『とどのつまり』

 

 

 

 

「こない」
 僕がベッドに寝転んで週刊誌を読んでいたら、神妙なようで、いつものように軽い調子で柑子は言った。みかんの柑に子で柑子と読む。変な名前だなぁ、と最初に言ったときはかなり怒られた。初対面なのに、冷え切った廊下で正座させられた。懐かしい思い出である。
 今は柑子の方がちょこんと床に座り、こう言っちゃなんだが、エサを待つ犬のように待ち構えている。返事を待っているのは明らかだったけれど、なんとなく、雑誌を閉じる動きもゆっくりと溜めて、彼女を焦らすように身体を起こした。
「こないんだよー、りょーいちー」
 駄々をこねるような口調だけれど、不必要に身体を揺さぶることもない。あくまで、訴えかけているだけだ。袖が余った紺のブラウスと、丈の短いキュロットスカートが、そこそこ埃の溜まっている床にぺたんと広がっている。眼鏡の縁は似合わないからと無いタイプのものを掛け、コンタクトにしないのかと聞いたら、お金が掛かりそうだから嫌だと言う。気持ちはわからないでもない。
 柑子は「こない」と言う。
 まさかな、という思いはあった。だから、口に出して確かめたかった。もし正解だった場合の覚悟など、一切考えないままに。
「で、何が」
 簡潔に聞く。雑誌をベッドに放り投げ、小さく背中を丸めて、出来るだけ柑子の目線に近付ける。柑子は少し上目遣いで、小さな唇をぼそぼそと動かした。
「生理」
 ――――。
「……もういっかい」
「月経」
 言葉が違うんじゃないかと思ったが、よく考えれば同じ意味だった。
「月……桂冠」
「それは日本酒」
「そだね」
 これ見よがしにお腹を擦りながら、柑子は楽しそうに言う。衣擦れの音が情事を思わせ、動揺を押し殺そうと沈み込ませたベッドから、軋むバネの音もまた卑猥な想像を加速させた。
 ――そうなのである。
 僕は動揺していた。
 まっしろだ。
 まっくらと言ってもいい。先が。
「……えぇと」
「まあまあ落ち着いて」
 柑子の告白が引き金になっているのに、柑子はにこやかに僕を宥めていた。
 ……間違いない。
 うろたえる僕を見て、柑子は楽しんでいる。何故かはわからないし、多少なりとも悪趣味であるような気もする。柑子だって、もしそれが本当なら、慌てふためいて然るべきなのに、僕だけ混乱しているのは不公平じゃないか。
 そんな、場違いな苛立ちだけが募った。
「生理不順、とかじゃなくて?」
「とかじゃなく」
「とかじゃなくか……」
「そだよ」
 可愛らしく首肯する柑子は、見た目からすると三ヶ月前と全く変わりない。無論、妊娠三ヶ月といってもお腹はまだ膨らんでいないのだろうけど、あの告白を聞いた後では、その身体が今までと異なるように思えてならなかった。
「……あぁ、うん」
「うん」
 実りのない会話だ。話が前方に進んでいない。空回りもいいところである。でも僕は、柑子に対して何を言えばいいのか、全くわからなかった。
 間抜けな顔でへらへら笑って、「冗談だろ」と言えば早いのかもしれない。それが現実に即した対応だろうし、実際、意識せずそういう反応をしてしまうのも無理はないと思う。
 けど、それは何か違う気がしたのだ。
 彼女は至って軽い調子で話しているけれど、対する自分は、真面目に考えなければいけないことなのだ。
 やっぱり、不公平だった。
「……でも、ちゃんとつけてたよね?」
 不躾だと思いながら、不思議に感じていたことを尋ねる。柑子は一瞬、何を問われているのか理解できず、きょとんとこちらを眺めていた。ん? と声にもならない呟きを漏らし、僕の解説を待つ。僕はそれ以上何も言わず、彼女の返事を待つ。
 程なくして、柑子は思い出したように「あ」と呟いた。そして恥ずかしがる様子もなく、むしろ誇らしげに小さく胸を反らして、僕に語りかける。
「うん。間違いなく、つけてたと思うよ。ただ」
「……ただ?」
 そこでようやく、柑子は羞恥に頬を染めた。
「……わたしが寝てたとき、なにしてたかはわかんないけど」
 言って、朱に染めた頬で僕の顔を見る。
 反則だ。それは。
 不意に視線を逸らすと、柑子はくすくす笑いながら僕の顎をくすぐってきた。くすぐったい。
「や、やめ」
「あはは、へんなのー」
 どっちが、と思う。
 緊張感があるのかないのか、少なくとも僕の方はこの問題を真剣に捉えようとしているのに、柑子の方はわざと張り詰めた雰囲気をはぐらかしているような気さえする。柑子のすべすべした指先をかいくぐりながら、僕はようやくベッドから降りることができた。
