忘れてしまった

 

 

 

 眩しさにまぶたを開けると、見渡す限りの白色が私を取り囲んでいた。
 頭はすっきりしている。腕には何本かのチューブが刺さっているけれど、体は軽い。首を曲げると、寝転んだ私の隣に、見たことのない人間が何人も立っていた。
 カーテン越しの光からすると、どうやら今は朝みたいだ。私は、何やら驚いた顔たちに向かって、
「おはよう」
 と、言った。
 すると、年を取った女の人が「おはよう」と言って、私の手に優しく触れてきた。
 その手のひらは温かかったけれど、私にはこの女の人が誰なのか、全く分からなかった。

 

 頭部挫傷。両脛骨骨折。
 信号も横断歩道もない道路に飛び出して、当然のように轢かれてしまった代償がそれ。
 大型車だったら即死だった、と医者は言う。助かったのは、軽自動車だったから、すぐブレーキを踏んだから、スピードを出していなかったから、打ち所が良かったから……など、様々だ。
 私が眠っていたのはおよそ一ヶ月で、頭部の外傷はそんなにひどいものではなかったらしい。
 ただ、頭の中身がどうなっているかを読み取れるほど、現代の医療技術は進歩していない。
 そのために、私は隔離された空間にずっと放置されていた。勿論、努力はしてくれたのだろうけど。
 物々しい機械が備え付けられている一人部屋から、作り物の自然とそうでない自然が見える。あまり刺激の強いものを見るのは体に悪いからと、雑誌類は医者に止められている。一ヶ月ほど停止していた体はともかく、頭の方ははっきりしているから問題はないと思うのだけど、一筋縄ではいかないのが頭の障害らしい。
「……暇だなあ」
 ベッドの中でシーツを蹴飛ばす。折れていた膝がぎしぎしと軋み、痛みに呻きをあげる。そうだった、怪我をしていたのだった。
 広々とした棚には、鮮度の落ちた果物や、昔ながらの目覚まし時計、表面にいくつもの傷が付いた鏡など、病室にありがちな品が置かれていた。することもなくて、鏡を覗く。そこには、見慣れないひとつの女の子がいた。こんにちは、と馬鹿みたいに挨拶すると、鏡の中の女の子も、ご丁寧にこんにちはと頭を下げた。
 分かりきったことだけど、これは私だ。
 私は忘れてしまったのだけど、親や医者が言うには、鏡に映っているのは見間違いようもない私の顔なのだそうだ。
 不思議なこともあるものだ、と思った。
 医者は、記憶の混乱があると言った。記憶喪失など、事故にはよく付きまとう後遺症だ。
 ただ、思い出せないことは、他にもいくつかあった。
 それを思い出そうとしていると、病室の清潔な扉がゆっくりと開く。
「あ、起きてたの」
「うん」
 心配そうに近寄ってくる女性は、私が長い眠りから目を覚ました時、初めて挨拶を交わした女の人だ。私自身は忘れているのだが、彼女は私の母親にあたる人なのだという。この人が誰だか分からないと言った時の、硬直した表情を覚えている。
 それがあまりに可哀想だったから、私はなるべく早く思い出すように努めている。
「リハビリ、辛くない?」
「うん、大丈夫。みんな優しいし、時間はたくさんあるから」
 母は、そう、と私の目を見ずに言う。暇潰しに皺の数を計算してみても、そこから思い出のようなものを掬い上げることはできない。時計の針の音だけが聞こえる。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「分かった。また今度ね」
 母は、曖昧に笑っただけだった。
 扉が閉まって、また私だけになった。一人でも寂しいのに、思い出すらない私にはすがるものもない。
 私は私を覚えていない。それだけでなく、私に関係するありとあらゆるものが、私の中からぽっかりと抜け落ちていた。家族やクラスメイトは勿論、趣味、嗜好、夢、二次的なもの全てである。
 夢から覚めても、私はまだ孤独だった。
 母は、二日に一回ほど私の顔を見に来るけれど、それだけだった。必要なこと以外は何も喋らない。私の目を見ることも滅多にない。父は、目覚めた時に一度会ったきりだった。
 記憶の欠損は、私にまつわる全てのものだったけれど、それ以上でも以下でもなかった。日常生活をするにも、高校程度の計算をし相応の知識をひけらかすこともできた。
 私の情報は、私以外の人間に頼るしかなかった。
 そこからまた、私という存在を積み直すことができると信じて。
「暇、だなあ」
 呟く。
 歩行器があれば、歩けない痛みではない。けれども、外の世界はここからでも見える。窓を開ければ、新鮮な空気はいつでも入ってくる。窓の鍵を開けようと身を乗り出せば、視界の端に、鏡の中の自分が映った。
「……うーん」
 テラスに両手を付き、鏡面と向かい合う。
 実感が湧かない。これが本当に私なのだろうかと、いつも考える。
 高校二年、髪は長く、化粧っ気もない。眉毛も生まれたままの綺麗な形で、身長もそれなり、可愛いと言えば可愛いし、特徴がないと言えばそういうことになる。せめて、ほくろのひとつでもあれば愛着も湧いたのだろうけど。私は窓のロックをしっかりと外し、鏡から顔を背けた。
 でも、鏡の中に棲んでいる影の私は、何も分からない私をいつまでも眺めていた。

