きゃっと・ふらめんこ・だんさーず

 

 

 

 みゃー。

 今、斜向かいの家の軒下から、子猫の鳴き声がしている。
 耳に届く声は私の心をくすぐるのに十分な威力を秘めていて、もし叶うならば、外に駆け出して抱き締めて攫ってやりたいくらいである。
 が、それが成せない理由は実のところ幾つか存在する。

 みゃー。

 ひとつ。
 猫、私が近付くと逃げるし。
 悲しいかな、細い瞳は猫のそれに酷似していると自負しているのだけれど、考えてみれば人は猫の十倍以上の体躯をしているわけであり、いくら顔が猫っぽいからといって警戒の目が緩むかといえば、そんなことはありえない。
 唇を噛む。子猫はまだ鳴いている。

 みゃー、みゃー。

 ふたつ。
 私、恥ずかしながら、昨日プレイした恐怖系のゲームの影響が抜け切れず、夜に外出するのが嫌なのだった。
 怖いのである。
 もしあの夜に絶妙のタイミングで携帯電話が鳴り響いたら、私は確実に泣いていただろう。
 そのくらい怖い。
 怖いものが嫌いならプレイそのものを控えればいいのだが、怖いもの見たさか、話題に乗り遅れるのが嫌なのか、怖い怖いと思いつつもついつい手を伸ばしてしまうのである。
 これが人の業というものなら、確かに子猫が脱兎のごとく逃げ出してしまうのも無理からぬ話だ。

 みゃー。みゃー。

 しかし、この猫、鳴きすぎではないだろうか。
 少し心配になってきた。
 お腹を空かしているのか、それとも母親が近くにいないのか。
 いずれにせよ、夜通し鳴き続けられてはこちらの精神が持たない。可愛すぎて。
 猫の鳴き声で涙が出せる私としては、なかなか無視出来ない状況である。
 さて、何とするか。

 みゃー……。

 決断の時。
 子猫の声がか細くなった瞬間、私は既に立ち上がっていた。
 矢も楯もたまらなくなって、駆け足で暗い階段を駆け下りる。闇に慣れない瞳をこすりこすり、暗闇の恐怖に震える五臓六腑を腹パンチで押さえつけて、私は重々しいドアを開いた。
 無論、来客用の明かりを灯すのも忘れない。
 やっぱり怖いものは怖いのである。

 みゃ……みゃうぅ……。

 鳴き声が不安げに滲む。
 もはや、一刻の猶予も残されていない。闇夜の烏より策敵は簡単だといえども、暗闇に光る二つの眼を探し当てるのも困難な作業である。ましてやこちらは矯正視力0.8の近眼であるため、すばしっこい猫に悟らぬまま接近するのは至難の業だ。
 ついでにいうと、昨年の免許更新において、私は更新期限日ぎりぎりに免許センターに赴き、危うく視力検査で引っかかるところだった。おそらくひとつくらい勘で当たった可能性がある。
 ちなみに、私は生粋のペーパードライバーである。

 にゃうー。

 閑話休題。
 子猫の催促も忙しなくなってきた。やれやれ、と庭に築き上げられたガーデニングの垣根を越え、纏わり付く虫の大群を振り払いながら、約束の地へと足を進ませる。
 呟くのは、
「本当に怖いのは人間だ」という名台詞である。
 振り返ると何かがいそうな気がする。何か、に値するのは人間ではないかもしれない。それが私の足を竦ませる。だが真に恐ろしい存在が人間であると考えれば、たとえ後ろに何が潜んでいようとも、臆することなく前進することが出来る。
 でもやっぱり怖いものは怖いのでたまに思い切り振り返ったりするのだが、いてもいなくても怖いのであまり意味のある行為とは思えない。
 いい歳をした男がびくついていても大して可愛くもないから、これはかなりのびくつき損である。女の子がきゃーとかいってくっついてくるわけでもなし、悲鳴を上げれば、良くて通報、悪くて射殺である。
 人生、一寸先は闇であるということか。
 ちょっと上手いこと言った気がする。

 にゃー。

 そうでもないらしい。
 だんだんと猫の言葉がわかるようになってきた。
 常々、来世は猫か女の子になると思っている私であるから、これはかなり良い傾向である。若干、軽くなった足取りで、鳴き声のする方向に進む。
 声は、斜め向かいの家から聞こえて来る。
 高い塀と鉄柵を越えるには、かなりのリスクを抱えなければならない。どこの馬の骨とも知れない子猫に、そこまでの労力を割くのは如何なものか――と、妥協してしまうのがノーマルな猫好きである。
 だが、私は違う。
 本気なのだ。
 本気で猫になりたいと思っているのだ。
 こんな――このような塀や柵ごときで、私と猫の間を裂こうなどとは片腹痛い。へそが茶を沸かしてくれよう自動的に。
 ともあれ、ちょっと手が擦り切れたり鉄柵の先端が腹に食い込んだりするものの、猫に対する愛の前には苦にもならない。痛いけど。
 どちゃっ、と他人の敷地に不時着した私は、植物の感触も気にせずに耳を澄ませる。猫の方角を確かめるためだ。

 みゃぅー。


 近い。
 気が付けば、傍らにはお誂え向きの物置がある。
 ほぼ正方形の物置は、地面から15cmほど浮いている。
 暗闇に慣れた瞳は、その隙間の奥にある、二つの眼を正確に探り当てることさえ容易だった。

