がりの午後二時、その頃が最も穏やかに過ごせる時間帯だと分かった。茶色の古臭い椅子は私専用となり、彼女の家族とも親交が深くなった。彼女にまつわる思い出も少しずつ浮かび上がって来て、そのことを語るたびに彼女の表情はころころと変わった。楽しい記憶には喝采を、恥ずかしいエピソードには悲鳴を。意地悪く繰り返せば、しばらく拗ねて押し黙ってしまう。
それでも、彼女の名前が浮上することはなかった。
「酷いですね、本当に」
「ごめん。でも、努力はしているんだ。本当に」
「言葉だけなら何とでも言えます」
珍しく、彼女は怒っている様子だった。手を合わせて腰を曲げても、一切譲ろうとしない。午後三時の柔らかい時間なのに、私たちはまだその恩恵を与ることが出来ていない。
「そういえば、もう敬語じゃなくなったんですね」
まるで、今この瞬間に気付いたかのように彼女は話す。
気まずい空気を一掃したかったのは、彼女も同じなのだろう。
「そうだね。昔は、もっと普通に話していたと思うから。ああ、だから」
彼女の名前が出て来ない。自然な遣り取りを心掛けても、肝心なところで蹴躓く。自業自得なのだから、責める相手も見付けられずに自分の膝を叩いた。
「だから、私にも普通に話してほしい、と言いたいんですね」
言い切れなかった台詞の端を、彼女が受け持つ。そう、と頷いている間に、彼女は今までにない悪戯っぽい笑みを浮かべていた。いつものように、唇に指を這わせて。
「でも、私は昔からこんな喋り方でしたよ? 覚えていませんか」
硬直する。細く滲ませた彼女の瞳が黒く染まっているのは、美しい黒瞳に邪気が宿ったからなのではないかと思った。
「やっぱり、忘れてしまったんですね」
意気消沈し、首と肩をだらんと下げる彼女は、私が想定していた病人のそれよりも随分と表情豊かなものだった。お見舞いを勧められてから一月、聞こえて来る足音が季節の移り変わりを示すものだと、一人で勝手に思い込んでいた。
暦の上ではとうに秋を通り過ぎているが、現代の私たちは日差しの強弱や風の温もりからしか季節の変わり目を察することが出来ない。
彼女の部屋から見える小さな空が、白く淀んだ雲に流されて行き、夕立前の薄ら寒い風が吹いて来る。この機会に、蒸し暑い体の熱を逃がす。彼女は、特に汗を掻いている様子もなく、いつも通り涼しい表情で空を眺めている。
大学の話もあらかた底を尽きて、私たちが共有する昔話さえも消化し終えた後には、私自身の記憶、そして彼女自身の記憶を掛け合わせる以外に話す内容が構成出来なかった。穏やかで、落ち着きもあり、丁寧に言葉を綴る彼女のことだから、何も喋らない日は、喋らなくても良い日なのだと思った。
「覚えていますか」
「何を」
「私たちが、最後に遊んだ日のこと」
真剣な口調なのに、彼女は視線をシーツに落としている。私の目線も、彼女が睨むシーツに重ねられる。
「少しだけ、覚えてる。外で遊ぶのが恥ずかしかったら、うちでトランプか何かをやって」
「そうでしたね。もう八歳でしたから、女の子と遊ぶのが照れくさかったんですよね。でも、少し傷付きました」
「それは、ごめん」
素直に謝る。頭を下げるのが恥ずかしかった子どもは、もうここにはいない。元の位置に戻ると、彼女は華奢な体を震わせて笑っていた。唇に当てるはずの指は、シーツの上に倒されていた。一頻り、ささやかな笑いが収束して、能面のように澄んだシーツから、特徴のない私の顔に視線が移る。
「あの時も、またあしたって言ったのに。私が風邪で長い間学校を休んだから、会うこともなくなってしまって。お見舞いにも来てくれなかった。窓のところから、あなたが友達と遊びに行く姿も見えていたのに。喉が痛くて、声も掛けられなかった」
眉も吊り上げず、声も荒げずに淡々と事実のみを並べ立てる。
再会して初めて、彼女は怒っているように見えた。以前は、もっと感情豊かな子どもであったと思う。今更になって、十年もの空白を思い知る。彼女が変わらざるを得なかった瞬間に立ち会えなかったことを悔やむ。そうすれば、変化を拒むことは出来なくても、手を繋ぐことくらいは出来た。だというのに、私は安穏と呼吸をしていて、彼女は弓を引き絞るように呼吸を繰り返していたのだ。
「でも、いいです。こうして、恨み言を言うことも出来たから。ちゃんと、約束通り会いに来てくれましたから。雰囲気は暗いですけど、これでも楽しんでいるんですよ。あなたと話せることが、嬉しくて仕方ないんです」