 こざっぱりとした床に胡坐を掻いて座りこみ、柑子と同じ目線を保つ。柑子が僕のベッドにもぐりこむようになって、ちょこちょこ掃除もしてくれるようになって、部屋も昔よりきれいになった。だからといっていきなりお風呂の中に入ってきて僕の髪を洗いたがるのはやめてほしいのだが、彼女はあまり聞き分けてくれない。困ったもんだ、と笑えるうちが華なのかもしれないけれど。
 それでも一応、僕は弁明する。
「やってないからね。なんにも」
「ほんとに?」
「ほんとに。……大体、さ」
 接続の言葉を放った後で、言わなきゃよかった、と後悔する。けれども、不自然に言葉を切った僕の顔を覗きこむ柑子を前にしたら、続きを言わないわけにはいかなくなった。
 若干、間が空く。
「もったいない」
「もったいない?」
「だって、寝てる間にいろいろしても、その……柑子の反応が見れないんだから」
 恥ずかしい台詞だ。こんなこと、素面で言うもんじゃない。
 ある意味じゃ、今も十分に酔っ払っている状態なのかもしれないけれど。
 確かに、むずがゆそうに身をくねらせて、衣擦れとシーツの摩擦が静かに響き渡る中で、不意に漏れる寝言のような柑子の吐息を、その喘ぎ声を聞くのは、想像以上に楽しいことかもしれない。
 でも、そんな背徳的な興奮に身を投じなくても、僕は柑子を直に愛することができる。
 言葉にすれば嘘に聞こえるような短絡的な感情でも、決して、嘘じゃなかった。恥ずかしいけれど。
 照れて、赤く染まっているであろう僕の頬を、柑子がにやにや笑いながら撫でようとする。一瞬、その手を拒もうと身を縮ませたけれど、指と指が無意識に触れ合って、別に気後れする必要はないのだと思えた。気付けば、僕は柑子の手を甘んじて受け入れていた。
「やわこいねー、ぷにぷにしてる。うわー」
「何だよそれ……」
 好き勝手に弄ばれ、頬は次第に紅潮する。風邪をひいたような微熱が全身に回り、触れられていることの温かみがわずかに鈍くなる。何の話をしていたのかさえ、気を抜けば簡単に忘れてしまいそうだ。
 ひとしきり僕の頬を堪能して、満足したらしい柑子はそっと手のひらを離す。ふと、触れられていた実感が薄れ、言葉にするにはちっぽけな喪失感が去来する。それが表情に出ていたのか、柑子は僕を慰めるようにふっと目を細めた。
「言わないんだ。良一は」
「何を」
「堕ろせ! とか」
「そんな目で見てたの」
「いや、男なら一度は言ってみたい台詞じゃないかなーと」
「どんなイメージだよ」
 ごめんごめん、と彼女は笑った。
「でも、ほんと言うとね」
「うん」
 この頃になると、気持ちは幾分か落ち着いていた。いつものようなじゃれあいが、ともすれば重苦しくなりかねない空気を緩和したのは疑いのないことだった。もしかしたら、柑子はそれを意図してわざと軽い調子で喋っていたんじゃないかと思えるくらいに。
 柑子は続ける。
「怒られるんじゃないか、て思った」
「どうして」
 純粋な疑問を投げかけると、柑子は少し口を噤む。
「いつか、子どもがほしいなーって話したよね」
「うん。覚えてる」
「けど、良一は見られてないって思ってるかもしれないけど、あんまりいい顔してなかった」
「……そう?」
「そだよ。ちゃんと見てたもん、わたし」
 責めるでも嘆くでもなく、あくまでも優しく告げる。
 柑子の言うとおり、僕は子どもが苦手だったから、柑子の言葉には素直に頷けなかった。けれど、柑子がそう望むのなら、柑子と一緒なら、子どもを育てるのも悪くはないと思った。
 嬉しくないわけじゃなかった。幸せでないはずもなかった。
 ただ、僕らがそうなることが怖かったのだ。とても。
「だから、怖かったかな。すこし」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。可愛いのにさ、子ども」
 今度は、はっきりと責めるような口調だった。かといって、本気で怒っているというふうでもない。聞き分けのない子どもに振り回される母親のような、しょうがないな、と最後にはふっと笑うような仕草だった。
 今、その表情ができるのなら、確かに柑子は母親の素質があるのだ。
 そんな気がする。
「大丈夫」
 何の根拠もない台詞を吐いて、僕は柑子の手に自分の手を添えた。ひとまわり小さい手の甲がすっぽりと覆い隠され、赤ちゃんを抱いているような錯覚を得る。おそらく、その感覚は間違っていない。僕にとって、そのどちらも守るべきものであることには違いないのだから。