 

 怪我は、ほぼ完治していると言って間違いなかった。根気よくリハビリに励んだおかげです、と医者は祝福した。私も、両親も愛想笑いを返した。
 医者は、いつ記憶が戻るかは分からないと言っていた。それは、誰もが分かっていたことだ。
 私は、退院を迫られていた。患者とはいえ、個室にいつまでも閉じ込めておけるほど、私の家庭は裕福ではないらしい。最低限、体が元に戻れば、金の掛かる牢獄に閉じ込めておく必要もなくなる。
 でも、これから私が戻る場所を、私は覚えていない。知っているはずなのに、忘れてしまった。
 両親と医者が病室に集い、私を囲んで話し合っている様は、裁判にも似て滑稽だった。
「あなたは、どう思うの?」
 母は、私のことを名前で呼ばない。
 それが昔からの習慣だったのか、今の私になってからなのか、聞くことさえ躊躇われる。
 誰もが真剣な目をしていた。軽薄そうに見えるのは、私の瞳くらいだろう。
「私は、どっちでもいいよ」
 本当は、どうでもいいよ、だった。
 父も母も、私を見てはいなかった。私を通して、私の思い出を垣間見ていた。
 両親は顔を見合わせて、その後に医者の顔色を窺う。医者は押し黙ったまま、静かに首を振った。
「分かりました」
 決断したのは父だった。
 父の声を聞いたのは、これが最初で最後だったような気がする。それ以外は、耳に入っても心には残らなかった。
 それから一週間後、退院の手続きは滞りなく進み、私の居場所は病院から自宅に移された。
 事故に遭ってから、二ヶ月後のことだった。

 

 いつ学校に行くのかという話が出た時、行かなくてもいい、という選択肢もあった。
 けれど、ずっと家の中に閉じこもって、話しにくい母と向かい合わせでいるのにも限界がある。
 私の部屋に住んで、そこにある懐かしいはずのCDや小物や本を見ても、何も思い出せないと知らされてから一週間。私は軽い鞄を下げて、通っていた学校に向かった。
 あらかじめ、学校までの道程は記憶しておいた。道筋をなぞるように歩いているだけでも、どこか新鮮だった。途中、人身事故があった片道一車線の道路をまたぐ。ここは、私が死にかけた場所ではない。首を振って、俯きながら横断する。いつかその現場に行く時が来るにしても、今ではないと思いたかった。
 何台もの自動車が行き交っては通り過ぎる。その騒音を聞き流しながら歩いた。
 考え事をしていた訳ではないけれど、気が付けば学校に着いていた。頭では忘れていても、体は覚えていたのかもしれない。形にならない実感を得て、クラスの前にまで足を運ぶ。
 騒がしさに、何か懐かしいものが蘇ったなら良かった。この期に及んで、何も感じない心が恨めしい。次に進もうと、扉を開ける。
 開かれた扉に反応して、何人かが私を窺う。
「……あ」
 何も考えずに、「おはよう」と言ってしまえばよかった。
 冷たくて、蔑んで、憐れんでいるいくつもの瞳を見たら、何も言えなかった。扉を開けた体勢のまま、怯んで立ち竦むしかなかった。
 ひとつの視線がずれると、掻き消えていた喧騒が再び蘇る。もう私を顧みる人は誰もいなかった。
 私は、自分の席が分からないから、扉の近くにいる女生徒に尋ねてみる。後ろの席の女の子と話し込んでいる彼女は、私の声が聞こえているはずなのに、確かな言葉を返してはくれなかった。
 後ろから、舌打ちが響いた。廊下に引き下がると、私の顔も見ずに男子生徒がクラスに溶け込んでいく。
 ホームルームが来るまで、廊下で待つことにした。教室の隅で立っているより、常に人が流れている廊下に立っていた方が、孤独を感じずに済む。
 けれど、存在を否定されることが辛くない訳ではなかった。
 クラスメイトも同じ。今の私ではなく、かつてここで生活していた、私自身は覚えていない過去の私を見ている。
 もう、昔の私のまま生きることはできないのに。
 仕方のないことかもしれないけれど、私の殻を被った私は、少しずつ、世界から締め出されている。
 でも本当は、事故があったその前から、拒絶され続けていたのかもしれない。
 その力が、私から棲み処を奪って。
 私の背中を押し、あのアスファルトへと飛び込ませたのだ。