 

 

 勝った。
 何に勝利したのかはわからないが、私は猫を無事に確保し、速やかにご近所さんの敷地から脱出した。植物を傷付けないよう注意を払ってはいたものの、やはりどこかへし折れてたりすることでしょうごめんなさい。でも仕方なかったんです、だって猫が助けを求めてるんだもの。たとえ地球の裏側でも、その声を聞き届けてあげるのが、真の猫好きなのではないでしょうか。
 それはともかく。
 子猫は、黒毛がベースとなっており、耳と脚の先が白い雑種だった。
 鳴き疲れ、私の手の中でぐったりとしている。一刻も早く介抱せねばならない――のだが、私は猫の世話に慣れていない。初心者であると言ってもいい。だから、まず最初に思いついたことが、汚れた身体を風呂場で洗い流すことであった。

 みゃー。

 こそこそと泥棒のように家の庭を抜け、適度に痛む身体を引きずりながら風呂場に向かう。
 子猫はやけに大人しく、鳴き声が響く他は暴れることもなかった。私が服を脱ぐ間も、傍らにちょこんと座り、まるで母親を見上げるようにつぶらな瞳を私に向けている。
 殺人的である。
 私がもし死ぬとしたら、考えられる死因は、事故死か、腹上死か、あるいは猫が可愛すぎて死ぬか、である。
 最後は感覚で理解してほしい。
 私も言葉で説明し切れる自信がない。

 みゃう。

 よし、全裸。
 子猫を優しく掬い上げ、わーいと風呂場に足を踏み入れる。
 浴槽は良い感じに温くなっていたが、それでも猫を浴槽にぶち込むのはさすがに非常識である。
 ひとまず、適当な量のお湯をたらいに汲み、その中に、ゆっくりと子猫を浸す。
 ちょっと暴れた。
 にやにやしながら、子猫をじゃぶじゃぶとお湯に浸ける私はちょっと気持ち悪いなあと思いながら、それでもやめられないのはやはり猫が可愛いからなのだろう。

 にゃー!

 手のひらで優しくこすり、身体に付着した土や埃を落としていく。
 お湯も次第に汚く淀み、私の身体も猫の毛に跳ね上げられた水滴がびしょびしょになろうかという時。
 湯煙が充満した視界の中に、あらぬ影があることに気付いた。
 途中から、猫の影は湯気に霞んで見えづらくなっていた。だが、そこにいることはわかっていたから、とにかくごしごしと擦っていたのだ。
 けれど、何かおかしい。
 手のひらに感じる感触が、体毛のそれから、人肌のそれに変わっていたのである。
 湯気の中に浮かび上がる影も、猫の小さすぎる身体ではなく、たとえるなら、子どもの身体に近くなっている。
 ――本当に怖いのは人間である。
 不意に、そんな台詞が脳裏をよぎった。
 でも、そういえば、あんなにうるさかった猫の鳴き声が、今ではもう、ほとんど聞こえない。
 それは、つまり。

「あ……」

 声が聞こえた。
 声は、私が触れている身体を通して、私の中に浸透した。
 か細く、震えるような声であったが、しかし鈴を震わすように高い響きをもって。
 私の腕の中で振り向いた猫は、確かに、人間の形をしていた。

「うぅ……」

 泣きそうに、顔を歪めている子ども。のように見える子猫。
 鳴くことと泣くことに大きな違いはない。
 だから私は、そうすることが正しいかどうかよくわからないまま、子猫の頭をぽんぽんと撫でた。
 子猫の顔が、ぱあっと明るくなる。そして猫のように顔を緩ませ、顎の下を掻く。
 十に届くか届かないかといった程度で、しかし、子猫の年齢を人間のそれに換算すると、成長し過ぎているようにも感じる。まあ、今となっては、些細な問題かもしれないが。
 髪の毛は黒く、肌の色も少し浅黒い。白いところといえば、頭の上にちょこんと乗っかっている耳くらいなものだ。
 ……耳か。
 ぴくぴく動いているから、偽物ということもないだろう。
 ついでだから、そちらもふにふにと触ってみる。

「ふゃあ……」

 幼いながら、恍惚の笑みを浮かべる。
 まずい。
 どこか危うい一線を越える気配を感じた私は、耳から手を離し、雑念を振り払うようにひとつ咳払いをした。
 と、同時に、隠されていなかった子猫の下半身が見え。

「……あわぁっ!」

 今更恥ずかしがって、局部を覆い隠してしまう。
 それなりの羞恥心に安堵すべきか、胸を押さえていないことに嘆息すべきか。
 いや、別に、胸は押さえなくてもいいのだ。
 それは、私が筋金入りの変態だからということではなく。
 変態であるということは否定しないが。

「……見た?」

 なんだ、喋れるのか。
 だとしたら、先程感じた猫と喋れるという錯覚も、おながち的外れな感覚ではなかったのかもしれない。
 私はこくりと頷き、なおも恥ずかしげに股間を押さえる子猫に向かって、ひとつ質問をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前、オスか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は後に、「あんだけがっかりした人間の声を聞いたのは初めてだ」と語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 でもまあ、これはこれで。

 

 

 

 



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2007年6月21日 藤村流

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