 柑子は、何も言わずに僕の目を覗きこんでいた。
「そりゃあ、びっくりはしたけど」
 本音である。
 正確には、今もまだ整理できていない。それでも、表には出さなくても、不安がっている柑子をどうにかして安心させたかった。そのためなら、僕の未来がどんなに険しい隘路になっても構わない。そう思えた。
「誰の子だ! とか思わなかった? わたしたちはちゃんと避妊してたのに」
「そりゃあ……可能性は否定できないけど」
 首を捻ると、柑子は不貞腐れるような顔をして身を乗り出してきた。重なり合った手のひらに、柑子の体重が預けられる。ちょっと痛い。
「嫉妬しない?」
「してほしいの?」
「そりゃあ、ねえ」
 猫のように、浅く首を傾けて僕を見る。かすかに褐色の混じった瞳は澄み切っていて、それだけ見れば柑子は純粋そのものだった。
 いわゆる、乙女心というものだろうか。よくわからないけれど、そうしてほしいと思う気持ちは、なんとなく理解できる。柑子が僕に嫉妬して欲しいと思うのは、僕らがそういう関係じゃないからだ。
「恋人同士じゃないのに?」
「それを言うのはルール違反」
「……ごめん」
 素直に謝る。柑子は、確かに怒っていた。
 僕らの関係は、厳密には兄と妹だ。でも、五年前までは他人だった。
 名前も顔も知らなかった二人が、ひとつ屋根の下で暮らすようになって、思春期は僕らの衝突を加速させた。そしてそれによる反動を肥大化させることにも成功した。ぶつかりあって、理解するようになって、家族になろうとした。実際、家族であるのは疑いのないことだった。
 ただ、兄妹ではなく、夫婦という意味でなら。
 柑子は、恋人であろうとする。僕は、それに徹しきれずにいる。
 でも、結ばれて、子どもができれば、晴れて恋人になれるというわけじゃない。
 背徳が肥大化するだけ。
 生きるのが辛くなるだけ。
「良一は、そうなればいいと思ってる?」
 答えに窮する。柑子が真面目に話をするのは、こういう時しかない。だから、僕も真剣に考えて答えなければいけなかった。
 柑子がもし誰かと結ばれたなら、僕は柑子の兄として祝福することができるのか。
 それとも、柑子の恋人として、否定することしかできないのだろうか。
「責任は取るよ」
「責任なんてどうでもいいの。わたしは、良一がどうしたいか知りたいんだよ」
「そうか。難しいね」
「難しいよ。だから、ちゃんと悩んでね」
 ようやく、彼女に似合う笑顔を見せてくれた。
 酷い話だ。でも、悪くはない。
 悪くはないのだ。
「もし、柑子が彼氏を連れて来たら」
「うん」
「殴ると思う」
「そっか」
 ひとつ間を置いて、柑子は問う。
「それは、お兄ちゃんとして?」
「それは、今は聞かないで」
「そっか。わかった」
 柑子は頷いて、重ねられた手の上に、そっと、柑子の手がもうひとつ添えられる。こうして見つめ合うことは、いくら寄り添い合うことに慣れていても照れくさいものだ。
 ずっと、こうしていたいと思うのは無理かもしれない。
 柑子の告白が、僕らの関係に一石を投じることは間違いなかった。誰の子どもでも、必ず何かを清算しなければならない。未来を想像するのは辛いけれど、覚悟しなければならない。初めて柑子と唇を重ねた日から、ずっと思い描いていた結末が訪れるのだ。理想的には程遠いけれど、絶望という程でもない。何を憂う必要があるのだろう。
 ただ――。
「でも、安心して」
 それから何を思うべきか悩んでいると、柑子がすうっと深呼吸をしてから、ため息混じりに呟いた。
「妊娠してるかどうかはわかんないんだから」
 …………。
「え」
 アホみたいな声が出た。
 柑子はどこか勝ち誇った顔で解説する。
「生理が来ないー、て言っただけだよ。わたしは」
「え、え、でも、生理不順とかじゃないって……」
「そりゃ、毎月きてるしね。生理。月経ともいう」
 それはもういい。
「いや、最初に『こない』って……」
「今月はまたきてないよって意味」
 これ見よがしにお腹を擦りながら、柑子はにやにやと意地悪く微笑んでいる。なんてこった。
 ――謀られた。
 そのことに気付いた瞬間、どっ、と疲労が背中にのしかかってきた。首は力なく前に垂れ、背筋も猫のそれより丸くなってたわんでいる。無論、柑子の顔は見えない。
「良一、りょーいちー」
「何だよ……」
 不甲斐なさに打ちひしがれている僕のことなどお構い無しに、柑子はしつこく僕の名前を呼ぶ。怒る気にもなれず、のそっと顔を上げた僕に、柑子は。