薬指と中指を、上下の唇に這わせる。目を細め、彼女は静かに微笑んでいた。額面通りに受け取るべきか、彼女なりの世辞と捉えるべきか、わずかに逡巡する。直後、彼女の透き通った白磁の肌が赤みを帯びていることに気付き、頭の中に用意していた無難な台詞の一切合切が消滅した。
辛うじて、喉の奥底から滑り出てきたものは、
「それは、ありがとう」
初めから準備していた、単純で簡潔な謝辞に過ぎなかった。それでも彼女は満足げに首肯し、添わせていた指をベッドの上に垂らす。高い位置から落としたにもかかわらず、スプリングはちっとも響かなかった。
「どういたしまして」
教科書通りの丁重な挨拶を交わし終えた後、彼女は不意に時計を見る。午後四時、帰るにはまだ早い時間。その意図を図りかねている間に、静謐な空気をなぞる柔らかな声が響いた。
「ごめんなさい。私、ちょっと体が熱くて」
目を伏せる。彼女が申し訳ないと思う時、その瞳は決まってシーツを睨み付けた。一緒に居たい気持ちはある。彼女と同等、あるいはそれ以上に。
「分かった。じゃあ、また明日」
「はい、また、あした」
たどたどしく、搾り出すように告げて、彼女は枯れ木にも似た半身をベッドに横たえる。いくら彼女が軽くても、聞こえなければいけなかったスプリングの軋轢は、とうとう私の耳に届くことはなかった。
別れる前に、私は彼女に聞こえるだけの囁きを漏らす。
「明日、絶対に来るから。今度は、必ず」
「そう言って、来なかったら本当に恨みますからね。呪って、祟って、枕元に立ってあげますから。覚悟してください」
「うん。そうならないように、必ず」
「でしたら、指切りでもしましょうか」
小刻みに震える小指を、顔の位置まで掲げる。私はその指を支えるように、自分の無骨な指を彼女のそれと絡めた。幼い頃に唱えた呪文は、今となっては何の効力も持たない。こうしていると安心するからと、ただそれだけの意味しかなかった。
指切りげんまん、嘘吐いたら……。
心の中で、遠い日の唄を反芻する。程なくして、どちらともなく指が離れた。触れ合っていた部分は僅かなのに、小指と胸と頭が熱くて仕方なかった。さようなら、と足早に部屋を立ち去る。生暖かいドアノブに触れる指は、約束を結んでいない方の手のひらに委ねた。
退室した私と入れ替わるように、彼女の母親が急ぎ足で部屋へと入って行く。薬の時間なのか、本当に体調が悪かったのか。だとすれば、私は来るべきではなかったのかもしれない。過ぎたことは取り返せないが、後悔は反省材料になる。俯きながら彼女の家を出、すぐ隣にそびえ立つ自宅に引っ込む。
中途半端に熱い頭を抱えて、二階の私室へ急ぐ。途中で聞こえた母親の声は無視し、物置を通り過ぎてベッドに直行する。後は何も考えようとせず、突っ伏したまま眠りに落とす。慎ましやかな幸せに包まれ、今日と明日の境界を簡単に通り過ぎる。
今日は、彼女から名前のことを訊かれなかった。
その意味を深くは考えず、意識は濁流のように流されて消えた。
翌日、電話の音で叩き起こされた。胡乱な頭は、病院の前まで来てようやく現実に追い付く。
指定された病室の脇に、手書きのプレートが嵌められている。見慣れた苗字は、確か彼女の家と同じだったと思う。だから、その下にある文字は彼女の――。
開いたままの扉を潜る。
魚が地面を這いずるような、重苦しい空気と雑音の中。彼女は、いつもより白い顔で寝転んでいた。病名、右大腿部の悪性骨肉腫。転移性。九月十一日午前十時十八分、心停止。同十時五十分、死亡確認。確認。確認。
彼女の頬に触れようとしたが、医師と彼女の母親に留められた。私は最期まで気付けなかったから、だから彼女の名前を囁き掛けるのは妙に躊躇われた。
彼女は、約束を果たせなかった。今か今かと待ち望んでいた十年越しの明日を、迎えることが出来ないままに。
母親や友人から、よく一人暮らしを勧められる。おおよその理由は察しが付いていたから、丁寧にその申し出を断って来た。あれから私は、兄の物置小屋を整理整頓して自分の部屋にしている。ここの窓からは、彼女の部屋がよく見えた。彼女のように白く澄んだ花瓶に、雅な百合が活けられている。彼女の名前も、あの花になぞらえたものだったように思う。
開かれた窓の縁に、全ての体重を掛ける。中庭の老木はまだ健在で、雑草のようなハルジオンは力強く咲き誇っている。粘っこい白雲が、まっさらな空を埋め尽くそうとする。
小さな小さな垣根の先に、どれだけ目を凝らしても、無邪気に笑う彼女の姿までは覗けなかった。
OS
SS
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