「月下美人、知ってるんですか?」
砂漠に住む男が、まだ蕾であるその花の名を知っていたことがよほど意外だったのか。或いは、思わぬ対面に興奮する様が奇異にでも映ったのか。本業より、ここにいることの方が自然に見える女が、花を包装する手を止め、大袈裟に目を見開き声高に問いかけた。その反応は気に障ったが、構っている時間はない。
「山中。それ、少しスケッチさせて欲しいじゃん」
開花はしていないが、実物を描き止める絶好の機会だ。
任務の都合がつかないからと、半ば強引に木ノ葉へ出向かされた。滅多に足を踏み入れない遠い里。ついでに山中花店で品物を受け取って欲しいと言われた時は、いくらテマリの頼みとは言え、正直、面倒が先に立ったが、こんな形でこいつを目に出来るなんて。写真でしか知らない花、月下美人。8月の誕生花。
テマリの、花だ。
「カンクロウさん、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。これがテマリさんの用事、だから」
「テマリの、用事?」
眉を寄せたオレに、山中は口元を緩めた。
「そ。誕生日プレゼント。…シカマルから」
その名が、急速に指先の力を奪う。一緒に崩れて行きそうな顔をなんとか山中の表情に合わせ、肩を竦め呆れたフリをした。こうしていれば、オレも山中と同じ、2人の仲を冷やかしながらも見守る、ただの気のいい弟だ。ついでに、恋のキューピットよろしく3日も掛けて配達役じゃん、と愚痴の1つもこぼせば、完璧だろう。案の定、山中は幼馴染だというあの男の話をし始める。耳を塞ぎたくなった。月下美人の話なら、いくらでも飽きるまで聞いていたい。だが、男の話はいい。別に、奈良シカマルという人間が嫌いなわけじゃない。ただ、テマリの特別な男として受け入れ難い、それだけだ。適当な相槌を繰り返し早々に切り上げ、店を後にした。
国境を目前にして、足を止める。この先を半刻も進めば、そこは砂漠。気の早い風が、乾いた空気を運んでくるようだ。喉を潤し、一息つく。全く、面倒な用事を任されて、余計な気を遣う。こんなもの、なんでオレが…
・・・月下美人、でなかったら深い緑の闇に、放り投げているところだ。
写真でしか知らない花も、ここでは簡単に手に入る。花だけじゃない。この里は、オレ達が焦がれるものに溢れている。穏やかな気候、肥沃な土地、奥深い森、弛まなく流れる川、美しい湖…
…
「もう充分、じゃん」
『げっかびじん。おとなになったら、にあうはな。あたしのはな。わすれないでね、カンクロウ』
姉は――テマリは、花図鑑を開いてはよくそう言っていた。オレ達がフツウの子供だった頃。いつも一緒だった。いつも、2人だけ、だった。作ったり描いたりすることが得意だったオレは、よく月下美人をせがまれた。その時だけは、テマリは邪魔をせず、静かに工程を眺めている。完成すれば手放しで褒めてくれる。それが素直に嬉しくて。何度も何度も、オレの指先から生まれる花は、テマリを笑顔する。もっと上手くなって、テマリが大人になった時、本物と見間違うくらいの月下美人を作ってやろう、そんな漠然とした想いを抱いていた。けれど。
穏やかな時間は一変。木炭はクナイに変わり、指先は傀儡を操り始める。そして、もう1人弟がいる事実を、その弟に怪物が宿っていることを、互いに知った。テマリは、月下美人を強請ることなく、当然、あの笑顔も見なくなった。
あの頃を狂おしく懐かしむほど、今が不幸という訳じゃない。むしろ、血を分けた3人は固く結ばれている――姉弟として。なのに、記憶は鮮明に再生を繰り返す。
「驚いた?」
オレの口から愛想のない冷やかしの言葉が出る前に、出迎えた姉がそう言って笑う。テマリの言葉にこそ、驚いた。これは奈良シカマルからお前への、それこそ特別な贈り物じゃん?憮然とするオレに構わず、テマリは続ける。