 ありがと。

 囁くようにお礼を述べ、そっと、唇同士が重なり合うだけのキスをする。
 愛し合い、貪り合うような繋がりじゃなくて、純粋な感謝を示す親愛のキスだ。
 僕が驚いて硬直している隙に、柑子は静かに唇を離す。淡く、ほのかな感触だけが唇の表面に染みこんでいる。
「ちゃんと、悩んでくれて」
 徐々に離れていく過程で、柑子は「ごめんね」と謝罪した。手のひらは丁寧に解かれる。頃合とばかりに柑子は立ち上がり、スカートにできた皺を擦るように伸ばす。僕は小さく口を開けたまま、柑子の変わらない姿をぼんやりと眺めるしかなかった。
「でも、油断はしないように」
 柑子は自分の唇を人差し指で撫で、その先っぽを口に含む。
「りょーいちは、してないって言ってたけど」
 わたしは、りょーいちが寝てるあいだに――ね?

 

 

 

 あれから三ヶ月になる。
 結局、全ては杞憂に終わったのだけど、何も変わっていないわけじゃなかった。
 ひとつは、僕が満足に眠れなくなったこと。
 もうひとつは、いつか来るべき未来のために、空手を習い始めたことである。

 

 

 

 

 



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2008年3月31日 藤村流

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