Hot Breast Rhapsody

 

 

 宴のとき。
 その場所は、外界と比べるとやけに静まり返っていた。訳もなく、息を潜める。厚く締め切ったカーテンからは、一筋の明かりさえ入って来ない。
 密会には、都合の良い場所だと思った。
 ここならば、誰にも邪魔されない。
 ここでなら、思う存分に堪能することが出来る――。
 彼は、自分にも分からない程度の唾を飲み込む。
「――……」
 呼吸はひとつ。
 緊張しているのか、とも思った。ただ、彼女の姿態からすればそれは考えにくい。
 典型的な、商売女。蔑んでいるのではない。ただ、そうであるという確認だ。
 だからこそ、彼は本懐を遂げることが出来るのだし。
 いらっしゃい、と数秒前に彼女は言った。だが、彼は身動きひとつ取れない。というより、どうすれば良いのか全く見当が付かなかった。
 身体のあちこちが、汗で滲んでいる。
 その不快なぬめりを押し殺し、彼は、新しい一歩を踏み出す。
 ぎしり、と安物のベッドが軋みをあげる。ふふ、と息を抜く音が聞こえた。艶かしい吐息に、ふと何もかも忘れて襲い掛かってしまいそうになる。それだけの魔力が、この空間には充満していた。
 暗闇に慣れない視界は、いまだ彼女の肉体を完全に把握していない。かろうじて、シーツを占領するすべらかな四肢が見て取れる程度だ。
 簡単に触れていいものどうか、彼は悩む。
 だが、実のところ逡巡は一瞬だった。
 初物とはいえ、あまりに臆病な彼の挙動に耐えかねて、彼女の手が彼の手首を掴む。
 やや乱暴な仕草にも、彼にはその掌の温かさだけが脳に焼き付けらける。
 直後。
「――――!」
 なにか、やわらかいものにふれたきがした。
 いや、正確には――気が触れた、と言った方がいい。
 彼女の手が誘った場所は、そのまま直接的な行為へと移行する前段階の地。
 また、可笑しそうに微笑む音が耳朶を駆ける。
 ゆっくりと――本当にゆっくりとではあるが、彼は少しずつ、傷付けない程度に柔肌を撫で付けていく。丁寧に、宝物を磨くように、一定の愛情をもって。
 服の上から、とはいえ、元々が薄着ではあった。まして、彼の瑞々しい生気を考えれば、少々の障害なら彼の中にある妄想器官が綺麗に排除してくれる。
 やわらかく、あたたかい。
 心臓の鼓動がうるさい。脳は必要以上に熱を帯びているし、身体は上手く動いてくれない。
 これでは、独りよがりだ。自分はともかく、彼女を悦ばせることなど、到底――。
 と、唇に、細い指が触れる。
 その仕草が、冷静になれ、と言っているように思え――彼は、今更のように恥ずかしがった。
 やわらかいものを、ころがしていく。
 上に、下に。猫がボールを撫でるように、アメンボが水を滑るように。
 力を込めれば、手に余るそれは簡単に掌からすり抜けていく。惜しい、と思う間に、その丘陵を掴んでいる自分に気付く。くふぅ、という音が、脳に消えない傷を残した。
 右手から、左手へ。彼女の顔が見えるようになってからも、変わらない強さで愛でていく。
 不意に、なぜ自分はこんなにも真剣になっているんだろう、と冷静な見地に立ち返る。
 だが、理性と衝動が対立したところで、この場所に漂う甘い蜜のような誘惑に逆らうことは出来ない。
 言い訳をすれば、これは数万年も前から続いて来た伝統的な儀式であり、それを近代の清潔すぎる始点で捉えること自体が間違っているのだろう。
 ――詭弁だ。
 ああ、それは認めよう。認めなければ。認めなくちゃ。
 始まらない。
 おやゆびが、ちょうじょうにふれる。
「――――っ!」
 敏感、なのか。この空気に中てられたのか。
 好い声だ、と思った。もっと、もっと鳴かせてみたい。可愛い猫の鳴き声は、威嚇であれ悲哀であれ、媚であっても聞きたいと思うだろう。そういうものだ、と自覚する。
 右と左を同時に。おすようにして、ころがす。
 今度は、息だけが漏れた。近付きすぎた顔に、甘い吐息が降り掛かる。
 人を殺す息があるのだとしたら、それはメデューサや殺生石などではなく、只の女が吐く息なのではないか。不意に、どうでもいい妄想が頭をよぎる。
 興奮、している。若い男も、慣れた女も。
 外の喧騒がいやに遠く、それでいて完全には隔離されていない。表の世界とは皮一枚隔てただけの空間に、例えようもなく深い裏の世界が広がっている。
 そんな事実が、余計に脳髄を痺れさせる。
 なだらかな、それでいて膨らみのある双丘を、下から押し上げていく。掌に感じる確かな重みが、そのまま命の重量のようにも感じられる。そういえば、ここは最も心臓に近い場所なのだ。感じようとすれば、彼女の高まった鼓動すら手に取るように分かる。
 愛撫が続く。
 飽きることなく、撫で続ける。優しく、慈しむように。愛しいものを離すまいと、ずっと触れ続けている。
 ただそれだけで、何も要らないと思えた。
 けれども、やはり、これは始まりに過ぎないのであって。
 続きもまた、彼らには用意されている。
「――――」
 彼女の手が、熱心に胸を擦り続ける彼の手に添わされる。
 火照った躯を、潤んだ瞳を、汗ばんだ肌を全て晒しながら、最後に艶やかな唇を差し出す。
 彼は、瞳を閉じない。
 自分たちが行なっていることの意味を、しっかりと胸の中に落とすために。
 どうせ、周りは暗闇に染まっているのだ。目に頼ることはない。確かめる方法は、もっと他にあるから。
 ――くちゅ。
 二人の粘膜が触れ合い、聞いたことのないような、淫靡な毒を撒き散らす。
 こんな麻薬になら、溺れても構わない。
 掌に感じる熱は、彼女の胸から与えられたもの。とくん、とくん、と一定の律動を刻む。
 彼女の掌もまた、彼の胸元に触れる。彼女のそれよりは幾らか重たく、幾らか逞しい鼓動が刻まれる。
 繋がったままの唇は、その境界線を曖昧にし、やがてひとつのものになる。
 幸せ――なのではない。
 欲望のひとつ、性欲が満たされ、人間として、生命として成すべきことを成しているという解放感がある。
 彼女は、恋人ではないから。
 不意にそのことを忘れそうになって、彼は、胸に去来する痛みと、絡め取られる舌の感触に戦慄した。
 ――僕は、こんな人間です。
 彼女の胸を、先程より強く掴む。
 唇が、またひとつ厭らしい音を立てた。

 

 



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