江東。
南方に位置し、偉大なる長江の流れが他の地方との間に一線を敷き、中央の戦火の飛び火もさほど
なく、乱世の中にあって見事に統治されつつある地域である。
温暖な季候で知られ、食物も不十分ではなく人民が暮らすにはここより適したものはないのではないか
と呂姫は思っていた。
呂姫と董白、二人は出会った後にこの地へ下ってきていた。
身を隠すなら、事情を知るものが少ないであろう遠方の地方が良いし、呂姫には大いに関心を引かれる者が存在していた。
孫策、字を伯符。
かつて董卓すらも欲したという豪将、孫文台の長子である。
呂姫と同じように早く父を亡くしながらも、その軍勢を盛り立て若くして一英雄とならんとしているこの男の噂は、
風よりも早い口から口へと移っていく言葉によって呂姫達の知るところになった。
呂姫の父、呂布の軍は吸収され、張遼を筆頭に仇である曹操の軍勢の中で大いなる存在になるであろう。
何故ならば、あの父が肩を並べ戦うことを許した者達である。 例えその者達に裏切られた事が事実であっても呂姫はその点は認めていた。
呂姫は孫策を羨ましく思っていた。
孫策は男児であるが故に、後継者としての教育を受け父を亡くした後も男であるが為にその背中に付いて行く者も多かったに違いない、と。
呂姫は、女である。
女であることを恥とは思わないが、その性は無双の強者と呼ばれた父を見て育ってきたためか凡百の将を遥かに越えた大剛の士である。
もし自分が男であったのならば、違う未来があったのではないか・・とは思わない所が呂姫の呂姫たる強さであるかな。
向かい合う人々は活力に富み、口にする噂は明るいものばかりだ。
それはこの地方の民が圧力から解放されつつあることの証明である。
「小覇王」 孫伯符の力によって。
孫策は、父亡き後、暫くの間は同盟の士であった袁術の下へと身を寄せていた。
この袁術は呂姫と少なからず関係があり、その点でも呂姫は孫策への興味を増していた。
袁術という男は、小悪党の才能があったようで孫策の父への妨害工作や、孫策の才を愛して軍を奪いその身を預かろうとしたこともある。
一方で、変に寛大なところもあり富を分けることもあり、配下の諫言にも怒る事もなかったことから大にはなれない悪党だったのだろう。
その妙な寛大さのためなのかきまぐれなのか、孫策はある日僅かながら軍勢を返還してもらう。
袁術にどのような思惑があったかは知れないが、孫策にはほんの少しの力さえあれば十分であった。
まずは、叔父を助けるという名分で地方の一角を制すると、孫家の復興を高らかに宣言した。
孫文台が残した意志は、息子に更なる力を与えた。
孫家の名声を知っていた民は、孫策を受け入れ、孫策もまた民を悪徳領主から解放すると称し戦端を開き、孫家の炎は彼の地の狐狸を焼き尽くそうとしている。
その孫策を一目見よう、出来れば一晩語りあいたものだと呂姫は思っていた。
人が話すには、卑賤問わず尋ねた者に時間がある限り顔を見せるらしい。
暫くの間、身を置かせてもらっている酒家で呂姫は一献かたむけていた。
足元には、漁師と思われる日に焼けた逞しい体躯の男達が戦いに敗れた者よろしく地に伏せている。
「不甲斐ないわね・・。」
呂姫は何時の日も戦装束を着ているわけでも、得物を振り回しているわけでは無い。
それなりの格好をして少しお淑やかにしているだけで、戦火を避けに来たいい所のお嬢様に見えてしまう。
そして、美しい女性の周りには男が蟻のように集まってくる。
世間知らずのお嬢さんを酒に酔わせて手篭めにしようという、彼らは呂姫の本性を知らないがためにそもそも虎児がいない虎穴に飛び込むような暴挙を犯してしまう。
呂姫は別に酒が好きなわけではない。 父に似て酔わないだけだ。
酔わせるために、甘く度の強い酒を同じ量飲んだ結果、男達は倒れ呂姫は平然としている。
物足りないわね、と呟く。
だからこそ、呂姫は孫策という男に何かを見出そうとしているのか。
ぼぉっと、山に沈んでいく太陽を眺めながら呂姫は董白を置き去りにしていたことをたった今思い出した。
「世話が焼けるわね。 まぁ、だからこそ可愛いんだけれども。」
前のように、その場で自分が迎えに来るのを待っているのだろう。
一瞬嬉しそうな顔をしてすぐに「別に待ってたわけじゃないんだからね!」と言い張るに違いない。
何時もと同じような日常、だがそれが自分の都合で続いている訳ではないことに呂姫はまだ気付いていなかった。
*
「ちょっと・・なんなのよ!?あいつら!」
董白は、先ほど立てないと言った事も忘れ持てる力を振り絞って走っていた。
追われている。 理由など判らない。
「ええい、ちょこまかと!」
男は弩を構えながら、自らの足で董白を追っていた。
森の中では馬を走らせることが出来ないためである。
「ちょっ!危ないわね!」
明確な殺意を持った矢を、悪態を吐きながら避ける。
その矢には、一掠りで人を殺めることの出来る毒を塗られていることを知っていたら恐れのあまり身動きすら取れなかっただろう。
「もう・・!呂姫が居ればあんな奴ら・・てっきゃうん!?」
朽木に足を取られ、びたんっ!と綺麗に両腕を伸ばし全く受身を取らないという芸術的なまでに盛大に躓いた。
董白が一瞬にして姿を消したように見えたために、追っ手はその姿を見失う。
「くそっ、逃げられたか。」
「しかし森の中に子供が一人いたってのはどういうこった?」
「さぁな、逃げられちまったものは仕方が無い。 孫策の身内でなけりゃいいんだが・・・。」
孫策?確か呂姫が会いたいっていってたような。
董白はこれ幸いとそのままの格好で追っ手をやり過ごしていた。
男達の声が遠くなったのを確認して起き上がる。
分けもわからずに逃げてきたために、道に迷ってしまっていた。
「なんで私がこんな目にあわなくちゃならないのよ!」
ここに居ない人間に向かって不平を漏らす。
自分は守られるべきだという我侭。 それもまた、信頼の一つの形ではあるが。