曹洞宗の総本山は福井県の永平寺やらなんやらかんやら、本堂に飾られている集合写真を見ながら他愛のない知識を記憶していた。
 伯父の十三回忌が始まるまでの残り十分をどう過ごそうか、無邪気にはしゃいでいる従姉の子どもと戯れるか、それともいつものように独りであちらこちらを散策するか。結局、そのどれも選べずに、坊さんは私たちを座椅子に促した。
 身内だけの席だった。広い本堂に十人程度、それでも大きな大きな仏壇は一定の厳かさを演出してくれる。子どもがいくら暇そうに身を捻らせていても、母親に抱かれて、後ろを振り向いた拍子に私と目が合ってしまった一歳児が如何に純粋な視線を送り続けても、目を伏せても、顔を上げても、読経と木魚の陰鬱な旋律が、これは法事であることをあますところなく教えてくれる。
 思い出すのは、昔のことだ。
 私はあまり伯父と親しくはなかった。たまに韓国産の謎めいたガムをくれた。よく海外に出張する人だった。友達が多かった。それくらいの記憶しかない。これくらいの距離感が普通なのかもしれないし、そうではないかもしれない。
 目を閉じて、手を合わせて、私は悲しんでいるのだろうかと考える。悲しいから、寂しいから、十三回忌にも顔を出したのか。義理か、同情か、退屈凌ぎか。そのどれかであるようにも、その全てであるようにも思えた。そのどれでもないようにさえ。
 思い出してみる。
 十三年前の三月二十三日、私は中学二年生で、父は目を腫らして家に帰ってきた。
 突然のことだった。睡眠時無呼吸症候群という聞き慣れない言葉を聞いたのも、それが最初だったような気がする。朝に呼吸が止まり、それっきり、帰らぬ人となった。あっという間だった。
 大人が泣いている姿を、初めて見た。それから、伯父に二度と会えないことを意識して、涙が出た。それから、涙は出なかった。悲しくも、寂しくもあったのだと思う。それでも、泣かなかった。我慢はしなかった。ただ、無理に泣こうとする気にはなれなかったのだ。
 伯父の葬式の時、従兄がこんなことを言っていた。
「父のために、こんなにたくさんの人が来てくれた」
 友人は多かった。仕事で知り合った人も多くいた。毎年、同窓会を開いていた。
 もしも私が息絶えて、葬式を開くことになった時、そこにはどれくらいの人が集まるのだろう。
 数ではない。
 数ではないけれど、あの日、従兄が口にした台詞を、私は忘れられないでいる。
「ご焼香を」
 住職が言う。
 ひとりひとり、静かに席を立つ。私は最後を選んだ。この中で続柄が最も遠いのは私だったから、そうしなければならない必然性もないのだけれど、私はそうしていた。
 やり方がよくわかっていない子どもも、導かれるように手をつける。三姉妹のうちの長女が九歳だから、この子たちは伯父のことを知らない。従姉が結婚したのも、亡くなった後のことだった。知らないのも道理で、この子たちがもうちょっと年齢を重ねていたら、法事に顔を出すこともなかったのだろうかとも、思う。
 それはとても寂しいことだけれど、仕方のないことでもある。
 でも、悼むことはできる。
 顔を知らなくても、声を聞いたことがなくても、名前さえ知らなくても、手を合わせれば、目を閉じれば、哀悼の意は汲みあげられる。
 子どもたちが席に戻り、私の番が回ってきた。背筋を伸ばそうして、既に伸びていることを自覚する。一歩ずつ踏み出す足も、静かに、穏やかに進んでいく。普段の落ち着きのない性格は鳴りを潜め、今ここに立っているのは、二十五年、長いとも短いとも言えないけれど、その時間をありのままに生きた素の私でしかなかった。
 仏壇に向き合う。一呼吸置く。心身ともに、引き締められる。
 私は二十五年を生きた。失敗もあれば、成功もあったけれど、実を言えば成功や失敗を避けるような生き方をしていた。積極的に努力したことはなかった。いつもなんとかなると思っていた。嫌なことから逃げ続けていた。経験すべきことを経験していなかった。何か足りないまま年を重ねて、今になって、ああすればよかった、こんなはずじゃなかった、などと後悔を繰り返している。
 私が実年齢より若く見られるのも、そのような経緯が根底にはある。
 けれども、どんな形であれ、二十五年を生きた。
 まだ何も知らないし、何も残していない。何かを残せるかもわからない。何も残せないかもしれない。
 しかし、決して短くない年月を生きた。
 そのことだけは、評価しなければならなかった。
 焼香を摘まむ。
 行為のひとつひとつを丁寧に、心の中は空っぽのまま、哀悼の意を捧げる。
 十三回忌はもうすぐ終わる。子どもたちは退屈そうにあちらこちらをきょろきょろしている。私と目が合い、にらめっこのような変な顔をする。席に戻る際、私もそれを返す。ぎこちない笑みだった。この年になって、子どもとどう接していいのかわからない。情けないけれど、仕方がない。自業自得だ。
 膝に手を置き、何か違う気がして、腰に手を当てる。足元は落ち着きなく動き、目を閉じたかと思えば、すぐに瞼を開ける。仏壇を前に、空っぽになれた私は消え失せ、今の私は諸々のしがらみと劣等感を背中に預けた、不幸を気取った情けない男に過ぎなかった。
 まあ、それでもいいか。
 取り繕う必要もないから、腰に手を添え、前を見る。
 読経は終わり、木魚のわずかな余韻が残る中、住職が話を始める。
 十三年はあっという間だった。七回忌くらいだろうと思っていたけれど、いつのまにか、十三年の月日が経っていた。そんな話をした。
 それからお茶と揚げ饅頭と漬物をご馳走になり、子どもが適度に暴れ、お墓に寄った。やたら燃えやすい線香は一度消しても二度三度と不死鳥の如く炎を上げ、無縁仏に線香の束を供えていたら落ち葉が発火していた。危うく大惨事で通報されるところだった。その間、長女が味のないだんごを頬張り、次女が鎮火跡を踏み消していた。燃え盛る線香は一緒くたにまとめられ、御影石の内側にてその短い生涯を終えた。
 お昼に行った田舎の洋食屋はかなり待たされたが、子どもと話す機会はできた。ひげがのびてる、と言われ、めんどうくさいんだよ、と言った。子どもは本当に元気なもので、胡椒をばらまいたり水をこぼしたり従兄とDSしたりしていた。感心する。
 帰り際、伯父の奥さんに、来てくれてありがとうね、と言われた。
 私は返す言葉を持たず、いえ、とだけ返した。
 次女がこちらに手を振っていたから、私も子どものように手を振り返した。

 

 こうして、十三回忌は終わりを告げた。
 五月には、祖父の一周忌がある。
 それまでに指の怪我が治っているかどうか、それだけが心配である。

 

 

 

 

 



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2008年3月23日 藤村流


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