勿忘草の咲く
唇から吐き出された溜め息に色が付いていれば、それはきっと灰色かこげ茶色でもしているのだろう。
煙草でも吸っていれば解り易かったのに、生来の生真面目が祟り、酒も煙草も女も博打もろくすっぽせぬまま、波乱万丈など無縁の人生を送ってきた。それはそれで悪くない生き方であるように思えた頃には、随分と、年齢を重ねてしまっていた。
なだらかな青い斜面に腰掛け、丘から見下ろせる長閑な風景に見入る。
森の一角をくりぬいたらしい式場は、その庭に天然の勿忘草を咲かせている。踏み潰すのも気が引けたが、何、雑草の類は踏んだところですぐに蘇る。厳しい冬を越える花は強い。
ぼんやりと、吹く風や日の光に身を委ねる。
今日、挙式を迎える新郎と新婦は、このあたりに住むらしい。既に引越しも近所への挨拶も済ませている。新郎の仕事の影響から、この日を迎えるまで結構な時間が掛かったのだが、それもまた良い思い出として今は笑うことが出来る。
なら、自分はどうだろう。
幸せに笑う彼と彼女を見て、私もまた、笑うことが出来ただろうか。
「……まぁ、ね」
傍らに置いたペットボトルを掴み取り、底に付いた草の葉を払う。
明確に答えが出せるのなら、こうして、披露宴の二次会の最中に会場を離れることもない。
田舎のちっぽけな式場といえども、それなりの規模を誇っている。ましてや新郎と新婦の人徳からか、かなりの人数が招待されている。幸運なことに、私もそのひとつの席を奪うことが出来たのだが、逃げるような形で現場を退いた後、私を追いかけてくれる人は誰もいない。
嬉しいやら、悲しいやら。
あるいは、気付いているのに、放っておいてくれているのだろうか。
だとしたら、感謝すべきなのかもしれない。
今の私に話しかけたら、言わなくてもいいことさえも、べらべらと喋ってしまうだろうから。
「美味しいねぇ、しかし」
炭酸はまだ抜け切っていない。高級料理は舌に合わず、一口ずつ摘まんだ後はそこらにあった自販機からコーラを購入した。やっぱり、見栄は張るもんじゃない。息が詰まる。着こなしたつもりの紺のスーツも、一体何人に笑われたことか。似合わないことは初めから知っていたのに、身の程知らずもいいところだ。
一応、彼女は少しだけ笑いを堪えながら、「似合ってるよ」と言ってくれたけれど。
一方の私は、「綺麗だよ」とも言えず、ただ、ウェディングドレスに身を包んだ彼女の姿に見惚れていた。
まぁ、その後には、しっかり新郎にじろじろ見てるんじゃねぇと言わんばかりに背中を叩かれたのだが。何をーと反撃する私と彼を見て、彼女はくすくすと笑っていた。
コーラのフタを開ける。
ポリエチレン容器の中でぷちぷちと跳ねる、炭酸の音を聞く。
頭上を飛び交う鳶の鳴き声も、涼しげな風が織り成す木々のざわめきも忘れ、人工めいた炭酸の弾ける音に聞き入っていると、知らぬ間に、誰かが後ろに佇んでいた。
正確には、煙草を取り出し、聞こえよがしに煙を吐き出す音が、私の音に割り込んできた。
振り向く。
「なにしてんの」
あらかじめ用意していたように淡々と、友人は言った。
こちらは既にスーツもネクタイも外しており、くたびれたワイシャツ一枚のみである。無精髭くらい剃れよと注意したのだが、面倒臭いと言って全く聞かなかった。私でさえ、剃刀負けする痛みを堪えながら必死で剃ったというのに。
友人の久保は、初めからくしゃくしゃしていた髪を更にくしゃくしゃと掻き乱しながら、私の隣に腰を下ろした。こちらは、いわゆる不良座りである。柄の悪いことこの上ない。
「本当、何してるんだろうねぇ」
「妬いてんの?」
顔も見ずに、辛辣な言葉を告げる。ぷはぁ、と煙を吐く音が続いた。
相変わらず、遠慮を知らない奴である。
「それとも、横恋慕かな」
「似たようなもんだ、何にしても」
「奪っちまえばいいんじゃねえ?」
向き直る。
なんだよ、と久保は顔をしかめていた。
久保はいつものように軽い調子で喋っているから、本気か否か、真意を測るのは難しかった。
「いや、ごめん」
いや、違うか。
私が、久保の言葉を重く受け止めすぎているのだ。
「謝らなくてもいいんでないの。好きなもんは好きなんだし、別に、何を想ってたって悪かねえよ」
短くなった煙草の先から、赤い火の粒がぽろぽろと落ちる。
「でもなぁ、やっぱり、お似合いだったろ。あの二人」