「お前、小さい頃よく描いていただろ?月下美人。いつか本物を見せたい、そう思っていた。やっと叶いそうだよ」
瞳を輝かせて、蕾を覗き込む。おかしな話だ。いつの間にか、テマリの花がオレの花になっている。テマリの記憶が正しくて、オレの記憶が都合のよい捏造だったのか。それこそ意味も無く、月下美人を描き続ける理由にしようと…
…
「そんなこと言っていいのか?誕生日プレゼントじゃん、コレ」
「美しい花だから、我愛羅も喜ぶ。2人が喜べば、私も嬉しい。私が嬉しければ、あいつも満足だろう?だから、その意味は成している」
無邪気に笑うテマリに、オレはどうやって自分を納得させればいいだろう。
弟としての優越感に浸ればいいのか、
弟だからこそ決して入れ替われない存在に、白旗を揚げればいいのか… …
「山中から、預かったものある?」
ああ、と懐から“月下美人の育て方”と記された封書を手渡す。丁寧に封を切り、中を覗いたテマリが、はにかんで頬を染め、笑みを零した。圧倒的な敗北感。奈良は、月下美人でなくても、テマリにそんな顔をさせられるんだ。
――もう、必要ねぇじゃん
自室の作業台、月下美人のデッサンに埋もれたカラクリに目をやった。
『おとなになったらにあうはな』
あの時、漠然と抱いた想い。テマリの言う“大人”の年齢。それとなく、訊ねたことがあった。テマリは、幾分か思案した後、
『母様が私を産んでくれた年齢かな』
今年の誕生日だ。それに合わせて作っていた、ゼンマイ仕掛けの月下美人。本物があれば、これはもう用は成さない。オレが贈る理由も、ない。デッサンを、一枚手にとっては破いていく。細かく、こまかく、細かく。何が描かれていたか、わからないくらい、小さく、ちいさく、小さく。消えて、無くなれ。
月下美人の蕾が色を変え、少し頭を持ち上げるようにしていた朝、
「咲きそうだな」
出立の身支度を終えたテマリが、残念そうに呟いた。間に合うかもしれねぇじゃん、そう言って送り出したが、この暑さが急かせたのか、数日後、蕾は天を仰ぐように顔を上げ、開花し始めた。主役が不在のまま、ゆっくりと姿を現す白い花。その芳香は、満開の時には、我愛羅が思わず「外に出したらどうだ」と顔を顰めたくらいだ。どうやらあまり好きではないようだ。それにしても、この美しさをどう表現すればいいのか。数時間も咲いてないこの花を、このまま留めておくにはどうしたらいいだろう。
気づいた時には描き始めていた。今までで、一番美しく、香りも伝わるような、月下美人を。
テマリの、為に。
翌朝、昨晩の堂々たる姿が嘘のように、月下美人は垂れ下がり香りもない。その傍に、任務から戻ったばかりのテマリが立っていた。心中を想い、声を掛けるのを躊躇ったが、気配に気づいたテマリが、
「見ろ。新しい蕾がある。また近いうちに咲くかな」
まるでオレに気を遣わせないように、明るい声を発した。開花に立ち会えなかったことを、さして気にしてない風を装う。一番、見たかったはずなのに。
「本物には、敵わないけど」
差し出した絵に目を見開き、オレを見上げたテマリは、とても懐かしい顔をしてみせた。
ああ、その笑顔。
「ありがとう、カンクロウ」
ふわりと肩を抱かれる。特別な意味もない、いつもの、姉の抱擁。オレも我愛羅も仕方なく、されるがままで、反応し返すことはない。けれど、今日は。
「カンクロウ?」
テマリの芳香で肺を満たす。
(どうか、逃げてくれるな)
柔らかさを腕に覚えさせる。
(なにも、気づいてくれるな)
一生に一度、今だけ、だから。
「どうか…した?」
耳に掛かる戸惑いの声に、身体を離した。
「労い、じゃん」
不可解な顔をする姉を残し、自室へと戻った。
終