 

 何もかも世界のせいにすれば楽だったのに、私はそれを選ばなかった。
 だって、世界から奈落へと突き落とされた私も、またここに戻ってきてしまった。
 昔の私をなぞってもどうにもならないのだから、ここからまた新しく積み上げていかなくちゃならない。昔の私も同じ私だけれど、思い出の鏡を覗いたところで今の私はそこにはいない。
 箸が茶碗を突付くかちかちとした雑音しかない食卓で、私は告白した。
「一人暮らし?」
「うん」
「どうして」
 母の追及に対し、私は力強く返答する。
 家族の団欒は、もしかしたら、事故に遭う前から凍り付いていたのかもしれない。
 歯車はずっと昔から錆び付いていて、きぃきぃと、耳障りな音を奏でていたのかもしれない。
 今の私に、それを知る術はない。母は否定する、父も認めないだろう。
 でも、構わない。
 今の私なら、何も覚えていないことが武器になる。
「本当はね」
 唾を飲み込む音が聞こえた。静かに、深く。
 思えば、それは私のものだったのかもしれなかった。
「私、みんな覚えてるんだ」
 その場しのぎの、嘘を吐く。嘘でなくても、昔の私を類推するのは驚くほど簡単だった。
 別に、誰が嫌いなのでもなかった。
 ただ、私の遺志は私が継がなければならない。
 箸が置かれ、席を立つ音が聞こえ、父が憩いの場からいなくなった。数分の後に、母も席を離れるだろう。
 錆びた歯車が、再び動き出した。

 

 それからは早かった。
 一人暮らしは大学に入ってから、というのが唯一の制約だったから、それには従う。準備は今からでも遅くはないし、過度に反発する必要もない。
 学校とアルバイトの両立は難しかったが、バイト先はひとつの居場所になる。家族で一緒にご飯を食べることは少なくなった。学校で一緒に昼食を食べてくれる友達はいない。いたかもしれないけれど、覚えてはいないし、誘ってもくれない。
 思い出ばかりで、嫌になる。
 大学に入れば、ほとんど自分だけで生きていかなくてはならない。しかし、その方が楽と言えば楽だった。
 何も覚えていない学校や家族のことよりも、これから積み上げていく自分の方が大切だった。
 そうして高校時代は瞬く間に過ぎ去り、私は進学を果たす。
 晴れて、一人暮らしが始まった。
 大学に入っても、同じコンビニに勤めていた。何より居心地が良かった。中には気に入らない先輩方もいたけれど、それはいない方がおかしい。おおっぴらに喧嘩したこともあったけれど、虐めたり、虐められたりの関係ではなかったから、居心地が良かった。
 友達もできた。
 サークルには、コンビニの仲間と同じところに入った。テニスというスポーツの知識はあったが、経験があったかと問われると辛かった。ラケットを振って下手くそと言われてしまったから、きっと初体験なんだと推測した。
 ある夜、タイムカードを切って帰ろうとしたら、一緒に帰ろうとバイト仲間の男の人に誘われた。私は頷いて、他愛のない話をしながら家路に着いた。
 こんなこと、覚えている限り初めてだったから、アパートに帰った後、しばらく胸の高鳴りがやまなかった。玄関の扉に背中を預けて、深呼吸を繰り返す。
「……はぁ、ふぅ……」
 落ち着いた途端に、しりもちを付く。しばらくは、興奮で立ち上がれなかった。
 私を、私として評価してくれる人がいる。過去の私が犯した何らかの過ちに囚われて、今の私を蔑ろにする人はいない。それが嬉しくて、幸せで、事故に遭って初めて、私は生きていることを実感した。
「は……そうなんだ」
 もう、思い出さなくてもいいんだ。昔の私を。
 そのことが、嬉しくて、寂しくて、何だかよく分からなくて、泣いた。

 

 毎日が楽しくて、ずっと同じ仲間と遊んでいた。
 アルバイトは四年目に入り、大切な仕事も任されるようになった。同期の仲間は何人かやめてしまったけれど、大学でまた会える。就職が決まっても、忘れなければ、会うことはできる。
 新しく何かを積み上げるたび、忘れることが怖くなる。
 友達にそんなことを打ち明けると、馬鹿なこと言わないでよと笑われるから、つられて私も笑う。
 私には、忘れられないことが増えた。同じように、忘れたくないことも。
 四年前の私には、忘れたいことしかなかったのかと思うと、辛かった。
 そう思えるようになった今なら、あの場所に行っても大丈夫かもしれない。
 あそこで起こったことを忘れないために、私はずっと顔を背けていた場所に赴く。