「んー、まあなぁ。おまえよりは似合ってた」
正直な奴である。
久保は、私が彼女にどういう感情を抱いていて、彼女が私のことをどう思い、どういう結末に至ったか、その全てを知っている。私は、誰かに打ち明けなければどうにも立ち行かない状況に陥っていたから、久保に頼るしか方策がなかったのだ。
それが縁となり、この悪友と仲良くなることが出来たというのも、思えば皮肉な話だが。
へらへらと笑いながら、久保はまた煙草を銜える。私もまたコーラの容器を傾け、喉の奥で弾ける炭酸の痛みに酔いしれる。
胸は、痛みを感じていない。
もう、度重なる痛みに慣れてしまったから、たとえ痛んでいても、それを痛みと感じることは出来なくなったのかもしれない。
嬉しいやら、悲しいやら、だ。
「あぁ、そういや」
久保が、思い出したように言う。落ちかけた煙草を慌てて唇に戻そうとし、先端に指が触れて小さく呻く。
「おちつけよ」
「あー、うんと、あいつらってもう出来上がってるんだっけ」
ぽん、と久保が自分の腹を叩く。
「ちゃんと避妊はしてるって言ってたぞ」
「いや。もうそろそろ奴の方が我慢できなくなってる。まちがいねえ」
「どうだかなあ……」
返事に窮し、残りわずかとなったコーラを煽る。
二次会の予定はあと一時間ほど、気が早い人なら、もう帰路に着いていてもおかしくはない。ちらほらと、家路を急ぐ人の影も見えるようになった。その波に乗じて、私も居なくなるべきなのかもしれない。コーラも切れた。付き合いの良い友人も、いつまで私の隣に陣取っていてくれるかわからない。気紛れな奴だから余計に。
だから、一度は思い切って立ち上がろうとした。
「あ、おれもそろそろ戻るわ」
急に、久保が勢いよく立ち上がったものだから、私も「あぁ」と呆けたように見送るしかなかった。ポケットに手を突っ込み、背中を丸めながらゆっくり会場に戻る友人の背中を見て、あいつも大概わからん奴だなとしみじみ思う。
再び、眼下の景色に身を委ねる。そろそろお尻が痛くなってきた。
コーラもない。携帯電話も電池がない。暇潰しの道具といえば、脳に手を突っ込んで引きずり出せる痛い思い出くらいなものだ。今更、そんな面倒なサルベージを、この場で行う必要もない。思い出すだけで涙を流す特殊技能は、二人が結婚とすると聞いた頃に、面白いくらい簡単に失ってしまったけれど。
「綺麗だなぁ……」
何もない、という訳ではないにしろ、煩わしい渋滞や排気ガスに苛まれる必要のない、静かな街だ。二人がここを選んだのも、過酷な仕事に疲れていた彼に彼女が配慮した結果らしい。彼の仕事も安定し、彼女の仕事も軌道に乗っていたから、渡りに船だったこともある。私も、余計なお世話と思いながら、少しばかり助言をさせてもらった。
ここなら、暇な時にいつでも顔を出せる。
友人として、何か困った時に、手を差し伸べてもらいたい。
私に出来るのは、おそらく、それくらいしか残されていないだろうから。
「……はは」
情けない。
涙を流すなら今しかないと思ったが、泣いたところで、慰めてくれる人はいない。
寂しいものだ。
溜め息を吐いて、空を見上げようとする。傾きかけた太陽は橙に染まり、その片隅に、誰かの影が映り込んだような気がした。
振り向く。
「なにしてるの?」
奇しくも、久保と同じ台詞だった。
もっとも、式場の片隅で膝を抱えている可哀想な男に言えるような言葉は、それくらいしかないのかもしれない。それは、今日の主役の一人である新婦もまた、例外ではないのだろう。
私は、自然に立ち上がっていた。からん、と空のペットボトルが、革張りの靴に蹴倒される。
「いや、良い景色だなぁ、と思って」
「そうなんだ」
特に、不思議がっている様子もない。
ふと彼女の後ろを見れば、新郎や友人の他に、久保の姿も見える。
ピンと来た。
「君がどこにいるか探してたら、久保くんが教えてくれたの」
あの馬鹿。
気紛れに立ち去ったと思ったら、余計な気を回しに行ったというわけだ。
近いうちに、何か奢らされるに違いない。だが、この瞬間のためを思えば、決して高くはないのかもしれない。
「でも、いいの? 新郎を放って、別の男と話し込んでるなんて」
「いいんだよ。それともなに、不自然なことでもある?」
言葉に詰まる。
悪戯な笑みで、覗き込むように尋ねられると、昔のことを思い出してしまう。