 

 私が轢かれた道路は、実家と学校の中間くらいに位置していた。
 見晴らしのいい直線で、住宅街にありながら、たまに物凄い速度で飛ばしてくる自動車を見掛ける。今も、小型のトラックが目の前を通り過ぎて行った。排気ガスで曇った視界が開けると、反対車線の歩道に、制服姿の女の子が見えた。
 日曜日の午後だし、部活帰りだと考えればおかしくはない。
 女の子は、私の方を見ていなかった。どこか、あさっての方角を眺めている。私には、その方角にあるものが、どうしても輝かしいものだとは思えなかった。そんなものは、ただの暗闇でしかない。
 向かい合って数秒、何台か車が行き過ぎる。どちらも動かなかった。目的がないのは、二人とも同じなのかもしれなかった。
 目の前を、白いワゴンが通り過ぎた。黒煙が視界を覆い、何も見えなくなる。
「……あ、れ」
 次の間に、いたはずの女の子が見えなくなった。一瞬、忘れてしまったのかと思った。
 けれど、まばたきの後には、ガードレールをまたいで、車道に踏みこんでしまった女の子を見付ける。
 今となっては、もう思い出せないことだけれど。
 きっと、四年前の私も、これと同じ道を選んでしまったんだろう。類推は、とても簡単だった。
 迫ってくるトラックと真正面に向かい合い、数秒後の衝突を待ちわびる。その表情が恍惚に満ち溢れているだなんて、認められるはずがない。あれが私と同じだったなんて、受け入れられるはずがない。
 鞄も、ガードレールも邪魔だった。放り投げて、飛び越えて、とっさに走り出す。
 手前の車線に車がいなかったのは、私にとって幸福だったか不幸だったかは知らない。そんなことはもう、忘れてしまった。
 まっすぐに突進すると、直後にトラックのブレーキ音が響き渡った。うるさくて、耳を塞ぎたくなる。女の子は私もトラックも見ていない。ずっと、どこにあるか分からないあさっての方を眺めている。
 馬鹿、と言って。
 思い切り走って思い切りぶつかってやったら、女の子を歩道に押し返すことはできた。小さい悲鳴と、人間が引きずられる音がひとつずつ。勢い余って、私も転んだ。
 その上で、私が逃げられるかどうかなんて、始めから考えているはずもなかった。
 けたたましい、耳障りなブレーキの音が鳴り響く。
 私は、トラックのフロントガラスを見る。
 そこには、あさってでも四年前でもなく、驚きに呆けている今の私が映っていた。

 

 空が赤い。
 助けは来るだろうか。来たらいいな、と思った。
 体が熱くて仕方ないから、誰か、早く空調の効いた部屋に連れていってほしい。
 これから、アルバイトがあるんだ。私が私の記憶をなくして、初めてできた私の居場所なんだ。
 無くす訳にはいかないんだ。
 けれど、今は体が動かない。仕方ないから、しばらくは休みかな。
 怒られるかもしれないと思うと、涙が出た。
 涙を拭うための手は動かず、その代わり、眠くもないのにまぶたが下りる。
 ……ちくしょう。悔しいな。
 もうちょっとだけ、やっていきたかったのだけど。
 忘れたくてつまずいて、思い出したくて走って、気付いて、立ち止まって。
 結局は、思い出の場所にたどりついた。
 でも、それでもいいかなと思えたから、もう眠ってしまおう。明日に響くといけないし、休みだとしても、怠けている暇なんてないんだから。
 ……は、あ。
 ため息のようなものを吐き出したら、まぶたが下りた。
 けれども、子守唄代わりになるはずのサイレンの音は、最後まで聞こえてくることはなかった。

 

 

 眩しさにまぶたを開けると、見渡す限りの白色が私を取り囲んでいた。
 頭はすっきりしている。体も軽い。腕と足には何本ものチューブが刺さっていて、寝転んだ私の隣には、見慣れない人たちが立っていた。
 カーテン越しの光からすると、どうも今は朝みたいだ。私は、泣き崩れた顔や歪んだ顔に向かって、
「おはよう」
 と、言った。
 そうしたら、近くにいた女の人も嬉しそうに「おはよう」と言って、私の頬を優しく撫でてくれた。
 その手のひらはとても温かかったけれど、私は、この女の人が誰なのか、どうしても思い出せなかった。

 

 

 

 



OS
SS
Index

2006年2月1日 藤村流

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