その笑顔が私ひとりに向けられているのだと本気で信じていた、懐かしい記憶の果てを。
「……ないけど」
「うん、そうだよね」
破顔一笑する。
軽装、といってもフリルをあしらえたライトブルーのドレス、カチューシャの端に咲いている赤いリボンからは、彼女が今日の主賓であると一発で解る。彼と並べば大人と子どものような身長差だが、それは彼女が小さいのでなく彼が大きすぎるだけだ。その証拠に、私と並んでも、よくある姉弟のようにしか見えない。
よくある恋人、と表現するには、まだ時間がかかるらしい。
「やっぱり、団体行動苦手なんだね。探すの苦労しちゃった」
「苦手なのは、社交的な場そのものなんだよ。人見知り激しいから」
「私もそうだよ。わりと積極的だから、そう見えないかもしれないけど」
「えー」
「なにー」
軽口を叩き合い、胸を小突かれる。
些細な一言に拗ねる彼女の仕草が可愛くて、もっと意地悪なことをしたくなる。
新郎が控えている手前、滅多なことは出来ないのだけれど、それでも。
せめて、この瞬間だけは。
「新郎さんとは、仲良くやってるの?」
「なんでそんな他人行儀みたいに呼ぶの」
「いや、なんとなく」
「ふーん……じゃあ、私のこともそんな呼び方してたんだ?」
怒っている、ように見えて、その実、どう反応するか楽しみに待っているのだ。
私はよくこうしておもちゃにされることが多いが、普段は彼におもちゃにされているのだから、私くらいは彼女のおもちゃであった方が、何かと調和が取れていて面白い。
「いや、呼ばないけど」
「じゃあ、どうして新郎さんなんて言うの?」
追究は続く。
当の新郎は、久保を含めた友人たちと談笑しており、こちらに注目する素振りも見せない。
主役二人が会場から離れていて大丈夫なのかと思ったが、二次会も終わりに差し掛かっている頃合だから、もう客も少ないのかもしれない。
私と彼女の距離は、小突かれる程度には近く、心臓の音が聞こえない程度には、遠い。
どちらかと言えば、聞こえなくて助かる。
「それは……悔しいから」
「妬いてる?」
「うん」
認めた。
「好きだから」
彼女は小さく、うん、と言った。
今は遠い、昔のことを思い出した。
「うーん、でも、かわいくないよ?」
「かわいいよ」
「いやいや」
「かわいい」
「殴るよ?」
それは、御免被りたい。
けれども嘘や冗談を言っているつもりはなかったから、訂正はしなかった。
愛想笑いのような、行き場のない笑みを浮かべている私に、彼女は少し真面目な声で言った。
「わたし、あの子のことが好き」
低く、時に冷たく感じられる彼女の声は、やはり、何度聞いても愛しかった。
それが、伴侶となる男性のことを語る声だとしても。
「だから、崩れないよ」
「うん」
「あの子を大事にしたいから」
「うん」
「君を傷つけて選んだものだから、崩さない」
――うん。
最後の声は、彼女に届いただろうか。
同じ台詞の繰り返しだったから、聞こえずとも、悟ったかもしれない。
なら。
「よかった」
ふっと、口からそんな言葉が漏れる。
彼女は、不思議そうに尋ねてきた。
「どうして?」
「だって、幸せそうだったから」
きっと、彼女たちが公然とキスするところを目撃するなんて、後にも先にもないだろうから。
それを幸せの証明に選ぶところが何とも私らしいのだけど、彼女が呆れもせずに私と話をしてくれるから、救われる。
救われたのだ。
「幸せじゃなかったら、どうしてやろうかと」
「じゃなかったら、どうしてたの?」
「言わない」
「言ってよー」
「まぁ、これからもずっと幸せだったら、そのうち言うかもしんない」
「これからもずっと幸せだから、今言え」
脅迫だった。
私は彼女の圧力に屈することなく、無言の抵抗によってどうにか勝利を収めることに成功した。みずから折れた彼女はこれ見よがしに溜め息を吐き、やや冷たい視線を私にくべる。
「なんか、変なところで意地張るよね」
「そのへんは性格だから、諦めてくれると助かる」
彼女はまだ納得いかない様子だったが、腕組みをして数秒ほどうんうんと唸った後、諦めたような笑みを浮かべた。
「ま、よしとしましょう。これ以上いじめるのもかわいそうだし」
「私でよければ、またいつでもいじめてくれて構いませんので」
「Mだしね、君」
「そっちだって」
微笑む。
話は、終わろうとしていた。
無理やり引き伸ばすことも出来るけれど、彼に悟られず、友人らしい話が出来る時間は、あとわずかしかない。解っている。解っているのだ、そんなことは、初めから。
この瞬間しか、あの頃に戻れないということは。
「ねえ」
それなのに、私は、淡い思い出を再現するより、彼女の幸福を確かめた。
「うん?」
つぶらな瞳が、伸びた前髪に隠れてしまう。
「もし」
私は選べなかった。
たとえこの瞬間が儚い夢だったとしても、私と彼を置き換えて、幸せな夢を演じることは出来なかった。
「もし?」
問い返す声はやや上ずっていて、叶うなら、何かを期待しているのだと、下世話な想像をすることも出来た。けれど、彼女が崩れないと言った以上、私には、もう何かを期待することは許されない。
ただひとつ、出来ることがあるとすれば。
「もし、お二人の間に子どもが出来たら」
なっ、と彼女が上ずった悲鳴を漏らす。すぐに赤くなる頬のひとつも撫でてやりたいところだが、その役目は、訝しげにこちらを眺めている彼に押し付けよう。何、公然と唇を交わした仲なのだ、頬を、頭を撫でることくらい、あっさりこなしてくれるに違いない。
そうしてくれると、私も助かる。
続きを待ち侘びている彼女に、ゆっくりと、溜めながら私は言った。
「その子の名前は、私の名前にしてくれないかな」
彼女は、変ににやついた私に向かって、心の底から恥ずかしそうに叫んだ。
「するか!」
ばか! と、大きな声で喚いた後、新郎が脇目も振らずに駆け出してきたのは、言うまでもない。
……あの野郎、体格差考えて体当たりしろよ。
助手席に背中を預けていると、気が付いた頃には寝入っていそうだ。
幸い、運転手は親愛なる久保だから、何も考えなくても自宅に着く手筈となっている。持つべきものは運転の出来る友人である。ありがとう久保、ありがとう自動車。でも普段は自転車乗ってます。
運転中は喫煙を自粛している久保は、飴を転がすころころとした口調で言った。
「なあ」
「なんだよ」
景色を楽しもうにも夜はそれなりに深く、近眼である身にはかなり厳しい。ラジオもCDもMDも聴かず、DVDもナビも観ずに、男二人のナイトドライヴは続いて行く。
考えてみると、気色悪い。
「おまえ、結婚しねえの?」
「まず相手がいねえよ」
「探してないだけじゃねえのかなあ、それは」
「うるせー」
声に力がこもらない。理由は解り切っているから、私も、久保も何も言わない。
もう格好を付ける必要もないから、ネクタイは外してしまった。ベルトも緩めたいところだったが、久保が誤解しそうなので自重した。
「いつまでもそんなんだと、男好きって噂が再燃すっぞ」
「この際、それでもいいと思ってるんだけど」
急ブレーキ掛けやがった。
「お前は本気と冗談の区別もつかんのか」
「ありえるからなー」
「ありえねえよ」
憐れみを帯びた視線に腹が立つ。
動き出した車に揺られながら、式のことを思い返す。綺麗だった。費用がかさむと愚痴を零していた彼女も、私がお金を貸そうとすると断固として受け取らなかった。二人の式だから、と嬉しそうに理由を語った彼女を、私はどういう顔で見詰めていたのだろう。今は、もう思い出せない。
がくん、とシートベルトが胸に食い込む。痛い。
信号が赤だった。その上に、綺麗な月も見えた。
「もう、寝とけ」
「ああ」
悪いと思いながら、私は目を閉じた。
これ以上話せば、何か、良からぬことを口走ってしまいそうな気がした。
駆け巡る記憶は走馬灯のように、結婚は人生の墓場などと、ろくでもない格言が脳裏をよぎる。それがどうか彼と彼女の行く道に横たわることがないよう、親友の立場から、私は無責任な祈りを捧げた。
ガタゴトと揺れる車に沈み、懐かしい夢を見ようと思う。
私はきっと、その中でさえも、過去を変えることは出来ないのだろう。
まあ、いいか。
幸せなら。
今の自分がどうであれ、臆面もなくそう言い切れるだけの自信が私の中にあるのなら、今はただ、誇らしげに胸を反らして、ぐっすりと眠りに就こう。
おやすみなさい。
瞳の中に、勿忘草が揺れている。
この頃になって、私はようやく、涙を流すことが出来た。
正直に言うと、あまり、嬉しくはなかったのだけど。
「……泣くなよ」
うるさい、ばか。
OS
SS
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